◆第309回行事・アーカイヴス(2019年9月)

◆大阪・川口界隈を歩く

●大阪にも「居留地」があった。当地には明治~大正に大阪府庁庁舎、市役所など官庁街があって行政の中心だった。併せて淀川の河口に位置していたので対外交易場として賑わって外国人向けに居留地が設けられた、近代産業の先進地だった。現在はその名残は殆ど遺らないが、微かな雰囲気を感じながら歩きます。

 

コース:地下鉄・九条駅~茨住吉神社~竹林寺~九島院~河村瑞賢紀功碑~富島・大阪開港の跡・川口居留地跡~川口基督教会*~大阪船手会所跡~中之島西公園*~雑喉場魚市場跡~旧大阪府廳跡~西長堀・鰹座跡~土佐稲荷神社~(中央図書館*)~和光寺~四ツ橋跡~地下鉄・四ツ橋駅(約9km)

【コース図(大坂・川口界隈):国土地理院発行1:10000地形図「西九条」】

コース地図川口界隈10000西九条(図上のクリックにより拡大)

◇川口界隈とは

当地域は淀川の河口にあたり、以前は河の氾濫に悩まされていましたが、安治川などの開削により水の流れを良くし、排水・埋立てによる新田開拓が進められて、環境の改善が見られました。特に、安治川の完成により船の出入りが容易になり、大坂は天下の台所として大いに繁盛しました。明治以降は全国初の近代港と外国人居留地の造成により、江之子島には府庁舎、市役所などの官庁の造成等により文明開化の息吹を伝えました。更に、当地周辺には造船関連工業の発展など近代文明発祥地として、川口・九条が全国的に有名になりました。

 ◇茨住吉神社  (西区九条1)

地下鉄・九条駅を東方へ300mほど進み、左折して直ぐの左側に「茨住吉神社」があります。                             IMG_0004茨住吉神社【茨住吉神社】                                                                   ○寛永元年(1624)香西晢雲が九条島開発の際に茨棘を取り除いて住吉神社より分祀し、摂津国西成郡九条村の産土神社となりました。同じく晢雲が九条島開発の際に建立した「竹林寺」も近隣に所在します。祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足媛命で、明治5年(1872)郷社に列し、元禄12年(1699)の新田開墾の時に勧請された泉尾新田の産土神社を合祀しましたが、昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失し、同40年に再建されました。   

◇竹林寺    (浄土宗如心山寶樹院・西区本田1)

「茨住吉神社」より北東へ300mほどの処、左手に「竹林寺」があります。

当寺は慶安2年(1649)の創建で、九条島を開発した香西哲雲の菩提寺です。当島に自生していた三叉竹から阿弥陀仏如来像が現れたとの伝説より名付けられたとのことです。

IMG_0007竹林寺②【竹林寺】

境内には、「通信使」として来日中に死去した金漢重、崔天栄の墳墓があります。

 ◇九島院(きゅうとういん・黄檗宗・霊亀山・西区本田3)

「竹林寺」より、地図上では、500mほど西方に「九島院」がありますが、途中に「松島新地」を通過します。 当地域は「大阪五大新地」の一つで、第二次大戦までは千代崎地域にありました。

IMG_0011【松島新地の一角(九条1丁目)

当院は、宇治の黄檗山萬福寺の末寺で、別格地です。幕府役人の香西晳雲、土豪の池山一吉らの衢壌島開発に際して発展し、寛文3年(1663)拙道和尚を迎え、「九嶋庵」と称した草庵を新田鎮護と五穀豊穣を祈念して寺にし、祈壽道場にしました。拙道和尚は、入佛開堂の法要には龍渓禅師を開山和尚と仰ぎましたが、寛文10年(1670)龍渓禅師による入佛開堂の法要の時、台風・大津波が来襲し、入佛開堂の法要中で、自らは堂中に端然と坐禅不動、海水中に入寂しました。世寿69。拠って、龍渓禅師を称して『九条の人柱』とよび、その不慮の死を弔い、かつ又その死を無駄にせぬよう祈ったといいます。その10年後、幕府は河村瑞賢に命じて、「九条島」を開削し安治川を通しましたが、龍渓禅師の人柱がその動機になったようです。

IMG_0013九島院【九島院】

延宝8年(1680)、創健者・龍渓禅師の弟子であったの後水尾法皇の死去後、当院の菊花紋章使用を公許され、「九島院」と院号に変えられ、平成2年より復興に着手、息災延命観音像建立、禅苑整備、本堂修築、龍燈会館が完成し、近代寺院になりました。

 ◇河村瑞賢紀功碑    (西区川口4)

大阪・川口地区の河川洪水対策で、江戸初期に大きく貢献した川村瑞賢の功績を讃える紀功碑が安治川沿いの小さな緑地に建てられています。    

IMG_0016【河村瑞賢紀功碑】                

当地域・元の九条島はデルタ地帯で、度々の淀川洪水のため被害が頻発したので、貞享元年(1684)に幕府は治水の専門家であった河村瑞賢に命じ、九条島を掘り割り、淀川の水を一直線に大阪湾へ流下させることとし、貞享4年に直線的な3kmの「安治川」が開削され、彫り上げた土で新田開発も行いました。それにより天満・雑喉場・堂島・永代浜などの市場が更に繁盛しました。それでは淀川水害対策は完了せず、大和川付け替え(18世紀初め)、明治の改修、直線的な新淀川開削を経てほぼ治まりました。

当初、「新川」と呼ばれましたが、元禄11年(1698)にこの地が安らかに治まるようにとの願いをこめて、「安治川」と改名されたそうです。明治44年(1911)にその功績を称え、瑞賢に「正五位」の官位を贈り、功績碑は大正4年(1915)に建てられました。 

【旧九条村・安治川付近:大日本帝国陸地測量部発行二万分之一地形図「尼崎」(明治18年測量)】

 旧九条村外国人居留地界隈20000尼崎明治18年測量陸地測量部(図上のクリックにより拡大)

◇富島・大阪開港の地(西区川口2・大阪税関富島出張所構内)

「河村瑞賢紀功碑」より安治川沿いに500m余上流側へ進むと、防潮堤に沿って「大阪開港の地」碑が立っています。

元大佛島といわれた富島は、大佛再建時の資材の荷揚げ・保管を行った島ですが、明治元年に大阪では川口を開港場とされ、併せて運上所(税関)、外国事務局などが設置されました。

明治3年には電信局もおかれ、川口-造幣局間・神戸間の2線が開通しました。

IMG_0017大阪開港の地碑他大阪開港の地碑・大阪電信発祥の地碑】

 ◇川口居留地   (西区川口1・本田小学校北西角)

明治元年の大阪開港と同時に、安政5年(1858)の五カ国条約に基づき、当地域約八千坪弱に外国人居留地が設けられ、競売されました。明治32年条約改正により居留地は廃止され、大阪市に引き継がれましたが、河港で水深が浅く、居留民は神戸へと離れていき、跡地にはキリスト教関係の

学校・教会・病院などが建ちました。それには平安女学院(現・高槻・京都)・プール学院・大阪女学院・桃山学院・立教学院・大阪信愛女学院・聖バルナバ病院などが含まれます。   

日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会   (西区川口1)

「川口居留地」の北東橋に本キリスト教会は建っています。

明治14年に「川口基督教会」が設立され、大正9年に現在の礼拝堂が建設され、昭和25年に「大阪教区主教座聖堂」となりました。ヴィクトリアン・ゴシック様式と英国風の教会です。しかし、平成7年(1995)1月17日の「阪神・淡路大震災」で教会の塔が倒れ、礼拝堂も大きな被害を受けました。しかし、世界中の人々の援助により3年後に礼拝堂が復元されました。

IMG_0024川口教会礼拝堂ステンドグラス川口基督教会:礼拝堂・塔IMG_0019川口基督教会

◇大坂船手會所跡碑   (西区川口1)

「川口基督教会」より北方200m足らずの角地に当碑が立っています。

「大坂船手」は、大阪湾から、木津川、淀川への船舶の出入りを管理する、大阪湾に停泊している船を掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、元和6年(1620)に設置され。その中心的施設が当地に設置された「船手會所」でした。配下の施設として、船の出入りの管理を行う船番所が3カ所設置されていたそうです。         

IMG_0026大坂船手会所跡碑【「大坂船手會所跡」碑

◇雑喉場魚市場跡   (西区江之子島1)

木津川にかかる「昭和橋」(橋には「せうわはし」と彫る)を東方へ渡り、200mほど南方へ進みますと、高い金属フェンスに囲まれて「雑喉場魚市場跡」碑が立っています。                                                                                   

「雑喉場」は、小魚(雑魚)をはじめとする大衆魚を扱う魚市場を指し、「雑魚場」「雑喉場」などと表記され、延宝年間(1673~81年)に鷺島の生魚市場の名称を「雑喉場」と改め、大坂三郷の中央部に所在していた魚市場を移転させて以来、昭和6年まで250年以上、大阪市西区に存在した「雑喉場魚市場」のことを言います。

IMG_0031雑喉場魚市場跡碑【「雑喉場魚市場跡」碑

◇舊大阪府廳(2代目・江之子島庁舎)跡碑   (西区江之子島2)

「雑喉場魚市場跡」碑より200mほど南方の東北角地にあります。

「川口居留地」の木津川対岸の江之子島に、本町橋にあった西町奉行所の府庁が洋風建築の旧「大阪府廳(2代目。明治7年竣工)に移転しました。「川口居留地」に近く、西欧文化移入に好適地で、大阪市廳(初代。明治32年竣工)も近くに建設され、大正時代末まで周辺一帯は大阪の行政の中心でした。

IMG_0034【「舊大阪府廳」碑】  

◇薩摩堀川跡   (西区立売掘4)

「旧大阪府廳」より南東約300mほどの処に「薩摩掘公園」がありますが、その東側を寛永7年(1630)に開削されて「薩摩掘川」が流れていました。現在埋立てられて「薩摩堀川跡」碑によって遺されています。

IMG_0037【「薩摩堀川跡碑】

◇西長堀・鰹座跡   (西区北堀江4)

「薩摩掘公園」より500mほど南方に「鰹座橋」交差点があります。

現在の大阪市西区新町4丁目と北堀江4丁目の間の長堀川に架っていた、昭和3年架橋の鋼橋で長さ37.58mの「鰹座橋」で、土佐殿橋などとも呼ばれていましたが、昭和45年の川埋立で無くなりました。その右岸に土佐名産「鰹節」座*が存在したことに由来します。(*座:中世の商工民の組合組織)

◇土佐稲荷神社   (西区北堀江4)

「鰹座橋」交差点の直ぐ南西側に「土佐稲荷神社」が、広大な敷地の北端に鎮座しています。

当社の社格は郷社で、主祭神は宇賀御魂大神で、祭神には素盞嗚大神、大市姫大神、田中大神(大歳神、大己貴神が祀られています。

創建の由緒は不詳ですが、長堀川畔の土佐藩蔵屋敷に古くから鎮座し、明和7年(1770)に伏見稲荷を勧請したものとも伝わります。

享保2年(1717)、藩主・山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とし、一般の参拝を許して、山内家は参勤交代で大坂を通る際には参拝し、社殿の修繕は藩費で行われたようです。

IMG_0042土佐稲荷神社土佐稲荷神社

明治初年、土佐藩蔵屋敷とともに当社は岩崎弥太郎に譲渡され、弥太郎は当地で事業を営み、「三菱」の発祥の地となりました。弥太郎は社殿の造替を行い、郷社に列格しました。

第二次大戦の大阪大空襲で社殿をほぼ全焼しましたが、平成5年の春、松尾橋梁株式会社による寄進により、再建されました。

 

◇和光寺  (浄土宗・蓮池山智善院・摂津国八十八箇所第3番札所・西区北堀江3)

「土佐稲荷神社」の東方500mほどの処に「和光寺」があります。

当地の阿弥陀池は、後に信濃・善光寺の本尊となる阿弥陀如来像が捨てられ、また引き上げられた場所として有名で、江戸初期には念仏修行者の精舎が建てられていたようです。

IMG_0045阿弥陀池【和光寺・阿弥陀池】

○元禄11年(1698)、堀江新地の開発に合わせて智善が信濃・善光寺の本尊が出現した霊地として新たに寺院を建立し、「蓮池山・智善院和光寺」と称しました。幕府の命令で境内地は1800坪とし、また永代寺地と定められ、信濃・善光寺から全長約45cmの金銅製阿弥陀仏像を迎え、元禄12年に本尊として祀られました。

江戸時代には本堂・諸堂などがありましたが、昭和20年の第1回大阪大空襲で焼失しました。昭和22年には仮本堂を建立、昭和36年に鉄筋コンクリート建て本堂が再建されました。

◇四ツ橋跡   (西区北堀江1)

「和光寺」より長堀通へ出て700mほど東方へ進んだところに「四ツ橋跡」があります。大阪市内に唯一存在した「堀川の十字交差部」に架橋されていた4橋を一括した名称で、現在は全て埋め立てられています。

長堀川と西横堀川が十字に交差した地点に「ロ」の字型に架けられていました。この4橋は、長堀川が開削された元和8年(1622)より架けられたと考えられていますが、橋脚は3本の柱を横梁で補強されており、径間数は7~-8で、橋脚間の幅は平均4~5m、橋幅は、江戸時代前期にはそれぞれ約3mでしたが、明治14年には約6mになりました。弘化2年(1845)の淀川の洪水で、四つ橋うち1橋が流されています。

IMG_0047【四ツ橋跡碑】

上繋橋(かみつなぎばし):西横堀川に架かる北の橋で、橋長は江戸前期には33.6m、明治14年には約35m。ほかの3橋と違い、この橋だけが川の交差部よりやや離れて架けられていたことから「縁切り橋」と呼ばれ、別れを招くとされていました。

明治41年、大阪市電の東西線建設による長堀川北岸の拡幅に伴い、橋長27.2m、幅16.5mの鋼桁橋に架け替えられました。

下繋橋(しもつなぎばし):西横堀川に架かる南の橋で、江戸時代前期の橋長は39.1mで、明治14年には約35m。

炭屋橋:長堀川に架かる東の橋で、島之内西端の旧町名「炭屋町」に由来し、江戸前期の橋の長さは40.6mで、明治14年には約35m。

吉野屋橋:長堀川に架かる西の橋で、碑他堀江東端の旧町名「吉野屋町」に由来し、江戸前期の橋長は42.4mで、明治14年には40m弱。

昭和初期に、「四ツ橋」は河川の舟運を考慮して、各全長25~34m、幅は上繋橋が27.4mで、他は約9mのアーチ橋に架け替えられました。第二次大戦後の自動車交通量の急増により、道路拡張を行い、昭和39年に西横堀川の埋め立てにより上繋橋と下繋橋は撤去され、昭和45年には、長堀川の埋立てにより炭屋橋と吉野屋橋も撤去されました。

【参考資料】

○各訪問地・碑などにつきましては、大阪市ホームページ・現地案内盤を参考にしました。

201997日催行・案内:荻野哲夫・編集:宮﨑信隆】

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