■第303回行事・アーカイヴス(2019年3月)

彦根まち歩き ==井伊藩三十五万石・江戸時代の遺蹟を訪ねる==
●徳川四天王の一人・筆頭家老まで上り詰めた「井伊家」の城下町「彦根」は、初代・井伊直政の築城計画以来410余年になりますが、その「彦根」市街地に遺存する江戸時代の遺蹟を訪ねます。
【コース(赤破線)・国土地理院発行1:25000地形図「彦根西部」・「彦根東部」】

コース地図180304彦根市街25000彦根西部東部]

<*以下、各図は図上での左クリックにより拡大します>

コース:彦根駅*~中村商家~絹屋~いろは松・旧池田屋敷長屋門~(埋木舎)~中堀~(金亀公園**)~旧脇屋敷長屋門~旧西郷屋敷長屋門~夢京橋キャッスル通*~義言地蔵~(旧魚屋町・納屋七)~スミス記念堂~善利組足軽組屋敷~旧袋町飲食店街~ケヤキ並木(芹川)~七曲り仏壇街(芹中町)~JR彦根駅  (約7㎞)
◆井伊藩三十五万石の城下町 彦根

◇地名の由来

●「彦根」という地名は天照大神の御子であるアマツヒコネ(天津彦根命;アマツヒコネノミコト)とイクツヒコネ(活津彦根命;イクツヒコネのミコト)2柱のうちの後者が「活津彦根明神」として彦根山に祀られたことに由来すると伝わります。
◇概要                                                                               ●佐和山城を築城した石田三成が「関ヶ原合戦」で敗れた後は、徳川四天王・筆頭家老の井伊家十八万石の知行となり、佐和山を諦めて彦根山に築城された彦根城を中核として発展してきました。彦根藩および彦根城は、西日本の外様大名に睨みを利かせる幕藩体制上重要な役割を持たされ、有数の城下町として彦根は発達しました。
●第二次大戦において大規模な「空襲」を受けなかったので、城下町・宿場町の街並が比較的よく保存されており、平成21年には亀山・金沢・高山・萩と共に第1回歴史まちづくり法(国土交通省)による「歴史的風致維持向上計画指定都市」に認定されています。                                           ●近代では、市制施行以来、大津に次ぐ県下第二都市でしたが、「平成の大合併」後は、人口では大津・草津・長浜・東近江に次いで県下第5位となっています。                                                                              ◇略史

■安土桃山時代

●元亀年間(1570~73年)の長期の激戦後に浅井氏家臣・佐和山城主・磯野員昌が織田信長に降伏し、犬上郡は織田政権下に入り、丹羽長秀、天正10年(1582)の「清洲会議」後は堀秀政が佐和山城に入り、続いて豊臣政権下に入りました。その後、堀尾吉晴、天正19年には石田三成が城主となりましたが、慶長5年(1600)の「関ケ原合戦」後には、戦功のあった井伊家第24代当主、井伊掃部頭家・直政が佐和山城に入りました。
■江戸時代

●慶長9年(8年)、琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山)にて、尾張藩・越前藩等7国12大名(実際は30名以上?)が助力する「天下普請」(手伝普請:篠山城と同じ)による彦根城の築城が始まりましたが、初代藩主・直政は先の合戦の鉄砲負傷が基で死去しました。
●佐和山藩主・2代・井伊直勝(直継)が、彦根山周辺に城塞・城下町建設用地と有効な軍事防衛線を創出するため、大規模な地割を実施し、尾末山(現・尾末町域)を全山切り崩し、善利川(芹川)の流路を約2kmにわたって南に付け替えて、西へ直線的に流路が付け替えられ、その跡地に三重の堀を造成し、近江国を北進してくる「敵」に対する一次防御線とされました。

IMG_0579彦根城天守②【国宝・彦根城天守】
●慶長11年:彦根城天守が完成しましたが、大津城の五重天守の移築説が強く残っています。
間もなく、藩主・直勝(直継)が佐和山城から彦根城へ居城を移し、元和元年(1615)に佐和山藩が廃藩となって、替わって彦根藩が立藩されました。但し、彦根藩主は直政を初代としています。なお、元和2年「大坂の陣」終了後に「天下普請」は終わり[元和偃武(えんぶ:戦乱の世の終了)]、以後は軍備重視から政治重視へ「構え」(門・櫓の配置等)変更して、彦根藩単独で築城を続けられました。また、石垣の石材も、他城(佐和山・大津・安土・長浜*)からの転用材と伝わっています。
[*長浜城:元和元年(1615)・廃城:城主・内藤信正⇒鐘の丸と太鼓丸を繋ぐ廊下橋に付属する天秤櫓の棟瓦鬼板に内藤家家紋・藤の丸の紋瓦が遺存]
●寛永10年(1633)、3代・直孝が幕閣中枢としての貢献により15万石加増され、更に幕府直轄領(天領)の城付米預かりとして2万石(知行高換算5万石)の付与により35万石の格式(譜代大名中最高)を得ました。延宝6年(1678)に5代・直興が彦根城下屋敷「槻御殿」の庭園を大池泉回遊式の庭園「玄宮園」に改造して名所が成立しました。

■明治~昭和時代

●明治4年、廃藩置県が行われて彦根藩領は「彦根県」となりましたが、翌5年に県庁が坂田郡長浜に移転し「長浜県」となり、更に県庁の犬上郡彦根への移転を予定して、長浜県が「犬上県」に改称されました。9月には「滋賀県」が犬上県を編入合併し、県庁所在地は西端部に位置する大津になりました。また、彦根城天守・4基の櫓等は、明治11年の解体が決まっていましたが、直前の明治天皇行幸時に随行者或いは近隣の者からの陳情により天皇が取り止め命令を出して、解体を免れたそうです。

●明治22年、国有鉄道・東海道線の関ヶ原~膳所間の開通に合わせて彦根駅が開業し、通称「大駅(おおえき)」と呼ばれました。同年、旧彦根藩士と近江商人の尽力により近江鉄道が起業しました。

●昭和12年、彦根市が犬上郡から離脱して成立し、昭和19年、井伊家から彦根城およびその一帯が彦根市へ寄付されました。

同年、松原内湖の本格的干拓事業(農地化)が始まり、同23年に竣工しました。米軍空襲は昭和20年になって6回ありました。

◇中村商家保存館   (彦根市旭町)

●「中村商家」は、浄土真宗信仰に生きた商人の家で、当家は寛永年間(1628〜47年)、彦根城が完成した頃とされる元和8年(1622)
現在地に地割りを貰って、分家して酒造業を創業したのがその始まりです。以来、現在の当主で12代を数え、初代が江戸時代延宝年間(1672年〜)に京都西本願寺から下付を請けた像高50cm余りの木佛が本尊として祀り伝えられています。
に、現在地に地割りを貰って、分家して酒造業を創業したのがその始まりです。

中村商家保存館【中村商家保存館】

●建屋は老朽化し、明治42年の湖東北部の地震の影響もあって、翌明治43年から大改修されましたが、改修前の江戸期の建物の様式をほとんど残し、厨子二階は四角の鉄格子入りガラス戸となっているものの虫籠窓が遺され、一階は格子戸、庇は一文字瓦で葺いて遺存されています。南北に通る町屋街の角地にある元酒小売店舗で、主屋は、間口約14m(8間弱)・奥行約12m(7間弱)の規模です。表側南半分を土間、北半分を田字型8畳4室となっており、文庫蔵は、2階建ての瓦葺切妻屋根の土蔵。桁行約7m、梁間約4mの規模で、扉や額縁廻りの漆喰装飾が丁寧な造りの蔵があります。酒蔵は、2階建ての瓦葺切妻屋根の土蔵で、桁行約15m(8間余)、梁間約7m(4間弱)の規模の酒蔵で、内部は旧状を留めているようです。

◇絹屋・湖東焼 (彦根市元町)
●「絹屋」は、角地に厨子二階に虫籠窓を遺す商家府風の建物で、現在は仕舞屋となっていますが、かつて古着商人であった絹屋半兵衛が京都で見た焼物に興味を持ち伊万里から職人を呼び寄せ湖東焼を始めました。「湖東焼」の創始者として功績を労い、井伊直弼は絹屋半兵衛に「伊藤」の性を与えましたが、「湖東焼」は14代藩主・井伊直亮の目に留まり、天保13年(1842)から彦根藩直営として生産し、直弼が15代藩主に就任すると窯を拡大し生産規模が拡張されました。「湖東焼」は日本を代表する品質で、他の大名に贈答されてしまいた。しかし、経営はうまくいかず、嘉永5年(1852)に豪商・藤野四郎兵衛に経営を委託するも、その後の2年間で1千両以上の損失を被り経営を辞退してしまい、安政7年(1860)の「桜田門外の変」で直弼が死去すると「湖東焼」も規模を縮小され、明治28年には民間事業としても「湖東焼」は途絶えました。
IMG_0576絹屋【絹屋】
◇旧池田屋敷長屋門    (彦根市尾末町)
●.「旧池田屋敷長屋門」は、彦根城の中掘に近い第三郭に建っています。かつて、池田屋敷のあった尾末町一帯には、中級武家屋敷が広がっていました。当建造物は彦根藩中級武家屋敷の典型的な長屋門として、昭和48年に彦根市指定文化財に指定されています。

旧池田屋敷長屋門Ⅱ【旧池田屋敷長屋門】

●.この長屋門を良好に後世に伝えるため、地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律(通称 歴史まちづくり法)に基づく事業として、国の補助を得て平成20年度から23年度にかけて全解体修理事業を実施されました。建造物調査、発掘調査の結果から、これまで伝承でしかなかった馬屋の跡が実際に確認され、馬屋が復元されています。
●.池田家は「大阪の陣」以前に「伊賀之者」として井伊直政に取り立てられた忍者の家であり、大阪両陣に従軍しています。後に士分となり、4代・直興に重用されて一時は250石となって、幕末期には180石の中堅藩士の家でした。江戸中期頃からこの尾末町の屋敷を拝領していましたので、当時の下級・中級武士の生活をうかがい知る上で、貴重な遺構となっています。ただし、現在の隣接する旧池田家敷地などは他者に渡っており、普通の住宅地となっています。

◇埋木舎 (うもれぎのや・彦根市尾末町)

●.「旧池田屋敷長屋門」より南方へ中堀に沿って尾末町2号線を100mほど進むと「埋木舎」に着きます。

埋木舎Ⅱ 【埋木舎】

●「埋木舎」は、井伊直弼が青春時代を過ごした舎(やどり)で、「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と直弼は和歌を詠み、自ら「埋木舎」と名付け、文武両道の修練に励みました。徳川幕府の大老として開国を先導した才は、ここで培われたといわれています。

◇いろは松 (彦根市尾末町)
●「埋木舎」~南方へ中堀端を300mほど進むと、「いろは松」の並木道に出ます。
●「いろは松」は中堀沿いの松並木で、江戸時代「松の下」と呼ばれていました。この場所は藩主の参勤、着城で必ず通る場所で、当時47本植えられていたことからいろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになりました。

IMG_0583【いろは松】

◇内曲輪(うちくるわ)外曲輪
●.内堀と中堀に挟まれた区域は城下第二郭で「内曲輪」と呼ばれ、重臣の屋敷(60石~1000石扶持)、御殿、藩校等公的施設があり、中堀と外堀(埋立済)に挟まれた区域は第三郭で「外曲輪」と呼ばれ、徒歩(かち)身分中心の住居がありました。

内曲輪付近_御城下惣絵図_博物館蔵【内曲輪(うちくるわ)付近:御城下惣繪圖・彦根城博物館蔵】

◇馬屋   (彦根市金亀町)

●彦根城表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物です。

●「馬屋」は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されており、その建物はL字形をして、佐和口多聞櫓に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっていて、21頭分の枠を復元整備されています。造形物が本物そっくりに設えてあり一瞬驚きます。

馬屋模造馬形【馬屋(復元)】

◇旧脇屋敷長屋門  (彦根市金亀町)

●二の丸駐車場と彦根東高校の間に、家老・脇家(禄高2千石)の海鼠壁長屋門の一部が遺存します。
●当「長屋門」は桁行8.5間、梁間3間(北端部は2.5間)、南妻面が入母屋造り、北妻面が切妻造りで、外壁の西面は海鼠壁、北妻面は後に改修された窓や玄関をつけ、南妻面は縁を張出し、東背面には縁と玄関(南端)をつけ、さらに切妻瓦葺の簡単な付属屋(南北両端)を接続した立派なもので、この北妻面の現状からみて、門を設けた大規模な長屋門であったと推定されています。

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA 【旧脇屋敷長屋門】

内町大通り付近_御城下惣絵図_博物館蔵

【旧内町大通り付近:元町・佐和町・立花町:彦根御城下繪圖】

◇旧西郷(旧庵原)屋敷長屋門 (彦根市金亀町)                                                    ●.内堀から中堀へ出る南端、城の「京橋」を渡る手前に、に旧「西郷屋敷長屋門」が遺存します。
本門は、彦根城下では現存する長屋門中最大のもので、特に正面の外観はほとんど旧形を保ち、旧武家屋敷の面影を残す貴重な遺構で、市の指定文化財です。
●西郷家は遠江国出身の「34家」の1家で家老職でした。初代は徳川家康に仕えていましたが、家康の命で天正10年(1582)、井伊直政の付家老となり、幕末まで仕えました。彦根藩の当初より幕末まで、同じ土地で替地の無かった家老です。

旧西郷家長屋門【旧西郷屋敷長屋門】

●なお、当長屋門は、寛保2年(1742)に家老・庵原家陪臣・藤田三郎兵衛正辰・横関惣八郎令任の二人が奉行として、庵原家が建てたものであることが解体修理の折に発見された門の冠木により判明しています。それを明治16年に裁判所の建物の改築の折に、隣家・庵原家の長屋門を曳き家して移築した結果のようです。
●直興(江戸幕府大老になった彦根藩第4代・第7代藩主)時代の西郷籐左衛門は、禄高は3千石で、東辺に長屋門、北辺の西端に高麗門が位置しています。

◇武家屋敷長屋門 

●扶持500石以上は、馬数頭を備え、門両脇に中間(ちゅうげん)長屋・陪臣長屋を配置し、潜り戸を備えた両開き「城門造り」、

●扶持300石以上は、間口10間前後で、馬2頭以上に中間・女中・物置部屋があって潜り戸を備えた片開き長屋門、

●扶持150石以上は、間口8間前後、馬1頭に中間・女中・物置部屋がある片開き長屋門、

●扶持100石以下は、間口5~6間で、馬1頭に中間部屋がある片開き長屋門。

◇義言(よしとき)地蔵(彦根市城町・城町郵便局前)
●「義言地蔵」に祀られた長野主膳義言(ながのしゅぜんよしとき)は井伊直弼の腹心として幕末政治に活躍しましたが、直弼亡き後は、藩論も尊皇攘夷に転向してしまい、直弼の頭目として四十九町(現・城町1~2丁目・馬場1丁目)の牢屋前で斬首されました。その後主膳の鎮霊のため彼を偲ぶ者達によって斬首跡地に地蔵尊が祀られています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA【義言地蔵】

◇納屋七・旧魚屋町の街並    (彦根市本町)
●「納屋七」は、白壁に紅殻格子、虫篭窓、厨子二階造りの建物が通りに面して続いており、本町二丁目から三丁目を当時「上魚屋町」、城町一丁目を「下魚屋町」と呼び、約400mの間に40軒近い魚屋が軒を並べていたと伝わります。本町二丁目には現在でも通りに面して井戸を残している家が数軒あります。城町にはこの界隈きっての大問屋「納屋七」(なやしち)があり、重厚な構えの家が残っています。市指定文化財となっている家が数軒あります。

商家_旧納屋七Ⅱ【旧「納屋七」:旧魚屋町】

◇スミス記念堂   (彦根市本町・中堀東西通前)
●「納屋七」・「義言地蔵」より彦根城に近い中堀東西通前にあります。
●「スミス記念堂」は、昭和6年、「日本聖公会彦根聖愛教会」の牧師で彦根高商の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が両親を記念し、大工・宮川庄助氏と協力して城町の堀端に建設しました。
smith記念堂
●外観は寺社建築を模しながら、梁や扉には葡萄や十字といったキリスト教の文様が刻まれた独特の和風教会堂として貴重な建築です。平成8年の道路拡幅工事で解体後、市民や滋賀大関係者たちでつくる「スミス会議」が建物を譲り受け、この度、平成19年に竣工式が行われました。

◇足軽組屋敷・辻番所       <足軽は「疾走する歩卆」>

● 「足軽組屋敷」は、城下町の外堀(埋立済)より外側、城下を取り囲むように屋敷を連ね、特に、大坂に近い城下南側に配置されていました。                                                      ●「大坂冬の陣」後に、井伊直継が安中3万石に分家された後、弟・直孝が近江15万石を継ぎました。「大坂の陣」の折の働きにより、慶長20年(1615)・元和3年(1617)・寛永11年(1634)の三度に亙り、各5万石ずつ計15万石加増されたので、非常時の軍勢を相応に増やすことになり、大部分を城下南側の芹川と旧外堀間に集中的に配置されました。
●加増期の慶長期(~1614年)に中薮組6組・善利組12組が設置され、元和期(1615~23年)に善利組8組・上組1組を設置、寛永期(1624~43年)には切通組3組・上組2組・中組4組が設置されました。「善利組」は外堀・善利川(芹川)間の東西約750m・南北約300mを占め、幕末には700戸に至り、足軽組は1120人となり、鉄砲組50人1組・同40人5組、同30人組25組の編成を行い、更に弓組20人6組と合計37組(1120人)の集団が形成されました。
●足軽組を統率したのは1000石~300石取りの「物頭」(ものがしら:足軽大将・平時「手代」)で、訓練・組織化を行っていました。
なお、大辻通と中辻通の交叉角の要所に「辻番所」を設けて、監視窓より辻の「監視」を行っていたそうです。

足軽屋敷は、1戸当たり間口5間(9m)、奥行10間(約50坪)程の敷地に木戸門と塀に囲まれた小さな武家屋敷が続いていました。建物は玄関・台所・納戸・床付座敷の「田」の字形で前庭付き一戸建てで、現在も筋は1間半(2.7m)幅の路地としてそのまま残って、住宅街として活用されています。

 

芹橋付近_御城下惣絵図_博物館蔵

【芹橋1・2丁目付近:御城下惣繪圖:彦根城博物館】

◇善利(せり)組足軽組屋敷(彦根市芹橋町)

● 「善利組足軽組屋敷」は、城下の南部、外堀(現在の昭和新道)と芹川とに挟まれた地区にあります。
●彦根藩の足軽衆は、二十二俵三人扶持の禄高で、第四郭・町の一番外側に住居を置き、城下を守る役割を果たしていました。
●組屋敷は、慶長11年(1606)に「中藪組」が設置され、元和3年(1617)の足軽の増強により「善利組」、川原町裏手に8組が設置されました。寛永6年(1629)に瓦焼町東側に「切通上組」・「切通下組」、また安清町南側にも「大雲寺組」の組屋敷が設置されましたが、「中組」・「北組」が設置された時期は明らかではありません。面積では、「善利組」がもっとも大きく、東西約750m、南北約300mの地域を占め、現在もその屋敷割りが引き継がれ、足軽組屋敷の様子が遺存します。防御を目的とした町割りのため、「どんつき」や「くいちがい」など、直線を避け意図的に曲げた小路がめぐらされています。

彦根藩足軽組辻番所_善利組 彦根藩足軽組屋敷_善利組旧磯島家

足軽屋敷(磯島家)に付置されている「辻番所」(角部屋に覗き窓を設置)】

●彦根藩の足軽屋敷は、間口5間・奥行10間前後の短冊形50坪の土地に、20坪ほどの屋敷、簡単な木戸門、目板瓦葺きの塀を設え、母屋が街路に直接面しない構造になっていました。
◇朝鮮人街道・朝鮮通信使宿舎
●「朝鮮人街道」は、平田を通過して芹川を渡り、現在の銀座町交差点「久佐の辻」・中央町・立花町・元町を通っています。
●延享5年(1748)の例では、家重将軍職就任祝賀使節として、総勢475名が江戸へ向かい、彦根1泊の折の宿舎は、正使・副使・判使は宗安寺、同寺塔頭は書記官らの御馳走所、中官・下官は大信寺・明性寺、官人荷物宿は蓮華寺、長老宿は江国寺・松原庄右衛門屋敷、通詞下知役・通詞は町人家・願通寺・法蔵寺、津島藩主宗義如本陣は(御馳走所)林吉兵衛方、同家老は白壁町十兵衛・庄兵衛、伝馬町吉兵衛方、120カ所以上の町家に分宿、63年後の折には人足6565人・馬1773疋を彦根に集められました。

P1130383宗安寺正門 【朝鮮通信使の正使らが泊まった宗安寺・赤門】

◇旧袋町(河原町2丁目)・飲食店街(旧遊郭)
●芹川より北側で「朝鮮人街道」より東側の河原町2丁目界隈は旧「袋町」の遊郭の名残のある地区です。昭和30年代に飲食店街に変わり、現在に至っています。昼間はその賑わいは判りませんが、日が暮れると賑やかになるところです。
IMG_0001旧袋町置屋②【旧袋町・飲食店街】

◇芹川 けやき並木   (彦根市後三条町)

●彦根城築城の際、南側の防御と城下町用地を確保するために、芹川の流路を現在の位置に付け替え、両岸には護岸のため多くの樹木が植えられました。その当時植えられたけやきは樹齢400年近い巨木となり美しい並木を見せています。

けやき並木Ⅲ 【けやき並木:芹川畔】

◇七曲がりの仏壇街   (彦根市芹中町・芹川南側左岸)

●中山道の高宮宿から彦根城下へ向かう道を「彦根道」と言い、芹川の近くで幾度も道が屈曲しており、ここを「七曲り」と呼ばれた屈折した道筋で、現在は彦根の伝統産業の仏壇を作る店が軒を並べています。

●伝統工芸品「彦根仏壇」は、歴史ある彦根仏壇の店舗が軒を連ね、木地師、宮殿師、彫刻師、漆塗師、金箔押師、蒔絵師、錺金師の七職の職人により、ひとつひとつ手づくりで作り上げられていきます。

仏壇街 【七曲り:彦根道】 IMG_0007彦根仏壇製造店 【仏壇街】

◇河原町芹町・重要伝統的建造物群保存地区
●芹川左岸南側の河原町2丁目から芹町にかけては、江戸初期から「町立て」がはじまり、現在の街並が造られてきました。
●平成28年に、旧川原町・安清町・芹新町地区が「河原町芹町地区伝統的建造物群保存地区」として、厨子(つし)二階・高二階の町家が連担し、街並の風情を遺している町家群遺存していくべく、指定されています。これらの町家は間口の割には奥行きが深い敷地に、下屋庇を設えた主屋・背面に中庭を設けた土蔵を配置しています。厨子二階には両袖壁を設えて、連担した屋根と庇を分節しています。

伝統的建造物群保存地区図_市教委 【河原町芹町地区伝統的建造物群保存地区:彦根市教育委員会】

IMG_0002旧袋町    IMG_0596河原町芹町建造物群両袖壁厨子二階

        【河原町芹町・重要伝統的建造物群保存地区(両袖壁・厨子二階)】

【参考文献】
1.彦根史談会編:「城下町彦根・街道と町並」、サンライズ出版、2002.
2.彦根観光協会編:「彦根の観光スポット」、彦根観光協会、2017.
3.彦根城博物館蔵:「彦根御城下惣絵図」、1836(天保7年)。
4.門脇正人:「『朝鮮人街道』をゆく」、サンライズ出版、1995.
5.彦根氏教育委員会文化財課編:「善利組足軽屋敷」、彦根市文化財解説シート、2018.
6.彦根市編:「芹川旧河道」、彦根市ホームページ、2018.

【催行:2019年3月9日・案内・編集:宮﨑信隆】

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