■第302回行事・アーカイヴス(2019年2月)

★加西 海軍飛行場跡・北條街並・石棺佛   

「石棺佛」とは、古墳の石棺材に佛像を刻み込んだものをいい、文字を刻んだものも含まれている(本来は「板碑」)。加古川流域の加西・加東・加古・印南の四郡に存在し、刳り抜き式石棺の蓋・身、組合せ式石棺の身・蓋・側板・小口板等が利用されています。刻まれた佛像には阿弥陀如来・阿弥陀三尊・地蔵菩薩などがあります。 今回は、これらの石佛・旧海軍飛行場跡・北条の街並を見学して周ります。

 コース北条鉄道・法華口駅*~鶉野飛行場跡~法華口駅*~(北条鉄道)~北条町駅*~北条・街並~酒見寺・住吉神社~羅漢寺*~小谷地蔵堂~(出雲大社分社*)~栗田・横尾地区街並~北条町駅 (徒歩区間:計約12km

鶉野飛行場跡   (北条鉄道・法華口駅北方)

○「鶉野飛行場」(姫路海軍航空隊鶉野基地(飛行場)、川西航空機㈱姫路製作所鶉野工場)は、パイロット養成のため、昭和18年3月に着工し、同年10月に同基地開隊に至った、旧日本海軍の飛行場の跡です。

○飛行場の建設に伴い、昭和18年10月には姫路海軍航空隊が開設され、同時に航空整備、兵科、運用、主計、航海、機関、通信、工作、兵器、砲術、医務等の兵隊が在隊していました。

○飛行場の西南には、川西航空機姫路製作所鶉野工場(前身の川西機械製作所は大正9年設置)があって、「紫電」466機、「紫電改」44機が組み立てられました。

6滑走路跡鶉野飛行場跡

○当時、航空隊には、17歳から25歳までの若者が全国から約320名集められ、30時間の飛行訓練を受けた後、各航空隊へと移っていきました。 昭和20年には、練習生による神風特攻隊「白鷺隊」が編成され、終戦までに63名が戦死しました。

鶉野飛行場」付近・国土地理院発行地形図125000「笠原」・「社」

170523鶉野飛行場25000笠原_社_大正12年測量 170523鶉野飛行場跡付近25000笠原_社_昭和42年測量 []大正12年・[]昭和42年測量)  

【コース地図(鶉野飛行場跡付近)・国土地理院発行地形図125000「笠原」・「社」】

コース地図鶉野飛行場跡25000笠原(図上の左クリックにより拡大)

○昭和20年7月下旬に、米軍艦載機により姫路航空隊基地が3回攻撃され、終戦後の同年10月、占領軍が同基地に進駐してきました。現在は、飛行場跡は防衛庁が管理し、一部は神戸大学農学部の敷地として利用されています。 IMG_0003爆弾庫5【爆弾庫跡】

【コース地図(北條付近)・国土地理院発行125000地形図「北条」・「笠原」】

コース地図説明入_北条町25000北条

(図上の左クリックにより拡大)

◇酒見寺(さがみじ・高野山真言宗・泉生山(せんしょうざん):加西市北条町北条)

○「北条町駅」から旧街道筋に沿って1km足らず北西方へ進むと北側に「酒見寺」があります。

○「酒見寺」の本尊は十一面観世音菩薩で、聖武天皇の勅願寺です。 寺伝では天平17年(745)、酒見明神(住吉神社)の神託を受けた行基が聖武天皇に奏上し、寺号を「酒見寺」として開創したとのことです。 平安時代からから毎年勅使の参詣が行われ、「平治の乱」(平治元年(1159))での全山焼失の折は二條院の勅により再建されましたが、天正年間(1573~92年)の兵火でも全山が焼失しています。 その後、江戸時代の姫路城主・池田輝政が姫路城の守護寺に定めて援助を行い、池田家の転封後は本多田忠政の援助を受け、寛永年間(1624~43年)に幕府の命を受けた実相院隆恵が再興しました。3代将軍・家光が朱印寺と定め、代々将軍から朱印状を下附されて隆盛し、天皇や幕府、藩により保護されてきたようです。 酒見寺本堂【酒見寺境内】

◇住吉神社  (天台宗・北栄山羅漢寺・加西市北条町北条)

○「酒見寺」の西隣に「住吉神社」が鎮座しています。

○「住吉神社」の祭神は、酒見神・底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后の五神で、播磨国三ノ宮、旧社格は縣社でした。 黒駒村(北条の西隣)で創建され、養老元年(717)に現在地に遷されたようです。大阪・住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』〔天平3年(731)〕に記された「住吉大社の宮・九箇処」の一社に当たり、かつては「酒見大明神」と呼ばれ、明治期に縣社に列格された折に現社名に改められたそうです。

社殿は, 「平治の乱」(平治元年(1159))や天正年間(1573~92年)の兵火などで焼失・再建を経て荒廃していましたが、姫路城主・池田輝政により復興されました。

現在の本社三殿(国東麓有形文化財)は嘉永4年(1851)に再建されたもので、境内中央には勅使塚が遺されて、「鶏合せ」や「龍王舞」など神事の場として使われているようです。

住吉神社本殿②

【住吉神社本殿】

◇五百羅漢  (天台宗・北栄山羅漢寺・加西市北条町北条)

○設置についての諸説としては、①小谷城主・赤松祐尚が天正元年(1573)頃に戦死者供養のため立てた。②酒見社(住吉神社)神官・山氏一族の墓地、などの説があり、不明です。 ○なお、大分・耶馬渓山、山梨・吉沢にも石佛群があります。

五百羅漢Ⅰ【五百羅漢像】  

◇小谷地蔵堂阿弥陀・六地蔵石棺佛(よばりこき地蔵) (北条町小谷) 

○「よばりこき地蔵」と呼ばれている、加西市指定文化財で、子どもの寝小便抑止に効験があるとか。

○像高約60cmの「阿弥陀如来座像」で、左右に計六体の薄肉彫りの「地蔵立像」も彫り出され、康永四年(1345)銘(□□四暦歳次乙酉八月)があり、素材は高さ170cm、幅111cm、厚さ20cmの家形石棺蓋で、光背は月輪を入れた羽状文様の舟形光背、蓮華座は八重式です。

○隣に小型「くり抜き式石棺」の身を使った「阿弥陀如来座像石棺佛」が安置され、大きさは71.5×56.0×30.0cm。 小谷_阿弥陀如来座像石棺佛【像高約72㎝の石棺阿彌陀佛像】

◇北条・町家・鏝絵

○「出桁」(だしげた):軒を深く出すために、垂木を支える桁を胴差よりも外に出した納まりのこと。「出桁」は、桁を化粧材とす るために、すべて鉋仕上げとなり仕口も重なりが見える。そのために丁寧な仕事が要求されて、大工仕事が格段に厄介になる。重厚な雰囲気になるので、江戸時代に商家などで用いられた。

出し桁【出し桁】     袖卯建つⅡ【両袖壁(袖卯建つ)

○「袖卯建つ」:建物の両側に「卯」字形に張出した小屋根付き袖壁。

○「持ち送り」(コーベル(corbel):壁から突き出した石などの構造物で、その上に張り出した重量を支持する。持出し、持送り積み、受け材とも。同じ構造でも木でできたものは、「梁受け (tassel)」と呼ぶ。

持ち送り構造 (corbelling) は、一連の持ち送りを壁に深くかみ合わせて、張り出した壁や手摺を支持する技法。

 持ち送りⅢ②【持ち送り】

○当地の「虫籠窓」は、下地に木を芯にして、荒縄を巻き、土を塗って仕上げ、太い堅格子、丸い棒格子などあります。

○「鏝絵」:漆喰を塗った上に鏝で描き出した絵で、黒の漆喰に白い鶴・亀・松が描かれています。「鏝絵」は、左官の仕事へのお礼と自分が仕事をしたことの証しであると言われています:「家内安全・子孫繁栄・幸運招来」

IMG_0027③鏝絵_北条町栗田②【鏝絵:北条町栗田

〇大分県安心院(あじむ)町の鏝絵とは少し趣旨が異なるかもしれません。

【参考文献】

1.加西市教育委員会編:「山伏峠石佛・大日寺石佛群・小谷地蔵堂石佛・鶉野飛行場跡・玉丘古墳」、加西市ホームページ、2017

2.神戸大学大学院地域連携センター・加西市教育委員会編:「加西・鶉野飛行場跡(旧姫路海軍航空隊基地)」、加西市教育委員会、2011

3.兵庫県歴史学会編:「兵庫県の歴史散歩」、山川出版社、1990

【2019年2月9日催行・案内・編集:宮﨑信隆】

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