◆第300回記念行事・アーカイヴス(2018年12月)

★男山周辺歴史めぐり

●木津川・宇治川・桂川の三川合流域は山崎地峡であり、桂川と木津川に挟まれた世割堤は西日本有数の桜スポットです。合流域の左岸に位置する男山は平安京の「裏鬼門」にあたり、そこに日本三大八幡宮の一社である石清水八幡宮が鎮座しています。門前町として発展してきた男山周辺の豊かな歴史・文化・自然をゆっくりと巡ります。

【コース地図(赤破線):国土地理院発行1:25000地形図「淀」】

コース地図三川合流男山25000淀

(図上の左クリックにより拡大)

コース:京阪・八幡市駅~木津川御幸橋~背割堤・さくらであい館*~頓宮殿~安居橋~表参道~石清水八幡宮本殿(一次解散)~清峯殿(懇親会後、二次解散)

◇木津川御幸橋・三川合流

・八幡市駅の波打ったような東側踏切を渡り「木津川御幸橋」を渡って、宇治川との間の「さくらであい館」に着きました。

ここは国土交通省近畿地方整備局が建設して管理している休憩・展望所です。

・「木津川御幸橋」(全長355m)は、京都府道13号京都守口線に架かる道路橋で、木津川に架かる橋の中で最下流に位置し、宇治川に架かる「淀川御幸橋」(全長266m)と2本の橋を総称して「御幸橋」と称しています。なお、府道13号はかつての国道1号線です。京都と大阪を結ぶ「京街道」の御幸橋付近に橋が架けられたのは明治31年頃とされ、当時の木津川は淀付近で宇治川に合流していたため、橋は1本だったとみられています。

・「明治18年(1885)」に2渡、同22年・29年に水害が発生したため、明治43年にかけて淀川改良工事が行われました。木津川では河川の付け替えや連続堤防の修築が行われ、現在の三川合流部で合流する流路に付け替えられて、大正2年に三川合流部に近い下流部の木津川と宇治川に初代「御幸橋」(2本)が開通してぃます。現在の橋は3代目「木津川御幸橋」で平成22年に開通しました。

IMG_0003(3)

3代目木津川御幸橋:背景・男山】

淀川河川公園 背割堤

・「さくらであい館」の展望台よりの眺めは、三川合流の要衝を360度見渡せます。

・宇治川と木津川に挟まれた「背割堤」は延長1.4kmあり、ソメイヨシノの並木が約250本連なっています。

なお、「背割堤」とは、2つの河川が合流したり、隣あって流れるために、流れの異なる2河川の合流を滑らかにしたり、一方の川の影響が他の河川におよばないように2つの川の間に設ける堤防のことをいいます。

IMG_0002天王山方面さくらであい館

【天王山方面:さくらであい館】

◇さくらであい館

・2本の「御幸橋」(淀川・木津川)の間の背割堤の根元に当たるところに建っています。

・展望塔があり、地上約25mの高さから桜並木や周辺を見渡せます。

石清水八幡宮 頓宮殿

・「さくらであい館」より再び木津川御幸橋を渡り、八幡に戻り、「石清水八幡宮」の一ノ鳥居を抜けて、五輪塔を通過して「頓宮殿」に着きます。

・「八幡宮」の一の鳥居の先に「八幡宮」の御旅所である「頓宮」があり、年に一度、勅祭「石清水祭」において山上の本殿より神霊が遷される「頓宮殿」は重儀が斎行される社殿です。幕末の「鳥羽伏見の戦」で焼失ののち、男山四十八坊の一つ「岩本坊」の神殿を移築し、仮宮としていましたが、現在の社殿は大正4年に造営されたものです。平成22年~23年にかけて修復工事が行われ、昭和24年以来の屋根の葺替えで、桧皮葺であった屋根から、より耐久性のある銅板葺に葺き替えられました。

頓宮殿頓宮殿

◇安居橋 (あんごばし)

・「頓宮殿」より南下して、100m余で放生川に架かる「安居橋」に着きます。

・中央部が盛り上がった反橋(アーチ橋)で、舞台が設置され、12個の欄干には装飾が施されており、寛永初期(1614~1624年)頃に架設されたようです。

IMG_0008安居橋_放生川【安居橋】

◇石清水社

・「裏参道」の少し裾側にあります。

男山中腹に位置する「石清水社」は、霊泉「石清水」を核とした摂社で、当宮の名の由来となった本宮鎮座以前の起源に遡り、鎮座以前は傍に「石清水寺」が建立されており、本宮創建と同時に「石清水寺」は「護国寺」となったと伝わります。

・石造りの明神鳥居の石柱刻銘には、寛永13年(1636)、当時の京都所司代・板倉重宗の寄進により建てられたと記され、境内に完全な形で残る鳥居としては最古のものです。また、その銘文は松花堂昭乗の書であるということも判明しています。

・「石清水」は、厳冬にも凍らず、大旱にも涸れない霊泉として、男山五水の中でも特に尊ばれ、古代より皇室および将軍家の祈祷にあたっては、この霊水を山上の本宮に献供するのを例とされていたそうです。その際、神前に供された石清水を「御香水」といい、現在でも、当宮にて斎行される祭典には、当日早朝に汲み上げられた「石清水」が神前に献供されているそうです。

◇石清水八幡宮 本殿

・「高良神社」の前を通過して、「安居橋」をみて、「七曲り」の石段道を上って、表参道より「石清水八幡宮 本殿」の正面200m程前の処に出ます。

「石清水八幡宮」は、国家鎮護の社として、都の「裏鬼門」に位置する男山山上に鎮座してより1150年以上の間、当宮の根本であった「本殿」は貞観元年(859)木工寮権允(律令制度下、省下部組織「寮」の、高等官三等が「允」(じょう)で、その権官が「権允」)の橘良基は清和天皇の勅命により6宇の宝殿を建立し、順次、八幡造りの社殿を建立しました。

・以来、造営14度・修理17度におよび、現在の社殿は寛永11年(1634)、徳川三代将軍・家光の修造によるもので、前後二棟(内殿・外殿)からなる八幡造りの社殿建築様式は稀少であり、桧皮葺屋根の軒が接するところに織田信長寄進の「黄金の樋」が架けられています。

IMG_0012石清水八幡宮本殿

【石清水八幡宮 本殿

・本殿から幣殿・舞殿・楼門と続き、その周囲を約180mの廻廊が囲む社殿の建造物全てが丹漆塗で、本殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻をはじめ随所に当時の名工の極彩色彫刻が施された壮麗な社殿であり、平成28年に本社10棟と附(つけたり)棟札3枚が国宝に指定されました。                              ・「石清水八幡宮」の祭神は、中御前:応神天皇(第15代・誉田別尊(ほんだわけのみこと)、西御前:比咩大神(ひめおおかみ) 〔多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)・市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)、東御前:神功皇后(息長帯比賣命・おきながたらしひめのみこと)で、総称して「八幡三所大神」(八幡大神)といわれます。

・男山は都から望んで「裏鬼門」(南西の方角)に位置し、「鬼門」(北東の方角)に位置する比叡山延暦寺とともに都の守護、国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。この経済上、政治上、信仰上の要の地に鎮座して、日本を平和と繁栄に導く神として多くの人々に崇敬され、「八幡大神」を祀る神社は全国に数万社あるともいわれています。

・貞観元年(859)、南都・大安寺の僧・行教和尚は豊前・宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、「八幡大神」の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との託宣を蒙り、同年男山の峯に神霊を奉安したのが当宮の起源とのことです。

朝廷は貞観2年に同所に八幡造りの社殿(六宇の宝殿)を造営し、遷座させました。       

・しかし、実のところは、宇佐八幡神社・神官・大神氏が和気清麻呂一門や行教(大安寺・僧侶、石清水八幡宮別当・安宗の叔父)と結託して都への進出を図った説が強いようです。

・遷座当時、男山には「石清水寺」がありましたが、3年後(貞観5年)の「護国寺」と改称されて「神宮寺」となっています。「八幡社」と同寺は一体で僧侶主導となっていて、神官は遷座の18年後に置かれました。

・「護国寺」初代別当は行教の甥・宗安、「八幡宮」初代検校は行教の弟・益信で、後に行教の甥・紀御豊が神官となっています。    

・天慶2年(939)の平将門・藤原純友の乱の折には、朝廷より請願があり「八幡大神」の神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として皇室の崇敬は益々厚いものとなり、天皇の行幸や上皇の御幸は、円融天皇(第64代)の行幸以来、240余度にも及び、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟とも称されてきました。

・明治の初めには「官幣大社」に列せられ、「男山八幡宮」と改称されましたが、「石清水」の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年には再び「石清水八幡宮」と改称され現在に至ります。

・なお、清和天皇の嫡流である源氏一門は「八幡大神」を氏神として尊崇し、その信奉の念は格別で全国各地に「八幡大神」を勧請しました。源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗りました。

  • 世は変われども神は変わらず」-八幡大神託宣

【参考文献】

1.植村善博「京都の治水と昭和大水害」、文理閣、2011.

2.山本四郎:「京都府の歴史散歩」(下)、山川出版社、1995

3.石清水八幡宮編:「石清水八幡宮」、石清水八幡宮ホームページ、2018

【2018年12月8日催行、案内:関谷正次朗・現地ボランテイアガイド、編集:宮﨑信隆】

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