■第296回行事・アーカイヴス(2018年8月)

★東大寺 建造物めぐり

●東大寺の建造物は、天災、兵火によって消失と再建の繰り返しが度々あり、都度、為政者の援助、寺僧の尽力により復興してきました。現存物は、創建時以来、重源の再建以来、公慶の再建以来、と大略3時期に分かれていますが、それらの現存状態を観ながら、建設目的・時期などを観察していきます。

【コース地図(破線):国土地理院発行110,000「奈良」】

説明コース入_東大寺10000奈良

(図上のクリックにより拡大)

コース近鉄・奈良駅*~南大門~(手向山八幡宮・同宝庫) ~法華堂・同経庫・同北門・同手水屋~観音堂(二月堂)*~閼伽(あか)井屋・佛餉屋・参籠所・食堂~三昧堂(四月堂)~大湯屋~鐘楼~念佛堂~大佛殿院~講堂跡・僧房跡~転害門*~中御門跡~戒壇院~西大門跡(解散)    (約6km)

●東大寺の建造物には、「大佛様(よう)」の建築様式が多くみられ、これらは鎌倉復興期に俊乗坊重源が採用した建築様式で、宋時代の技術が取り入れられており、「貫」(ぬき:柱を貫通する水平材)を多用して、構造を堅固にし、天井を貼らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが大きな特徴です:

①素朴・単純な構造(挿肘木*・隅扇垂木*・一軒*・鬼斗*無し・野小屋*無し)、

②貫その他の水平材を多用し、軸部・組物・小屋組を固め、

③架橋を全部現して、構造の美しさが示されています、

木鼻*・桟唐戸*などの装飾的手法を使っています。[以上、「国史大辞典」(大佛様建築)・他]

挿肘木(さしひじき):和様、禅宗様の組み物は柱の上に載りますが、「大仏様」の「挿肘木」は柱を上まで伸ばし「肘木」を柱に挿し込みます。桁や梁を直接柱で受けられるので耐震性に優れ、近年は様式によらず「挿肘木」にすることが多いようです。

(木鼻のくり形)

南大門組み物①③(ぬき)

(通し肘木:六手先(むてさき)・肘木は挿肘木)         

                   【東大寺 南大門の組み物】

扇垂木】扇垂木①③

 

組み物_挿肘木_説明入①③

一軒(ひとのき)「地垂木」(じだるき)だけが一列に並ぶ普通の「軒」で、垂木は一重のもの[一軒(ひとのき)]と二重のもの[二軒(ふたのき)]があり,まれに三重のものがあるそうです。

「二軒」の下の垂木は「地垂木」といい,上の垂木を「飛檐(ひえん)垂木」といわれます。

鬼斗(おにと)「隅肘木」(すみひじき)・「隅尾垂木」(すみおだるき)の上にあって、上部の直角に交わる肘木の交点を支える特殊な形の「斗」(と・ます)の一種で、「菊斗」(きくと)、「隅斗」(すみと)、「角斗」(つのと)・「毬斗」(いがと)・「蓮花斗」・「牛斗」などともいわれるそうです。

肘木_斗Ⅲ福喜建設①③【鬼斗:福喜建設】

野小屋建築の部材のうち,外から見えるものを「化粧」といい、下から見える「化粧垂木」の上にさらに見えない「小屋組み」がつくられ、それを「野小屋」(のごや),その垂木を「野垂木」と言われます。(野小屋は中国には見られないようです)

木鼻:「木の先端」という意味の「木端」(きばな)が転じて「木鼻」に書き換えられたもので、「貫」 (ぬき) や「台輪」などが柱から突き出している部分をいい、「大仏様木鼻」には象鼻・獅子鼻・獏鼻などがあり、「禅宗様木鼻」には渦紋・植物紋などがあるそうです。我が国が誇れる独特の建築意匠で、「大仏様」、「禅宗様」の木鼻は和様にも組み入れられています。

大佛様木鼻①③【大仏様木鼻】

桟唐戸(さんからと):框(かまち)を組み立て、その間に薄い鏡板などをはめた扉で、禅宗様建築とともに宋より伝来しました。禅宗様・大佛様建築に用いられ、上部に装飾を入れたものが多いそうです。

桟唐戸【桟唐戸】

仁王・二重入母屋造 南大門  (国宝)

・「南大門」は、正治元年(1199)、重源により再建・上棟され、建仁3年(1203)に竣工し、仁王像開眼供養が施行された、5間3戸二重門入母屋造で、高さが基壇上25.46mもある「大佛様」の大きな建物です。

IMG_0003【人出で賑わう南大門】

・発掘調査より鎌倉基壇下から凝灰岩製の奈良基壇が検出されていますが、当初から同じ規模で建造されたようです。なお、天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊しました。また、下層は天井なく、腰屋根構造が採られ、屋根裏まで達する大円柱18本は、21mもあります。

南大門立面図①【南大門立面図:東大寺】

・「南大門」の両側に聳えたつ仁王像二体は、昭和63年からの全面解体修理により、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明されています。3列の柱の前列と後列の柱心間距離は10.786mとなっています。

・門の屋根・庇裏の組み立て構造は、別添木・貫が頑丈に組み合わさり、写真のように複雑な構造で、貫・連肘木・挿肘木・通肘木が用いられています。

★東塔

・「東塔」(鎌倉塔)の基壇は27m四方で高さ1.7m以上の柱位置は3間四方です。井桁(いげた)に組み上げて壁とし、木材の平らな面を内側に向けている構造が判ります。創建当時の「東塔」の周りには、「複廊」が設置されていたことが判明したそうです。それほど本塔は当時重要視されていたものと考えられています(2017年10月4日付・朝日新聞朝刊[大阪])。

校倉造 手向山八幡宮宝庫     (重文) 

・「手向山八幡宮」の前に遺存する「宝庫」は、奈良時代に建てられた校倉造で、元は東大寺油倉の上司倉だったそうですが、江戸期に当地に移築されました。

・「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749)、「東大寺」の守護神として「宇佐八幡宮」から勧請されたもので、「鎮守八幡宮」と呼ばれてきました。

IMG_0013②手向山八幡宮宝庫

【手向山八幡宮宝庫:軒先(垂木・井桁組み)

入母屋・寄棟双堂形式 法華堂(三月堂国宝)・北門(重文)手水屋(ちょうずや・重文)・経庫(きょうこ・重文)

・「法華堂」北側にある「法華堂北門」は、延応2年(1240)に建立された四脚門で切妻造りの本瓦葺きです。

・「法華堂手水屋」は、建武2年(1335)に建立された、桁行7間×梁間4間の一重切妻造りで、西面に広縁があります。法華堂衆により法会・集会・宿坊に使用されてきました。厨子入り大黒天は鎌倉末期作とのことです。

IMG_0022②法華堂【 法華堂・本堂】

IMG_0024法華堂北門【法華堂・北門】

・「法華堂」は、正堂は奈良時代、礼堂は正治元年(1199)に建立された双堂形式で、桁行5間×8間の一重の前部入母屋造り、後部寄棟造りとなっています。本尊は不空羂索観音ですで「羂索堂」ともいわれ、また毎年三月に「法華會」が催されるので「三月堂」とも呼ばれます。

IMG_0025②法華堂手水屋【法華堂・手水屋】

・平成22年の内陣解体修理等により、八角二重壇(不空羂索観音・位置)は「法華堂」造営時に造られたことが判明しました。部材の伐採年は、年輪年代測定により天平3年(731)と判明しています。

IMG_0020_法華堂経庫【法華堂・経庫】

 IMG_0030法華堂経庫軒先②2【法華堂・経庫の軒先】

・「法華堂経庫」は、奈良時代に建造された校倉造りの倉庫で、「正倉院」の西方にありましたが、江戸時代に南方に移築され、「経庫」の前に立つのは「御髪塔」(十三重石塔)で、東大寺の「鐘楼」を吊るす時使った綱に使われた女性の毛髪を埋めて十三重石塔が建立されました。

二重寄棟造 三昧堂四月堂   (重文)

・「三昧堂」の創建は、治安元年(1021)とされていますが、延寶9年(1681)に改築されて3間×3間の四辺6mの二重寄棟造りで本瓦葺きとなりました。発願者は仁仙大法師、助慶上人で、鎌倉期の古材が使用されています。

・「三昧堂」は、仁仙大法師と助慶上人が「法華三昧」を行う際に創建され、この「法華三昧」*が堂舎の名前の由来になっており、仁仙大法師と助慶上人が修行に入ったのが4月であったことから、別称「四月堂」の名前が付されています。                                

(*「法華三昧」:法華経の経典に基づいて、悟りの境地に至るための修法)

修二会・寄棟造 観音堂(二月堂)  (国宝)

・「観音堂」は、平重衡の兵火(治承4年・1180)、三好・松永の戦い(永禄10年・1567)の2回の戦火には焼け残ったのですが、寛文7年(1667)の「修二会」最中に出火して焼失しました。同じものが再建され、桁行10間×梁間7間の一重寄棟造で、奈良時代には3間四方の内陣部分のみの佛堂だったそうです。観音信仰の高揚とともに局・礼堂・舞台等が付け加えられました。

・「修二会」は天平勝宝4年(752)に実忠が創始し、十一面観音(本尊:練行衆も見られない絶対秘仏)に懺悔し鎮護国家、天下泰平、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽が祈願されます。本行は日中・日没・初夜・半夜・後夜・晨朝(六時行法)に分けて6回行われます。

IMG_0026観音堂_二月堂【観音堂(二月堂)】

切妻造 (二月堂)閼伽井屋(あかいや)     (重文)

閼伽井屋」は、治承4年(1180)に焼失後、13世紀初めに再建された桁行3間×梁間2間の一重切妻造りとなっています。「東大寺山堺四至図」(天平勝宝8歳/756)では当地に井戸があり、天平勝宝期には「お水取り」が施行されていたと推考されています。

・「お水取り」の由来となる建物で、内部の2基の井戸から「修二会」の3月12日深夜に「香水」を汲む、所謂、霊水の湧く「若狭井」の覆屋です。

IMG_0028閼伽井屋【閼伽井屋(若狭井)

謂れは、良弁高弟の實忠和尚が天平勝宝4年(752)に修二会を創始し、全国の神々を招いたとき、若狭・遠敷明神が漁に夢中になって遅刻したので、その詫びに若狭の聖水を「二月堂」の観音に捧げることを約束した。明神が二羽の鵜を遣わしたところ、「二月堂」下の岩から鵜が飛び出し、香水が湧き出したと伝わります。

切妻造 (二月堂)佛餉屋  (重文)

・「佛餉屋」は、鎌倉時代の建築で、5間×2間の一重切妻造となっています。寺内では「御供所」と呼ばれ、「修二会」で本尊の前に備える持ちを搗いてきましたが、現在は使用されていないようです。

IMG_0034佛餉屋【二月堂・佛餉屋】

切妻造 (二月堂)湯屋   (県指定文化財)

・「湯屋」は、寛文年間(1661~73年)の再建(治承4年[1180]焼失?)とみられており、桁行9間×梁間3間の一重切妻造となっています。「修二会」の折に練行衆が入浴、食事の調理を行うところで、湯殿と土間(釜屋)および湯屋宿所から成ります。

IMG_0033_二月堂_湯屋【二月堂・湯屋】

切妻造 (二月堂) 参籠所・食堂   (重文)       

・「(二月堂) 参籠所」は、鎌倉期に建造されたようですが、以後の補修が多く、桁行10間×梁間4間の一重切妻造りとなっています。

・当所では、「修二会」期間中は11人の練行衆がここで過ごし、「修二会」本行の松明は「参籠所」から「二月堂」へ練行衆が向かう時の足元の照明です。

・建物の北半分が「参籠所」、南半分が「食堂」(じきどう)で、その中間の通路(登廊に通ずる)は細殿と呼ばれています。

IMG_0032_二月堂参籠所_食堂【二月堂参籠所・食堂】

閼伽井屋」から「大湯屋」に向かって下っていくと、左側は瓦屋根を載せた「中性院」の瓦土塀で、右側には下半は石垣積みで瓦屋根を置いた白壁に、石畳の道が続きます。「大佛殿」(金堂)と懸け離れた東大寺本来の静けさが漂います。

IMG_0039

【観音堂(二月堂)を仰ぎ見る中性院土壁()と白壁の道】

入母屋造・切妻造 大湯屋(おおゆや)  (重文)       

・「大湯屋」は、桁行8間×梁間5間の一重で正面入母屋造り、背面切妻造りで、創建は8世紀とされています。再建は延応元年(1239)、大修繕は応永15年(1408)に行われています。

・西から土間・前室・浴室・釜場(土間)の順。浴室の鉄湯舟は建久8年(1197)に鋳造されたそうです。

・「入浴」の起源は、日本に仏教が伝来したのと同時に、「仏教の構成要素の1つ」として伝来され、寺院が「浴堂」と呼ばれる「身を清めるための施設」を設置したのが起源だそうです。                          

IMG_0042大湯屋

【大湯屋:正面入母屋造り・背面切妻造り・軒先】

入母屋造 鐘楼  (国宝)                 

・「鐘楼」は、建永元年(1206)~承元4年(1210)に栄西が再建したものと考えられており、「大佛様」の方1間一重入母屋造りとなっています。梵鐘は創建期(天平勝宝4年・752)のもので、総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tあり「奈良太郎」と呼ばれています。

IMG_0046②鐘楼【鐘楼】

寄棟造 念佛堂      (重文)        

・「念佛堂」は、嘉禎3年(1237)の建立で、発願者は重源です。和様の3間×3間一重寄棟造りで、元「地蔵堂」といわれていました。

正面手前の開閉式「桟唐戸」(さんからと)は、後に「禅宗様」と呼ばれる代表格のものです(本稿3頁参照)。

IMG_0047②念佛堂【念佛堂】 

入母屋造 大佛殿院中門(重文)・単層裳階 大佛殿(金堂国宝)

・「大佛殿院中門」は、宝永6年(1709)~正徳4年(1714)に造営された五間三戸の楼門で入母屋造り、享保4年(1719)完成しました。現在保存工事実施中で、廻廊は創建時は複廊だったそうですが、再建時に単廊にされ、現在の「軒廊」以北は、江戸再建時に石垣・土塁に変更されました。

IMG_0009_中門_金堂大佛殿_鏡池

【鏡池の向こうに中門と大佛殿(金堂)】  

・「大佛殿」は、天平17年(745)に大佛の建立が開始され、創建期の大佛殿は「東大寺山堺四至図」(天平勝宝8歳・756)、「信貴山縁起絵巻」(平安後期)に描写されています。

・大きさ「二重十一間、高十二丈六尺、東西長廿九丁、廣十七丈、東西砌長廿丈六尺、柱八十四枝、殿戸十六間」(大佛殿碑文(ひぶみ))

・「大佛殿」の創建物は、治承4年(1180)炎上しましたが、建久6年(1195)創建と同規模で再建されました。しかし、永禄10年(1567)の松永久秀による三好三人衆軍攻めの際に再焼失し、元禄の再建中に規模を縮小して単層裳階付きで宝永6年(1709)に漸く完成しました。

三間八脚切妻造 転害門    (元「碾磑門」・国宝)

・「転害門」は、三間一戸の八脚門切妻造りで。創建期東大寺の門で唯一遺存するものです。その名称は「碾磑亭」*(テンガイテイ)へ通じることにより、門中央には「転害会」**に際し、神輿を置くための小礎石があります。

 IMG_0063転害門西面

【転害門(西面):軒先・格子天井(改修時に設置)

碾磑亭:「七間瓦屋なり。碾磑を置く。件の亭は講堂の東、金堂の北にあり。その亭内に石唐臼を置く。これを碾磑と云う。馬瑙をもって之を造る。その色白也」

(碾磑:古代中国の水力利用の石臼で、「碾」,「磑」ともに物と物とをすり合せる意味で、脱穀、製粉に使用される。水力によって動かされるので水碾、水磑ともいわれる)

**転害会:毎年10月5日、手向山八幡宮の祭礼の時に神輿遷座の門となり、ここから祭礼が始まる。

三間八脚 中御門             

「中御門」跡には、礎石のみが3個ずつ3列の計9カ所遺存しますが、元は「転害門」のように三間一戸の八脚門であったと推定されています。慶長11年(1606)に類焼したので「焼門」とも呼ばれています。

IMG_0074②中御門跡【中御門跡】

寄棟造 戒壇堂    (県指定文化財)            

天平勝宝6年(754)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん)から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として「戒壇院」を建立されました。当初、戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていましたが、江戸時代までに3度の火災で焼失し、「戒壇堂」と「千手堂」だけが復興されました。

・「戒壇堂」は、享保18年(1733)の再建で、方5間の寄棟造りですが、創建は、鑑真の受戒のためで、堂内の戒壇中央には法華経見宝塔品(けんほうとうほん)説に基づく多宝塔が置かれて、戒壇四隅の四天王像は元来、法華堂八角須弥壇上に置かれていたようです。

IMG_0077戒壇堂【戒壇堂】

国道369号線沿いの町家

国道369号線の「転害門」から「西大門」跡間の沿線には、厨子二階・虫籠窓・両袖壁(卯建つ)・格子・出格子などを設えた数軒の町家が現在も活用されています。

IMG_0066②切妻平入り格子厨子二階虫籠窓

格子・出格子・厨子二階・両袖壁(卯建つ)・虫籠窓を設えた街道沿いの町家

 

IMG_0072②両袖壁_出格子

三間八脚 西大門

・「西大門」は、東大寺の「正門」で、その正面には「二条大路」があり、西へ行くと平城宮「朱雀門」前に到ります。「東大寺」に遺存する勅額「金光明四天王護国之寺」は創建当初のもので、「西大門」は天正11年(1583)に大風で倒壊した後は再建されていません。「東大寺寺中寺外惣繪図」には三間八脚門の礎石が描かれているそうです。

IMG_0082西大門跡【西大門跡】

 

●今回の「東大寺建造物めぐり」は、建物の建造に関する変遷を中心にして巡りました。「東大寺」創建当時からそのまま遺存している建物が極めて少なく、木造建築は天災による被害のみならず、人災(=兵火)による被害も甚大でした。

 

【参考文献】

1.県立橿原考古学研究所博物館編:「大佛開眼・東大寺の考古学」、2000

2.鶴見泰寿:「東大寺の建造物をみて歩く」、友史會報(594)、2017.

3.東大寺編:「東大寺の歴史」、東大寺ホームページ、2017.

4.東大寺編:各伽藍説明盤、2017

【第296回行事:2018年8月4日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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