◆第295回行事・アーカイヴス(2018年7月)

◆日野まち歩き =蒲生氏郷の遺した「日野商人」の町=

●日野は近江商人発祥地の一つであり、大窪・松尾・村井の三町を「惣町」として「日野町」が構成されてきました。「日野商人」は漆器(日野碗)・合薬(家庭用常備薬)・京の古着などで「持ち下がり行商」を関東・奥州で行い、を成しました。蒲生家が育てた「日野商人」の街並を探訪します。

  【コース地図(破線):国土地理院発行1:25000地形図「日野西部」・「日野東部」】

コース地図日野市街25000日野東部_西部②

(図内の左クリックにより拡大)                         

コース:近江鉄道・日野駅~(バス)~蒲生氏郷像~大窪・街並(桟敷窓)~近江日野商人館(山中平右衛門邸)*~清水・街並~若草清水~信楽院~滝之宮神社**~馬見岡綿向神社~日野中野城跡~新町・街並(桟敷窓)~日野まちかど「感応館」(正野家)~(バス)~日野駅  (徒歩区間・約7km)

◆蒲生氏郷(がもう・うじさと:賦秀ますひで)略史

蒲生家は鎌倉初期から、豊臣秀吉の天下となった天正12年(1584)までの凡そ500年間、南北朝・戦国動乱期にも武将の興亡にかかわることも無く、湖東128郷の支配者として君臨しました。

蒲生氏郷は、弘治2年(1556)に生まれ、信長による永禄11年(1568)の観音寺城攻めの折に、六角氏の武将・父・蒲生賢秀(かたひで)が敗北したため、人質として氏郷は岐阜へ送られました。岐阜においては、信長の「楽市楽座」政策、城下町経営を学び言動に優れた才能を示し、伊勢・大河内城攻めの初陣で武功があり、信長は娘・冬姫を娶らせました。結局、「人質」は1年で終わり、

・元亀元年(1570・15歳)日野へ帰らせ、父に代わり中野(日野)城主(6万石)となりました。

・元亀2年の越前朝倉攻め、天正元年(1573)の六角攻め・槙島将軍義輝攻め・小谷城攻め、同2年・長島一向一揆攻めに戦功あり、同4年(1576)、安土城築城時には資材・人夫の調達等で功績を残しました。

◇天正10年(1582)6月の「本能寺の変」直後には、父・賢秀と共に信長正室ら家族を日野へ連れ出して籠城し、光秀の招降に応じませんでした。信長の行った岐阜での「楽市楽座」制を、天正10年6月より日野城下の繁栄を図るために布き、その完全実施を目指して十二条掟を下しました。「座」制による流通禁止、蒲生領内素通り禁止、日野で1泊、持ち荷の商いを指し、商い税はなし、結果、安土城下町とともに、近江商工業二大拠点となりました。

◇天正12年(1584)6月、信長死後に仕えた秀吉が、その実力を恐れて伊勢の戦いの最中、伊勢松嶋(松坂:13万石へ倍増)に転封して、南北朝以来400年近い「日野治世」は終了しました

・後に、会津黒川(若松:最終は92万石)へ再度転封となり、文禄4年(1595)、40歳で京都にて病没しました。子・忠知は参勤交代中に病没し、後嗣なく、寛永11年(1634)「蒲生家」は断絶となりました。(天正13年にキリスト教洗礼を大坂で受けた)

日野町

◇「日野」は、「近江商人」発祥地の一つで、大窪・松尾・村井三町が「惣町」として「日野町」を形成しており、日野城の城下町として、天文年間(16世紀初め)、町割を行い上市・下市の楽市を設置して発展しました。町は日野川の河岸段丘上にのっており、細長い水田は日野川の旧河道です。漆器<日野椀>・合薬(常備薬)・京古着などの「持ち下がり行商」を関東・奥州で行い、財を成しました(後述)。

日野商人の始まり

■蒲生家断絶で困窮した家臣が50年前(1584~1634年)に出た「日野」に戻っても町は寂れ、職はなく、再度会津に職探しに出掛ける途中の路銀の足しにと、京の古着を買って向かったところ、よく売れた・・・・。即ち、経済文化の地域差・上方文化の伝搬が商売になった「持ち下り行商」が、江戸時代活躍した「日野商人」の始まりとなりました。

■関東を中心に東北まで醸造業など多種の店舗商いを行って現在も発展しており、その商人は「関東兵衛」(かんとうべえ)と言われました。「日野商人」の出店数は他地域の商人より多く、「千両貯まれば出店」・「三里四方、釜の飯を食う所に出店」と、各地に小型の店舗を拡充し、店舗間のネットワークを拡大しました。「八幡商人」は大都市に「大店」(おおだな)を張りましたが、比較的辺鄙な町に出店したので「日野の千両店(だな)」と「八幡商人」が名付けました。

日野商人_行商写真

【日野商人の行商姿:町立歴史民俗資料館

■大商人といわれたのは、山中兵右衛門(酒)、正野玄三(合薬)、中井源左衛門(合薬・麻・木綿)、矢尾喜兵衛(醸造・食料品・雑貨・絹)らで、「大当番仲間」を結成しましたが、それは商品輸送等に関する危険回避のため、情報ネットワーク、相互扶助・幕府の保護を守る組織であり、売掛金滞納を領主に訴え幕府の威光で徴収する権限を保有していました。後に、八幡、五個荘も参加し、18世紀中頃には加盟者は439人に達し、「日野商人定宿」も各地に設定されました。

日野商人定宿_看板【日野商人定宿:近江日野商人館   

■大窪にあり、御殿場で醸造業を営む山名兵右衛門の本宅で、昭和56年、日野町に寄贈され、行商品・道中具・家訓など多数展示されています。

日野椀・売薬

轆轤細工を生業とする木地師発祥地・君ヶ畑・蛭谷が日野近くの永源寺の奥にありますが、蒲生氏郷が近在に散在していた職人を城下に集めて、木地・塗り物生産「日野椀」の基礎を確立し、江戸時代初期には最盛期で200軒に及びましたが、宝暦6年(1756)の大火により、以後は衰退しました。品物は堅牢・丈夫な日常品が中心でした。

■江戸前期以後の主力商品は合薬で、正徳4年(1714)、正野玄三が「神農感応丸」(萬病感応丸)の調合に成功して発売し、寛保3年(1743)には109軒の合薬業者が出現しました。昭和18年、企業整備令下、町内約30業者が合併して「近江日野製薬」(現、日野薬品工業)が設立されて、今日に至っています。

◇日野鉄砲・玉受山

■「関ヶ原の合戦」の折には家康側に味方して300丁の鉄砲を寄進したが、使用されなかった。日野鉄砲は細筒・中筒で、種子島に鉄砲が伝来して12年後(1555年=国友鉄砲鍛冶の成立年)に日野で作られていましたが・・。

堺、国友、日野はかつて鉄砲の三大生産地で、「日野」は領主蒲生氏郷の後ろ盾のもと大きくなりましたが、氏郷が伊勢松島(松阪)・会津に移ると日野の技術力は大きく遅れ、堺と国友に大きく差を広げられ二流品と言われ、需要が少ないものでした。

■能力に関しては「国友」と「堺」と大差はなかったのですが、国友の徹底した日野排除は全国に広まり、「関ヶ原合戦」では徳川家康に多くの銃を献上するも、蔵に入れられ使われず、これは鉄砲奉行が国友と仲が良かったことも関係するようですが、全国に根付いた「二流」という噂が強く背景にありました。「関ヶ原の合戦」では日野から鉄砲を唯一購入した敦賀・大谷家が使用するも、東軍側で使われることはなかったとのことです。「玉受山」(通称)は日野鉄砲の試射の的(着地点)に使われた山(丘)です。

桟敷窓付板塀

【祭礼曳山見物用の「桟敷窓」を備えた民家(上・下)】

桟敷窓付板塀Ⅱ②

◇清水・新町の街並

■「近江商人」のふるさとを偲ぶ街並で、奥床しさが漂い、頑丈そうな板塀に、春の祭礼の曳山見物のために「桟敷窓」を設えた町家が処々にみられます。

◇若草清水

■千利休七哲の一人・蒲生氏郷が茶の湯に此処の水を使ったと伝わります。

◇信楽院  (しんぎょういん:浄土宗佛智山)

■蒲生家菩提寺で聖武天皇勅建であり、高田敬輔(山楽系の狩野永敬の門人)の雲龍の天井画があります。本堂は県指定文化財で元文4年(1739)の建立で前面に土間を持つ浄土宗本堂の特異な例です。 信楽院正門②

【信楽院・正門・雲龍天井画・氏郷遺髪塔・蒲生家歴代墓石(3葉)】

IMG_0007信楽院龍天井図IMG_0012蒲生家菩提_氏郷遺髪塔

■蒲生氏郷遺髪塔:宝篋印塔は別物の寄せ集め造られ、下から宝篋印塔基礎・同塔身・無縫塔請五輪塔水輪・宝篋印塔笠・五輪塔空風輪の積み重ねで鎌倉時代後期の作のようです。

◇滝之宮神社

■日野川近くにあった「河原社」が当地に遷座されて、境内に「滝」があるため、名付けられています。河岸段丘上を流れる、日野川の支流・出雲川方面からの水が「滝」となって段丘の崖面を流下しています。 河岸段丘下滝の宮神社河岸段丘崖下 滝の宮神社灯篭河岸段丘を下がる②

【上・河岸段丘崖と段丘上の街、中・段丘崖下の滝之宮神社付近、下・段丘を街並へ上がる石段】

馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)

■鈴鹿山脈南端の綿向山頂上に、神武天皇の時代、出雲国の開拓の祖神を迎え祀り、欽明天皇6年(545)に祠を建てたのが始まりで、延暦15年(796)「里宮」として今の地に遷祀されました。山は修験道の修行場かつ神体山で、綿向山山頂(標高1110m)の奥之宮(大嵩神社)では、古来より20年毎の社殿建替えの式年遷宮が続きます。

IMG_0017(1)【馬見岡綿向神社】

■5月初旬の「日野祭」では、十余台の豪華絢爛な山車が街中を練り歩きます。 Voliz(ヴォーリズ)建築

■住井歯科医院旧館(元日野警察分署)は、明治末期の建築ですが、昭和の初めの改装時にVoliz事務所が携わりました。 住井歯科医院旧館_元日野警察分署①③

住井歯科医院旧館(元日野警察分署)】     

日野・中野城

■大永3年(1523)に六角定頼の攻撃により前の居城・音羽城が破却された後、天文2年(1533)に蒲生定秀(氏郷の祖父)が西大路に築城し、「日野」の町割りが行われ、東西に長い米粒上の街並みで、城のある東部・西大路付近を武家屋敷地帯、西部・日野市街を町屋敷地帯とした町割を実施されました。

IMG_0018中野城址日野・中野城址】  

【参考文献】

1.サンライズ出版編:「近江商人と北前船」、サンライズ出版、2005

2.NPO法人三方よし研究所:「近江の商人屋敷と旧街道」、サンライズ出版、2005

3.野間晴雄:野外歴史地理学研究会編・「近畿を知る旅・歴史と風景」、ナカニシヤ、2009

4.今村義孝:「読みなおす日本史・蒲生氏郷」、吉川弘文館、2015

5.振角拓哉:「中野城」、仁木宏・福島克彦編『近畿の名城を歩く』、吉川弘文館、2015

【第295回行事・2018年7月14日催行、案内:荻野哲夫・宮﨑信隆、編集:宮﨑信隆

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