■第221回行事・アーカイヴス(2012年5月)

★浅井氏三代の小谷城跡・北國脇往還

●戦国時代中期に登場した「浅井家」の居城「小谷城」は、義兄弟の契りを違えて、浅井長政が盟友・朝倉家側に味方した結果、凄惨な戦場と化し「浅井家」は滅亡に至った。その歴史の舞台を歩きながら、時代の変遷を顧みました。 

◆虎御前山 ◆小谷城跡 ◆小谷城下町・伊部 ◆北國脇往還 ◆小谷寺 ◆玉泉寺 ◆田中吉政

コース:JR虎姫駅~虎御前山[織田信長本陣址・羽柴秀吉陣址・柴田勝家陣址]~小谷城址上り口~小谷城址(番所址・茶屋址・馬場址・大広間址・本丸址・赤尾屋敷址)~小谷城址上り口~小谷寺~[北国脇往還]~伊部宿跡~三川・玉泉寺~JR虎姫駅      (約12km)

コース図:国土地理院発行25000分の1地形図「虎御前山」使用(図上を左クリックすると拡大します)】
虎御前山拡大

◆虎御前山(とらごぜやま)
○元亀元(1570)年6月の「姉川の合戦」、同2年9月の「比叡山焼討」の後、小谷城を攻略するべく、南方・横山城の木下秀吉を定番とした後、同3年7月から「前線」を当山に移し、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・木下秀吉・多賀貞能・堀秀政・佐久間信盛・蜂屋頼隆らが城砦を築いた。
虎御前伝説虎御前伝説(図上を左クリックすると拡大します)】

◆小谷城跡

[浅井氏]

○小谷城を築いた浅井氏は北近江守護大名・京極氏の「被官」で、小谷山西麓の丁野(ようの)に本拠を置き、大永3(1523)年、浅井亮政(すけまさ)は京極氏相続争いに乗じて國人一揆を起こし、江北を支配し始めました。この頃、小谷城を築き始め、最初は最高峰大岳(おおづく)城(元亀3年以降)に築きました。
・江南の戦国大名(元守護)六角氏には度々攻められて敗退していますが、天文11(1542)年・亮政を継いだ久政が同22年の六角氏との戦いで敗れて、その「保護」下に置かてしまいました。久政は水利権裁定などで内政安定に努めましたが、子・賢政[かたまさ:六角義賢(よしかた)の偏諱(へんき)]は久政を隠居させた後の、永禄3(1560)年に六角義賢の北郡征伐の戦いを破った後に、「長政」と改名しました(同4年)。そして江北3郡(坂田・浅井・伊香)、犬上・愛知・高島3郡にも勢力を伸張しました。
・永禄2(1560)年~6年にはお市の方を娶り、同10~11(1568)年に長政は織田信長と同盟を結んだものと考えられています。その後、永禄11年足利義昭を擁して、長政は信長とともに上洛しました。
○元亀元(1570)年4月に信長が浅井氏の「同盟者」朝倉氏を30,000の兵で攻めたため、浅井軍は織田勢の背後から挟み撃ちを行い、信長は朽木氏を頼って京に戻りました。この時に[殿」(しんがり)を務めたのは(羽柴)秀吉でした。これは、越前が平定されれば北近江も追われることを懸念しての離反でした。
・同年6月、浅井・朝倉連合軍は兵13,000で信長・徳川連合軍の兵25,000と姉川付近で戦い、敗退しました。その2年後の元亀3年7月に同盟者・朝倉義景は大嶽城に本陣を置き、信長は虎御前山に砦を築かせて、信長はじめ柴田勝家・滝川一益・(木下)秀吉らが対峙しました。この戦を浅井・織田氏では「野村合戦」、徳川氏では「姉川合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と称していたようです。
・元亀3(1572)年12月の坂本合戦では、信長は長政、比叡山、三好三人衆、本願寺顕如、伊勢一向一揆の包囲網をつくられてしまい、信長の方が不利になったため、信長は将軍義昭に「綸旨」を奏請させて「勅命講和」をしました。
小谷城址①【小谷城址:全国山城サミット連絡協議会】
○天正元(1573)年、朝倉氏は再び湖北に侵攻し、同年8月重臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)が信長側に寝返ると支城を攻され、家臣浅見氏の寝返りで、8月12日小谷城(大嶽城)が攻略され、8月20日には朝倉軍が越前一乗谷に追撃されて滅ぼされました。8月27日には小谷城の攻撃が開始され、先ず木下秀吉が京極丸を攻略し、9月1日に長政は「本丸」に戻れず、その下の「赤尾美作守屋敷」で自刃しました(39歳)・嫡男万福丸は探し出されて10月に関ヶ原で磔刑となりました。
○小谷城は「三元的構造」(居館:麓・清水谷、本丸・大広間他:中腹部尾根、大嶽+出丸群)であったと考えられていますが、発掘調査では「焼土」は一切検出されず、「大広間」は攻略時に炎上していない、と考えられています(中井)。
P1040939桜馬場跡
【桜馬場から本丸を見る】
・小谷城の立地は、西に高時川、南に田川、前に虎御前山、背後に伊吹山系が控えた広大な小谷山の山容に築城され、小谷山の尾根と深く開析した清水谷(浅井氏・有力家臣の普段の生活の場)に広がっていました。城の主要部は主尾根(伊部山)に出丸[独立した砦。二段の曲輪と土塁で構成]、金吾丸[朝倉金吾が築いた砦]、御馬屋[三方を高い土塁で囲んだ本丸を守る曲輪]、大広間[千畳敷とも言われ、広さ85×35m、前面に4m高の石垣あり・石組蔵跡・井戸跡も]、本丸[12m高く、広さ30×25m:彦根城西の丸三重櫓に移築?]、京極丸(主家・京極氏の屋敷跡?・桝形虎口跡あり)、小丸(久政自刃)、山王丸(東側に5m高の石垣・南枡形虎口跡に秀吉が破城時に投棄した巨石あり)、六坊と連郭式に築かれ、月所丸・大嶽・福寿丸[援軍・朝倉氏が築いた]へと続いていたそうです。重要な部分は石垣を築かれ、他は土塁・曲輪(かねわ)で構成されていました。山上の大広間等は私邸として日常生活に使用され、清水谷は公邸的に使用されていました。
P1040952長政自刃地碑【浅井長政自刃の地・赤尾屋敷】

◆小谷城下町・伊 部
○小谷城の城下町・伊部は北國脇往還に沿った宿場町でありました。その様子は下記の絵図などにより遺されています。
伊部宿_家並み伊部宿家並絵図(文政年間:家数97、本陣・問屋各1):太田原図(図上を左クリックすると拡大します)】
伊部城下町小谷城城下町:太田原図(図上を左クリックすると拡大します)】
伊部宿本陣
北國脇往還側                            伊部宿本陣絵図(安永年間?):太田原図(図上を左クリックすると拡大します)】

◆北國脇往還
○「北國街道」は中山道・鳥居本宿北端の下矢倉~米原宿~長濱~速水~高月~木之本宿~柳ヶ瀬宿と続き、栃ノ木峠へ出ましたが、「北國脇往還」は関ヶ原宿~玉宿(下り*)~藤川宿(上り*)~春照(すいじょう)宿~伊部宿(下り*)~郡上宿(上り*)~木之本宿(呼称は明治6年以後)と近江北東辺をつなぎました。
[注)*4宿は「片継ぎ」で、伊部・郡上は「二宿一驛」制をとり、「小谷宿」といわれていました]
・天正11(1583)年の「賤ヶ岳の戦」の折には、(羽柴)秀吉は、余呉湖東岸の大岩山の戦いで中川清秀の討死に聞くや、大垣より13里(52km)の「北國脇往還」を二時半(ふたときはん:5時間)で駆け抜けて木之本に馳せ戻って逆襲し、勝利したことは「大返し」の一つとして有名です。
・慶長6(1601)年には、秀忠二女・珠姫が3歳で前田利常(金沢3代藩主)へ輿入れの時に伊部宿本陣に宿泊しています。また、江戸時代には北陸大名の「参勤交代」ルートとして利用されました。
注)◇五街道:東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中[江戸中心]。
◇脇街道:幕府「勘定奉行」の支配で、北国街道、北国脇往還、伊勢路、中国路、他・
◇「古代の官道は元来、直線的に設営されたが、その後、田畑の開設・宿場形成等により曲折した」(高橋美久二)
北国脇往還_地形図一部北國脇往還付近【北國脇往還・北國街道・長濱街道・小谷道太田原図(図上を左クリックすると拡大します)】

◆小谷寺   (おだにじ・真言宗豊山派如意輪山)
○もとは、泰澄大師が奈良時代に開いた山岳仏教の霊場で、小谷山六坊の一つであり「常勝寺」と称し、長らく荒廃していましたが、室町中期に改修されました。後花園天皇から「如意輪山」の勅願を賜わり、戦国時代に浅井氏とつながりを持つに至って「小谷寺」と名を改めました。三代にわたる浅井家の祈願所で、浅井家の滅亡とともに焼失しました。
○現在の小谷寺は羽柴秀吉の再建で、かつての寺地から南方400mにあります。本尊・聖如意観世音をはじめ、片桐且元の守護仏・十一面観音、両界曼荼羅双幅(不詳)、国の重要文化財の孔雀文磬(琵琶湖博物館で保管)などの宝物を所有しています。

◆玉泉寺  (三川・天台宗栄光山)
○天元4年(981)の開創で、比叡山中興の祖・慈恵大師・良源が開山しました。元三大師は正月3日に死去したことより「元三大師(がんさんだいし)」とも呼ばれています。
P1040979玉_本堂【玉泉寺本堂】
・慈恵は、宇多天皇を父に、木津氏の娘月子(つきこ)姫を母として生誕した地で、12歳から比叡山西塔で修行し、17歳で受戒、55歳の時に18代天台座主となり、74歳で没しました。
・本尊・慈恵大師坐像は、鎌倉時代の作とされ、国重要文化財です。母の看病をしていた慈恵が、寺へ戻る自分の身代りとして自ら刻んだものと伝わります。高さ約85cm、寄木造に彩色を施した木像で、慈恵の特徴の長い1本の眉毛が、鉄線で表されています。この像は、慈恵を村はずれの橋(暇ごいの橋)まで見送った後に、代って母の看病を続けた、と伝承されています。その後、織田信長の兵火によって全焼しましたが、現在の本堂は、江戸時代後期に彦根藩主・井伊氏が寄進したものです。境内には書院、経蔵、鐘楼、庫裏などが並んでいます。

◆田中吉政
○近江高島生まれで、初め浅井長政家臣・宮部継潤に仕え、織田・徳川対浅井・朝倉合戦時に、宮部と共に織田方(木下藤吉郎秀吉葉配下)に寝返りました。秀吉は一時甥・秀次を継潤の養子にしていましたが、天正13(1585)年豊臣秀次の宿老となりました。
・小田原攻め後の天正18(1590)年に岡崎城主(5万石)命ぜられて、天守を創建し、文禄4(1595)年秀次の「秀吉への謀反疑い」事件では不問に付され、同5年(1596)には10万石に加増されました。関ヶ原の戦では東軍に従い、戦後、石田三成を木之本・古橋村で追捕し、大津滞在の家康陣所まで護送しました。その功により慶長6年(1601)三河岡崎10万石より筑後柳川32.5万石に加増されました。慶長14年(1609)、参勤交代の途上、伏見の旅籠にて62歳で急逝しました。墓所は京都・金戒光明寺(2009年11月15日「15周年記念」行事で探訪)にあり、墓碑には、「前筑州都督橘朝臣正議吉政 円光院殿崇厳道越居士 慶長十四巳酉二月十八日」と刻まれています。

[参考文献]
1.中井 均:「近江の城」・「山城に住んでいた三姉妹」・滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科編『大学的滋賀ガイド』、昭和堂、2011.
2.滋賀県教育委員会編:「近江城郭探訪:合戦の舞台を歩く」、サンライズ出版、2006.
3.太田浩司:市立長浜城歴史博物館編・「北国街道と脇往還」、サンライズ出版、2004.
4.太田浩司:市立長浜城歴史博物館編・「歩いて知る浅井氏の興亡」、サンライズ出版、2008.
5.全国山城サミット連絡協議会:「戦国の山城・山城の歴史と縄張を徹底ガイド」、学習研究社、2007.
6.太田浩司:市立長浜城歴史博物館他編「秀吉を支えた武将・田中吉政」、サンライズ出版、2005.
7.羽生道英:「写真と地図で歩く・戦国武将の城跡」、新人物往来社 、2009.
8.西山卯三:「滋賀の民家」、かもがわ出版、1991.

草葺_元禄享保_虎姫中野_池野宅_西山【草葺き旧家:虎姫・中野:西山原図】

【2012年5月12日実施】

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