■第237回行事・アーカイヴス(2013年9月)

★泉大津市周辺の段丘地形

 ●大阪湾に面して広がる段丘の中でも、岸和田市、泉大津市の海岸近くに形成された段丘面を観察し、災害に関してどのような土地なのかを観ます。

◆泉穴師神社 ◆穴師山薬師寺 ◆池上曽根遺跡

コース:南海・泉大津駅~泉穴師神社~穴師山薬師寺~池上曽根遺跡~池上曽根弥生学習館~(自衛隊)~JR・信太山駅  (約7㎞)

【コース図(赤線):国土地理院発行1:25,000地形図「岸和田東部」使用(図上の左クリックにより拡大)

 コース図泉大津_25000岸和田東部説明入② 

【河岸段丘分布図(桃色:下位段丘、橙色:中位段丘、赤色:上位段丘、茶色:高位段丘):国土地理院発行1:25000地形図「岸和田東部」使用(図上の左クリックにより拡大)

237回25000地形図東岸和田断層区分鈴木_土屋131002

◆大阪湾沿岸の(河岸)段丘

・大阪湾に面して広がる、大阪府内の(河岸)段丘は、主に東方の丘陵地から流出した砂礫が堆積して扇状地が造成され、それが開析されて段丘化したものです。この地域に分布する段丘は主に4段に区分されます。古いものから高位面(茶色)、上位面(赤色)、中位面(橙色)、下位面(桃色)となり、一般に形成時期が古いほど高い位置にあり、段丘と段丘の境面は「段丘崖」で区切られています。尤も、形成期には「崖」であっても風雨により削られて斜面になっているところもあり、当地域の「段丘崖」は明瞭でなく斜面になっています。

段丘台地模式図②2【段丘・台地模式図(図上の左クリックにより拡大)

 ◇段丘地形の形成

・主に「第四紀」(約170万年前)以降の氷期・間氷期の気候の変化、海面の変化によって造成されました。即ち、間氷期に水面内に堆積した土砂が水面の低下で陸地化し段丘が形成されました。

◇段丘の種類

・段丘は周囲の河川、海及び湖に対して相対的にどのような位置に発達するかにより、①河岸段丘、②海岸段丘、③湖岸段丘に区別されます。

◇災害に対しての段丘

・「低地」(約2万年前以降に造られた土地)に比べると、段丘の形成時期は古いので、一般に地盤高は高く、地盤の強度も高いため、洪水・地震災害に対して安定した土地であるところが多い。津波に対しても安全な土地であると言える。

泉大津周辺地域・地形概念図130914

【泉大津周辺地域・地形概念図(図上の左クリックにより拡大)】

◆泉穴師神社    (泉大津市豊中町)

・『延喜式神名帳』に掲載されている和泉国和泉郡「泉穴師神社」に比定されている、和泉五社の一社で和泉国二ノ宮で、泉大津市内で最大の神社です。

・[略史]社伝では、白鳳元年(672:「麗気記私抄」等)に創建とのことですが、神功皇后の時代に創建された説もあり定説は不詳です。聖武天皇から社領(1300石)を下賜されたと伝わります[天平10年(738)・正倉院文庫]。

・貞観7年(865)に正五位下を授けられ(日本三代実録)、貞観10年に従四位下を授けられた(類聚国史)といわれています。元弘元年(1331)には、楠木正成が当社に石燈籠を奉納し、天正3年(1575)には織田信長より社領安堵の朱印状を与えられ、慶長7年(1602)には豊臣秀頼によって社殿が再建されました。明治6年に郷社に列格し、明治27年には府社に昇格しました。

・[祭神]明治12年の『神社明細帳』では天富貴神と佐古麻槌大神でしたが、明治27年の『神社明細帳』では天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:農業神)と斯う栲幡千千姫命*(紡織神)の夫婦二柱に変わり、現在に至っています。<近代になって祭神が変わることは珍しいことで、ほんとに『誰』を祀ってきたのでしょうか?>

 [*栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと):『古事記』では「萬幡豊秋津師比売命」(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では「栲幡千千姫命」、一書では「栲幡千千媛萬媛命」(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、「天萬栲幡媛命」(あめのよろづたくはたひめのみこと)、「栲幡千幡姫命」(たくはたちはたひめのみこと)と表記される]

・本殿(三間社流造・桧皮葺、慶長7年(1602)豊臣秀頼が片桐且元に命じ大修築)、摂社・住吉神社本殿(一間社入母屋造・檜皮葺・室町時代造営で大阪府内最古の神社本殿)、春日神社本殿(一間社母屋造・檜皮葺)は重要文化財に指定されています。

泉穴師神社本殿Ⅱ【泉穴師神社本殿】

 ◆穴師山薬師堂   (泉大津市我孫子)

○開山は8世紀後半と伝わり、後村上天皇の時代から歴代天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備えた泉穴師神社の神宮寺として栄えましたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の根来寺攻めの際に根来寺に味方して焼失し、現在は昭和40年に再建された小堂のみです。堂内に薬師如来像と十二神将像、四天王像(市指定有形文化財)が安置されています。  

穴師山薬師堂Ⅱ②【穴師山薬師堂】  

◆池上曽根遺跡   (国史跡・和泉市池上町)

○南北1.5km、東西0.6kmの範囲で総面積60万㎡の遺跡で、弥生時代全期間(2300~1800年前)を通じて営まれた、屈指の環濠集落です。昭和51年に環濠に囲まれた範囲を中心に約115,000㎡が国史跡に指定され、池上曽根遺跡が最も栄えた弥生時代中期(2200~2000年前)の景観を甦らせるために、平成7年に集落の中心部で弥生時代中期の大型建物井戸が検出され、史跡整備が行なわれています。

○大型建物は東西19.2m、南北6.9m(柱中心間測定値)、面積133㎡と弥生時代最大級の掘立柱建物で、26本の柱で構成されていました。直径60cmの柱の根元が腐らずに17本も遺存していました。大型建物のヒノキの柱はBC.52年に伐切されたもので、弥生時代中期の実際の年代が初めて明らかにされ、以前に考えられていた年代より100年も古くなりました。

○大型建物は壁のない高床建物の、屋根裏が二階になった「屋根倉形式」で復元され、近くで発見された土器に描かれていた弥生時代の建物の絵をもとに全体の形が決められ、広さ約80畳(135㎡)、高さ11m、床高4m、屋根面積400㎡、屋根は葦葺き、柱・桁・梁などの主要部材に和泉市父鬼町の三国山で伐切された50本の和泉産ヒノキが使用されています。階上は神の宿る聖なる部屋、階下は人が集まる場所となっていて、屋根の上には神の使いの鳥をおき、屋根の形は魂を運んだと言われる聖なる船の姿を現されています。

○建物の南側にある「やよいの大井戸」は、直径2.3mのクスノキの大木を刳りぬいて井筒にしてあり、「刳りぬき井戸」としてはわが国最大で、径2.3m・内径1.9m・厚さ20㎝で、発掘されたときも水が湧き、2000年間井戸は生き続けていたことになります。                

池上曽根遺跡いずみの高殿_和泉市 いずみの高殿

・復元井戸の深さは1.2m・井戸屋形の高さ5m、柱はクリ、屋根は葦葺きとされ、復元井筒に用いたクスノキの大木は、東大阪市から寄贈されました。
○建物や井戸の周囲には、多くの石器や土器を埋めた「祭りの場」がつくられ、その隣では青銅器や鉄器を作っていた当時の工房の跡も検出され、環濠の周辺には人々の住まいが密集し、用途によって区切られた集落の形態が判明しています。

 【参考文献】

1.和泉市教育委員会ホームページ。

2.泉大津市ホームページ。

3.泉穴師神社ホームページ。

4.熊木洋太・他:「地形学入門」、山海堂、1995.

【2013年9月14日実施】

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