■第200回記念行事・アーカイヴス・(2010年7月)

稲 荷 山 平安京造営以前からの、秦氏の「山信仰」の世界を巡る 

「平安京」設置以前より、深草・秦氏一族が深草付近を開拓し、稲梁を積んで富裕を招き[「商売繁盛」],秦伊呂具は餅を的として弓矢に興じた。その贅沢の咎で餅が白い鳥となって稲荷山に下りて、そこに稲が成り生えたので、その霊端に感謝して社を為し「稲荷社」とした。その深草「秦氏」一族の信仰を発端とする、全国数万社の「稲荷神社」の総本山の「お山」巡りを行う。 

◆伏見稲荷大社 ◆稲荷山  ◆お山巡り

コースJR・稲荷駅~伏見稲荷大社[楼門・本殿]~奥社奉拝所~根上り松~熊鷹社~三ツ辻~三徳社~四ツ辻~荒神峰~四ツ辻~大杉社~眼力社~御膳谷奉拝所~薬力社・おせき社~御釼社~石段200~一ノ峰上之社(最高点233m)~二ノ峰中之社~間之峰~三ノ峰下之社~四ツ辻~御膳谷奉拝所~三ツ辻~産場社~JR・稲荷駅  [約5km]

コース図(赤色):国土地理院発行1:10,000地形図「東山」使用(図上の左クリックにより拡大)】

稲荷山Ⅰ②

◆稲荷信仰                                                 

○日本人の宗教意識の根基にあるもので、「稲荷」は食べ物の神、食べ物=「ケ」を与えてくださる神で、その根源(先祖=ネ)、 即ち、「ケツネ」(ツ=の)です。民間宗教として残った顕著な現象で、稲荷山の「お塚信仰」と「巫覡(ふげき)信仰」(おだいさん)として存続し続けています。

◆稲荷の祭神                                  

○祖霊(先祖神・氏神・屋敷神)、御霊、穀霊(宇賀之御魂[神道における祭神]・保食神・大気津比賣・稲を荷う翁)、山ノ神(農・狩・金・祖霊・化身動物<狐>、飯綱(いづな) [イツネ←イヒツネ(飯の根)]、猿田彦神、神の乗物<馬>⇒ 初午)、田ノ神(水神・田中社・お火焚き<新嘗>)、野ノ神(畑・馬・屋敷神・園地)、屋敷神(園地・地・藁宝殿・ 藁祠)、火神(炊・照明・金工:鍛冶・踏鞴(たたら)・鞴(フイゴ)祭)、海ノ神、氏神(鎮守・村鎮守・寺鎮守)、福神(都市稲荷・福天神・棚稲荷)、茶吉尼天と、諸々の神々を祭神として祭祀場所を分けて祀っています。 例えば、山の神は「上社」[一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰]、食の神は「中社」[田中社]、水の神は下社[本社]と分かれて祀られています。

◆稲荷の祭祀対象

○霊地、霊木(験の杉:大杉社)、霊石(石座・玉藻稲荷・物集女稲荷)、古墳(稲荷山古墳・塚・狐塚・狐穴・穴守稲荷)、聖火・怪火(狐火・・)、化身動物(狐・狸・・・「神」の正身(むざね)・主神(かむざね))と様々なもの、現象が祭祀対象となっていますが、「キツネ」は「ケツネ」即ち、食の根(ウケモチ)から田畑の食物(五穀)[=保食神(うけもち)]、山の食物(果実・鹿・猪・・・)、海の食物(魚・・・)と多種多様です。

◆稲荷山                                    

○「東山三十六峰」の最南端に位置する霊峰(海抜233m)で、古くから「三ケ峰」と呼ばれて、山麓の本社に近い峰から、(西から東へ)段々に高く連なり、順に三ノ峰・二ノ峰・一ノ峰と称し、三つの峰が全国の稲荷信仰の「神体山」となっています。三ノ峰と二ノ峰の中程に間の峰、三ノ峰の北方に荒神峰が連なっており、山中には、「お塚」(下記)が群在し、参道には数千もの朱の鳥居が建ち並んでいます。「稲荷山」に登り、これらの神蹟やお塚を巡拝することを「お山する」といっています。                         

お塚                                                       

○平安時代より、人々は二月初午の日に「稲荷山」へ参詣すれば福が授かると毎年足を運びました。中世には、稲荷山の峰々が下ノ塚・中ノ塚・上ノ塚などと呼ばれ、明治になると七神蹟地が確定され、その親塚が建立され、これを契機にその周辺に個々人の信仰によって表わされた神名を刻んだ「お塚」を奉納するようになりました。それは、個々人が神徳に因んだ神名やそれぞれの家で祀っている「○○稲荷大神」の神名を石に刻んで、それを「稲荷山」で祀りたいとする信仰心(お塚信仰)の表れでした。今日その数は数万をかぞえています。

伊奈利社 創祀 前史                              

◇鎮 座                                       

○「山城国風土記」逸文には、『秦中家忌寸(はたのなかいえのいみき)等の遠祖、秦伊呂具(はたのいろぐ)は富裕だったので、餅を的にして弓矢に興じていたときに、餅が白鳥と化して飛び去り、その留った山の峰に『稲』が生じた奇瑞に感謝して社を造営し、「イネナリ」(稲生り・稲成り)から「イナリ」という社名になった』とあります。

○「稲荷社禰宜祝等甲状」(「神祗官勘文」・「年中行事秘抄」などに引用)では、『この神は、和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、秦氏の子孫が代々、禰宜・祝(ほふり)として春秋の祭りに仕えた』とあります。

○社記「十五箇條口授伝之和解」では、『元明天皇の和銅4(711)年2月壬午の日に、深草の長者・伊呂具秦ノ公が勅命を被って、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのには始まり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た』と伝えています。

○欽明天皇の即位(539/531年)前のことについて、『日本書紀』には次のように記されています:『欽明天皇がまだ幼少時に「秦大津父」の登用についての夢をみたので、使者を遣わして探し求め、山背国紀伊郡深草里にいた秦大津父(おおつち)を早速宮廷に呼び寄せ、彼を厚遇したところ、賑わいを呈するようになり、即位して彼を今の財務省に当たる重責に任じました。
○稲荷大神の鎮座は、秦伊呂巨(具)(はたのいろぐ)により、和銅4(711)年2月初午の日になった、と伝わります。

○「伏見稲荷大社」の祭神としては、宇賀之御霊神(倉稲魂神:先住氏族荷田氏奉祀の加茂別雷神?・穀物神)、猿田彦命(佐田彦神:秦氏氏神で大山咋神?・山ノ神)、大宮女命(おおみやめのみこと・大宮能賣命:秦氏氏神市杵島姫神[水ノ神・貴船神社祭神?])の三神が祀られていて、神南備山として「お山」全体が信仰対象でもあります。

○深草の里が平安京造営以前の早くから開拓されていて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見えますが、深草へ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばして、秦大津父の輩出となりました。皇極天皇2(643)年11月、蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、従臣たちは、深草屯倉に逃れるようすすめました。大津父から伊呂巨(具)に至る中間の時期に深草の里に秦氏族の存在が推定されています。

○『新撰姓氏録』[弘仁5年(814)6月編集]では、当時の近畿に居住の氏族の姓・出自等が伝承されていた1,182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に編集しましたが、渡来・帰化系氏族のうち約3分の1を占める「秦氏」の項では、中国・秦始皇帝13世孫、孝武王子孫の功徳王が仲哀時代に、また融通王が応神時代に、127県の秦氏を引率して帰化。その際、金銀玉帛等を献じ、仁徳時代にこの127県の秦氏を諸郡に分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させた、とのことです。

○雄略天皇時代に、秦公酒が、天皇の御前に「絹帛」をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったと伝わっています。[156回行事・20061022日実施

○近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられていて、雄略朝時代には多数渡来し、秦氏は絹織物の技に秀れ、秦大津父が計数に明るく、大蔵省に任官された、とのことです(前述)。
○秦大津父時代を下った山城国における秦氏の本拠地は太秦であるとされ、深草秦氏は系譜の上では太秦・秦氏、即ち松尾大社を祀った秦都理(はたのとり)の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)で、分家であるとの説もありますが、逆の説も提示されています。(加藤)

○太秦・秦氏は7世紀頃に桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時天皇家の「外戚」として勢力を伸ばしていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都や平安遷都の際に、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えました。また山背国における古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主氏族とも早くから姻戚関係を結んで、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになりました。[第156回・20061022日実施]    

○賀茂県主氏族は賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族秦氏が加茂氏と結びつき、その名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったようです。

太秦・秦氏は大宝元(701)年桂川畔に「松尾神」を奉鎮し、深草・秦氏は和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に「稲荷神」を奉鎮し、山城盆地を中心にして、加茂社と三社が鼎立する結果となったようです。

神 号                                                                                             

○「山城国風土記」逸文:イナリを「伊奈利」と記されていますが、「イナリ」はイネナリ・イネニナルの縮まったもので、人間生活の根源の稲により、天地の霊徳を象徴した古語です。「類聚国史」の淳和天皇・天長4(827)年正月辛巳の詔で、「扶桑略記」和銅6年(713)5月(甲子)の條に『諸国郡郷名著好字、又令作風土記』とあり、「風土記」の撰進のときには、すでに「稲荷」なる好字が用いられていたようで、「風土記」に「伊奈利」とあるのは、その原史料にあった古い用字法が活用されたものと考えられています。

前 身 

○明治維新までは、現在の社務所付近に「本願別当愛染寺」があり、仏教の稲荷である「茶吉尼天(だきにてん)」を祀っていて、東寺と本末関係にありました。そのため、稲荷の祭りの神輿は東寺の中門で留まり、「フトマガリ(太ま我里)の油揚げ」を「茶吉尼天」(仏教の稲荷)に供えていました(油揚げは狐の供物ではない)。

○一方、稲荷山上には多数の「お塚」が存在し、(神道より)原始宗教で祀られていましたが、石柱の「お塚」を造る以前は土盛り塚で、祖霊信仰(祖先を祀った)でした。

○稲荷大社は天皇が祀る「二十二社」に数えられており、国家の重大事・天変地異に当たり奉幣使を立てた主要社の中の一社です。平安後期に制定され、稲荷、伊勢、石清水、加茂(上、下)、松尾、平野、大原野、梅宮、日吉、吉田、祇園、北野、貴船(以上、山城國)、春日、大神、石上、大和、広瀬、龍田、丹生(以上、大和國)、住吉(河内國)、広田(摂津国)各神社(大社)です。                    

◆伏見稲荷大社                           

◆本 殿                                    

○装飾、特に『懸魚』の金覆輪や『垂木鼻』の飾金具、前拝に付けられた『蟇股』等の意匠に安土桃山時代の気風、優華さがあり、重要文化財に指定されています。

○空海は嵯峨天皇より東寺を賜り、その鎮守として稲荷神を祀りました。天長4(827)年、空海は東寺五重塔建立に当り稲荷山の木を伐採しましたが、これが淳和天皇の病の原因との占いより「従五位下」を授けて謝罪し、その後段々上進し、天慶5年(942)、「正一位」に上り詰めました。

○「正一位」は神位で最高位であり、本来、神階は神社に対して授けられるもので分祀先には引き継がれませんが、律令制の崩壊とともに分祀先でも元の神階を名乗るようになりました。特に、稲荷神の総本社である伏見稲荷大社が「正一位」であることから、そこから勧請を受けた全国の稲荷神社も「正一位」を名乗っており、「正一位」は稲荷神の異称のようになっていて、「正一位」を授かっている神は全国に多数できてしまいました。『延喜式神明帳』では「明神大社」*に列せられました。

(*「明神大社」:官幣・國幣大社中、創祀が古く、由緒あり、国家の大事に際して奉幣が行われ、名神祭に与った) 

○本殿は、明応8(1499)年、五間社流造で建立され、後に豊臣秀吉が修理しました。

◆楼 門

○天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって造営され、「大政所の大病平癒、祈願成就すれば一万石寄進」と唱えられました。神社の楼門の規模としては最大の部類です。

楼門【楼門】 

◆主な境内社としては、白狐社(命婦社)、間ノ峰荷田社、春繁社、御剱社(長者社)、おせき社、石井社、薬力社、傘杉社、天龍社、清滝社、眼力社、大杉社、荒神峰田中社、三徳社、熊鷹社、玉山稲荷社、大八嶋社、産場稲荷社、両宮社、五社相殿社、荷田社、長者社、東丸神社、藤尾社、霊魂社、熊野社があります。

◆千本鳥居

○稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」で、朱をもって彩色するのが慣わしです。崇敬者が祈りと感謝の念を奥社参道に鳥居の奉納をもって表そうとする信仰は、すでに江戸時代に興っています。

千本鳥居②【千本鳥居】

◆奥社奉拝所  (「奥の院」・命婦社)

○通称『命婦谷』といわれており、「山」の遥拝所で、「山」への登り口でもあります。三ケ峰はこの社殿の背後に位置します。

◆おもかる石(神占石)                         

○奉拝所の右奥の一対の石灯篭で、願い事の成就可否を念じて石灯篭の宝珠(頭)を持ち上げ、その時に感じる重さが、軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難いとする試し石です。

◆熊鷹社  (熊鷹池)

○鳥居、神具店の竹屋前にあり、熊鷹社にある池は新池、谺ケ池(こだまがいけ)との別称がありますが、行方知れずになった人の居場所を探す時、池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に手がかりがつかめると云う言い伝えがあります。

◆お産場稲荷                                        

○昔、狐がここでよくお産をしたそうです。狐は「稲荷神」の「神使い」とされ、お産も大変に軽く狐の安産にあやかるべく、安産を願う者は社前の燃え残りのローソクを持ち帰ると陣痛がローソクの短さで済むとか。

◆三徳社

○三つの願い事が、成就するとして信仰されるようになりました。

◆荒神峰(権太夫大神・田中社神蹟)

荒神峰_ご神体 【荒神峰】

○平安の頃より御幸辺(みゆきべ)と呼ばれ、「山」参詣の重要な経路となっており、後方より京都市中心部以北の景観が見られます。

◆大杉社

○大杉を神木とし、神が大杉に降臨し悪い病気を追い払らったり、商売繁盛、豊作、大漁などのご利益がある、とのことです。

○先祖・秦伊呂具の過ちを悔いるために、山上の社の木を抜いて家に持ち帰って植えて祀った、とのことです。即ち、山上に留まる先祖の霊を祀った、ということです。

◆眼力社  

○眼科信仰があり、眼病の完治などにご利益がある、とのことです。

眼力社Ⅱ【眼力社】

◆御膳谷奉拝所

○山の神の祭地で、「一ノ峰」・「二ノ峰」・「三ノ峰」の集まった所であり、神饌を奉げる所です。

○稲荷山三ヶ峰の北背後にあたり、往古はここに神饗殿(みあえどの)と御竈殿(みかまどの)があって、三ヶ峰に神供をした所と伝えられています。「御鐉石」という巨岩がありますが、祭祀遺跡でしょうか。

◆薬力社

○無病息災を祈願する社です。

◆おせき社                                   

風邪、咳にご利益があると言われ、葉書にしたためた祈願文が山積みになっています。セキは関所を意味し山頂の「一の峰」と山科に通じる山道の分岐点にあるので、「お関稲荷」と言われていたのが、関を風邪、咳に附合した信仰になったようです。

◆御剣社・剣石(長者社:長者社神蹟・雷石:剣⇔釼) 

○祭神は加茂玉依姫(かもたまよりひめ・旧社家秦氏祖神)d、神殿の後の大きな岩石(釼石)がご神体です。刀を造るための「火ノ神」で、古図に「釼石」とあり、稲荷山三峰と同様、古くからの神祭りの場で、力鍛冶、刃物業者の信仰が篤いそうです。

○謡曲「小鍛治」の舞台とされ、三条小鍛冶宗近が勅命を受け御剣を打ちましたが、その努力精進が神に通じ稲荷明神が狐の化身となって現れ、宗近の相打ちをつとめ、見事な宝剣を完成させたという話です。その時の名剣を鍛えるのに用いたのが、御身体の岩とか。

○一対の狛犬(狐ではない):文久3年(1863)の石造で、山中現存の石造品では最古です。

剱石社②釼石

◆石 段

「釼石」(長者社神蹟)~「一ノ峰」(上之社神蹟)間に石段が約200段あります。清少納言が「枕草子」で大変に苦しい思いをしたと書いている急勾配な石段です。石段は、坂の緩急併せて総計1400段ほどあります。

一ノ峰(末広社・上之社神蹟:「上社」の一つ)

一の峰末広社Ⅱ一ノ峰

 ○稲荷山の最高峰(標高233m)で、「末広大神」と崇める信仰の対象となっています。勾玉が出土し、石室は海石で石棺らしきものがあると伝わり、塚は古墳です。

 ◆二ノ峰(青木社・中之社神蹟:「上社」の一つ)                                  

○「青木大神」と崇められています。塚から「ニ神ニ獣鏡」(渡来型)1面、「変形四獣鏡」(国産)1面が当時の玉垣東10mから出土し、京都国立博物館に出陳されています。

◆間ノ峰(荷田社神蹟)                                    

○祭神は旧社家荷田氏祖神で、伊勢大神」と崇められ、神域入り口に建つ石鳥居は「奴祢鳥居」(ぬねとりい)と称し、額束の両側に合掌状の破風扠首束(さすつか)をはめた特異な形をしています。

間之峰荷田社 (2) 【間之峰】                           

◆三ノ峰(白菊社・下之社神蹟:「上社」の一つ)                       

○「白菊大神」と崇められていて、「変形神獣鏡」が出土しました。

[参考文献]                                  

1.伏見稲荷大社・ホームページ

2.槇野 修:(山折哲雄監修)「京都の寺社・505を歩く(下)」、PHP研究所、2007.           

3.山本眞嗣:「京・伏見:歴史の旅」、山川出版社、2003.                        

加藤謙吉:「秦氏とその民・・渡来氏族の実像」、白水社、1998                        

5.五来 重:「稲荷信仰の起源」(『京の社・神々と祭り』)、人文書院1985.                      

【終了後、有志によるささやかな「200回記念懇親会」を開催しました】

【2010年7月17日実施】

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