■第219回行事・アーカイヴス(2012年3月)

★平 清盛 所縁の地を行く 

●2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の舞台でもある兵庫の地、点在する清盛はじめ平家一門所縁の地を訪ねました

◆湊川神社 ◆電子基準点「神戸中央」 ◆荒田八幡神社 ◆雪之御所址 ◆熊野神社 ◆旧湊川・新湊川 ◆大輪田泊・兵庫津 ◆厳島神社 ◆能福寺 ◆来迎寺 ◆清盛塚 ◆薬仙寺 ◆和田神社

コース:JR神戸駅~湊川神社~大倉山公園[電子基準点]~楠荒田町遺跡~荒田八幡神社~雪の御所址~熊野神社~旧湊川~荒田公園~湊川公園~厳島神社~能福寺[兵庫大佛]~札場辻址~来迎寺[築嶋寺]~[兵庫城址]~真光寺・清盛塚~薬仙寺~和田神社~JR和田岬駅 (約10㎞)

【コース地図(赤線):国土地理院発行1:25000地形図「神戸首部」・「神戸南部」(図上の左クリックにより拡大します)

コース図神戸清盛由縁②25000神戸首部神戸南部_説明入

◆JR神戸駅

○新橋・横浜間に次ぐ、大阪・神戸間の2番目の路線として、明治7年5月11日・官設鉄道駅として開業されました。東海道本線の終点で、山陽本線の起点なので、その起点を示す「0km」ポストがホームの浜側にあります。昭和5年7月には、鉄道の高架化に先駆けて現在の駅舎に改築されました。

◆湊川神社 ○楠木正成[大楠公]を祭る神社で、「楠公さん」と呼ばれており、建武中興十五社の一社で、旧社格は「別格官幣社」。戦災で社殿を焼失し、戦後に復興されました。 湊川神社拝殿②【湊川神社・拝殿】

○楠木正成は、延元元年(1336)5月25日、九州に落ち延びて再度東上してきた足利尊氏軍を防ごうと、朝廷方は新田義貞と正成に兵庫・湊川で戦い[湊川の戦い]で殉節しました:5月23日決死の覚悟で出陣途中の摂津・桜井で子・正行[小楠公]に後事を託して別れ、同25日[現暦7月12日]兵700で会下山下に、弟・正季ら一族と布陣して殉節しました。

○応安~永和年間(1368-1379)に『太平記』が成立しましたが、墓地は以後荒廃し、文禄年間(1592~96)・太閤検地で「免租地」となり、摂津坂本村楠木正成墓所も除地*になりました(楠公墓の初見)。

[*除地:江戸時代,幕府・藩などの領主から租税を免除された土地で「よけち」ともいわれ、一般に寺社の境内地や特別の由緒あるものの所持地などに特典として認められ,検地では「縄除け」となり村高から除外されるか,除地高として記された]

○その後、正保3年(1646)・尼崎藩主・青山幸利が墓所に松・梅を植え五輪塔を建立し、元禄5年(1692)・徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」(国史跡)の石碑を建立しました。以来、水戸学者らにより楠木正成は勤皇家として崇敬され、幕末には維新志士らにより祭祀され、その崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至りました。慶応3年(1867)・尾張藩主・徳川慶勝が楠社創立を建白し、明治元年(1868)明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社の創建を命じる「御沙汰書」が下さました、明治2年、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定められ、明治5年5月24日、湊川神社が創建されました。

[祭神]    (祭神名表記:『湊川神社誌』による) ○主祭神:贈正一位橘朝臣正成公、配祀神:贈従二位楠木正行卿、贈正三位楠木正季卿、他16命。 ○本殿合祀:摂社甘南備神社(祭神:大楠公御夫人滋子刀自命)

◆大倉山公園 

○大倉財閥創始者・大倉喜八郎が、親交のあった伊藤博文の暗殺後に、自分の別荘地大倉山内に台座・銅像を再建し、市民開放を条件に土地・別荘を神戸市に寄贈して出来た公園です。伊藤博文公銅像と台座のうち、銅像は第二次大戦中に金属供出され、銅像だけが残存しています。

◆電子基準点「神戸中央」(大倉山公園内): 北緯34°41′13″.1615   東経135°10′20″.2313  標高47.65m

電子基準点例GEONET【電子基準点】

◆楠荒田町遺跡   

○昭和56~57年の発掘調査により平安時代の2本の並行する濠の一部と大型建物跡が検出され、平成15年の発掘では濠の続きと建物跡が検出されました。

◆荒田八幡神社  (兵庫区荒田町)

○元、池大納言・平頼盛(清盛異母弟・平忠盛の五男で、母は修理大夫・藤原宗兼の女・宗子[池禅尼])山荘で、治承4年(1180)6月3日の福原遷都の折、安徳天皇行在所となり境内石碑に「史跡安徳天皇行在所址」・「平頼盛り山荘址」・「福原遷都八百年記念之碑」(昭和55年・神戸史談会建立)と記されています。

荒田八幡神社【荒田八幡神社】

○祭神は應神天皇で、摂社に稲荷社があります。当社はかつて高田神社といい、荒田村字一町田に鎮座し熊野権現を祀りましたが、後に西の宝地院境内にあった八幡社を、神仏混淆をさけて、明治31年に兵庫県知事の許可を得て合祀し荒田八幡神社となりました。

○この平頼盛の別荘については、高倉上皇の「厳島御幸記」に「申の時刻に福原に着かせ給う・・、あした(あらた:荒田)という頼盛の家にて笠懸(かさかけ)、やぶさめなど仕うまつらせ、御覧せらる。日暮れ帰らせ給う」と記し、広い邸内であったとのことです。

○邸内は一段高く、昭和13年7月の神戸大水害時にも付近一帯泥水中でも島のように残り、昭和20年3月の神戸大空襲により社殿を焼失して、仮社殿を再建後、昭和60年6月氏子崇敬者により現在の新社殿が建立されました。

◆雪之御所(雪見御所)址 (兵庫区雪御所町)

○平安時代末期に摂津国八部郡福原庄(和田新京:福原京)にあった平清盛の邸宅址で、仁安3年(1168)に出家した清盛は遁世生活に入り、福原に別荘「雪見御所」を構えて日宋貿易拡大の拠点とし、高倉上皇は福原遷都の折にはこの「御所」に入りました。『山槐記』治承4年(1180)11月21日条に安徳天皇の「本皇居」を「禅門(清盛)の家、雪御所の北なり」と記しています。東に天王谷川、西に石井川に挟まれた湊山小学校一帯がその地と比定されています。 ○明治時代、礎石・土器類が発掘され、現在湊山小学校の校庭に「雪見御所旧跡」の碑が建立されましたが、昭和53年の小学校建て替えに伴う調査では平氏時代と断定出来る遺物は発見されませんでした。 ○延宝8年(1680)に、「福原遷都500年」を経て記された『福原びんかがみ』は清盛が後白河法皇を幽閉していた屋敷を『牢の御所』と記していますが、「平家物語」では「萱の御所」と記されていて、碑は薬仙寺境内に建てられています。

雪見御所舊蹟碑【雪見御所舊蹟碑】  

◆熊野神社   (兵庫区熊野町)

○清盛が「福原遷都」の際に「皇城鎮護」のため、後白河法皇の崇敬篤かった紀州・熊野権現を勧請して東向きに奉鎮したとの伝承があり、爾来、夢野の産土神として縁結び・福徳延命・事業創設の祖神として祭祀されてきました。祭神は伊弉諾命、伊弉册命で、熊野三社の祭神です。 ○大正7年に当地の地下1mより甕に入った40個ほどの貝腕輪は発見されました。

兵庫_熊野神社②【熊野神社本殿】 

◆旧湊川・新湊川  

○水源地は再度山で二級河川です。延長12㎞、流域面積35 km²の中小河川です。 現在の流路は、再度山北麓付近(北区山田町下谷上)に発して天王谷川が北区を廻り、国道428号沿いに南下して、中流域の兵庫区で石井川と合流し「湊川」となります。洗心橋付近から西流に転じ、神戸電鉄の側で会下山をくぐり(会下山トンネル)、市立神港高校の傍を通過して長田区に入り、長田商店街を横断します。長田神社方面からの苅藻川を併せてからは再び南流し長田港に注ぎます。河口東側に埋立地の苅藻島があります。

[流路の変遷]

○平安時代の「古湊川」の流路は明確ではありませんが、清盛が南流を東南流の旧流路に付替えた説があります。慶応3年(1867)に神戸が開港場となり、外国人居留地が建設されて以降、流出土砂による新港埋没問題の指摘やたびたびの氾濫により付替え議論が起こり、明治43年に石井川と天王谷川の合流点の下流・菊水橋付近から付替工事が行われ、湊川隧道を通って刈藻川に合流する、新湊川が生まれました。

古湊川・旧湊川は、平安時代は福原京の側を通っていて、南北朝時代の「湊川の戦」とし名を遺しています。かつて、洗心橋付近から兵庫港(中央区東川崎町)に向かって流れていましたが[別添図参照]、数度の氾濫によりその流路を変え、田を荒らしました(「荒田町」の名はこれに因む)。六甲山系の他の河川と同様、氾濫毎に土砂が堆積し、下流では天井川化していました。

○明治22年、山陽鉄道(現在・JR山陽本線)が兵庫駅から鉄道省線(現在・JR東海道本線)・神戸駅に延伸・接続する際に、その線路を天井川である湊川の地下に鉄道トンネルを開削しています。明治29年に大洪水を起こしたため、明治34年から新湊川の開削工事を行い、大水害と神戸港への土砂流入防止のため、下流部が苅藻川水系につながる現流路を開削しました。旧流路は治水のために埋めて「荒田町」となり、神戸電鉄湊川駅より下流は「新開地」と名づけて繁華街として発展しました。現在の新開地駅より下流は周辺の標高まで土砂を除去して整地し、山陽鉄道のトンネルも削去されました。国道2号に湊川一丁目交差点を頂とした勾配などの跡は遺存しています。

○平成7年1月17日の 「阪神・淡路大震災」で湊川隧道が大規模に損壊したため、平成10年~11年には、湊川隧道の移設・拡張工事のための水路の暫定的狭小化と集中豪雨による増水が重なり、大洪水が発生しました。明治34年の付替えの起点となった荒田町で、旧水路側(付替え起点から直線方向)に水が流出し、同地域に存在する商店街が水害を受けました。

○平成12年12月・会下山トンネル[湊川隧道]に替わる新トンネル[新湊川トンネル]を旧トンネルに平行して施工して、現在通水しています。

大輪田_兵庫津足利_拡大旧湊川流路(南直下流と東南流)と兵庫津候補地域:足利原図(図上の左クリックにより拡大)】

◆兵庫津・大輪田泊   [中世の Hub-Port]

○開港は天平年間(729~749)で、行基が設置した「摂播五泊」(室生・飾磨(福泊)・江井崎(魚住)・河尻(神崎)の中の一カ所「大輪田泊」から始まりました。

○清盛の時代としては、応保2年(1162)の「平治の乱」に勝利した清盛は土地調査に名を借りて摂津國八部郡の荘園を押領し、「大輪田泊」も管理下としました。仁安2年(1167)・清盛は「太上大臣」に就任し、嘉応元年(1169)・清盛は同職・六波羅館を重盛に譲り、兵庫・上祇園町の館に移居しました。翌嘉応2年(1170)・約300年の鎖国状態を抜けて、清盛が宋船を直接入港させ「(密)貿易」開始しました。淀川河口港は水深浅く不可能だったからです。当「泊」は風波による浸食が大きかったので、承安3年(1173)~安元元年(1175)に清盛は人口島「経ヶ島」を築造したり、以後も定期的な修築が必要でした。

◆荒田公園  (兵庫区荒田町)

○「阪神淡路大地震」前は有料の野球場で、現在は地下に有料の駐車場が整備されて、自由に使用できる多目的広場を中心とした公園になっています。

◆湊川公園  (兵庫区)

○洪水防止のために、天井川であった湊川を現在の会下山トンネル経由の流路の切り替えた後の旧河川敷を埋め立て、明治44年に開園しました。南北に長い台地状になっていて、橋梁状の湊川トンネルで山手幹線を跨ぎ、公園から南側の旧河川敷は掘削して「新開地商店街」となっています。 ○大正13年~昭和43年には園内に神戸タワーがあり、昭和3年に公園の地下(周囲の地平と同一面)に神戸有馬電気鉄道(現・神戸電鉄)湊川駅が設置されました。公園内に楠木正成像、神戸タワーを記念したカリヨン時計塔などがあり、山手幹線の道路下に地下鉄・湊川公園駅があります。

◆厳島神社    (兵庫区永沢町)

○祭神は市杵島姫命で、治承4年(1180)、「福原遷都」の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰している安芸・厳島神社をこの地に勧請しました。「福原京」の周り七つの地に厳島神社を勧請したので、「七弁天」と呼ばれ花隈(はなくま)、佐比江(さぴえ)、西宮内(にしみやうち)、夢野(ゆめの)、真野(まの)、渦輪(うずわ)とこの社となっています。他の弁天社が神社や寺と併祀しているのに対し、ここのみが独立していたため、渦輪にあった弁天社を合祀して存続しています。

兵庫_厳島神社拝殿②【厳島神社・拝殿】 

○元禄5年(1692)の「指出帳」には厳島弁天女社、増福寺支配とあって、除地になっています。

◆淡嶋神社:厳島神社境内に合祀されている医薬の道を始めた祖神で、病気平癒の神徳がある夫人の守り神といわれています。

◆能福寺    (天台宗・宝積山[ほうしゃくざん]:兵庫区北逆瀬川町)

○本尊は秘仏・薬師如来ですが、寺伝によれば、延暦24年(805)に帰国したばかりの最澄(伝教大師)により「能福護国密寺」として創建され)、日本最初の密教教化霊場と称されました。平清盛が剃髪出家して「淨海入道」となった寺で、治承4年(1180)には福原京遷都計画にともなって平家一門の祈願寺に定められて、大伽藍が建設され隆盛しました。 ○養和元年(1181)清盛の死去後、その遺言により、住職・円実法眼が当寺法華堂に納骨した、あるいは当寺領内・太平山八棟寺の平相国廟に亡骸を埋納した、との説があります。

○興国2年(暦応4年・1341)に兵火で七堂伽藍全てを焼失し、慶長3年(1599)・明智光秀家臣・長盛法印が再興したとのことです。寺格は旧院家(いんげ:明治初期まで京都・青蓮院門跡の院家:門跡不在時の代理を務める格式:幼少門跡に礼儀・作法・学問を師範)でした。 ○当寺には、十三重石塔で、平清盛供養塔である「平清盛廟(平相国廟)」(昭和55年清盛800年忌に再造)、鎌倉期の作といわれ、円実方眼[当寺住持で清盛の剃髪出家の師匠]のものといわれている「宝篋印塔」、清盛弟で、教盛長子・忠快法印(円実方眼の弟子、当寺住持となった)のものといわれる「九重石塔」、木造で9世紀初めの作といわれる国重文の「十一面観音立像」などがあります。                            OLYMPUS DIGITAL CAMERA  

【平相國廟】

 

 

 

 

 

◇兵庫大佛 

○明治24年、豪商・南条荘兵衛の発願・寄進により、大仏を建立しましたが、昭和19年の金属類回収令で国に供出されました。それまでは日本三大大仏の一つに数えられました。その後、平成3年に再建されました「毘廬舎那仏(光明遍照)像」で重量約60t、像高11m、蓮台と台座を含めて高さ18mの坐像です。

◆札場辻跡 (兵庫区本町・南仲町の境)

 

【道標:札場辻】 兵庫津宿_札場辻跡

○「兵庫津宿」の中心地で、「湊口惣門」から入った西国街道がこの「辻」で大きい右へ曲がり。「柳原惣門」へ抜ける、その角に「高札場」がありました。ここで、町人へ幕府の法令や布達を掲示しました。

○「兵庫津」の「札場」は南仲町、「津」の東西入口の湊口惣門(東)、柳原惣門(西)、来迎寺[築島寺:元禄9年(1696)の絵図では寺前から西へ海が入り、門前の築島橋橋詰に高札場があった]に設置されていました。南仲町は「宿」の神明町の本陣にも近く、宿場の中心地でした。明治元年に廃止されましたが、新政府に引き継がれ「太政官」の名前で掲示されました。

◆来迎寺[築嶋寺]   (浄土宗西山派・経島山:兵庫区島上町)

○「兵庫津宿」の4カ所の札場の一カ所が設置されていました。以前は北西方の三川口にあり第二次世界大戦の空襲後移転しました。寺伝では、清盛が承安年間(1171~75年)に南東風の風除けのための「経ヶ島」を築造した時に、工事が進まないため小姓・松王丸(17歳・讃岐香川領主大井民部の子)が人柱となり応保元年(1161)に島が完成しましたが、二条天皇はその弔いのため念仏の道場としました。境内にその供養塔、白拍子・祇王と祇女の五輪塔があります。 ○天正8年(1580)の花隈城攻めの折、雑賀勢が陣取り織田側に強く抵抗したところです。

○昭和20年の神戸大空襲で焼けましたが復興されました。

祇王祇女墓_築島寺②【白拍子・祇王と祇女の五輪塔:築嶋寺】 

◆真光寺   (時宗・西月山;兵庫区松原通)

○仁明天皇(833~850年)時代に恵萼が唐より観世音を持ち帰った折、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりといわれています。

○承元元年(1207)法然が讃岐へ下向時に立ち寄り大衆を教化したところで、建治2年(1276)・時宗開祖・一遍がこの観音堂に住して中興の開祖となり、正応2年(1289)8月・一遍がここで没してその廟があります。「踊り念仏」で全国を遊行しました。

◆清盛塚   (兵庫区切戸町)

○石製十三重塔としては全国3番目の大きさで、「兵庫運河」に架かる「清盛橋」の袂にあり、高さ約8.5mで、以前、現在より南西11mの場所にありましたが、大正12年に市電松原線の道路拡張工事の際、現在地に移転しました。その際の解体調査の結果、清盛塚は長い間、平清盛の遺骨埋葬墓と考えられていた墳墓ではなく、弘安9年(1286)に北条貞時*により建てられた供養塔と判明しました。

[*鎌倉幕府9代執権・在職:弘安7年(1284)~正安3年(1301)]   

○同時代の花崗岩製十三重塔の中で、般若寺・宇治川浮島のものと比し加工不十分とはいえ、硬くてそれ以前は加工出来なかった花崗岩を宋から渡来した伊氏石工集団の鏨(たがね)技術により造立できました。

○「琵琶塚」は、元は前方後円墳の墳石で、形状から平敦盛の兄・平家物語の琵琶の名手・平経正に結びつけ、琵琶塚(経正塚)と呼ばれるようになりましたが、大正12年に「清盛塚」とともに現在地に移転しました。 清盛塚琵琶塚②【清盛塚】

◆兵庫城・兵庫津   (兵庫区中之島[摂津国兵庫津]周辺)

兵庫城推定地②【兵庫城推定域】 

○摂津国「兵庫津」(兵庫区中之島)周辺にあった城で、尼崎藩時代には「兵庫陣屋」と呼ばれ、奉行が置かれ、明治時代には兵庫県庁がありました。通称・池田(古)城、片桐陣屋、兵庫陣屋ともいわれました。 ○城郭構造は平城・海城で、天正9年(1581)池田恒興が築城し、主な城主には池田恒興、片桐且元で、明和6年(1769)に廃城となりました。

○天正7年(1579)11月、有岡城の戦いで、荒木村重が織田信長に謀反を起こしましたが、結局有岡城は落城し、同8年7月、花隈城へ落ち延びた荒木村重と花隈城の戦いとなり、織田信長軍の武将・池田恒興(信輝)・輝政父子の活躍により、花隈(熊)城も落城し、その功により織田信長より池田恒興は兵庫の地を与えられ、摂津国大守になりました。しかし、天正9年、恒興は花隈城には入城せず、その石材等を利用して湊川の支流が縦横に走る「兵庫津」に築城し、「総構型」に近い城下町構造をとり、表道に面して短冊形の町割りが造られました。同11年、池田恒興は2年で美濃国大垣城に移封、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城し、呼称も「兵庫城」から「片桐陣屋」と称されていました。同13・15年には「兵庫津」を秀吉は兵站港として紀州・薩摩攻めに利用しました。

摂州八部郡福原庄_兵庫津絵図摂州八部郡福原庄・兵庫津絵図・元禄9年(1696):神戸市立博物館(図上の左クリックにより拡大)】  

○慶長12年(1607)に朝鮮使節が招かれ、館の周りには堀、三重の門があったようです。朝鮮使節は合計12回実施されましたが、その内11回は「兵庫津」に寄港しました。元和元年(1615)・大坂城落城後は尼崎、兵庫津一帯は尼崎藩領となり、「兵庫城」址に陣屋(兵庫津奉行所)が設置されました。寛永13年(1636)、「湊口惣門」(東側)が湊八幡神社近くに、「柳原惣門」(西側)が蛭子神社付近に設置され、明和6年(1769)の「上知令」*により「兵庫津」一帯は天領となり、「兵庫城」址の陣屋は大坂町奉行所の与力・同心の「勤番所」に改変されました。

[*「上知令」:1840~70年代にかけて江戸幕府や明治政府が発した土地没収命令。上地令とも表記された]

○明治元年・「兵庫鎮台」が設置され、その後に「兵庫裁判所」に改変され、更に初代「兵庫県庁」となり、県令・伊藤博文が赴任しました。明治6年に残っていた外郭の土塁が市街地開発で撤去され、明治8年には兵庫港の大改修と兵庫新川運河の造成で破壊されてしまいました。

○「兵庫城」は、湊川の支流が多数走り、天然の堀の役目を果たし、前面は港を持つ防御の拠点となった「海城」として整備され、花隈城の石材等の一部を用いて天守閣を備えた城を築き、城の入口「柳原惣門」は兵庫の町の北部、「扇の要」的位置で「柳原惣門」を囲むように福海寺が配置され、枡形を構成していました。中央には堀で囲まれた「御屋敷」があり、本丸跡のような約140㎡の広さがあり、堀幅は3mで石垣と土塁で防備していたと推定されています。城北側には城下町が形成され、街道筋に多くの社寺が配置された寺町となりました。北に佐比江、南に須佐入江、周辺は土塁と逆瀬川で囲み、「兵庫津」の全体として南北2.7km、東西700mからなる城塞都市でありました(『摂州八部郡福原庄・兵庫津絵図』(元禄9年(1696)作製)・『兵庫津絵図』(元禄4年刊)より)。当時の絵図には三川口町・門口町・船大工町・鍛冶屋町・磯之町・出在家町など現存の町名も記載されています。宝暦2年(1752)の『兵庫津外輪堤麗絵図』では、町の外側に延長1364m、幅3.6~14.5mの高い土堤が築かれ「都賀堤」と呼ばれていたようです。

◆薬仙寺    (時宗・医王山:兵庫区今出在家町)

○山号・寺名は後醍醐天皇が隠岐よりの帰途、兵庫の福厳寺に泊まったとき、ここの霊水を服用薬に奉り、病が回復したので天皇が山号を下した、との伝承によります。寺伝では、千憎寺塔頭の一つで、天平年中(729~748)に行基の開山と伝承されていて、天平18年(746)に日本で最初の施餓鬼会修法*を行った寺です。

[*施餓鬼会:釈尊に教えを請い、寿命を延ばすことのできた阿難の説話にもとづく行事で、その求めに応じて釈尊が示された修法(密教で行う加持祈祷の法)が施餓鬼会の始まり]

○延文年中(1356~60年)に京都の霊山国阿(時宗8世)が中興し、時宗に改宗しました。福聚庵・普照院・荷松院・慈眼院・大光院・世尊院・全真庵の坊舎七字のうち、現在は普照院のみが遺存しています。現在の本堂は昭和48年に再建されたもので、昭和20年の「神戸大空襲戦没者慰霊碑」があります。

○本尊・「木造薬師如来坐像」は平安時代の作といわれ、一木造りで国指定重要文化財(昭和15年指定)です。また、「絹本著色施餓鬼図」は朝鮮王朝時代の作で国指定重要文化財です。

◇「萱の御所跡:境内にある「御所跡」は福原遷都の際、清盛が後白河法皇を幽閉した跡で、「牢の御所」とも呼ばれていました。以前、寺北方にありましたが、昭和28年の運河拡張工事の際、現在地に移しました。

◆和田神社 (兵庫区和田宮通3丁目:「和田宮」ともいわれます)

○由緒:太古に蛭子大神が淡路島から船で本州に到着したところを「蛭子の森」といい、現在の神社より西南約800mのところで、元々の神社の場所でしたが、承安3年(1173)・平清盛が、兵庫津の築港工事に難渋してその無事完成と将来の繁栄を祈願して、安芸・宮島より市杵嶋姫大神を勧請しました。 ○万治元年(1658)・大水害による武庫川の堤防決壊により岡太神社の天御中主大神の坐す神輿が流れ着き、種々の神異をあらわしたので、当時の尼崎城主が天御中主大神を主神とした社殿を造営して南濱総氏神として、「和田明神」と呼ぶようになりました。明治34年に国策の近代化のための造船所建設により現在地に移転しています。祭神は天御中主大神*、市杵嶋姫大神、蛭子大神の三神です。

[*天御中主大神:日本神話に登場し、天地創造に関わった五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱。天地開闢の際に高天原に最初に出現した神(「古事記」)で、性別のない「独神」(ひとりがみ)] 

和田神社【和田神社】  

[参考文献]  

1.橘川真一他編:「ひょうごの城」、神戸新聞総合出版センター、2011.

2.歴史資料ネットワーク監修:「兵庫城築城のころの兵庫」、神戸市兵庫区まちづくり推進部、2010.

3.神戸新聞「兵庫学」取材班編:「ひょうご全史」(下)、神戸新聞総合出版センター、2006.

4.兵庫県の歴史散歩編集委員会編:「兵庫県の歴史散歩」(上)、山川出版社、2006.

5.藤田明良:「清盛塚石塔と鎌倉時代の兵庫津」『歴史のなかの神戸と平家』、神戸新聞総合出版センター、 1999.

6.橘川真一編著:「兵庫の街道・いまむかし」、神戸新聞総合出版センター、1996.

[補遺]平清盛墓地候補地は次の5カ所といわれています:

①宝積山能福寺:神戸市兵庫区北逆瀬川

②清盛塚(供養塔):神戸市兵庫区切戸町

③補陀洛山六波羅蜜寺平清盛塚:京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町

④嵯峨山大覚寺(塔頭)祇王寺供養塔:京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町

⑤清盛塚:山口県下関市彦島

【行事:2012年3月18日実施】

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