◆第294回行事・アーカイヴス(2018年6月)

★第294回・京街道  =山科から伏見へ=

 ・大津宿を出た「京街道」は、山科盆地、稲荷山の南麓を通り伏見へと向かいます今回は椥辻駅から小野小町ゆかりの随心院、花菖蒲が見頃の勧修寺、紫陽花が美しい 藤森神社などを巡り、丹波橋駅まで歩きます

コース地下鉄・椥辻駅*~岩屋神社*~大宅一里塚跡~歓喜光寺~醍醐天皇後山科陵~随心院*~(風呂尻児童公園**)~八幡宮~宮道神社~勧修寺*~(バス・旧大津街道・京街道)~深草谷口町~仁明天皇深草陵~藤森神社*~電子基準点~墨染寺~欣浄寺~墨染発電所~近鉄・丹波橋駅 [徒歩区間:約10.7km] 

【コース地図(醍醐~伏見):国土地理院発行1:25000「京都東南部」】

コース地図Ⅱ山科醍醐伏見25000京都東南部

(図上の左クリックにより拡大)

◇岩屋神社 (山科区大宅中小路町)

■地下鉄・椥辻駅より東名案等約1㎞の府県境の山裾にあります。

■当社の祭神は、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の夫婦二柱と、その皇子・饒速日命(にぎはやひのみこと)の親子三柱で、その根源は、奥之院、また「岩屋殿」と称する当社後背山の山腹に座す陰陽の両巨巖です。これは定まった参拝設備のなかった時代の石座(磐座)信仰の名残で、発祥は仁徳天皇三十一年(343年)と伝わります。後年、宇多天皇時代の寛平年間(889~898年)に陽巖に天忍穂耳命を、陰巖に栲幡千々姫命を、また岩前小社に大宅氏の祖神として饒速日命が祀られましたが、社殿は治承年間(1177~81年)に園城寺僧徒によって焼き払われ旧記も共に失われました。弘長2年(1262)に漸く社殿が再建され、現存の古代木製高麗狛は当時のものです。

岩屋神社岩屋神

■中世に東・西・上の岩屋三社と呼ばれた神社は、東が当社であり、西が山科神社、上は不明とのことです。

◇大宅一里塚    山科区大宅甲ノ辻町)

■「京街道」が名神高速道路を南方へ潜る交叉点角に遺存します。

■本遺蹟は奈良街道の一里塚で,市内に残る唯一のものです。もと街道の両側にあった塚のうち,西側のものが遺存し,直径4~5m,高さ1.8mあります。塚上には樹高約11mのエノキが植えられている。

■一里塚は街道の両側に一里(3.75km)毎に目印として築かれた塚で,慶長9年(1604)に徳川家康が諸街道の整備とともに,塚上に榎を植えた一里塚の築造を命じたことが知られています。

IMG_0006大宅一里塚跡大宅一里塚跡

◇歓喜光寺 (時宗・紫苔山河原院・山科区大宅奥山田)

■時宗六条派の本寺で、本尊は阿弥陀如来です。開山は聖戒で、「六条道場」ともよばれます。開山・聖戒は宗祖・一遍の高弟で、一遍の諸国巡礼に随伴した僧であり、一遍の実弟ともいわれています。

■「歓喜光寺」は、正応4年(1291)、綴喜郡八幡(現・八幡市)に「善導寺」として創建され、正安元年(1299)、関白・九条忠教の庇護のもと、六条東洞院の左大臣・源融の旧跡(六条河原院)へ寺地を移すと共に、長保5年(1003)に菅原是善(道真の父)の旧邸・菅原院跡地から当地に移転していた「歓喜寺」を合祀し、寺号を「歓喜光寺」に改め、所在地から「六条道場」とも称されるようになりました

■応仁の乱(1467~77年)の後、本寺は高辻烏丸に移転し、天正15年(1587)に豊臣秀吉により四条京極へ移転させられて、近世を通じて同地にありました(現・新京極四条上ル)。その後、明治40年(1907)に「法国寺」と合祀され、その所在地・東山区遊行前町(五条通東大路)に移転しました。さらに、昭和50年に現地に移転した。

■国宝・絵巻『一遍上人繪傳』(12巻)は、もと当寺に伝来したものですが、20世紀末頃に「清浄光寺」(時宗本山・藤沢市)の所有になり、国立博物館(京都・奈良)へ寄託されています

IMG_0007歓喜光寺歓喜光寺

◇醍醐天皇・後山科陵(のちのやましなのみささぎ・伏見区醍醐古道町)

■笠取山の西麓にある、第60代・醍醐天皇(在位897~930年:父・宇多天皇)陵は円墳で、石卒塔婆三基が設えてあります。

■元慶9年(885)、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれましたが、仁和3年(887)、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列しました。

■寛平元年(890)・親王宣下、同2年に敦仁に改名し、同5年立太子、同9年7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位となりました。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左・右大臣とし、政務を任せ、治世は34年に亙りました。摂関を置かずに形式上は「親政」を行って業績を収めたので、後代になってこの治世は「延喜の治」として言われるようになりました。

■昌泰4年(901)、藤原時平の讒言を容れて菅原道真を「太宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷した「昌泰の変」は、「聖代の瑕」とも評されてきました。

P1140250醍醐天皇陵【醍醐天皇・後山科陵】

■醍醐天皇は中宮・藤原穏子との長子・保明親王を東宮とし、その御息所に時平の娘・仁善子を入れましたが、延喜9年に時平が死に、2年後には保明親王も21歳で早世し、そのため仁善子の子・慶籟王を皇太孫としましたが、2年後やはり5歳で死去しました。

一連の不幸は「菅原道真の怨霊」の仕業と噂されたため、延喜23年(923)になって醍醐天皇は菅原道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めました。

■醍醐天皇は、和歌にも力を入れ、延喜5年(905)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じ、自身も和歌を良く作り、自家集『延喜御集』も編みました。

■醍醐天皇陵は、醍醐寺が古来管理してきたので、治定名(=醍醐天皇陵)と一致する数少ない陵の一基といわれています。

◇随心院   通称「小野門跡」・真言宗善通寺派「大本山」:「総本山」は善通寺・山科区小野

■「随心院」は、正暦2年(991)仁海(にんがい)僧正が一条天皇から寺地を下賜され、創建した「牛皮山(ぎゅうひさん)曼荼羅寺」の塔頭でした。

■「曼荼羅寺」は第5世住持・増俊(中興開山)時代(12世紀前半)に「曼荼羅寺」塔頭の一つとして「隨心院」が建てられ、真言宗小野流の大道場として栄えましたが、昭和6年に改称して善通寺派大本山となりました。

■東寺長者・別当を務めた7世親厳(1151 – 1236)の時、寛喜元年(1229)に後堀河天皇の宣旨により「門跡寺院」となりました。多くの伽藍が建造され、数カ国に寺領を有しましたが「応仁の乱」によりほとんど焼失しました。本堂は慶長4年(1593)に再建されました。

IMG_0011随心院【随心院・中庭】

■伝承では、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知り、その牛を飼育したが程なく死にました。それを悲しみその牛皮に両界曼荼羅を描き、本尊としたことに因み名付けたと伝わります。本尊は如意輪観音で、当寺のある小野地区は、古代豪族・小野氏の根拠地とされ、また小野小町ゆかりの寺でもあります。

◇吉利俱(きりく)八幡宮   (山科区勧修寺御所内町)

■「吉利俱八幡宮」は、文徳天皇(在位:嘉祥3年(850)~天安2年(858))時代に鎮護国家の霊場とすべく、社殿を創建し「八幡」を勧請され、神仏習合の時代は勧修寺の鎮守でもありました。祭神には、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀り小野の産土神です。かつては王臣家の崇敬深く、参詣者は五穀豊穣・平穏無事を祈願してきました。
■現在の八幡宮本殿は元禄8年(1695)に再建され、(京都市指定文化財)拝殿は山階宮家の寄進によるものです。

◇宮道(みやじ)神社 (宮道大明神、二所大明神・山科区勧修寺御所内町)

■創祀は寛平10年(898)とされており、平安時代初期に宇治郡を本拠としていた宮道氏が、祖神・日本武尊・稚武王を祀ったことに始まります。山科神社と同じ祭神を祀り、『山城名跡志』や『神祇志料』では、延喜式内社にある宇治郡山科神社に比定されています。
■宇治郡司・宮道弥益の邸宅へ訪れた藤原高藤(正三位・内大臣)が、弥益の娘列子を見初めて授かったのが胤子で、胤子は宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を産み、宮道氏は皇室や藤原氏の庇護の下に栄えた。胤子が亡くなった後、醍醐天皇は弥益邸を菩提寺として建て替え、「勧修寺」と名付けています。祭神には、宮道氏の祖神・日本武尊、その子・雅武王(わかたけおう)を祀ります。

IMG_0012宮道神社【宮道神社】

◇勧修寺(かんじゅじ・かじゅうじ:真言宗山階派大本山・亀甲山)

■「勸修寺」は、昌泰3年(900)頃、第60代・醍醐天皇の生母・藤原胤子(宇多天皇女御・藤原高藤の娘)の菩提を弔うために、天皇の外祖父・宇治郡大領・宮道弥益(みやじいやます)邸跡に当寺が創建されたもので、醍醐天皇の勅願寺であり、開基は承俊律師(東大寺出身・法相宗僧)と伝わります。

■本尊・千手観音は醍醐天皇の等身大ですが、延喜5年(905)より門跡寺院(定額寺)となり、南北朝時代、後伏見天皇第7皇子・寛胤法親王(1309~1376年)が15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺しました。

IMG_0016勸修寺_氷室池花菖蒲

【勧修寺・氷室池花菖蒲・観音堂】

IMG_0013観音堂_勸修寺

■文明2年(1470)の「応仁の乱」の兵火で焼失して荒廃し、文禄3年(1594)秀吉からの伏見城築城の協力要請を拒否してために、寺領の大半を失いましたが、それでも現在約7000坪の境内を維持しています。その後、元禄10年(1697)に明正天皇の旧御殿が移築され、宸殿、書院(重文)となっています。

■国宝「刺繍釈迦如来説法図」(奈良国立博物館蔵)は「勧修寺繍帳」とも呼ばれ、庭園は、氷室の池を中心とする池泉回遊式(平安・浄土形式)で、書院前庭には水戸光圀の寄進と伝わる雪見石灯籠があり、「勧修寺形」変種の灯籠として知られています。

大津街道 (伏見街道)

■現在の「大津街道」は府道であり、行き交う車の列は難なくなだらかな峠道をどんどん越えていきます。「京都東山」を伏見付近の低い峠道で横断する街道で、大津宿と伏見宿を結び、「東海道」・「京街道」の一部を成しており、「伏見街道」とも呼ばれていました。

P1140237旧大津街道

【旧「大津街道」・府道35号線】

■伏見区深草大亀谷・谷口から勸修寺を経て大津市に入る道で、全長約17㎞あります。

江戸時代には参勤交代途中の大名行列は京都市中の通過を禁じていたので、伏見宿から大津宿へ向かう道でした。起点・終点としては伏見京橋北詰とされ、近くに本陣・傳馬所(南浜)がありました。

旧大津街道付近仮製地形図明治30年20000伏見 醍醐寺Ⅱ②

【旧「大津街道」(京街道・太破線):陸地測量部発行二万分一之尺仮製地形図(明治30年修正)「伏見」・「醍醐村」】

(図上の左クリックにより拡大)

■東海道の京都中心部を通らず、現在の滋賀県道・京都府道35号大津淀線に当たります。

大津宿までの「東海道」と「大津街道」、伏見宿から大坂までの街道を総称して「東海道五十七次」(伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿を加える)ともされており、参勤交代の西国大名が都に入り、朝廷と接触することを嫌った江戸幕府が造ったと伝わります。

◇仁明天皇・深草陵  (深草東伊達町) 

■第54代仁明天皇(在位:天長10年(833)~- 嘉祥3年(850))は、父・嵯峨天皇(在位809~823年)の死去後、山陵祭祀を復活させました。自身の陵墓(寺)は不詳ですが、北方・深草瓦町の善福寺周辺がその推定地となっています。

P1140238仁明天皇陵【仁明天皇・深草陵】

◇藤森神社  (伏見区深草鳥居崎町) 

■「藤森神社」の創建は、平安遷都以前に遡り、平安京を都に定めた桓武天皇により都の南(午)を護る「大将軍社」が設置されました。祭神は、本殿中央(中座)は素盞鳴命、別雷命(=上賀茂神社祭神)、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の七柱で、神功皇后が摂政3年(203)、新羅より凱旋の後、山城国深草の藤森を神在の聖地として撰び纛(とう:竿の戦端につけた黒い毛房飾り)旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされたのが当社の起こりと伝わります。

■現在、本殿東にある旗塚がその塚で、延暦13年(794)、桓武天皇より「弓兵政所」の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われたと伝わります。

■本殿東殿(東座)の祭神は、舎人親王、天武天皇の二柱で、本殿西殿(西座)の祭神は、早良親王、伊豫親王、井上内親王の三柱です。

IMG_0088藤森神社西鳥居②【藤森神社・西鳥居】

◇京都伏見電子基準点(標高34.4m (基準点コードEL05235364102・国立京都教育大学構内北端) 

■国土地理院のGEONET(GNSS連続観測システム)で得られた電子基準点観測データや解析結果値を提供しています。

 ◇墨染寺  (ぼくせんじ・日蓮宗深草山・深草墨染町) 

■貞観16年(784)の創建ですが、豊臣秀吉により復興された寺で、本尊は十界大曼荼羅です。

■第56代・清和天皇(850~881年・在位は天安2年(858)~貞観18年(876))の勅願により、摂政・藤原良房が建立した元号寺院の「貞観寺」(じょうかんじ)が前身と伝わります。良房の娘・明子の産んだ惟仁親王(清和天皇)の加護のために建立されたたとのことですが、 その後、衰えました。

■門前には旧「東海道」が通じており、元禄年間(1688-1704)、近くに墨染遊郭が賑わい、また、橦木町(夷町)、柳町(泥町)、稲荷中之町、中書島にもありました。

■天正年間(1573-1591)、あるいは16世紀(1501-1600)後半ともいわれ、豊臣秀吉は寺領1000石の土地寄進を行い、大僧都・日秀上人により建立されました。秀吉の姉・瑞龍尼(日秀尼)が法華経に帰依したのを契機として、寺号も法華本宗・墨染桜寺(ぼくせんおうじ)と改めたとも伝わり、当時は御成間御殿、7子院・塔頭を有し、秀吉が寺を度々訪れたそうです。

IMG_0019墨染寺【墨染寺境内:日蓮像

◇欣浄寺  (ごんじょうじ・曹洞宗清涼山・伏見区西桝屋町)

■境内に少将塚、小町塚、深草少将姿見の井戸(涙の水ともよばれる)等があります。

■寺伝では、寛喜2年(1230)~天福元年(1233)間、道元禅師がこの地で教化に努め、当寺を創建したと伝わりますが、当初は真言宗で、応仁の乱後に曹洞宗、天正・文禄(1573~92年)頃、僧・告厭(こくえん)が中興し浄土宗に改められ、さらに文化年間(1804~18年)にもとの曹洞宗に改宗されました。本堂には俗に「伏見の大仏」と呼ばれる丈六の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などが安置されています。現在は鉄骨コンクリート製の本堂があります。

◇墨染発電所  (深草墨染町)   

■明治45年(1912)の第二琵琶湖疎水の完成に伴い、伏見インクラインの落差を利用して大正3年(1914)5月に運転が開始されました。鴨川運河の深草に位置し、旧名称は「伏見発電所」で、関西電力の発電所となっています。

平成13年に「琵琶湖疏水の発電施設群」として、蹴上発電所、夷川発電所とともに土木学会選奨土木遺産に認定されています。

■発電設備は水路式(流込み式)で、立軸カプラン水車および立軸三相交流誘導発電機を備え、認可最大出力2,200kw、最大使用水量は20㎥/sec、有効落差は14.31mです。

IMG_0022墨染発電所【墨染発電所・水門】

 

【参考文献】

1.岩屋神社編:岩屋神社ホームページ、2018.。

2.京都市情報館編:「大宅一里塚」、京都市指定・登録文化財-史跡、2018

3.墨染寺編:墨染寺ホームページ、2018

4.随心院編:随心院ホームページ、2018

5.平凡社編:「宮道神社・八幡社」、京都・山城寺院神社大事典、1997.

【第294回行事・2018年6月9日催行・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】   

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