◆第291回行事・アーカイヴス(2018年3月)

★下ツ道 北上 (Ⅳ)石見~二階堂~筒井

7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る「大道」として整備された「下ツ道」は、見瀬丸山古墳前面を起点とし、「藤原京」の西四坊大路(現在、橿原市八木付近)から、奈良盆地の中央を真直ぐ北進し、「平城京」の「朱雀大路」(現在の平城宮跡)に至っていました。現在もその一部を踏襲して使用されていますが、古代人に倣って南(藤原京)から北(平城京)へ向かって歩きます。4回目#となる今回は、石見~二階堂~筒井を訪ねます。

【コース地図(赤破線:石見~筒井):国土地理院発行1:25000地形図「大和郡山」・「桜井」】

コース地形図石見_筒井25000大和郡山桜井

(図上の左クリックにより拡大)

コース:近鉄石見駅*~今里~杵築神社~庵治・安養寺~初瀬川~菰池・常夜燈~(公民館**)~二階堂[地蔵堂・街並]~菅田神社*~筒井順慶墓~筒井城址~近鉄・筒井駅*   (約8㎞・*トイレあり・**昼憩)

◇今里の浜  (田原本町今里)

■石見駅から東南東1㎞弱の寺川沿いにある、江戸時代の「浜」「今里」です。かつて遊郭が軒を連ねたことを想像させるような「河港」跡です。 (第243回行事・2014年3月)

■今里の「浜」は江戸時代に大坂・堺と大和を結ぶ川港で、鉄道交通が発達する明治25年頃まで、大和川船運の船着場で、物資の荷揚場として、船問屋が建ち並び、問屋町田原本の外港として大いに栄えました。

◇杵築神社  (田原本町今里)

■今里の「浜」跡の直ぐ東側にあるのが当神社で、節句行事の「今里の蛇巻」が催されます。農作物の豊作を祈るとともに、男の子の成人を祝い、毎年6月の第一日曜日(旧暦のときは5月5日の男の節句の日)に蛇の形をした長さ18mの蛇綱を、新わらで作り、13歳から15歳の男の子が蛇綱の頭を担ぎ、年下の男の子と、順番に巡る当屋の男たちが胴を持って、村中の家々を大声で「おめでとう」と言って、祝福して回る祭りです。

◇地蔵堂・常夜燈  (天理市庵治[おうじ]町)

■地蔵堂には、天文2年(1533)銘の石佛が安置され、常夜燈には「行者講」と彫られています。

■今里から約1.5㎞は田畑の間に続く旧「下ツ道」を進みます。定規のような直線的ではなくて、少しだけ紆余曲折しています。それは1:25000地形図上にも表れています。

地蔵堂三宅町庵治町②【地蔵堂:庵治町】

◇吉野川分水   (天理市庵治町)

■吉野川の3ダム(大迫ダム・津風呂ダム・下渕頭首工)より取水の農業用水の配水施設です: ・大迫ダム(川上村)より79.6㎞ ・津風呂ダム() ・大淀町下渕頭首工(下市口)より35.2㎞。

P1130921

【石佛:初瀬川畔地蔵堂・川西町下永】

◇菰池・常夜燈   (天理市南菅田町)

■庵治から北へ初瀬川を越えると、「下ツ道」左手の右岸堤防上にはたくさんの石製地蔵尊を祀った堂があります。初瀬川の下ツ道橋の上下流には石造地蔵が祀られている処が何カ所かあるようで、洪水等の災害が度々発生したことが推察されます。

■菰池の西岸には2基の常夜燈が立っており、「大神宮」・「金毘羅」と刻まれています。 ・「菅田」は「姓氏録」に現れる菅田首(おびと)のいた地で、中世は「菅田庄」でした。当地発祥と伝わる「菅田神社」に関しては、『御祭神が高天原から大和国の菰池の畔に天降られ、金の大幣を持って北へ進まれ、(菅田神社の)大鳥居の地点で西に向かわれ、後の神楽殿の辺りでひと休みされた後、現在の鎮座地に佇まれると杜が一夜にして出現し、後に一夜松山と呼ばれるこの地に鎮座された』との伝説があります。

P1130924菰池西岸 常夜燈2基

【常夜燈2基(「大神宮」・「金毘羅」銘)と菅田神社発祥地碑:天理市南菅田町】

◇二階堂 地蔵堂 (天理市二階堂上ノ庄町)

■二階堂の中心的な位置に「地蔵堂」が祀られています。かつてこの付近に「膳夫寺」(かしわででら)があり、その寺の堂が二階造りに似ているところから「二階堂」の地名が残ったと伝わりますが、現在も二階堂、二階堂下、二階堂筋の小字名があります。地蔵堂には「石造半跏地蔵菩薩像」が祀られています。

P1130928二階堂地蔵堂【二階堂・地蔵堂】

■当地は、東の天理方面へ向かう旧「布留街道」と「下ツ道」の交叉点で、かつて東方約100mに「布留社」<石上神宮>の「一の鳥居」があり、交通の要衝として発達しました。 ・聖徳太子は膳夫媛(かしわてひめ)が春の野で芹を摘んでいるところを見初めて妃に迎え、当初、香久山北側に「膳夫寺」を建立されたが、後に当地に移建され廃れていったと伝わります。なお、別途、橿原市膳夫町(藤原宮跡東方)に「膳夫寺」があり、同様の話が伝わります。聖徳太子に纏わる「伝説」は奈良盆地内では非常に多いことの一例でしょう。

◇二階堂・街並  (天理市)

■菰池より北方700m程は「下ツ道」(中街道)に沿った「街並」が両側に続きます。「二階堂」は道を挟んで東の上ノ庄村と西の菅田村が「下ツ道」を挟んで向き合う「街村」を形成したのが始まりのようです。

■元禄6年(1693)には「市」が立ち、細い道筋となっていて、「下つ道」により二階堂は宿場町・在郷町へと発展していきました。「二階堂」はその後「分村」して、その地名は消えましたが、「二階堂筋」という通りの名で残り、明治時代に28ヶ村が合併して新しい町名として復活しました。

P1130932二階堂町家和洋折衷厨子二階虫籠窓 上ノ庄町

【和洋折衷町家:厨子二階・虫籠窓・洋風玄関設え:二階堂(北端)上ノ庄町】

◇菅田神社  (天理市二階堂八条)

■二階堂上ノ庄町を北へ進み、近鉄・天理線の踏切を越え、高架の京奈和自動車道路を潜り、100m程で「菅田神社」大鳥居に至ります。

■当社の祭神は天目一筒神(あめのまひとつのかみ)で、末社では市杵島姫命(厳島神社)、天児屋根命(春日神社)を祀ります。 祭神が高天原から菰池畔に天降り、北へ向かい、当鳥居で西へ赴いたとの伝承があり、本殿は大鳥居より西方400m程離れています。

[由緒]「一夜松天神社」・「八条天神社」とも呼ぱれており、「菅田比古命」(=天目一筒神)を祭神として、「延喜式神名帳」の菅田神社は当神社のことです。 ・「菅田比古命」は菅田氏の祖と考えられており、「菅田首天久斯麻比都命之後也」(「新撰姓氏録」)と記されています。 ・近世まで天満天神を祀り、八条村・菅田村・長安寺村の氏神でした。永正10年(1513)以降の宮座記録が残り、同16年の『宮本日記』によると、南講と北講のあったことがわかっています。中世では神杜の南側を「一夜松南庄」、北側を「一夜松北庄」と呼んでいました。(「ふるさと大和郡山歴史事典」・他)

P1130935②菅田神社一ノ鳥居

【菅田神社・一ノ鳥居(明神鳥居):神社より400mほど東方の「下ツ道」<中街道>に面して立てられている】

■旧郷社ですが、八条町は近世まで平群郡に属し、八条村・長安寺村(現大和郡山市)・菅田村(現天理市)の氏神でした(「菅田村明細帳」:天理市二階堂菅田区有文書)。

◇筒井順慶墓所・筒井城址

■「菅田神社」より西北西へ佐保川を越えて進むと、天正4年(1576)に織田信長により「大和守護」に任ぜられて大和一国の領主となった筒井順慶の墓所に至ります。当墓所は、一旦は筒井家に所縁の「円證寺」に葬られた後に改葬して当地に葬られたようです。

P1130955②筒井順慶城跡

【筒井順慶城跡:現在は畑地・旧城域内に菅田比売神社・光専寺が建つ】

■「筒井城」は、永享元年(1429)に筒井順覚が築城して以来、室町・戦国時代の大和国の中心的存在であった興福寺衆徒・筒井家代々の居城でした。

■筒井順慶は、8代目城主で、得度する前は室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により「藤勝」(ふじかつ)、「藤政」(ふじまさ)と名乗り、後に大和郡山城主となりました。天文19年(1550)、父・順昭の病死のため2歳で家督を継ぎました。 永禄8年(1565)、松永久秀の奇襲により順慶は居城・筒井城を追われましたが、永禄9年、三好三人衆と結び、筒井城を奪還しました。

■元亀2年(1571)11月、順慶は明智光秀と佐久間信盛の斡旋により信長に臣従し、その支援を得ることで大和の所領を守り、順慶は松永久秀と和議を結びましたが、翌年には久秀は反信長の態度をますます顕在化させ、和睦も破綻しました。

■信長に臣従後、順慶は信長配下として一向一揆討伐、天正3年(1575)の「長篠の戦」には鉄砲隊50人を供出、同年8月の越前一向一揆攻略にも五千の大軍を率いて参戦し、母親と家臣2人を人質として差し出しています。

■天正4年(1576)5月、信長により「大和守護」に任ぜられ、大和一国の領主となりました。

■天正5年の「雑賀一揆」を鎮圧し、更に松永久秀の再度の謀反に対して信貴山城を攻めて10月に陥落させました。 (久秀は王寺南方の達磨寺に埋葬)。

■天正6年に大和平定が成り、同年4月には播磨攻めに参戦し、10月には石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を鎮圧しました。 天正7年には、荒木村重の有岡城攻めに参加しました。

■天正8年(1580)、築城した大和郡山城に移転しましたが、それは筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったことに拠ることと考えられています。

■筒井順慶は天正12年(1584)8月に郡山城で36歳にて病死しましたが、「筒井城」の城域は、東西200m・南北150mほどの、菅田比賣神社境内あたりが居館跡で、郡山城へ移住する直前に拡張した外堀跡が北側と南東角に少し原形が遺存しています。

■筒井の街並は、郡山城への移住で一時衰えましたが、近世には東西の高瀬街道(現・国道25号)、南北の「中街道」(下つ道)、佐保川水運が交叉する交通の要衝として賑わいを戻していきました。また、北側を東へ流れる量川に沿って順慶が築いた「請堤」が付近の洪水を防いでいます。

P1130943②筒井順慶墓所_説明盤写真

【筒井順慶墓・五輪塔覆堂】

■筒井城址は、外濠範囲では、東西約500m、南北約400m、主郭部分では菅田比賣神社を含む東西約120m・南北約100mの「平城」様式です。

筒井城址 推定城域図②【筒井城推定城域図】

■筒井順慶の墓所は、城跡から南方へ約1.5㎞の大和郡山市長安寺町にありますが、その五輪塔は桁行1間・簗間1間の宝形造りで、軒先一間の疎垂木の宝珠・露盤を置いた本瓦葺屋根覆堂により保全されています。天正12年(1584)8月、郡山城内で没後に遺体は一時奈良・円證寺に葬られましたが、改葬して当地に葬られました。

【参考文献】

1. 八尾博之:「筒井」・奈良地理学会編『大和を歩く・ひとあじちがう歴史地理探訪』、奈良新聞社、2000.

2.山川 均:「筒井城」・仁木宏・福島克彦編『近畿の名城を歩く』、吉川弘文館、2015. 3.大和郡山市編:「筒井城跡」、大和郡山市説明盤、2014.

#【『関西地図の会』・「下ツ道」探訪日 】

(Ⅰ)二階堂~羅城門趾~大和郡山(2006年4月23日)・「平城京 は 『十条大路』まであった」

(Ⅱ) 石見~田原本・笠縫(2014年3月21日)

(Ⅲ)久米寺~橿原神宮~藤原宮跡~小房観音~八木町~今井町(2016年6月4日)

【2018年3月10日催行、案内・編集:宮﨑 信隆】

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