◆第290回行事・アーカイヴス(2018年2月)

★西國街道(Ⅲ)三宮~御影・浜街道

・「西国街道」の芦屋から神戸までは、大名行列などに利用された内陸部を進む「本街道」と、庶民の生活道路で海岸沿いを進む「浜街道」に別れて、神戸の生田筋で合流していました。現在はその当時の痕跡はほとんど見当たりませんが、当時の道筋を通りながら、「本街道」、「浜街道」を往き来してその変遷を訪ねます。

 コースJR三宮駅~北向地蔵~新生田川公園*~春日野道~神戸臨港線跡遊歩道~なぎさ浜公園*~敏馬神社**~龍泉寺道標~西求女塚古墳~浜街道・妙善寺~サザンモール*~乙女塚古墳~酒心館*~酒蔵の道~阪神・御影駅   (約8km)

【コース地図(三宮~御影:黒破線赤破線山側:西國街道、海側:浜街道)・国土地理院発行1:25000「神戸首部」】

コース地図Ⅱ三宮御影25000神戸首部

(図上のクリックにより拡大)

西國街道

○江戸時代の「山陽道」は、「道中奉行」の差配で整備された「西國街道」として、「五街道」の一つ「東海道」に継ぐ「脇街道」として整備され、起点は京都・東寺口(旧羅城門)、終点は下関(旧赤間関)でした。途中50カ所の宿場があり、現在の兵庫県下では、6カ所目の西宮、大蔵谷(明石市)、加古川、御着(姫路市)、姫路、正條(たつの市)、片島(たつの市)、有年(赤穂市)の8カ所でした。

○なお、狭義の「西國街道」は西宮~下関間を呼ばれたことも多く、京都~西宮間は「山崎街道」、大坂~西宮間は「中國街道」とも呼ばれました。[「中國街道」(神崎~尼崎):第279回行事・2017年3月催行]

○「西國街道」(山陽道)は神戸市の中心部を通りましたが、「兵庫縣里程元標」から元町の商店街を通り、大丸百貨店前を過ぎ、生田神社参道(生田筋)を北上し、JRの高架を過ぎたあたりで右折し東に進み、大名行列にも利用されました。

○「浜街道」は生田筋の中ほどから、三宮センター街を通りぬけ、脇浜海岸通辺りを経由し、国道43号線とほぼ並行して芦屋市打出町辺りで再び「西國街道」(山陽道)に合流する経路を辿り、庶民の生活道路でもあり、街道沿いには酒蔵が密集して賑わっていました。

北向地蔵    (神戸市中央区北長狭1)

○JR三ノ宮駅西方の加納通より1ブロック西側に入った処にあります。

○北向きに祀られている地蔵菩薩像で、明治4年(1871)に加納宗七によって付け替えられるまで、生田川は現在のフラワー・ロードを流れていました。大雨で生田川が増水した折に、沿岸の住人は土嚢を積んで堤防の決壊を防ごうとしましたが、流木が土手に引っかかってしまい、また積むべき土嚢はなくなり、人々はなす術がなく現場から撤退しました。

○その後で何かを引きずって水の中に沈めるような音を耳にしましたが、翌朝、人々が現場に戻ると、流木が引っ掛かっていた場所に大きな石があって堤防の決壊を防いでおり、近くの土手には地蔵菩薩像像が鎮座していました。人々は地蔵菩薩像が堤防の決壊を防いだと信じ、生田川の西岸に仏堂を建立し、堤防の方角を向く形で地蔵菩薩像を安置しました。爾来、この地蔵菩薩像は「北向地蔵」と呼ばれているそうです。

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【ビルの谷間にある北向地蔵】

○その地蔵尊の祀られている角地には、攝津國旧菟原(うはら)郡と八部(やたべ)郡の「郡界の碑」が遺存しています。元は旧生田川が両郡界であったそうです。  

IMG_0002加納町4丁目界隈_北向き【加納町4丁目界隈】

 

(新)生田川公園(中央区熊内橋通7・[生田川公園]中央区熊内町4・若菜通6)

○「西國街道」を東進し、生田川を渡った左手山側に「生田川公園」があります。

○生田川公園には神戸市と中国天津市との友好を記念した、親水風に整備されたところの対岸壁面龍をモチーフとした壁画「百龍嬉水」と東屋の「連翼亭」があります。

○なお、「生田川」は、かつて莬原・八部両郡の郡界で、「西國街道」は現・JR三ノ宮駅付近で生田川を渡っていました。

IMG_0021生田川公園生田川公園

「浜街道」とは生田神社の南、生田の馬場で出合い、源平合戦では、源範頼と平知盛が生田川を挟んで対峙し、信長も花隈攻めで激戦となり川を血で染めたとのことです。生田川は、たびたびの洪水で、外国人居留置に被害を与えたため、明治4年に埋められて現在の(新)生田川が同時に開設されました。

IMG_0022生田川公園南西側震災復興集合住宅

【生田川公園より望む震災復興集合住宅】

春日野道商店街

○「生田川公園」より700mほど東進すると「春日野道商店街」と交叉します。

IMG_0023春日野通商店街

【西國街道と交叉する春日野道商店街】

神戸臨港線

○「春日野道商店街」から東へ300mほどで旧国鉄・神戸港臨港(貨物)線跡に着きます。遊歩道に整備された臨港線廃線跡を港方向に進みます。

○神戸臨港(貨物)線は、東海道本線の貨物支線の通称で,東海道本線の東灘信号場から分岐して国道2号線を跨ぎ、神戸港駅へ単線で向かっていました。港の発展により当貨物線から分岐する専用線が拡大しましたが、昭和50年代の鉄道貨物輸送縮小に伴い、ほとんどの路線が廃止されました。国鉄時代に廃止されずに残った神戸港駅も平成15年(2003)に廃止され、その業務を神戸貨物ターミナル駅に委譲しました。

IMG_0026神戸臨港線【神戸臨港線跡鉄橋】

◇HATなぎさ(浜)公園   (中央区脇浜海岸通1)

○大神戸臨港線跡道と阪神高速神戸線が交差するところより海岸に向かって南下すると、旧川崎製鉄と旧神戸製鋼所跡が高層集合住宅・美術館等の公共施設、「HATなぎさ公園」に整備されて揺ったりとした海沿いの土地に出ます。                                ○「なぎさ公園」は「HAT神戸」の海沿いに造られた公園で、海を感じる憩いと集いの空間で、公園内にはマリンステージや芝生広場、「3オン3」のコートなどがあり、海沿いにはハーバーウォーク「プロムナード」も整備されています。

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なぎさ公園から海辺を望む
敏馬(みぬめ)神社   (灘区岩屋中町)

○現在は第2阪神国道に面して西郷川の直ぐ東側にありますが、元は海岸に近く、旧岩屋・味泥・大石三村の氏神でした。

〇「敏馬」(みぬめ)は、神戸市東部、灘区の西郷川河口付近の古地名で、阪神電車の岩屋~元町間のトンネル工事の残土による埋立てによって造成された摩耶埠頭一帯の地域となり、製鉄工場地帯となりました。
〇『万葉集』には、柿本人麻呂の「玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に舟近づきぬ」ほか、「敏馬の浦」「敏馬の崎」として多く詠まれ、当社境内に柿本人麻呂の歌碑があります。かつては難波津と淡路島の中間港であり、後に大輪田津(兵庫津)が開かれるまでの寄港地でした。                                ○「敏馬神社」は、式内社で社格は県社ですが、「敏馬」は、古くは「汶売」、「美奴売」、「三犬女」、「見宿女」等の文字が充てられることもあったようです。現在の主祭神は素戔嗚尊で、天照皇太神・熊野坐神を配祀しており、江戸時代までは「牛頭天皇」と称していました。

○本来の祭神は「ミヌメ神」(美奴売神・敏馬神)だったようで、「ミヌメ神」は水神の「弥都波能賣神」と同神と考えられており、現在では境内社の「水神社」に弥都波能売神が祀られています。「於加美神」とともに、日本の代表的な水神となっています。「閼伽井」*あるいは「三犬女清水」と呼ばれる井戸があり、この女神の名を「敏馬」とする説が有力のようです。

(*「閼伽水」:伏見・長建寺・第288回行事「伏見八名水」・2017年12月訪問。

「閼伽」:佛教の佛前などに供養される水のことで六種供養の一)

敏馬神社【敏馬神社】

○『摂津国風土記』などには、神功皇后の新羅征伐の帰途に「美奴売神」を祀ったと記されているようです。昭和20年戦災により社殿を焼失しましたが、昭和27年に再建されました。古来より、この神社の前を離縁を恐れて花嫁行列は通りませんが、女神の嫉妬に拠るからだと言われ、「縁切り」でも有名で、様々な縁切の方法が伝わります。

◇敏賣崎(みぬめさき)

○かつて、西郷川河口付近は「瓶賣崎」と呼ばれ、飛鳥時代には「畿内」(うちつくに)の西端に近く、瀬戸内を西から入ってきた外国船は、畿内最初の湊「敏賣崎」付近の湊で「共食」の接応を受けたと伝わります。

 ◇龍泉寺南・石道標

○元は、現在地より少し南の坂下の浜街道沿いに立っていたとのことです。高54㎝,幅19㎝,厚17㎝と測られており、石道標には『左龍泉寺 右京大坂 摂州()と彫られています。

 龍泉寺    (臨済宗永源寺派・敏馬山・灘区岩屋中町)

○「龍泉寺」は敏馬神社の東側直ぐの処にあります。

○「龍泉寺」は、平成7年(1995)の阪神淡路大地震により全壊し、その年末に本堂は再建され、同12年に鐘楼が再建されて鐘が再度吊るされました。

〇本尊は薬師如来で、聖徳太子の開基と伝わりますが、元々「敏馬神社」の神宮寺で神社の境内にありました。明治元年の神仏分離令により寺は独立しましたが、当時は寺勢がひどく衰えていました。明治3年、永源寺派管長・万松関老大師が見回りにきて、弟子の雄峰により復興されました。

龍泉寺龍泉寺】

◇旧西國浜街道碑(灘区西郷川畔)

○「東 東明 西 岩屋」の石碑が川畔に建っています。

 旧西國浜街道碑_西郷川

西求女塚古墳        (灘区都通3丁目)

○西郷川より200mほど東方に遺存します。

○「西求女塚古墳」は「莬原壮士墓」の伝説があり、古墳時代「前期」(3世紀後半)]築造の前方部が東向きの「前方後方墳」です。

○築造当時は海岸線から約100mの地であったと推定され、全長約98mの葺石は一部確認されており、角石を確認し「後墳」と判定されています。

○埋葬施設は墳丘に直交する南北方向の竪穴式石室で、3分の1は慶長元年(1596)の「伏見地震」により、他は削平により崩壊しました。石室は全長約5.6m、幅1m弱で主室と副室に分画されていました。

IMG_0052西求女塚古墳

【西求女塚古墳標石と墳丘測量図(北井原図)】

西求女塚古墳①③

○平成5年の発掘調査により、墳丘上から山陰(出雲)系土器を主体の多数土器、石室主室から三角縁神獣鏡7面、浮彫式獣帯鏡2面、画文帯環状乳神獣鏡2面、画像鏡2面、鉄槍・鉄剣・武具(小札)が出土し、副室から鉄剣・鉄刀・鉄槍・短剣・鉄鏃・鉄斧・鏨(たがね)・槍鉋・簎(やす:漁具) ・紡錘車形石製品1点が出土し、神戸市文化財センターに保管・陳列されています。

○三角縁神獣鏡は黒塚古墳で出土した鏡と同笵鏡で、邪馬台国女王・卑弥呼が魏国王から授かったといわれているものです。國史跡に指定されており、それらの「物流」は弥生時代は東側の淀川・河内潟/湖経由で、古墳時代は瀬戸内海経由で交易されたようです。

IMG_0054都賀川【都賀川を渡る】

浜街道・妙善寺 (浄土真宗本願寺派・灘区新在家南町)

○「西求女塚古墳」より第二阪神国道を越えて、10年前に発生した突発的ゲリラ豪雨により急激な増水による災害の発生した「都賀川」を渡って「浜街道」を東進すると200mほどで山側にある「妙善寺」に至ります。

○「妙善寺」は、江戸時代の正保年間(1644~48年)に開創され、本尊は阿弥陀如来で、阪神淡路大地震により全壊した建物はその5年後に鉄骨コンクリート製で再建されています。境内の樹齢百年の蘇鉄が有名です。

IMG_0058妙善寺妙善寺
サザンモール・セカンドストリートSouthern Mall 2nd Street(㈱サザンモール六甲・灘区新在家南町)

○「浜街道」をと500mほど東進すると大型複合スーパーマーケット「サザンモール・セカンドストリート」に着きます。

ここは平成5年創立のサザンモール六甲の主力店で、第二阪神国道と「浜街道」の間を埋め尽くした大店舗です。

◇処女塚古墳   (御影塚町2丁目)

○「サザンモール・セカンドストリート」北側を通る第二阪神国道北側に沿って500mほど進むと、「処女塚古墳」に至ります。

○本古墳は「莬原処女墓」との伝説がありますが、古墳時代「前期」(4世紀)築造の前方部が南向きの「前方後方墳」と推定されています。全長約70m、前方部は二段、後方部は三段築成で、周濠の有無は不明です。墓石は一部で確認されていますが、破壊が酷く、後方部埋葬施設は不明ですが、墳頂部の南北約13m、東西約2.5mの範囲に花崗岩円礫と粘土(粘土槨の埋納を推定)が確認されています。

・括れ部の東側段築上に箱式石棺が1基検出され、5枚の板石からなる約1m長・約0.25m幅で周囲に円礫が入っていたそうです。

処女塚古墳調査図①③

【処女塚古墳・墳丘測量図(北井原図)】

・遺物は蓋石上に滑石製勾玉、竹管文をスタンプした特殊埴輪片、二重口縁壺(括れ部頂上・前方部前端)、供献土器(スタンプ文付)などでした。

IMG_0061【処女塚古墳・後円部】

 ◇㈱神戸酒心館   (東灘区御影塚町1)

○「浜街道」に沿って位置する「灘五郷」の中の西郷・御影地域で、かつて「五郷」には約80の酒造会社が建ち並んでいましたが、その中程にある「福寿」の販売店に立ち寄りました。

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【酒心館・酒蔵通:浜街道】

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○なお、「灘五郷」には西郷・御影郷の東へ魚崎郷・西宮郷・今津郷と続きますが、現在の酒造会社は約30社に減っているそうです。利用されてきた六甲の伏流水である「宮水」はP(リン)・Ca(カルシウム)・K(カリウム)等麹菌・酵母の醗酵に適度ののミネラルを含む「硬水」で、鉄分は殆ど含まれていないそうです。

◇西國街道・松並木  (東灘区御影石町)

  IMG_0066松_石屋川畔

【松並木の名残】 

○「西國街道」に沿って生えていた松並木の名残が石屋川畔と中学校横に遺存しており、この中学校で本街道は中断します。

 

【参考文献】

1.坂江 渉:「敏売崎で行われた外交儀礼」、『神戸・阪神間の古代史』、神戸新聞総合出版センター、2011

2.北井利幸:「友史會報」(541)、県立奈良考古学研究所博物館友史会、2012

3.藤岡ひろ子:「敏馬(みぬめ)」、朝日デジタル、2018

2018年2月17日催行・案内:荻野哲夫、編集:宮﨑信隆】

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