■第287回行事・アーカイヴス(2017年11月)

★大津を歩く =坂本から浜大津へ=

●「大津」は、天智天皇の「大津京」遷都から1300年の歴史を持つ古都で、人口約34万人の滋賀県の中心都市です。今回はJR比叡山坂本駅から、延暦寺の門前町「坂本」、大津京のあった「近江神宮」、明治以来第二次大戦までの軍施設跡地「皇子山」などを巡り、琵琶湖の玄関口「浜大津港」まで歩きます。

【コース地図(破線:坂本~浜大津):国土地理院発行125000地形図「京都東北部」】

説明入_コース地図_坂本_浜大津25000京都東北部(図上のクリックにより拡大)

コース:JR比叡山坂本駅~滋賀院門跡~盛安寺~高穴穂神社~穴太廃寺跡~(JR唐崎駅)~倭神社~志賀八幡神社~高砂古墳公園~南滋賀町廃寺跡~近江神宮~皇子山古墳~大津京・錦織遺跡~弘文天皇陵~大津市歴史博物館~浜大津駅 (約11㎞)

坂本 

・比叡山延暦寺の門前町として栄えてきた「坂本」には、54坊の里坊があり、平成9年に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。県内では、第274回行事「朝鮮人街道(Ⅱ)」(平成28年10月催行)で訪れた「近江八幡市八幡」、並びに第122回行事「東山道/中山道を行く・武佐宿~老蘇~五個荘」(平成15年11月催行)で訪ねた「五箇荘金堂」が、夫々に平成18年と平成10年に指定されています。

・「里坊」は、比叡山上で修業を終えた老僧に与えられる坊舎で、見事な庭園が設営されています。その石垣は、当地が出身地である穴太衆による自然石の堅固な穴太積みで囲まれており、保存地区の風景を構成しています。

塗師屋_坂本【塗師家・坂本:西山原図】

 

◇滋賀院門跡  (天台宗・大津市坂本4)

JR比叡山坂本駅から西南西約300mの処に所在します。

〇比叡山延暦寺の本坊(総里坊)で、元和元年(1615)に、江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」ともいわれた天台僧・天海が、後陽成天皇から京都・法勝寺を下賜されて当地に建立した寺で、約2万平米の境内に内仏殿、宸殿、書院、庫裏、土蔵があり、書院には狩狩野派画家による障壁画がかなり傷んでいますが、多く遺存しています。

・「滋賀院」の名称は、明暦元年(1655)に後水尾天皇から下賜されたもので、長大な建物「滋賀院御殿」は明治11年(1868)の火災により焼失したので、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移建されました。

IMG_0004滋賀院門跡【滋賀院門跡】

 ◇盛安寺(せいあんじ・天台真盛周宗・端應山・大津市坂本1)

〇創建時期は不明ですが、越前・朝倉氏家臣・杉若盛安が文明年間(1469~87年)に再興したと伝わり、重要文化財・十一面観音菩薩立像を所蔵しており、客殿(重要文化財)は伏見城の廃材が利用されています。

IMG_0008遺存する穴太積み_盛安寺附近【堅固な穴太積み石垣・盛安寺】

 ◇高穴穂神社  (大津市穴太1)

祭神は景行天皇で、伝承では景行天皇*が高穴穂宮に遷都の後、次の仲哀天皇が先帝の遺徳を偲び宮中に前王宮として祀ったのが始まりと伝わり、「高穴穂宮」は大津で最初の都と伝わり、本殿の背後には、高穴穂宮の跡碑が建っています。

・一方、景行天皇が3年、第13代成務天皇が61、第14代仲哀天皇が半年在地したとも伝わります。

IMG_0013高穴穂神社社殿【高穴穂神社】 

(*景行天皇:第12代天皇で、在位は景行天皇元年~同60年。第11代・垂仁天皇の第三皇子で日本武尊の父でとされ、『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わります。

・和風諡号̪は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。陵墓は「山邊道上陵(渋谷向山古墳)」(天理市渋谷)と治定されている:第264回行事「「山ノ辺ノ道(Ⅱ)」(2015年12月)で訪れた。

◇穴太廃寺

JR唐崎駅から北方へ歩いて10分ほどのところにありま

す。

「大津京」関連遺跡の一つとされ、昭和59年(1984)の発掘調査で二つの時期の伽藍配置をもつことが判明しています。

「大津宮」の北北東約3㎞にありましたが、その寺域の北側で東に振れる造営方位が、7世紀後半に正方位に変更されて再建されていることが判明しています。これは「大津宮」造営に起因する都市計画に依るとの説が強く、この「地割」は「穴太廃寺」の北側から北方は斜行し、南側で正方位を向いています。そのうち創建当初の伽藍配置は明確ではありませんが、再建時のものは、西に金堂、東に塔、北に講堂という「法起寺」式伽藍配置となっていました。講堂跡付近からは磚佛・銀製押出佛等が出土しました。金堂は創建時・再建時とも瓦積基壇で、創建軒丸瓦は外縁に輻線紋のある単弁蓮華文で渡来系氏族人の要素が強く出ているようですが、現在は完全に埋め戻されてバイパスの下などになっています。

穴太廃寺検出遺構_林②【穴太廃寺・検出遺構:林原図】

滋賀海軍航空隊跡碑   (大津市唐崎2)

JR唐崎駅東側駅前にあります。

〇第二次世界大戦中に当地にあった海軍航空隊では、約1万人の若者が特別訓練を受け、全国各地の実戦基地に特攻隊要員として配属され、祖国のために多数の者が帰らぬ人となりました。本記念碑は、戦後50周年を期に若くして逝った人々への哀悼と戦争の空しさ、平和の尊さを後世に伝えるために生き残り隊員たちにより、この思い出の地に建立されたものです。

滋賀海軍航空隊跡碑滋賀海軍航空隊跡碑

◇倭(しどり)神社   (大津市滋賀里3)

京阪・滋賀里駅の北方約500m、JR比叡山坂本駅から南西約1㎞の小丘上にあります。

本神社は、天正19年(1591)に再興され、現建物は宝永7年(1710)に造営されたと伝わります。被葬者は、祭神・倭姫(天智天皇皇后)とされ、「赤塚」(または天塚)と呼ばれる前方後円墳の墳丘に祀られ、社殿はその後円部の頂上を削平してあります。

なお、「赤塚」は、朱の痕跡が認められた花崗岩の板石が数枚検出され、築造年代は古墳時代中期の5世紀前半頃と推定されています。

IMG_0015倭しどり神社倭神社            

◇志賀八幡神社  (大津市滋賀里1)

〇京阪・滋賀里駅の西方約200mに位置します。

〇当社の創立年代は不詳ですが、当社は第40代・天武天皇の白鳳9年(669)の創建と伝わり、かつては大社でしたが、信長の比叡山焼き討ち等中世の戦火により、社殿・文書等悉く焼失しましたので、創建の由来は不明です。

IMG_0018志賀八幡神社【志賀八幡神社】

・再建後の社歴も昭和19年の隣家からの延焼により社宝古文書類格納の倉庫焼失のため詳細不明ですが、「近江興地志略」を引用すると志賀四か村の産土神です。

 ◇高砂古墳公園  (大津市見世)

〇京阪・滋賀里駅の南西方約300mに位置します。

〇大津市滋賀里・高砂町に分布する19基からなる「長尾池ノ内古墳群」にあった1基が当公園に移存されており、横穴式石室が露出していますが、小型の石室で内部はほとんど埋まっています。

IMG_0240昼憩_古墳公園高砂古墳公園で昼憩】

◇南滋賀町廃寺

京阪・南滋賀駅より山手へ徒歩10分ほどの処で、「大津宮」の北約500mにありましたが、周辺の条里と異なる310~315m四方の特殊条里が遺存し、これが当廃寺寺域を示すと推定されており、現在は民家に囲まれた公園となっています。

南滋賀廃寺跡【南滋賀町廃寺跡】

〇大津京関連遺跡の一つで、昭和3年(1928)と16年の発掘調査により、搭・金堂・僧坊跡が発見され、寺院の存在したことが確認され、伽蘭配置は搭と西金堂が東西に対置し、それを回廊が取巻く「川原寺式伽蘭配置」で、搭・西金堂・金堂が南北に並び、基壇は瓦積み仕上げと判明しました。出土瓦・土器の中に、蓮華を横から見た方形軒瓦も存在し、遺物より7世紀後半の白鳳~平安末期に存立していたことが推定されています。現在、公園内に礎石の一部が残り、昭和32年、「國史跡」に指定されています。

〇なお、「南滋賀町廃寺」は、その中軸線は特殊条里を5分割した西から二つ目の軸に一致し、「大津宮」の中軸線は寺域の中軸線に一致しているようです(当廃寺伽藍の中軸線ではない)。

◇近江神宮  (大津市神宮町)

〇京阪・近江神宮駅より北西方500mほどの処にあります。

〇祭神は天智天皇(天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ))で、天智天皇6年(667)に当地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の昭和15年11月7日、同天皇を祭神として創祀されました。

近江神宮楼門Ⅴ【近江神宮楼門】

・第二次大戦敗戦直後の神道指令が発令された昭和20年12月15日の当日に、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定されました。

・境内地は約6万坪あり、社殿は近江造り又は昭和造りと呼ばれ、近代神社建築の代表的建造物として国登録文化財に指定されています。

〇天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置した歴史から、境内には各地の時計業者が寄進した日時計や漏刻などが設けてあり、時計館宝物館と近江時計眼鏡宝飾専門学校が境内に併設されています。

・小倉百人一首:天智天皇・第1首目を詠んだ・『秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつゝ』

◇皇子山古墳   (大津市錦織1)

京阪・近江神宮前駅の西方、皇子が丘公園の北の皇子山(164m)頂上にあります。

〇4世紀後半に築造された大津市内最古の古墳で、国指定史跡です。全長60m、堀の一部が残り、葺石が敷かれた前方後方墳です。

本古墳は湖岸側だけが極端に先端が開き、墳丘も湖岸側だけに葺石が敷かれており、琵琶湖からの眺望をかなり意識して築造されたようです。また、古墳からは、支配地であったと思われる大津市街の全域が眺められます。 (今回は訪れず)

近江大津京・錦織遺跡   (大津市錦織1・2)

京阪・近江神宮前駅のすぐ西方にあります。

〇天智天皇が600年代後半に、飛鳥から遷都した大津宮跡で、国指定史跡です。現在、巨大な柱を埋め込むための1辺2m近い穴と、直径40mから50cmほどの柱跡が7カ所、門跡、中心建物を囲んだと思われる柵列とその北側の倉庫群が発掘されています。

錦織遺跡第1地点【錦織遺跡】

 ◇弘文天皇陵   (「長等山前陵」・考古学名:園城寺亀丘古墳)

〇JR大津京駅から500m余りの山手にあります。

〇本陵は天智天皇の第一子・大友皇子(648~672年)の墓で、母は伊賀宅子郎ですが、天智天皇が「大津京」で没すると、皇位継承をめぐり、天智天皇実弟・大海人皇子(?-686)と皇位継承を争い、内乱・「壬申の乱」[天武元年(672)6月29日~7月23日]となって、力及ばず自害(7月23日)して最期を遂げました。享年25歳。

弘文天皇長等山前陵【弘文天皇・長等山前陵 

〇大友皇子は長らく皇統に認められず、「日本書紀」*にもその名がありませんでしたが、明治3年に漸く認知されて、『第39代・弘文天皇』が追贈され、明治10年に園城寺境内の「亀岡古墳」が陵墓に治定され、死地である「山前(やまさき)」の名をとって命名されました。

(*神代~持統天皇時代(=天武天皇皇后)までを編纂⇒当然の結果として、大友皇子は無視された)                            

〇なお、大友皇子が「乱」後、東方に逃れて、最終的には追手による迫害により、自害したとの説があり、その陵墓が千葉県君津市の白山神社古墳に埋葬されたと旧久留里藩士の森勝蔵による伝説、また、愛知県岡崎市小針町の小針1号墳が大友皇子陵とする伝承、愛知県岡崎市西大友町の大友皇子御陵との塚を陵とする伝承などがあります。

園城寺 新羅善神堂  (大津市園城寺町)

〇JR大津京駅から南西方600m余り、弘文陵から500mほどのところにあります。

〇園城寺北院の森の中に南面して建っており、園城寺の中興開山・智証大師円珍が唐より帰朝の途次、船中で護法を誓った「新羅明神像」(国宝)を祀っていますが、明治の神仏分離によって現在の名称となりました。

新羅善神堂Ⅱ②③【新羅善神堂】

〇本堂は、三間社流造の神社本殿の建築で、桁行三間・梁間二間の内陣は、正面中央を板扉とする以外はすべて漆喰壁とし、その前に一間の外陣がつき、外陣の正面・側面の欄間には、牡丹唐草と鳳凰の透彫が施されています。寺伝では貞和3年(1347)に足利尊氏が再建したそうです。

◇大津にあった旧日本軍航空訓練施設

天虎飛行研究所(通称「テントラ」)

〇昭和10年(1935)に「天虎飛行研究所」が設立され、民間パイロットを訓練し、第二次世界大戦が激しくなると海軍航空隊のパイロット養成訓練、京阪神の大学生・高等専門学校生のパイロット養成所となり、同18年には「大日本飛行協会天虎飛行訓練書所」に改組され、廃線直前の時期には特攻訓練が行われました。現・大津商業高校の辺りでは「大津陸軍少年飛行学校」が造られて、パイロット基礎訓練が行われましたが、戦後米軍によって練習機・格納庫が爆破されて、その歴史は終わりました。

滋賀海軍航空隊・同基地・大津海軍航空隊・大津海軍水上機基地

〇滋賀海軍航空隊は急増する海軍飛行豫科練習生(豫科練)に対応すべく、昭和19年6月に滋賀郡に三重海軍航空隊滋賀分遣隊として開隊され、8月に「滋賀海軍航空隊」に改編されました。

〇大津市際川に所在する陸上自衛隊大津駐屯地は「大津海軍水上機基地」の跡地にありますが、昭和11年に滋賀郡下坂本村(現、大津市際川)の琵琶湖畔に海軍航空予備学生志願者に対し、入団前の準備教育を行うために、7月に(財)学生海洋飛行団関西支部が滋賀飛行場において開部され(9月に(財)海軍予備航空団大津支部に改称)、昭和16年に水上機練習航空隊の設立のため、大津支部は全設備を海軍省に献納し閉鎖されましたが、昭和17年4月に「大津海軍航空隊」が編成(水上練習機24機)されて搭乗員教育を開始、昭和20年8月15日の詔書により16日に停戦となり、米軍に接収されました。

特殊滑空機「桜花」発射台

〇「桜花」は、旧日本海軍が第二次世界大戦中に開発した特殊滑空機で、特攻兵器として開発され、実戦に投入されました。機首に爆薬を積み、母機に吊るされて目的地まで運ばれ、その後パイロットの操縦で目標に命中させる兵器で、55名が戦死したそうです。

・第二次大戦末期の昭和20年6月より、本土決戦を想定して比叡山(標高848m)山頂付近に極秘裏に建設された特攻兵器「桜花」発射基地造成工事は、山頂へはケーブルカーで組立部品が運ばれました。発射台は終戦日の8月15日に完成したため、実戦使用はありませんでした。戦後間もなく米軍に壊され、公的な資料も存在しない「幻の基地」といわれてきました。

大津陸軍少年飛行兵学校

〇現・大津市役所、大津商業高校、皇子山総合運動公園のあるところに、昭和17年10月に航空戦力増強の要請に応じ、東京陸軍航空学校大津教育隊として開設され、翌18年4月に「大津陸軍少年飛行兵学校」として独立しました。元、陸軍歩兵第九連隊の地で、大正14年に京都へ移転後、陸軍病院が開設されていました。
〇当時15~16歳の少年たちが琵琶湖畔・長等山麓に、幹部要員として1ヵ年の基礎訓練に励み、第15期生~第20期生の8千余人が操縦・通信・整備の各上級学校に学んだ後、本土防衛の先駆けとなって乗機と生死を共にし、昭和20年8月終戦となりました。

大津陸軍少年飛行兵学校_天正【大津陸軍少年飛行兵学校(当時)

【参考文献】

1. 藤岡謙二郎編著:「講座考古地理学」(2)、学生社、1982

2.林 博通:「大津京跡の研究」、同朋社、2001

3. 林 博通:「幻の都・大津京を掘る」、学生社、2005.

4. 重見 泰:「大津宮を歩く」、友史會報(557)、2013

5.石川愼治:「近江の古民家」、サンライズ出版、2017

6.大津市歴史博物館ホームページ。

7.西山卯三:「滋賀の民家」、かもがわ出版、1991

 

【案内:天正美治、編集:宮﨑信隆・2017年11月11日催行】

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