◆第283回行事・アーカイヴス(2017年7月) 

◆近江八幡 沖島

  • 琵琶湖の沖島は日本の淡水湖の中で定住者のいる唯一の島です。島内は自動車、単車はなく、自転車、三輪車が島の「交通機関」となっています。人が住み着くようになったのは「保元の乱」(保元元年・1156)、「平治の乱」(平治元年・1160)による源氏の落武者たちが始まりと言われています。中世には、延暦寺から迫害を受けた本願寺8代蓮如が流れつきました。滋賀県の他の地域とは全く異なり、湖岸近くの狭い平地に人家が密集した、雰囲気の異なる漁業の島を歩きます。

【コース地図(赤破線):国土地理院発行1:25000「沖島」】

コース地図説明入25000沖島

コースJR近江八幡駅~(路線バス) ~堀切港~[チャーター船:沖島通船]~沖島漁港

(帰途)沖島漁港~[チャーター船:沖島通船]~長命寺港~(路線バス) ~JR近江八幡駅

[島内平地コース]沖島漁港~漁港公園~瀛津嶋神社~西福寺~(北岸)千円畑~漁港公園~沖島小学校~弁財天~漁港公園~沖島漁港

[島内山コース]沖島漁港~漁港公園~頭山お花見広場~ホオジロ広場~尾山見晴し広場~沖島小学校~漁港公園~瀛津嶋神社~西福寺~(北岸)千円畑~沖島漁港

 

概要 琵琶湖内最大の島である「沖島」は、面積1.53㎢で湖岸線の周囲は6.8㎞、最高地点は東部の標高225mの尾山(宝来山/宝来ヶ岳)です。西部にある標高210mの頭山と二山を中心とした島で、殆どが石英斑岩から成り、風化・浸食が進み岩石が露出しているところが彼方此方に見かけられます。                                       略史 「万葉集」に、柿本人麻呂が「淡海うみ 奥津島山 おくまけて 我が思う 妹のことしげく」と詠まれ、大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見されたことがあるなど、かなり古くから「沖島」付近に人々が往来していたものと思われています。                                       ◇和銅年間に近江国守・藤原不比等(藤原鎌足の子)が「奥津島神社」を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に「沖島」に一時期住んだと伝わります。

IMG_0011(2)【甲板乗船者は救命胴衣を着用:堀切~沖島】

◇人が定住するようになったのは、後白河天皇と崇徳上皇に分かれて皇位継承を争った「保元の乱」(保元元年[1156])、同様の政権争いの「平治の乱」(平治元年[1160])による源氏の落武者たちが山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われており、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。

◇南北朝時代には、戦いに敗れた南朝軍の一部が越前・新田義貞との連絡網を確保し、食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、さらに室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田*(大津市)の「湖賊」が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に亙って「沖島」に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。

◇室町幕府8代将軍・足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じましたが、その後の戦国時代には織田信長が朝倉義景に対する元亀元年(1570)の「手筒山・金ケ崎の戦い」や浅井長政に対して行った天正元年(1573)の「小谷城攻め」の際には島民に船を差し出すように命じ、これらの戦いで活躍したこともあって、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されました。

P1110261②奥津嶋神社より八幡_堀切方面

津島神社から観た沖島集落】

◇戦国時代には琵琶湖水運の重要拠点として関所が設置され、通過する船は「関銭」を徴収される代わりに「沖島」の島民によって航行の安全が保証されました。この島の関所は当初は六角氏の影響下でしたが、後に本願寺系の自治都市「堅田」*の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が許され、豊臣政権下の天正13年(1585)頃も存在していたようです。「文禄の役」(1592)の朝鮮出兵にも従軍し、「関ヶ原合戦」後の徳川家康による石田三成への「佐和山城攻め」でも水軍として活躍しました(沖島共有文書)。

(*「堅田」:「関西地図の会」第223回行事「中世自治都市・湖族の郷・堅田」)

◇江戸時代に入っても慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても、京都町奉行で「沖島」側の主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、第二次大戦後の漁業法改正により消滅しました。

人口  文化2年(1805)には戸数は43戸・194人でしたが、一時期は戸数が100戸余りに増え、安政年間の火災で一部住民が対岸の町(近江八幡市船木町)に移住しました。かつての沖島は、彦根藩と対岸の伊崎寺*の半分ずつの領地とされていましたが、明治22年の市町村制施行後は、「蒲生郡島村 大字沖島」となり、昭和26年に蒲生郡八幡町に編入された後、昭和29年に現在の近江八幡市となり、現在は約140世帯、約400人が居住しているそうです。(*伊崎寺:「棹飛び」修行の寺:天台宗・延暦寺支院) 

IMG_0013(2)

【伊崎寺・棹飛び(細長い厚板から湖面へ僧らが飛び込む)】 

 農業 島内では農業と言えるほどの規模の生業はなされていませんが、南岸東部と西岸において、都会の「家庭菜園」の集合体のような畑・菜園が僅か200m×30m程の平らにされた土地に造られて、日常の野菜の作られていますが、稲作は島内では行われていません。水源が少なく、「畑」への水やりも雨が降らないと湖岸に下りてバケツで水を汲み上げては撒くことは日常茶飯事で、主婦による水汲みはよく見かけられ、重労働でもあります。   ◇島の西岸に沿って3m四方一区画(千円?)で買われた畑が浄水場付近まで広がっており、主婦が菜園などに活用されていますが、稲作の水田はありません。

P1110253畑地_西岸

【島内畑作風景:沖島西岸・千円畑】

生活環境 「沖島」は「淡水湖」の中に人が住む島としては国内唯一で世界的にも珍しく、昭和3年に沖島にランプが灯り、昭和23年に湖底ケーブルによる送電が始まりました。水道は昭和35年に上水道の敷設、昭和55年に簡易水道の設置、昭和57年に下水道の完備と進んできましたが、それ以前は、島には井戸が無く、早朝に琵琶湖から水甕に水を汲んでおき、それを生活用水として活用されていました。

P1110258②狭い路地_中央部

【集落中央部の路地(通り抜けねば目的地へ行けない)】

◇島内では、移動できる範囲も東西約1㎞、南北約0.5kmと狭く、道路も一部の中心道を除き、三輪自転車が精々通れる露地が多いので、老人たちは三輪自転車に乗って少々の荷物とともに移動しています。依って、自動車が少なく、極一部の短距離でも軽トラックが大型荷物の移動に使われているようです。                                   P1110256

【道路は自転車・三輪自転車しか通れない:沖島西岸地区】

◇沖島の西岸地域には北西季節風の「比良颪」などによる風波対策として、湖岸に近い家々では石垣を積まれて防がれている所が一部にありますが、そのような波の心配の無さそうな南岸中央部でも石垣を敷地の前面に積まれている所があるのは、大雨の折に、琵琶湖の瀬田川による下流への「排水」が実施し難い場合に湖面が上昇することを懸念してのことと思われます。

P1110250②防波石垣_北西風

【風波避け石垣積み:沖島西岸地区】 

P1110269②防増水石垣_島中央南岸

【湖面上昇対応石垣積み:沖島南岸中部地区】

瀛津嶋神社(奥津島神社)

◇沖島西側にある頭山の東裾に鎮座しますが、元明天皇の勅使の下、和銅5年(712)に右大臣淡海公・藤原不比等(鎌足の子)により、社殿が創立されましたが、起源は舒明天皇(在位629~641年)時代にあるとのことです。これは神功皇后が九州から百済へ出兵する折に、海の大荒れを宗像神社に祈願して無事凱旋したことから、藤原不比等が淡海での航海安全・五穀豊穣・水火避難を祈願する祭事が催されたものと伝わります。

 

P1110265P1110267②扁額瀛津嶋神社

【奥津島神社社殿と鳥居扁額:尾崎行雄(愕堂)書

西福寺  (浄土真宗・掛嶌山)

◇漁港より約200mのところにあり、細い路地の角に『蓮如上人旧蹟』の石碑が無ければ通

り過ぎる。細い路地は西岸にも通ずる道で、西福寺の門前に出ます。

◇当寺は、約540年前、本願寺第8代門主・蓮如上人に帰依した源氏の落武者の末裔・茶谷重右衛門が得度を許されて、釈西了の法名を受け、島の北東に位置する掛嶌に庵を建てたのが始まりで、天保13年(1842)に現在地に寺基を定めて堂を建立され現在に至ります。

P1110244②西福寺【西福寺本堂・正門】

◇道場から寺院への移行を示す証拠として、道場の本尊は「虎斑の名号」(六字の名号は蓆の上で書かれたので虎の斑のように見えた)といわれ、実如上人(本願寺9代門主:蓮如五男)の頃、阿弥陀如来が安置され寺院としての形態が始まりました。当時の絵像本尊は、実如上人より授けられ裏書には、「江州西福寺奥島北道場物也」とあり、後に御木像安置により浄土真宗の寺となりました。

 ◆弁財天

◇「弁財天」への上り口は、小学校から700mほど東南の岬の東側にあります。

◇伝説的には、現在の「弁財天」社裏の鷲岩に神が降臨して祭祀場として祀りが行われ、後に現在地に移されて、跡地に「弁財天」が祀られたそうです。「湯ノ花」を奉げて祈った場所が「湯ヶ谷」(別名・ヤンタン)と伝わります。

また、足利幕府8代将軍義政の側室今参局は、正妻日野富子の怒りを受けて「沖島」に流され斬殺されたので、島民はその怨念を怖れて雨乞い弁天を勧請して供養したとも伝わり、さらに、彦根・長松寺の僧が記した「沖島弁天記」には、沖島の湖岸端坊谷(茶谷)に島民の願出により弁財天を祀り風水害・遭難の災害を転ずることを願ったとも伝わります。                                   ◇祭神は奥津島姫命で、竹生島の惴津姫命、多景島の多紀理比賣命と併せた三神は天照大神が「天の真名井」[琵琶湖]で生んだ三神との伝説があります。

IMG_0028(2)【湖岸の弁財天鳥居】

 ◆ケンケン山(見景山)

◇地元では、西側の主峰を「ケンケン山」と呼び、お花見広場、ホオジロ広場の見晴しの良い広場があり、湖西・湖東の連山が見渡せます。

 OLYMPUS DIGITAL CAMERA【ケンケン山内を登山中】

◆ホンミチ

◇漁港から小学校に向かう山側の道は「ホンミチ」と呼ばれる本島の「メイン・ストリート」です。

 

【参考文献】

1.「滋賀 近江八幡 水都八都」(18)、(社)近江八幡観光物産協会、2002.

西居正吉:「沖島物語・神の島に暮らして」、2003.

3.沖島漁業協同組合ホームページ。

 

【2017年7月8日催行、案内:荻野哲夫・宮﨑信隆、編集:宮﨑信隆】

サブコンテンツ

このページの先頭へ