■第279回行事・アーカイヴス(2017年3月)

■中國街道・神崎から尼崎

古くは延暦年間に、長岡京遷都に伴う神崎川と淀川を繋ぐ水路の開削により、神崎川が京と瀬戸内・西國を結ぶ重要な河川交通路として利用されるようになり、神崎・大物・尼崎などその名が残る港が「乗換港」・「風待ち港」・「中継貿易港」として利用されてきました。爾来、古い町並みを残す「尼崎」の歴史を旧「中國街道」に沿って辿ります。 コース阪急・園田駅*~遊女塚~神崎渡し跡・西川東公園*・西川八幡神社*~[旧・中國街道]~石道標(長洲連合福祉会館)~大物川跡公園*~築地~尼崎城・三の丸址公園~(市役所支所*)~[寺町] 本興寺・法園寺・如来院~(三和商店街)~阪神・出屋敷駅 (約10km)中國街道神崎尼崎②20000仮製明治18年測量

【中國街道・神崎~尼崎:1:20000仮製地形図「伊丹町」・「尼崎」(大日本帝國陸地測量部・明治18年測量)】

(地図は、図上の左クリックにより拡大します)

  尼崎城下町_市教委②  【尼崎城下町:尼崎市教育委員会】

中國街道

●大坂から発し、西ノ宮で「西國街道」に合流していましたが、中世後期に道筋が形成されました。 ・「大阪府令集」・「道路定則」(明治5年9月)の「大阪府申三〇九號」には『中國街道(北野村ヨリ十三渡シヲ經テ西ノ宮二到) 道幅三間』と記されており、「東海道街道」(野田村ヨリ今市村ヲ經テ河内枚方二到、道幅三間)、「山崎街道」(山崎ヨリ芥川ヲ經テ西ノ宮二到、道幅二間)、「茨木街道」(長柄渡ヨリ茨木ヲ經テ山崎二到、道幅二間)、「池田街道」(本庄渡シヲ經テ池田ヨリ能勢・丹波二到、道幅二間)、「住吉街道」(堺ヲ經テ紀州二到、道幅三間)、「奈良街道」(中道村・深井村ヲ經テ河内二到、道幅二間)、「高野街道」(天王寺村・平野ヲ經テ河内二到)、道幅二間)とともに、挙げられています。

「遊女塚」 

●「神崎」は湊として栄え『遊女発祥の地』といわれていますが、建永2年(1207)には、法然が讃岐へ流罪の途中に立ち寄り、教えを受けた遊女5人(宮城・吾妻・苅藻・小倉・代忍)が後に身の罪業を恥じ、川に投身しました。

・13世紀初め、鎌倉時代初期には架橋されており、入水した五人の遊女の遺体が水中より、この橋の近くに揺り上げられてきたので「ゆりあげ橋」という遊女伝説はあります。近くの住人たちが憐れんで塚を築き葬った現存墓碑は尼崎・如来院が元禄5年(1692)に建立されました。

P1030890②遊女塚 P1030908②

【遊女塚】             【「神崎五人遊女遺髪」:尼崎・如来院】  

舟渡し (神崎の渡し)                 

●天平年間(729~749年)、行基により摂播五泊(室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊)の一つとして「神崎川」河口に「河尻泊」が築かれました。

●延暦3年(784)、和気清麻呂の手で、長岡京遷都に伴って新首都と瀬戸内海を直接結ぶ目的で「神崎川」と淀川を繋ぐ水路の開削工事(延暦4年~)が行われ、「神崎川」が京と瀬戸内・西國を結ぶ重要な河川交通路として利用されるようになって以来、「神崎」・「大物」・「尼崎」など現在も残る地名の港が『乗換港』、『風待ち港』、『中継貿易港』として利用されてきました。

石燈籠                            

●文化元年(1804)頃建立され、「金毘羅大権現」・「願主・当所岸田屋治兵衛」と彫られています。

P1030892②石燈籠【燈籠:金毘羅大権現】  

神崎湊

江戸時代、攝津・池田、伊丹で最初に開発された「清酒」は、神崎の港より江戸へ積みだされましたが、江戸後期になると生産地~消費地間の「輸送日数の短さ」<速さ>が「品質競争」上、重要な問題となりました。牛馬の背に揺られて陸路で樽酒を神崎まで運び、 三十石船に積み、大坂・伝法で大型船に積み替え、江戸へ出荷することが、積み出し港の近い灘酒に比べて不利となり、池田・伊丹の清酒が後退しました。

関西清酒生産地

【攝泉酒造十二郷:文献5】(図上の左クリックにより拡大)   

・地名「尼崎」は、アマ(海士)と地域の端・先端のサキが結び付いた説が強く、鎌倉時代久安年間(1145~51年)に開発された新地に「尼崎」の名が付され、神崎川の河口にあり、砂州が発達して、北部の尾浜~潮江付近の東西ラインが最北の砂州で、次に出現したのが難波~長洲の東西ラインでと考えられています。最も南で最後にできたものが現城跡付近の東西ラインで「微高地」になっています。

仮製地形図尼崎明治18年②

【東西に3列の細い「砂州」がある・1:20000仮製地形図・明治18年:藤本原図】

(図上の左クリックにより拡大) 

元来、「尼崎」は淀川、猪名川、武庫川のデルタ地区に生成しており、「芦刈島」・「大物浜」(だいもつはま)・「尼崎浜」とも言われていました。

・平安末期・久安年間(1145-1151年)に「大物」の南に川を隔てて出現した砂州から成長した島状の浜地が「尼崎」で、地形的には「大物」と「尼崎」に分けられ、「尼崎」は正和4年(1315)には「大覚寺城」(大覚寺現存)が宗教・政治・経済・文化の中心として絵図に記載されています。

・中世の「尼崎」は、日蓮宗・一向宗の寺々が広大な敷地をもち、その間に武家勢力が入り込み、「大物」は陶器・材木などを交易して発展し、12世紀には近辺では「大物」に船頭が最も多く居住していたようです。「尼崎」も続いて水運を活用し、江戸時代の城下町へ発展しました。

中世尼崎推定略図②

【中世都市・尼崎推定略図:藤本原図】

(図上の左クリックにより拡大) 

尼崎藩領界碑 (西川八幡神社境内)

・旧西川村樋ノ口より昭和60年に発掘されたもので、同村は旧尼崎藩領で、西は次屋・浜(旗本・青山氏領)、南は常光寺(大和小泉藩領)各村と接しており、「大坂重視」政策のため、尼崎領内に他藩領が入り交る「入組領」が多くありました。

・宝永8年(1711)松平氏(後年、桜井氏に改姓)入封後間もなくに入組領の多い武庫・川辺・菟原各郡内に設置されたようです。

P1030895従是西②        P1030896従是東②

従是西他領 従是東尼崎領 従是北他領」 【領界碑・右二葉】

◇石道標(長洲連合福祉会館前)

●東面「左 尼崎 西宮」、南面「右 大坂 京 左 伊丹有馬道」、

・西面「右 尼崎 大坂」、北面「文化五年戌辰三月吉日」

P1030899道標左尼崎西宮②       P1030900道標右尼崎大坂②【石道標】

長 洲

●10世紀頃に形成された、東西に「長い砂州」(前出)の東端付近から地名が残り、呪術儀礼の行われ「長渚(ながす)崎」の遺名とも考えられています。

・「長洲荘」(ながすのしょう)あるいは「長洲御厨」(ながすのみくりや)が設置され、嘉暦元年(1326)年、赤松範資(のりすけ:播磨守護・赤松円心長男)らが起請文を出して、当時の領家(大覚寺)を尊重する旨誓約した記録があり(円心二男・貞範も「御厨」に入っていた)、このことより、播磨・美作・備前三国の守護になった赤松氏は尼崎付近にも覇権を持っていたことがわかります。

大物(だいもつ)

●平安時代、陶器や材木の集散地であり、巨材のことを「大物」(だいもつ)といわれていたのが地名の始まりといわれています。

尼崎城(琴浦城)

●元和3年(1617)、戸田左門氏鐡が5万石で膳所(ぜぜ)から尼崎藩主に転封となり、三重の堀をもち、本丸に二重の付櫓を二棟付属させた複合式四層の天守と三棟の三重櫓を上げた城を築き、約4万坪の城郭や町割、排水溝等が建設され、現在の尼崎~神戸地域を支配しました。

・寛永12年(1635)より青山氏4代は本格的な城下町造りを行い、宝永8年(1701)より松平(後、桜井に改名)氏が明治維新まで7代続き、明治6年の廃城令により破壊されました。最後の藩主・桜井忠興は「博愛社」(日本赤十字社前身)を起し、西南戦役等で活動して、「桜井神社」(城跡南方)として歴代桜井家藩主が祀られています。 江戸初期_尼崎絵図②

【尼崎城下町絵図・江戸初期:藤本原図】

●承応元年(1652)に、青山氏が入城後、城南の砂堆(小島と葭島)を埋め立て、東西4筋、南北6筋を造成しました。「葭島」ともいわれ、「中國街道」を城の南側の「築地」へ迂回させ、築地と城南西地間にかかる「戎橋」は文久2年(1862)に架橋されました。付近一帯は阪神淡路大地震の折に「液状化現象」により壊滅的被害を受けましたが、現在は復興されており、古い町並みは消滅しました。                      P1030901本興寺②【本興寺】

本興寺・寺町                            

●「本興寺」は法華宗本門流本山、日蓮を宗祖、日隆を派祖とします。

・日隆は妙顕寺(京都市)で日霽を師として修学しましたが、法華経について論争があり、日隆は「八品正意論」を提唱し、妙顕寺を出て本能寺(京都市)を建立し、日隆門流を興しました。日隆は尼崎巽浜の米屋二郎五郎を保護者として布教・伝道を行い、当寺を建立しました。当寺は、「本能寺の変」の直後、秀吉の「中國大返し」の折に、一行が当寺で休憩し、味方の集合・食料の調達を行ったところです。

P1030907寺町②【寺町】

●「本興寺」付近は、尼崎城の城下町建設の折に、町衆と寺院の政治的分離・西國外様大名の攻撃からの防御等を考慮して、「本興寺」、「大覚寺」はじめ11カ寺を城下町の北西端に集めて「寺町」とし、寺の跡地は町割を行い城下町に活用されました。

◇法園寺(ほうおんじ・浄土宗知恩院派)             

「寺町」の中にあり、開基は天文年間(1532~55年)・勝誉恵光法園上人で、肥後藩主・佐々成政が領地内の反乱を秀吉に咎められて、天正16年(1588)尼崎で切腹し、一石五輪塔に葬られています。

P1030906佐々重政複製墓碑②【佐々成政墓:法園寺(墓碑は複製)

【参考文献】

1.藤本誉博:「中世都市尼崎の景観復元」・辻川敦・大国正美研編『神戸~尼崎海辺の歴史』、神戸新聞総合出版センター、2012

2.坂江 渉:「尼崎の長渚崎と生島」・坂江渉編著『神戸・阪神間の古代史』、神戸新聞総合出版センター、2011.

3.小泉邦彦:「尼崎」・野外歴史地理学研究会編『近畿を知る旅』、ナカニシヤ出版、2010

4.兵庫県の歴史散歩編集委員会編:「兵庫県の歴史散歩」、山川出版社、2006.

5.神戸新聞「兵庫学」取材班編:「ひょうご全史」、神戸新聞総合出版センター、2006.

6.大国正美:「古地図で見る阪神間の地名」、神戸新聞総合出版センター、2005.

7.橘川真一編著:「兵庫の街道・いまむかし」、神戸新聞総合出版センター、1995.

8.藤岡謙二郎:「地理学と歴史的景観」、大明堂、1977.

【2017年3月11日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

サブコンテンツ

このページの先頭へ