■第278回行事・アーカイヴス(2017年2月)

東海道五十六次 =枚方宿~大日=  

●文禄3年(1594)、大坂と伏見に壮大な城を造り、併せて城下町も設えた豊臣秀吉は、両地を最短で結ぶために、毛利一族に淀川左岸の築堤(文禄堤)を命じ、堤上を街路「京街道」にしました。     

・今回は、枚方宿を過ぎた後、守口宿の手前・大日まで歩きます。

・なお、京より大坂までには、伏見、淀、枚方、守口の4宿が造られ、徳川時代には大津宿より西國へ下るものが京に入らぬようにするために、追分より伏見へ直接向かわせるように命じられました。街道は幅二間以上とされ、両側には九尺(一間半)の並木用敷地も整備されました。

【コース地図(赤破線):国土地理院発行110,000「枚方」・「茨木」(1枡目500m四方)

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コース地図説明入枚方大橋_出口10000枚方茨木②

コース京阪・枚方公園駅~鍵屋資料館~(枚方大橋)~出口・光善寺~太間天満宮~(淀川新橋)~茨田樋跡・遺跡水辺公園~(鳥飼仁和寺大橋)~淀川河川公園~淀川幹線水路~佐太渡し址・佐太陣屋址佐太天神宮~モノレール/地下鉄・大日駅[約12km]

枚方市立鍵屋資料館    (枚方市堤町)

○「鍵屋」は天正年間(1573~92年)の創業と伝わり、安永2年(1773)、高槻・柱本「くらわんか舟」の株仲間と枚方餅売り商人の間で起きた争論の際に作成された「御済配書写」の中に、「鍵屋」当主とみられる鍵屋太兵衛名が確認されており、伏見と大坂を結ぶ「三十石船」の船宿として江戸時代に栄え、平成9年まで料亭を営んでおり、19世紀初頭の建築として推定されています。

○江戸時代の「枚方」は、「東海道五十六次」(延長部)「京街道」の宿場町で、伏見と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港でした。

○当資料館は、平成9年まで料理旅館であった「鍵屋」の建物を利用しており、当時の淀川は、枚方側に食い込むように流れ、「鍵屋」が立地する堤町辺りも、裏手が淀川河岸に面していたので、トオリニワを抜けると船着き場に出られ、淀川を往来する乗合船の「船待ち」を兼ねた宿屋として栄え、近代以降は、枚方きっての料理旅館として、枚方周辺の人々に宴席の場を提供してきました。

IMG_1961鍵屋主屋【鍵屋】

○敷地内には、枚方市指定有形文化財の「主屋」と「別棟」の2棟があり、「主屋」は文化8年(1811)に建てられた町家建築で、「別棟」は昭和初期に改築された建物です。

◇郵便屋の渡し                                

○「枚方大橋」など淀川に橋が架かっていない時代に、対岸・摂津国との往来は渡し船で行われていました。当地・三矢~対岸・大塚間の「大塚の渡し」もその一つでしたが、明治10年(1877)の摂津側の鉄道開通により、淀川左岸一帯の郵便物を「渡し」を通して高槻駅まで運んでいましたが、昭和5年(1930)の「枚方大橋」の開通により廃止ちなりました。

郵便屋の渡し碑郵便屋の渡し・顕彰碑

場所は石碑より上流約570mのところでした。

 

◇明治十八季淀川洪水碑                          

○明治18年(1885)6月に2日間の豪雨の翌3日目早朝に三矢村・伊加賀村の淀川堤防が決壊し[伊加賀切れ]、約80mの切れ口からの濁水は茨田郡一帯から讃良・交野・東成各郡、大阪市中にまで水害を及ぼしました。また、同年7月にも同切り口からの濁水害が府内755カ村・7万余戸に及びました。  

IMG_1967②明治十八季洪水碑明治十八季淀川洪水碑

◇枚方大橋                                

○高槻市と枚方市間の淀川に架かる橋で、国道170号線(大阪外環状線)および府道6号線(枚方亀岡線)、府道139号線(枚方茨木線)の道路橋です。淀川に架かる橋のうち、大阪府内で一番上流にある橋で、長さは689mあり、南詰では府道13号線(京都守口線・旧国道1号線)と接続しています。

枚方大橋Ⅳ枚方大橋     

○昭和5年に初代の「枚方大橋」が完成し、2車線の道路橋として使用開始された、両端部が15連の直弦トラス構造です。京阪電車の旧宇治川・木津川鉄橋を転用のため移設され、中央部は2連の曲弦トラスが新規に製作されました。

○現在の橋は2代目で、「都市計画道路枚方高槻線」の一部として計画され、昭和42年上流側2車線分が竣工した後に旧橋を撤去し、同46年に下流側へ拡張され両側4車線となりました。

◇光善寺[出口御坊](浄土真宗本願寺派・淵埋山・枚方市出口)

○文明7年(1475)、京を追われた蓮如が越前吉崎へ逃げて「御坊」を開き、3年後には海路で若狭・小浜に移り、丹波から攝津・出口郷へ入りました。その折に出口の住人達から歓迎されて逗留し、堂宇を建て、発展して「光善寺」となりました。蓮如の長男・順如上人が初代住職となっています。

IMG_1971出口御坊光善寺② 光善寺

○なお、「出口」とは、河内より淀川対岸の摂津への「出口」としての渡し場がああたことに由来します。

◇蓮如上人腰掛石                             

○「蓮如上人御遺跡」の石柱の横にある幅30㎝程の石で、御堂が完成するまでここで村人に説法していたと伝わります。

IMG_1975②蓮如腰掛石腰掛石】     

◇段蔵 (高槻・摂津では「段倉」)

○今回の街道筋沿いのごく一部の民家では、かつての水害から家財を護るための「段蔵」が現在も利用されています。

IMG_1475段倉 鳥飼上【段蔵】  

淀川左岸幹線水路   (枚方市~寝屋川市~守口市)                          

○「淀川左岸幹線水路」は、枚方から寝屋川を通り、守口まで灌漑用水を配水しています。水量は豊富で、水面の高さは両岸より数十cmしか下がっていません。

○昭和45年(1970)12月に、幹線水路の左岸堤防を拡げて国道1号線の混雑緩和のため「寝屋川バイパス」となりました。

 

  IMG_1117淀川左岸幹線水路_点野付近淀川左岸幹線水路

【コース地図・出口~点野(赤破線):国土地理院発行110,000「香里園」・「寝屋川」

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 コース地図説明入_出口_点野10000香里園寝屋川

茨田堤                               

○『日本書紀』仁徳天皇11年条には、淀川に「茨田堤」が築かれ、築堤に苦労したことが次のように記載されています:

・この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をなかなか繋ぐことができず、天皇が心配していたところ、ある日夢の中に神が現れて「武蔵人・強頸(こわくび)と河内人・茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら偽りの神だから、私は人柱になることはできない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに浮き上がり、下流へ流れて行きました。衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。

・仁徳天皇13年条(には茨田屯倉(まんだのみやけ)が設けられ、この地域一帯が朝廷によって管理・運営されたことが記されています。『古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。秦人とは渡来人のことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、完成することができたようです。   茨田堤碑茨田堤碑

◇西正寺    (浄土真宗本願寺派・退摩山・寝屋川市太間町)

○茨田連衫子の子孫・茨田宗左衛門の開基と伝わり、「応仁の乱」における畠山一族の争いなどをみて、武士ながら蓮如の布教で帰依して弟子となり、随喜と名乗って自宅を道場にしたのが始まりと伝わります。

◇太間天満宮  (寝屋川市太間町)

○祭神は菅原道真と茨田連衫子ですが、大和王権によって新たに造営された「難波高津宮」の治水対策の目的などから、淀川に堤防を20kmほど築かれたことは前記(茨田堤碑)のとおりです。 ○当初は杉子(ころものこ)を祭神としていて、友呂岐(ともろぎ)神社が菅原道真公を主祭神としたために天満宮を名乗るようなったとの説もあります。 IMG_1129_160714河川敷_テニスコート

【淀川河川敷公園:野球場・テニスコートあり】

淀川新橋    (高槻市柱本~寝屋川市太間町)                          

○「淀川新橋」は、府道19号線(茨木寝屋川線)の道路橋で、淀川に架かる橋の中、大阪府内では上流側から数えて2番目の橋です。寝屋川市街と茨木市街を最短経路で結び、橋の南側では国道1号線寝屋川バイパスと、北側では府道16号線(大阪高槻線)と接続します。

○中央分離帯付きの両側4車線で、片側(上流側)に歩道が設置されています。昭和25年~30年頃には「鳥飼大橋」と「枚方大橋」間に橋がなく、人口増加と自動車の普及に伴い、寝屋川バイパスの開通と同時期の昭和40年代後半に建設されました。  

IMG_1978【淀川新橋】

【コース地図・点野~佐太(赤破線):国土地理院発行110,000「寝屋川」

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コース地図説明入仁和寺_佐太10000寝屋川② 

茨田樋(まったのひ)跡・遺跡水辺公園 (寝屋川市点野)          

○本「樋」は、江戸年間から淀川の土手の下を通して小規模な取水がはじまり、淀川流域の生活用水・農業用水として利用されてきた遺跡として「茨田樋」とともに遺跡公園として遺存されています。

○「茨田樋」は、明治18年の「伊加賀切れ」後、明治37年1月、北河内郡長・斉藤研一の先導で、太間・点野・仁和寺の三樋管の合同がなって「茨田樋普通水利組合が設立され、明治38年に太間(たいま)・点野(しめの)・仁和寺(にわじ)の三樋門を点野に統合して設けられた樋門(ひもん)で、現存するものです。

○「点野ノ樋」は点野・葛原・対馬江・高柳・黒原(現・寝屋川市)の立会樋、「太間ノ樋」は太間・池田(現・寝屋川市)の立会樋、「仁和寺ノ樋」は仁和寺・黒原と庭窪村の金田・北・東・藤田(現・守口市)が水掛りとなって

いました。

IMG_1159茨田樋遺跡水辺公園②【茨田樋跡・遺跡水辺公園

○淀川左岸で枚方から毛馬まで8カ所にあった用水樋門は、昭和5年に廃止されて、「淀川用水樋普通水利組合が結成されて枚方市に大規模な樋門の1カ所として「淀川左岸幹線水路」(前記)が造られて、各村々へはその枝線をもって旧井路を利用することになりました。

○「二十箇用水樋」*は寝屋川市木屋にあったもので、「二十箇用水」は天正末から文禄3年(1594)にかけて豊臣秀吉が築いた文禄堤により淀川分流が断たれたため、友呂岐庄では木屋村の堤防に取水管を入れて灌漑用水にしました。

・当初は友呂岐6箇村(三井を除く、木屋・郡・田井・平池・石津・太間)の灌漑用水でしたが、後に大利・神田が加わり「八箇用水路」と称しました。さらに近郷九箇村(島頭・巣本・下馬伏・上馬伏・岸和田・野口・打越・横地・常称寺)が加入し、合計17箇所となりましたが、友呂岐6箇か村を別格扱いとし、「上11箇村」といいました。

・更に、享保9年(1724)に「後入り9箇村」(木田・御領・氷野・三箇・赤井・太子田・灰塚・尼崎新田・鴻池新田)が加わり、「上」と合わせて20箇村の用水路になり、「二十箇用水」といわれるようになりました。

・市域では、石津の南方から寝屋川に沿って、友呂岐悪水路(現在は「二十箇用水路」と一本化されて「友呂岐水路」)と並行して流れ、萱島南方で東流して寝屋川に合流しています。

(*「木田水郷」:「関西地図の会」第235回行事「寝屋川木田水郷跡」2013年7月6日催行)

鳥飼仁和寺大橋(寝屋川市仁和寺本町2丁目~摂津市鳥飼中2丁目)

○本橋は、府道15号線(八尾茨木線)の延長688mの有料道路となっている「斜張橋」で、普通自動車通行料金が100円なので「100円橋」と略称されてきましたが、歩行者は無料の橋道路です。

○「鳥飼大橋」(中央環状線)の交通渋滞緩和と、大阪府東部エリア・同東北部エリアの交通利便性を図るため、昭和53年(1983)に建設着工されて、30年間の有料期間を設けた上で同57年に供用が開始され、大阪府道路公社が一般有料道路として管理しています。昭和63年、「鳥飼大橋」と「淀川新橋」の渋滞解消のため、両橋間に本橋が架設されました。                                        IMG_1474鳥飼仁和寺大橋_鳥飼上から - コピー

【鳥飼仁和寺大橋】                         

◇仁和寺 氏(うじ)神社 (寝屋川市仁和寺本町)

○地名「仁和寺」は、かつて京都・仁和寺の所領であったことに由来し、創建は室町時代初期と考えらており、当時は白山権現社と呼ばれていたようです。「応永の乱」後、この地方が男山八幡宮の社領となったため、八幡宮を境内に勧請した。

○寛永10年(1632)に永井信濃守尚政が領主になり、菅原道真を祀るようになって以来、天満宮とも称されるようになりました。延宝2年(1674)、淀川堤が決壊して社殿が流された際、この地区中央に再興されました。昭和62年の不慮の罹災の際には神体は安泰でしたので、氏子の奉賛により平成元年に再建されました。

IMG_2323再建時氏子寄進

仁和寺 氏神社:再建時の氏子による献燈籠の列(昭和48年銘)

◇佐太陣屋址   (守口市佐太中町)

○元美濃加納藩(永井氏)の飛地支配陣屋で、渚(枚方市御殿山)にあったものを移設されましたが、明治2年に公収されています。この佐太地域は、京都・大阪間の交通・軍事上の要地であったことから、美濃国加納藩(3万2千石)の永井氏が貞享年間(1684~88年)に摂津・河内の1万2千石を領有支配して、約5000㎡の敷地に屋敷・蔵・牢屋敷等を次々と整備されました。ここは、加納藩大阪蔵屋敷の役目を果たし、年貢米の納入、加納藩の特産物・提灯・傘等もここに集積して大阪で売捌き金融・物資の調達など加納藩の台所の役割を担っていたようです。大坂・夏の陣の緒戦は当地で起こったとも伝わります。

◇来迎寺 (浄土宗・紫雲山・守口市佐太中町)

○元、融通念仏宗(大念仏宗)佐太派の本山で、正平2年(1347)、「大念仏寺」(大阪市平野区)の7世・法明上人の弟子、実尊誠阿上人西願が河内國茨田郡下仁和寺庄守口村(守口市来迎町)に天筆如来*を本尊として一宇を建立したのが始まりとされています。

*「天筆如来」:石清水八幡宮を創建した僧・行教が貞観元年(859年)に感得したとされる、阿弥陀三尊の絵像のこと。

○後に南朝・後村上天皇の勅願寺となり、釈迦如来立像の寄進を受け、本堂に「放光殿」の号を賜っています。その後、延宝6年(1678)、現在地に落ち着くまでの332年間に茨田郡内で26回の移転を繰り返したそうです。

・その理由は、2世の時代以降に北朝方・足利義満から圧力を受けて創建当初の堂宇を維持できなくなったこと、住職相続を直檀家の内34家からなる床仲間からくじ引きで決めたこと等から、代替わり毎に相続者の居村に移転したものと考えられています。

IMG_1989_守口_来迎寺【来迎寺境内】

佐太渡し間宿佐太 (あいのしゅく・さた・守口市佐太西町2丁目)

○「佐太天神宮」近くの「天神浜」は「佐太の渡し場」であり、国道1号線の淀川側に標石「淀川筋佐太渡船場」が建っています。摂津市鳥飼と守口市佐太間に運航していましたが、架橋により昭和48年廃止されました。 

  淀川筋佐太渡船場_石碑Ⅳ  【「淀川筋佐太渡船場」石碑】

佐太天神宮  (守口市佐太中町)

○当社は、昌泰4年(901)、菅原道真が太宰府へ配流される途中、自身の荘園であった当地に滞在した時、自作の木像や自画像を残し、没後50年の天暦年間(947~957)に、道真を慕って祠を建てたのが当社の創建と伝わります。 IMG_1087

【佐太天神宮・鳥居:淀川岸側に向いている】

○元来、この付近は菅原道真の領地で、道真が太宰府への配流で淀川を下って来た折、ここに留って赦免の沙汰を待ったことから佐太と呼ぶようになった、との説もありますが、「佐太」は枚方宿と守口宿の「間宿」(あいのしゅく)として栄え、年貢米の積出場にもなっていました。

○室町時代には「大庭庄」の惣社として崇敬されていました。文安3年(1446)の箱書のある「天神縁起絵巻」六巻のほか、永井家より寄進をうけた狩野探幽の「十一面観音画像」はじめ、後水尾上皇他、皇族・公卿・画家・学者・高僧等の江戸初期の美術作品も奉納されています。

○現在の社殿は、永井尚政・尚庸父子や淀屋辰五郎らの保護・支援を受けて整備された、江戸時代初期の重要な建造物ですが、寛永17年(1640)に本殿、慶安元年(1648)に石門、配電、幣殿が建立され、「大和守安定の刀」とその「拵」(こしらえ)の「金梨子地塗糸太刀拵」は、江戸初期・寛文10年(1670)銘があり、安定の作品中でも大作に属する貴重なものとして大阪府有形文化財に指定されています。

IMG_1097【佐太天神宮・南門・本殿】

◇三等三角点

「太間」(淀川河川公園太間サービスセンター脇)

N34°46′57″.7723 E135°36′35.1196 標高5.69m

選点・1989.6.30, 設置1990.1.30 

  IMG_0121三角点太間【三等三角点・太間

「佐太」(守口市立庭窪小学校校庭端)

N34°4522.4961、 E135°3453.8130 標高2.80m

選点・1989.7.11 設1989.8.9

IMG_2314【三等三角点・佐太】  

【参考文献】

  1. 市立枚方宿鍵屋資料館編:「鍵屋資料館」、鍵屋資料館HP、2016
  2. 守口市編:「来迎寺、佐太陣屋」、守口市HP、2016.
  3. 寝屋川市下水道室編、「点野・茨田樋遺跡水辺公園」、寝屋川市HP、2011
  4. 寝屋川市編:「茨田堤碑、西正寺」、寝屋川市HP、2017
  5. 寝屋川市文化スポーツ室編、「二十箇用水」、寝屋川市HP、2013
  6. 鈴木和久:「河内の地形と地質」、近畿大学教育論叢、22(2)、69、2011
  7. 淀川ガイドブック編集委員会編:「淀川かわあるき」、読売連合広告社、2007
  8. 綾 史郎:「江戸時代における淀川の洪水と水害・治水対策」、『淀の流れ』、2004
  9. 上方史蹟散策の会編:「京街道・高麗橋~伏見宿」、向陽書房、2002.
  10. 内田秀雄・中井稔:「段蔵」、人文地理(16)、 314、人文地理学会、1964.

【2017年2月19日実施・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】

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