■第274回行事・アーカイヴス(2016年10月)

★朝鮮通信使が通った朝鮮人街道に沿って  (Ⅱ)

       (近江八幡・小船木~安土)

 

「朝鮮人街道」は、「通信使」一行500名の大行列十一度も通った江戸時代の「脇街道で、「京道」、「浜街道」、「朝鮮人道」などとも言われてきました。野洲~篠原間に続き、近江八幡の西の入口の小船木から同市街~安土へと「通信使」の大行列のように、沿道の風物を愛でながら歩きます。

【朝鮮人街道(破線)・近江八幡市街・国土地理院発行1:25000「近江八幡」】 

(図上の左クリックにより拡大)

コース:JR近江八幡駅*~[路線バス]~小船木口~願成就寺*~本願寺八幡別院*~[京街道]~八幡商人旧邸街・駐車場*~日牟礼八幡宮**~仲屋町通~旧八幡郵便局[Vories建築]~縄手通~[常夜燈]~黒橋~西庄~長命寺川・街道大橋

~長田~淨厳院*~(常楽寺)~JR安土駅 (約10㎞)

◆近江八幡市
◇加茂で県道と合流し、真直ぐに小船木橋に至りますが、この間の「道」は明治期には曲りくねっていましたが、昭和12年頃に改造されました。白鳥川の小船木橋を渡って直ぐに左に折れて、「小船木」商店街に入ります。

◇小船木通りの終りの左手には「願成就寺」があり、開基が聖徳太子により593年と伝わります。八幡山の麓から豊臣秀次により日杉山に移されました。国重要文化財・十一面観世音菩薩立像(平安後期作)が本尊です。

◇願成就寺      (天台宗・比牟礼山・近江八幡市小舟木町)

・創建は推古天皇27年(619)、聖徳太子が勅願により建立した48伽藍の最後の寺院として開かれたと伝わります。寺号は聖徳太子の誓願が成就したことから「願成就寺」となったそうです。本尊・十一面観音立像は太子自ら彫り込んだ像と伝わりますが、その後、衰退し、平安時代初期に延暦寺末寺として再興され、寺運も隆盛して現在も数多くの寺宝を所有されています。当初は日牟礼山(八幡山)西南にありましたが、天正3年(1575)に豊臣秀次が八幡山城を築く際、鷹飼に移され、更に現在地に移されました。

◇寺内の三つの芭蕉句碑が立てられており、

百年忌は「一声の江に横たふや ほととぎす」(元禄6年[1693]50歳の作)

二百年忌には「比良三上雪さしわたせ鷺の橋」(元禄3年師走の作)

三百年忌には「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」(貞亨4年[1687]夏の作)の句が刻まれています。

願成就寺本堂】

小船木通の突き当りに石道標「右長命寺 左京みち」があります。道標の前から西京街道商店街を東進しますと、右手に白漆喰造り築地塀の「本願寺八幡別院」があり、更に進んで左(北)側の「正栄寺」(中官の休憩所)に至ります。

◇守山宿を出発した「通信使」一行は八幡で昼食をとりましたが、正使・副使・従事官(三使)ら上々官、上官が「八幡別院」で、中官が「正栄寺」・菊屋弥兵衛方、下官が「蓮照寺」、通詞が桔梗屋庄太郎方・堺屋権兵衛方・塩屋九郎兵衛方、両長老伴僧は「宝積寺」・油屋九郎右衛門方・江戸屋七左衛門方、宗対馬守(対馬藩藩主)は「正福寺」など72軒に分れて昼憩をとりました。

◇本願寺八幡別院

本願寺11代顕如の開基により、永禄元年(1558)蒲生野に「金台寺」として建立されましたが、信長の安土山築城、秀次の八幡山築城とその城下町へ移転して現在に至ります。

本願寺八幡別院・本堂

小幡町付近には、「五個荘(小幡)商人」(第122回行事・2003年11月22日探訪)が移住してきましたが、遠隔地の独占的通商権を得て活躍してきた近江商人は、信長による「楽市楽座」創設以降、交易拠点を基礎にして活動するようになりました。天正13年(1585)・豊臣秀次が八幡城を築き、城下に楽市楽座を設けてから、安土にいた商人も含めて多くの商人が八幡へ移りました。

◇続く、新町が「八幡商人」の拠点で、街道と交叉する角に、標石「左京街道 右町なみ 新町通り」が立ちます。新町通りの両側は、板塀に見越しの松を配し、端正な「出格子」・「見越しの松」の「八幡商人」の本宅が現在も遺存して並んでいます。主人が江戸や大坂などの大店に滞在する一方で、商家の妻は本宅で留守を預かり、地元で採用した丁稚の教育も本宅の役目でした。
◇辻の南角は旧「伴庄右衛門家」本家で、現在、「市立資料館」となっており、「郷土資料館」・「歴史民俗資料館」・「旧西川家住宅」・「旧伴家住宅」の4館の構成となっています。

◇旧伴家住宅  (市指定文化財)

伴庄右衛門は江戸初期に活躍した「八幡商人」で屋号は「扇屋」、寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商いました。5代目・伴蒿蹊は18歳で家督を継ぎ、大坂・淡路2丁目に出店し、学問にも興味を持ち、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者でもありました。明治維新等の激動期に衰え、明治20年に閉じました。

・現存・旧住宅は7代目・伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、文政10年(1827)~天保11年(1840)に建築したもので、明治時代に当時の八幡町に譲渡された後、小学校・役場・女学校と変遷し、戦後は「近江兄弟社図書館」として使用され、後に近江八幡市立図書館となりましたが、移転に伴い平成9年にその役目を終了しました。その後の整備事業を経て、平成16年4月より「市立資料館」の一部として開館されています。

絵馬「安南渡海船額」:日牟礼八幡宮

◇郷土資料館 旧「西村太郎右衛門宅」跡地)

旧「西村太郎右衛門宅」跡地で、西村家の屋号は「綿屋」で、蚊帳・木綿を扱っていました。太郎右衛門は2代目嘉右衛門の次男として、慶長8年(1603)に生まれ、20歳の時に角倉了以の御朱印船で長崎から安南(ベトナム)へと旅立ち、25年後長崎まで帰りましたが、鎖国により上陸が許されず、引返して安南の地で没しました。彼が、故郷への思いを託し、絵師(菱川孫兵衛)に描かせた絵馬「安南渡海船額」が日牟礼八幡宮に奉納されています。

 旧西川家住宅                 

・西川利右衛門の屋号は「大文字屋」で、初代仁右衛門が永禄9年(1566)・19歳で創業し、天正13年(1585)に八幡町へ移転しました。奈良蚊帳近江畳表などを商って財を成し、江戸・京・大坂に店舗を構え、寛永5年(1628)・2代目甚五郎が承継しました。 

【旧西川家住宅】

・西川家は初代~11代の約300年にわたり活躍し、昭和5年に子孫が途絶え、土地と建物は市に寄贈されました。現存建物(主家)は3代目が宝永3年(1706)に建造したもので、昭和58年・国重要文化財に指定され、昭和60年に改修されました。    

◇旧森五郎兵衛邸   (非公開)

●森家は伴傳兵衛家に勤め、別家を許されて煙草や麻布を商い、江戸日本橋・大阪本町に出店し呉服・太物などを扱いました。昭和6年に森五商店東京支店として、日本橋室町に7階建ビル(森五ビル、現近三ビル)を建造しましたが(村野藤吾の代表作)、その後森五商店は倒産し、近三商事というビル管理会社として現存します。「歴史民俗資料館」は森家控宅です。

◇八幡堀

「八幡城」築城時に掘られた内堀で、両端は琵琶湖に通じて運河兼港でした。幅員約15mで全長6kmあり、豊臣英次が八幡山城を築城した際、市街地と琵琶湖を連結するために造られました。城下町の都市計画として整備され、城を防御する軍事的な役割と、当時の物流の要であった琵琶湖の水運を利用する商業的役割を兼ね備えたものです。船・人の往来の増加により商業が発達し、廃城後の江戸時代には、八幡商人による町の発展に大きな役割を果たしました。町は大阪と江戸を結ぶ重要な交易地として発展し、堀沿いには裕福な豪商たちの白壁の土蔵や旧家が建ち並び、現在、八幡堀を含む旧市街地約13.1haは「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されています。                          【八幡堀・明治橋】

◇日牟礼八幡宮

八幡山(283.8m)の南麓にある神社で、誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比売神(ひめかみ)の三神を祭神とする旧八幡町の総社で、平安時代の創建と伝わります。京都・八幡市の石清水八幡宮の神霊を勧請し、約44,000㎡の神域には榎・椋の樹が茂り、秀次の八幡城築城の際に、山腹の「上八幡社」を現在地の「下八幡社」に統合されました。寺宝に、江戸時代に商人・西村太郎右衛門が寄進した「安南渡海船額」はじめ、祭神・三神の木像など国指定重要文化財があります。

【日牟礼八幡宮拝殿】

「朝鮮人街道」は、八幡の中心街仲屋町通との交差点を右折します。

 ◇仲屋町(すわいちょう)

・八幡城下形成時に仲買商人の町として成立し、町名は商売の仲買を意味する「すあい」に因みますが、「市助町」とも呼ばれ、秀吉奉行衆の一人・一柳一助直末が居住していたことに由来するとの説もあります。

◇仲屋町通から上筋通との交差点を左折し東進しますが、右手路地角に道標旧朝鮮人街道 左 永原町通り」が立っています。

◇商家の木戸にアートが飾ってあるのは旧「角大・近江屋久右衛門」*の近江商人野間清六の分家です。

*「角大・近江屋久右衛門」:延享年問(1744-1748)に下総・結城で醸造業を営んで財をなし、西井新兵衛、近江屋太兵衛らと共に「結城御三家」といわれた近江商人・野間清六のことで、結城藩水野家の御用金を承り、名字帯刀を許されました。家業は明治33年廃業しました。分家宅建物は昭和5年に建築され、平成16年に改築された京風数寄屋造り町家です。

上筋」を東進して「鍵手町」の辻に案内板が立っています。かつて、八幡城下における東入口付近のため、「高札場」があり、旅籠屋が設けられていました。慶安年中(1648~52)に幕府代官により旅籠屋仲間の結成が許可されました。

その交差点を右折して「縄手町」を南下し、「音羽町」をぬけて、県道2号に出たところに「常夜燈」が設置されています。県道26号を横切りますが、当道は武佐**で「八風街道」*に繋がっています。

*「八風街道」:近江國と伊勢國を結ぶ、鈴鹿山脈越えの街道で、中世には南方にある「千草街道」とともに近江商人の伊勢へ出る重要な通商交易交通路でした。八幡・八日市から,御園・山上を通って永源寺に至り,それから山道を政所・杜葉尾(ゆずりほう)と八風谷を辿って鈴鹿山脈の八風峠を越えれば朝明(あさけ)川沿いに伊勢平野に至ります。

**「武佐」:第122行事古代・近世の東山道/中山道を行く・武佐宿~老蘇~五個荘(2003年11月22日催行)

*「黒橋」:九里氏の残党は九里三重郎を盟主にして、再度当 城に立籠り、大永5年戦(1525)にて佐々木六角氏と合戦して討死して九里家は滅亡、廃城となりました。

【近江八幡重要伝統的建造物保存地区】

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黒橋」*を渡り、分れ道を右にとり、左右折をくりかえして、西庄集落に入り、円光寺・徳応寺を過ぎる。水路脇の「常夜灯」をみて、長命寺川(蛇砂川)の「街道大橋」を渡り、突き当りを右折し、「高木神社」の四辻を左折して、県道199号に入る。JR東海道本線と併走する街道は長田町を通過して安土町に入ります。

 ◇長命寺川

上・中流部を「蛇砂川」といい、旧永源寺町地域に発し、八日市南郊を西流し、近江八幡市で西の湖に注ぐ川で全長約33kmあります。中~下流は天井川で流末が狭い尻無川のため、よく氾濫し被害が続出しました。現在、源流部付替え・新川開削・支流分離等の改修が進行中ですが、「蒲生野」を潤す里川で蛍・翡翠(カワセミ)の棲む「生命の回廊」と言われるようになっています。

◆安土町    (近江八幡市)

松原橋で山本川をわたり、真直ぐに進むと「常楽寺」集落を過ぎて安土に入りますが、「常楽寺」なる寺は存在しません。                        松原橋から初めての十字路を右折して東海道線の踏切を渡ると、織田信長が近江・加賀両国の浄土宗本山として建てた「浄巌院」*があります。北門前の道は「景清道」*、「かげ京道」ともいわれています。

*「景清道」:平家再興を 祈願するため、京を目指した平家の家人・「悪七兵衛」こと伊藤景清が通ったと伝わり、東山道から繖山南麓・石寺を通り、繖山の鳥打峠を越え、桑実寺から小中の集落を経て浄厳院の門前を通る道。

◇浄巌院     (浄土宗金勝山・安土町慈恩寺)

●当地には、正平年間(1346-1370)に近江守護・佐々木六角一族の佐々木氏頼により建立された天台宗の「慈恩寺」威徳院がありましたが、後の兵火で焼失しました。

●天正5年(1577)・織田信長は栗太郡金勝山(こんぜさん:栗東市)の浄土宗の僧・浄厳坊明感を安土に招いて、「慈恩寺」の旧地に一寺を開き、明感を開山として浄土宗に改め「浄厳院」としました。信長は本堂は多賀村(現・近江八幡市)興隆寺弥勒堂を移し、本尊・阿弥陀如来坐像は愛知郡から移しました。天正7年5月には、信長の命により浄土宗(玉念・貞安)と日蓮宗の僧による仏教論争「安土宗論」が当寺で行われ、裁定の結果、宗論は日蓮宗の敗北となりましたが、この裁定の背後には信長の強い政治的意思(思い入れ)があったそうです。

【コース地図・安土付近(太破線)・国土地理院発行1:25000地形図「八日市」】

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【朝鮮通信使・全行程及び近江・美濃國内行程略図:門脇原図】

           

 

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【参考文

1.門脇正人:「『朝鮮人街道』をゆく」、サンライズ出版、1995

2.滋賀県教育委員会編:「近江城郭探訪」、サンライズ出版、2006

3.長浜市長浜城歴史博物館他編:「雨森芳洲と朝鮮通信使」、サンライズ出版2015。

【2016年10月15日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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