■第271回行事・アーカイヴス(2016年7月)

★ 真田丸 ・玉造~真田丸跡~茶臼山

●慶長19(1614)、真田信繁(幸村)は「大坂冬の陣」で大坂城の南側に出城「真田丸」を築き、徳川軍を撃退しました。翌年の「夏の陣」では、徳川本陣へ突撃して家康をあと一歩のところまで追い詰めましたが、遂に命を落としました。「大坂の陣」において、豊臣方として最も活躍した武将・真田信繁(幸村)の足跡をたどります。

【コース地図(玉造駅~茶臼山・赤破線)・1:10,000地形図「大阪城」・「天王寺」】 (図上の左クリックにより拡大)

コース地図三光神社茶臼山説明入10000大阪城天王寺②

コースJR玉造駅*~三光神社~心眼寺・真田丸址~(円珠庵)~(大阪国際交流センター*)~安居天満宮~一心寺*~茶臼山

 三光神社   (天王寺区玉造本町・宰相山公園内)

・鎮座地は「宰相山」とも「真田山」ともいわれ、大坂城の出城「真田丸」が設置された折の西南隅と推定されているため、「大坂の陣」のときに真田信繁が大坂城から当地までの掘った「抜け穴」と伝わる洞穴が社殿の下に残存し、境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像があります。しかし、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、「真田丸」を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとの説が強いです。

・当社の創建は反正天皇の時代(AD400年代初め)と伝わりますが、創建以来、武内宿禰の末裔・武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝えます。社伝によれば、寛文元年(1661)に一旦現在地南東の「鎌八幡」の隣に遷座し、宝永3年(1706)に再び現在地に戻ったと伝わります。かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫山」、「姫の松原」と呼ばれ、この高台からは生駒山・二上山・金剛山まで見渡せたようです。

 IMG_0393真田抜け穴説三光神社【真田丸「抜け穴」:三光神社】

・なお、「中風封じ」の神である陸前・宮城郡青麻(現・仙台市宮城野区)の「三光宮」(現・青麻神社)を勧請し、明治41年(1908)には、「姫山神社」に境内社「三光宮」を合祀し、社名を「三光神社」と変えられました。三柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいわれています。

◇心眼寺  (山号・真田山:天王寺区餌差町)

●元和8年(1622)に白牟和尚が真田幸村父子の冥福を祈り堂宇を建立したのが始まりで、境内地は幸村が戦捷(勝)をおさめた「大坂冬の陣」の出丸城郭跡(真田丸東端)で、創建から寺の定紋は真田家家紋「六文銭」とされ、第二次大戦による焼失後の復興をみた現在の山門扉にも、定紋の浮彫があります。

IMG_0403六文銭紋 心眼寺       IMG_0397_真田幸村出丸城跡碑_心眼寺  【六文銭紋:心眼寺門扉】                                                 【真田幸村出丸城跡碑:心眼寺】

  真田山小学校校章  【大阪市立真田山小学校校章:明治7年創立】

 

◇大坂冬の陣 (慶長19年・1614)「真田丸」の建設位置・構造

豊臣秀吉は大坂城築城の際に、東に猫間川、西に東横堀川、北に天満川と三方が川に面する天嶮の利があることより、南側の三の丸外に空堀を設けました、慶長19年、真田信繁は手薄な城南へ徳川方が一斉攻撃を行うことを推考して、1カ月ほどの短期間で「偃月城」(えんげつじょう)と呼ばれた砦を設けたと伝わります。「真田丸」跡に関する近年の超音波探索等の研究では、現在の明星中学・高校の敷地がその跡地と推定されるに至っており、これは米軍の航空写真からの真田丸跡推定地ともほぼ合致しています。

P1150190_真田丸痕図【真田丸推定域:超音波探測結果】

・ 広島藩浅野家に伝わる「浅野文庫」にある「諸国古城之図」の「真田丸跡繪図」では、「真田丸」東部にあった三寺を取り込み(北端:心眼寺)、東部外側、北部外側は崖で、南側に幅約24間の濠が彫られていたようです。

P1150196_真田丸略図 左端上本町口ノ田【真田丸跡繪図・:広島藩浅野家・浅野文庫】

 

抑々、「大坂城」は上町台地北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などにより守られていましたが、地続きとなる「真田丸」の築かれた南方だけは空堀を設けたのみで、防御が手薄で大坂城の脆弱部であるとも考えられていました。

・その最弱部は、上町台地の中央部、「真田丸」の西辺りで、ここは地形の高低差が少なく、惣堀の幅も狭く、信繁は、「真田丸」なる突出部を築いて敵の注意を引きつけ、「大坂城」の弱点を見逃しやすくした、との説があります。

・また、「真田丸」の背後には幅200mほどの深い谷があり、信繁は「真田丸」が陥落しても、その谷が「大坂城」を守りつづけてくれると見越して、この場所に「真田丸」を築いたとの説も出ています(この南惣構堀の空堀の東部に設けられた虎口が平野口)。

・慶長19年(1614)12月4日(1615年1月3日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻勢を開始して「真田丸の戦」が行われ、信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功しました。しかし、徳川方は「大筒」を輸入して大坂城本丸に砲弾を撃ち込んだので、淀君は恐れて「講和」を申入れ、その結果、大坂城の外堀・内堀が埋められ、「真田丸」は壊されました。

・なお、旗印「六文銭」(六連銭)は、「冥銭」を表しているといわれ、元来、古代中国の習俗で、日本では亡くなった人の葬送時に棺に入れる「六文」の銭であり、「三途の川」の「渡し賃」となるものです。この旗印は「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命を捧げて惜しまないこと)を意味するとのことです。

円珠庵・釜八幡     (真言宗豊山派・天王寺区空清町)

・鎌八幡(かまはちまん):「大坂冬の陣」の折に、真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた神木に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに戦勝をあげたと伝わり、江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集めてきました。                         

なお、円珠庵は、天和元年(1681)、百姓太郎左衛門が契沖に深く帰依して所有地を寄付したのが当庵の起こりで、元禄14年(1701)に契沖は当庵にて62歳で亡くなり、墓所は境内にあります。真言宗御室派妙法寺の末寺で、本尊は不動明王でしたが、戦災で全焼し、戦後は大和の長谷寺の末寺として再建されました。

 安居天満宮    (天王寺区逢阪1)

・創建年は不詳ですが、当社は少彦名神が祀られており、天慶5年(942)から菅原道真が祀られるようになったと伝わります。菅原道真が大宰府に左遷されたときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたとも伝わります。

・明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社で、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」となった、などと伝わりますが、確証がないようです。

IMG_0407真田幸村戦死跡碑②【真田幸村(信繁)戦死碑】

「大坂夏の陣」で真田信繁が当社境内で戦死したと伝わり、境内に戦死跡之碑や、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた「安居の清水」(別名:かんしずめの井)の址があります。

一心寺   (浄土宗・坂松山高岳院:天王寺区逢阪2)

●法然上人二十五霊跡第七番札所で、文治元年(1185)の春、四天王寺・別当の慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結んで「源空庵」と称して住みました。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて、法然と共に日想観(=西に沈む太陽を見て,その丸い形を心に留める修行法。極楽浄土を見る修行の一部で,観無量寿経に記される)を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったとのことです。

・慶長元年(1596)、三河の僧侶・本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行って寺を再興したので、彼の「一心称名」をもって寺ができたことにより、「一心寺」になったと伝わります。

・家康は、境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈りました。

IMG_0411【一心寺】

・「大坂冬の陣」、「大坂冬の陣」では家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれ、この寺には「大坂夏の陣」の天王寺・岡山の戦の前線にて討死した本多忠朝の墓所があります。彼は酒を飲んでいたため「冬の陣」で敗退して家康に叱責され、見返そうと「夏の陣」で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言した、と伝わることから「酒封じの神」とされるようになり、今でも墓所には禁酒を誓う人が詣でます。

◇茶臼山古墳

●古墳自体は5世紀に、当地の豪族のために作られた墳墓と伝わり、大阪市内でも最大級の前方後円墳ですが、被葬者は不明です。天文15年(1546)、細川晴元の家臣・山中又三郎が古墳の後円部に大塚城を築き、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」では「茶臼山古墳」一帯が家康の本陣となり、翌慶長20年の「大坂夏の陣」では真田信繁の本陣となり、「茶臼山の戦」(天王寺口の戦)の場となりました。                                       

●明治以降は住友家邸宅の敷地の一部となっていましたが、大正14年(1925)に住友家から邸宅敷地(現・市立美術館)と慶沢園が大阪市に寄付され天王寺公園の一部となりました。河底池は昭和3年(1928)に公園に編入されています。

P1150258_信繁最後の戦いⅡ【茶臼山真田本陣位置絵図・西端は馬出し:NHK】

 

大坂夏の陣慶長20年・1615茶臼山「真田本陣」の建設位置・構造

真田信繁は攻撃の好機を窺がっていましたが、豊臣側の一部(毛利勝永軍ら)が攻撃を始めてしまい、止むを得ず真田本陣から出て家康本陣目がけて突撃することになったようです。

・「史跡茶臼山」には、「冬の陣」の折には徳川家康本陣が敷かれ、翌年の「夏の陣」では真田信繁の本陣が敷かれました。

IMG_0415【「大坂の陣・史跡茶臼山」石碑】

●「信繁」と「幸村」の名前に関しましては、諱(いみな)は「信繁」で、直筆書状等生前に作られた史料的なものには「幸村」のものはなく、「幸村」名の2通の古文書は偽書であることが明確になっており、真田左衛門佐の諱は「信繁」であったとされています。「幸村」は江戸軍記作家の「難波戦記」における創作とするのが定説となっています。

 

【参考文献】

1.千田嘉博他:「真田丸のなぞ」、NHK歴史秘話ヒストリア、2016.1.6.

2.千田嘉博:『真田丸の謎―戦国時代を「城」で読み解く』(NHK出版新書)、NHK出版、2015.

3.平山 優:「真田信繁幸村と呼ばれた男の真実」(角川選書)、角川学芸出版、2015.

4.大阪観光コンベンション協会:図録『いくさ場の光景』、大阪城天守閣、2009.

5.矢守一彦:「浅野文庫蔵・諸国古城之図」、新人物往来社、1981.

 

[補遺]真田信繁・簡易年表

西暦 和暦 信繁関連事項 年齢 主な出来事
1567 永禄10年 誕生:父・昌幸、母・山之手殿、武蔵弁丸 1歳
1585 天正13年 上杉景勝の人質となる 19歳 第一次上田城の戦
1586 天正14年 豊臣秀吉の人質となる 20歳
1590 天正18年 北條攻め 24歳 北条氏滅亡
1594 文禄3年 従五位下左衛門佐に任ぜられ、豊臣姓を承る:豊臣信繁を名乗る大谷刑部・娘と結婚 28歳
1598 慶長3年 伏見城にて豊臣家に仕える 32歳 豊臣秀吉死去
1600 慶長5年 父・昌幸と共に石田方へつく(犬伏の別れ:兄・信幸は徳川方へ) 34歳 関ヶ原の戦い
昌幸・信繁、上田城で徳川秀忠軍を破る(第二次上田城の戦い)。
12月頃、昌幸と共に、高野山九度山村へ蟄居。この頃長男大助生まれる(翌年、翌翌年か)。
1612 慶長17年 好白と号す。次男・大八生まれる 46歳
1614 慶長19年 豊臣家の誘いにより、紀州・九度山の蟄居を脱出し、大坂城へ入城 48歳 大坂冬の陣
大坂冬の陣はじまり、12月4日に出城・真田丸で徳川方を破る
1615 慶長20年 一旦、和睦後、再び開戦。5月6日の誉田の戦で徳川方と戦い、撤退 49歳 大坂夏の陣
5月7日、天王寺表の戦で、家康本陣を蹴散らすも奮闘虚しく戦死。

【2016年7月2日実施・案内:藤田 清・編集:宮﨑信隆】

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