第270回行事・アーカイヴス(2016年6月)

◆下つ道 北上(Ⅲ)

・久米寺・橿原神宮・本薬師寺跡・藤原宮跡・小房観音・八木・今井・

●7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る「大道」として整備された「下つ道」は、見瀬丸山古墳・前面を起点とし、「藤原京」の西四坊大路(現在、橿原市八木付近)から、奈良盆地の中央を真直ぐ北進し、「平城京」の「朱雀大路」(現在の平城宮址)に至っていました。現在もその一部を踏襲して使用されていますが、古代人に倣って南(藤原京)から北(平城京)へ向かって歩きます。

・なお、途中、笠縫~田原本間は「関西地図の会」・第243回行事(20143月)として、二階堂~羅城門跡間(平城京)は同会・151回行事(2006年4月)で探訪しています。

【コース地図(赤破線:橿原神宮前駅~八木・今井):国土地理院発行125,000地形図「畝傍山」・「桜井」】

コース地図橿原八木今井説明入25000畝傍山桜井②(図上のクリックにより拡大)

コース近鉄・橿原神宮前駅~久米寺*~橿原神宮*~本薬師寺跡~藤原京・朱雀大路址~藤原宮跡*~小房観音(観音寺*)~八木町・札の辻交流館*~今井町・街並*~近鉄・大和八木駅  (約11km)

◇下つ道

■7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る「大道」として整備され、見瀬丸山古墳の前面を起点とし、「藤原京」の西四坊大路(現在・橿原市八木付近)から、奈良盆地の中央を真直ぐ北進し、「平城京」の「朱雀大路」(現在の平城宮跡)に至る全約27の旧官道です。橿原市から大和郡山市にかけては、現在の国道24号線の約250m西方に並行しています。

■北は、那羅山(ならやま)の平坂(ならさか)を越えて山背道(やましろのみち)になり、南は、軽(かる:橿原市大軽町)の丸山古墳(旧見瀬丸山古墳)までが直線道で、檜隈(ひのくま)からは西南に向かう「巨勢道」となり、宇智(うち)を経て紀伊国境の「真土山」(まつちやま)を越えると紀ノ川沿いの「木道」(きのみち)に達していました。

■奈良時代には飛鳥・「藤原京」と「平城京」を真直ぐに繋ぐ「大道」として盛んに利用されたようだが、長岡京、平安京への遷都の後は衰退して維持されなくなり、道路敷は一部で寺川などの河道他に利用されています。

■「下つ道」の基点は、丸山古墳(見瀬丸山古墳)の北側の外濠中央から始まり、北へ「平城京」の「朱雀門」にいたるまで約23kmに及ぶ、奈良盆地を南北に縦断した古代第一の基幹道路で、「横大路」と同様に「京」造営の基準計画線としても重要な位置を占めていました。

■「下つ道」の敷設時期もよくわかっておらず、幅員についても「平城京」周辺を除いては、橿原市で国道に沿って、その両側に数箇所調査がなされ、路面とその東側溝が確認されているが明確ではありません。「平城京朱雀大路」の下層では道の両側溝間距離が約23mであったが、大和郡山市稗田遺跡では路面幅16mに、東側溝幅1.1m、西側溝幅3mと、京外に一歩出ると近くであっても路面幅自体が狭くなっていて、京の内外で道路幅に変化をもたせていたようです。これは「藤原京」にもあてはめられるようで、「下つ道」の幅員は23m前後であったと考えられます。「下つ道」の成立は「日本書紀」の「壬申の乱」の状況を記した中で、「軍を分(くば)りて、各上中下(おのおのかみなかしも)の道に當て屯(いは)む」とみえるのが初出であるが、その内容からは既に整備された状況を指しており、成立時期は「横大路」と同じころであったのではないかと考えられています。

P1130851下つ道 御坊町付近 北方を望む

【旧「下つ道」・国道169号線:橿原市御坊町付近】

◇久米寺  (真言宗・仁和寺別院・霊禅山東塔院)

■近鉄・橿原神宮前駅西口より西北方に徒歩約5分のところにあります。寺伝では、推古天皇勅願により聖徳太子弟・来目皇子により推古天皇2年に建立されたとされます。また、修行により飛行術を身に着けた久米仙人が女性の白足を見て、神通力を失い墜落して寺を建立したとも伝わります(「今昔物語」)。

■来目皇子が幼少の頃に眼病を患い両目を失明しましたが、聖徳太子のお告げにより薬師如来に祈願したところ平癒し、皇子は自らを来目皇子と称したと伝わります。創建のきっかけは、推古天皇の眼病全快のお礼だったと言われ、本尊の薬師如来は、眼病に効くと言われてきました。

■京都・仁和寺から移建された禅宗の影響が見られる多宝塔(重要文化財)や本尊・薬師如来坐像、久米仙人像などがあります。

P1130846久米寺本堂 

【久米寺:本堂と多宝塔(江戸時代に御室仁和寺より移築)

   P1130847久米寺多宝塔 御室仁和寺より移築 万治2年

 

◇橿原神宮

■「久米寺」から北方へ、近鉄・南大阪線の線路を越えて、5分ほどのところに「橿原神宮」があります。

■「古事記」・「日本書紀」において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890)4月に「官幣大社」として創建されました。 2600年もの昔の古墳時代に1代の天皇が75歳までも生きたと伝わる神話の世界です。

P1130850橿原神宮大鳥居【橿原神宮大鳥居】

◇本薬師寺跡                  

■「橿原神宮」から北東方向に歩き、近鉄・畝傍御陵前駅南方で近鉄橿原線の踏切を渡り、旧「下つ道」である国道169号線に出ました。現・国道は車が引切り無しに行き交う県下の動脈で、この付近ではほぼ南北に真直ぐに走っています。

■旧「下つ道」・国道169号線を約300m北上して右折し、東方400mh殿ところ右手南側に「本薬師寺跡」が遺存します。現在は発掘されたその位置に金堂の礎石や東西両塔の上壇、塔の心礎などが残され、寺跡には小堂が建っているだけです。 桜花落花盛んな折の境内の風情は飛鳥時代にも遡れるのでしょうか。

■奈良市西の京にある「薬師寺」の前身に当たる寺で、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため祈願して、天武9年(680)に薬師如来を本尊とする寺を右京八條三坊に建立されはじめましたが、完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。当時は、金堂や東西に二塔がありました。平城遷都に伴って寺は伽藍ともども西の京へ移築されたと言われていましたが、別々に造られたという説が有力です。それ以来、この寺は「本薬師寺」(もとやくしじ)と呼ばれるようになりました。

P1130858元薬師寺跡 桜花爛漫 【桜花爛漫の本薬師寺跡】   P1130855②本薬師寺_伽藍配置復元図橿原市教委【本薬師寺・伽藍配置復元図:橿原市教委】  

◇藤原京 朱雀大路藤原宮

■「本薬師寺跡」から東方へ進み、500m程で飛鳥川を北へ渡り200mほど進むと「藤原宮」跡地が見えてきます。右折して300m程で「藤原京 朱雀大路跡」発掘地に着きました。

■特段の遺跡を遺存していませんが、発掘調査により幅約4mの藤原京朱雀大路の側溝跡であることが判明しています。当地から約200m北方には当初は「藤原宮」の正面玄関であった南面中門「朱雀門」があっところが望まれました。現在は原っぱに門柱を示す橙色に塗られたコンクリート柱が立っているのみです。田圃の畦道を北上して「朱雀門」跡へ向かいます。

■「藤原京」は持統4年(690)に着工され、「飛鳥浄御原宮」から持統8年(694)に遷都しましたが、完成は遷都後10年経過の慶雲元年(704)と言われ、着工は天武5年(676)に始められて和銅3年(710)まで16年間の都でした。日本史上初の都城で、史上最初の条坊制を敷いた唐風都城でもあり、宮の主要建築物は礎石建築で、初めて瓦を葺いたと考えられています。

P1130864朱雀門跡を望む  

【朱雀大路・側溝跡付近から朱雀門・門柱跡を望む:後方は耳成山】

 P1130870藤原宮大極殿基壇跡

 【藤原宮大極殿基壇趾:発掘調査後に植えた木々の小さな森】

■「藤原京」の名称は、『日本書紀』には登場せず、近代に作られた学術用語で、『日本書紀』では「新益京」(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)(持統天皇六年正月十二日条)、「宮」が「藤原宮」と呼びわけられていました。

・「藤原宮」発掘調査の結果、宮域内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が検出され、「藤原京」建設予定地では、まず全域に格子状の街路を建設し、その後に、宮城の位置と範囲を決定して、その分の街路を廃止したと考えられており、薬師寺跡の発掘結果からも立証されています。

朱雀大路 藤原京

藤原京朱雀大路(中央手前側:模型):橿原市藤原京資料室

■「藤原宮」はほぼ1km四方の広さで、周囲を凡そ5mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3カ所、全部で12カ所に門が設置され、南の中央の門が「朱雀門」で、塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱とそれで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ40~50cmの柱間をうめる厚さ25cmの土壁が「藤原宮」大垣でした。「平城宮」発掘調査で、「藤原宮」から再利用したものが発見されており、「藤原宮」は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構です。

■現在、日本で最初に成立した朝堂院(太政官院)の正殿としての「大極殿」敷地跡とされている少し盛り上がった地面が残され、数十年前の発掘調査後に植えられた木々が森を成しています。

藤原宮跡 飛鳥藤原歩き 左下端スケール両端間120m_【藤原宮址橿原市世界遺産推進課】 (図上のクリックにより拡大)          

■「朱雀大路」は、「藤原京」を東西に分ける幅24~25m[道路両側溝の溝芯々]の道路「大路」です。「藤原京」の南に日高山(小高い丘陵)があり、「朱雀大路」の建設の際にはこの丘を削って道を造りました。「朱雀大路」では儀礼を行うだけでなく、「藤原京」の呼び方の基準となり、「右京」・「左京」というのは「藤原宮」から天皇が南面したときに朱雀大路の右側(西側)を右京、左側(東側)を左京としました。現在、「朱雀大路」は藤原宮の南から日高山までの範囲が復元されています。

◇おふさ観音十無量山 観音寺(高野山真言宗・別格本山・橿原市小房町)

■「藤原宮大極殿趾」から西方へ約1㎞の旧「下つ道」へ突き当たる50m程手前北側に「観音寺」・通称「おふさ観音」があります。

■本尊は十一面観世音菩薩で、大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文珠院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一寺になっています。

■天明年間(1781-89年)に妙円尼が開いたと伝わりますが、慶安3年(1650)、この辺りにあった鯉ヶ淵という池の中から白い亀に乗った観音が現れ、それを発見した付近に住む娘ふさが小さな堂を建立して観音を祀ったことが起源とも伝わります。                   P1130871おふさ観音【観音寺・花曼荼羅】

◇八木町 街並                            

■「おふさ観音」から旧「横大路」までの800m程の「下つ道」は真直ぐに残って現在も重要な「道」として活用されており、界隈には漆喰塗の白壁あるいは黒壁の虫籠窓を設えた「厨子二階(つしにかい)建て」の町家が並んでいます。新しいものは近年の町並再整備の過程で成されたものでしょう。

P1130874Ⅲ卯建つ虫籠窓厨子二階格子一文字瓦設え

【八木町・「下つ道」沿いの町家・虫籠窓設え】

■当地では「伝統的建造物分布図」を作成して、その保存と広報に努められています。図の中央南北の直線が「下つ道」で、東西(左右)の直線が旧「横大路」です。本図を見ると、旧八木町はこれら二本の「古道」を中心にして発展してきたことが明白に感じ取れ、現在も300軒ほどの伝統的な町家が残されて活用されています。それら「伝統的建造物」の間に「近代建築物」も数点混じっている興味尽きない町並みです。「札の辻」より約100m北側にある河合家住宅は旧油屋で幕末・天保時代の建築が非公開で遺存されています。 P1130896下つ道 北向 札の辻 左旧旅籠平田屋 右交流館 

左)「札の辻」より「下つ道」北方を望む:左手・旧旅籠平田屋、右手・交流館、右奥・河合家(当地付近には「市」が立ったので道幅が広く遺存している)】

 P1130899河合家    

右)河合家住宅(元油屋・天保時代の建築):「札の辻」北方】

■なお、「伝統的建造物」とは、周囲の環境とともに歴史的風致を形成している伝統的な建造物とされているようですが、定義が少し曖昧なところはそれらの保存行政において柔軟性を持たせるためのように感じられます。

◇八木札の辻  (「下つ道」と「横大路」の交差点)

■古代から奈良盆地には、飛鳥地方と難波を結び東西に横断する「横大路」、南北に縦断する「上つ道」・「中つ道」・「下つ道」という幹線道路が存在し、江戸時代になると「横大路」は「初瀬街道」又は「伊勢街道」と呼ばれ、「下つ道」は「中街道」と呼ばれるようになりました。

八木町伝統的建造物分布②

【八木町伝統的建造物(黒塗り部分)分布:八木札の辻交流館】

(図上のクリックにより拡大)

◇今井町 街並                            

八木札の辻から200m余南へ下がったところを東西に走る国道165号線を西へ向かい、 近鉄橿原線を越え、飛鳥川を渡ってすぐを左へ南下してJR桜井線を潜ると「今井」地区です。直ぐ左手東側を飛鳥川が流れ、聖徳太子が太子道(筋違道)を通って、斑鳩宮から飛鳥へ通ったときに渡ったと伝わる赤い欄干のコンクリート製「蘇武橋」が設えてあります。この橋は環濠集落「今井」への東からの重要な入口でした。 八木町伝統的町家等分布図 方位入②

【八木町伝統的町家等分布図(茶色部分:「伝統的な町家」):橿原市観光課(2014年)

(図上のクリックにより拡大)

■「今井」の地は、元・興福寺一乗院の荘園(至徳3年[1386])でしたが、天文年間(1532~55年)に本願寺坊主・今井兵部卿豊寿により「御坊」称念寺を核とした寺内町として東西600m、南北310mの区域が成り立ち東・西・南・北四町から組織され、濠を廻らした環濠町として繁栄し、本地域西端に環濠が復元されています。大年寄制の町人自治の町として発達しましたが、織田信長の足利義昭擁立以来、反信長として戦い、結局天正3年(1575)・明智光秀を通じて降伏し大事無き得ました。

P1130892煙だし厨子二階虫籠窓出格子駒寄

今井町街並:上の方から煙出し・厨子(つし)二階・虫籠窓・一文字瓦・出格子・駒寄が揃っている町家

■江戸幕府領時代も、「今井町」の公称は認められ、最盛期の人口は戸数1100軒・4000人にも達して「今井千軒」とも呼ばれて、「今井札」の発行も認めれ、惣年寄・町年寄などによる自治も行われました。現在、八棟造りの今西家などの旧大商家が十余軒が保存され、周囲9カ所の本地域への出入り口であった門跡などが遺存します。

●今回の巡検は、「下つ道」に沿って、飛鳥から遷った都・「藤原京」から「平城京」までの探訪を企図したもので、その第Ⅱ部として橿原市久米寺から八木までを訪ねるものです。千年以上前から活用されてきた「下つ道」が、現代もなお一層利用され、それぞれの地域における中心的「道」として存続しています。

  今井町重要伝統的建造物保存地区案内図②2

【今井町重要伝統的建造物保存地区模式図:橿原市観光課】

(図上のクリックにより拡大)

参考文献】

1.橿原市世界遺産推進課編:「藤原宮址」、橿原市、2016..

2.八木札の辻交流館編:「八木町伝統的建造物分布」、橿原市、2016

3.橿原市観光課編:「歴史街道・八木町・今井町」、橿原市、2014..

4.落葉典雄・野崎清孝:「近世の大和」・奈良地理学会編「大和を歩く・ ひとあじちがう歴史地理探訪」、奈良新聞社、2000

  藤原京条坊復元図②【藤原京・藤原宮推定図】

【2016年6月4日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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