■第267回行事・アーカイヴス(2016年3月)

◆「大和川」付替え地点周辺

●「大和川」は大阪府に入り西へ向かって流れていますが、江戸時代前半までは柏原から北~北西に流れていました。その頃の川筋は幾つも分かれて流れ、傾斜の緩い扇状地が多くて水はけが悪く、大雨による洪水に度々遭っていました。 このため、約300年余り前に、江戸幕府は現在の石川との合流地点付近から付け替え工事を行い、流れを真直ぐ西向きに堺方向へ付替えました。柏原付近は奈良時代から先進地で交通の要衝でもあったので、付近の史跡や付替え前の川の痕跡などを探訪します。

【コース地図(赤破線):國土地理院発行125000地形図「古市」・「大和高田」】

(図上のクリックにより拡大)

コース地図説明入改_柏原高井田25000古市大和高田③

コースJR柏原駅~柏原神社~船溜まり跡~築留~柏原治水記念公園~(柏原市役所)~落堀川~式内黒田神社~国府遺跡~市野山古墳~玉手山公園・夏の陣古戦場跡~高井田横穴墓群~柏原歴史資料館~JR高井田駅 (約9km)  

◇柏原神社  (柏原市今町2)

旧奈良街道に面しており、境内前面は旧大和川の河床で、前の段差が河岸段丘跡です。

柏原神社①③【柏原神社】

旧村社で祭神は元来、白鬚大明神ですが、宇迦之御魂神とされており、明治の二社合祀時に変遷されたようです。当社の由緒は『創建の年月は詳ならず。元、とある邸内に鎮座せしを、明治十三年信徒の協議に依りて当所へ遷座。無格社なりしも、泉北郡向井村の村社・若林神社「天照皇大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命」を合祀するとともに村社に列し、更に志紀村の「稲荷神社」の「倉稻魂命」を合祀。』(「大阪府全志」)                     

参道左に境内社、神輿倉、右に神楽殿が配され、中央奥に社殿が建立され、その中に本殿が安置されています。神輿倉の中には古い神輿が置かれていますが、現在は担ぐこともなくなったそうです。

◇船溜まり

「柏原舟」:大和川付け替え前の元和6年(1620)旧大和川の洪水で現柏原市付近は大被害を受け、志紀郡代官・末吉孫左衛門が柏原の復興を願い平野川舟運を計画しましたが、大坂町奉行の許可は下りませんでした。

寛永13年(1636)、漸く運行が始まり、大坂・京橋から平野川を平野・柏原まで上下し、河骨池口付近に船溜りが設けられました。船は長さ約12m、幅約2m、15~20石積(発足当時は40隻、その後70隻)で、船頭2名の運行でした。平野方面への積荷は米(綿作農家の飯米用)、干鰯(ほしか)で代表される肥料(綿栽培用)が主なもので、この平野に利益をもたらした船も、大和川が付替えられてからは衰退に向いました。

柏原舟溜り址碑【柏原・船溜まり跡】

 ■旧奈良街道に面して「三田家」が遺存しています。三田家は「大文字屋」の屋号の「柏原舟」の舟株主でした。

剣先船Ⅱ②③柏原舟P1090714③三田家Ⅱ

柏原舟(大阪府HP原図)と旧舟株主・三田家

 平野川へ流入する大和川の水が1カ所の樋門からになったため、水量が減少し土砂の堆積も進み、対策として川浚え、積荷量を減らすなど対策を講じましたが、運行は平野までとなり、隻数も明治初期には20隻ほどになりました。明治22年には鉄道が現在の関西線・湊町-柏原間に開通し、荷物はそれに取って代わられ、明治40年に終焉となりました。

柏原 大和川治水記念公園

近鉄大阪線「安堂」駅より旧国道170号線を南に行くと、国道25号線との交差点を挟んで幅200mの大和川があります。

[大和川付替え]

かつて大阪のほとんどは海で、大和川などが土砂を運びこんで河内平野ができたが、その平野を、久宝寺川や玉櫛川、平野川などとなって淀川に注いでいたため、常に河内平野は洪水の危険がつきまとい、江戸時代には十数回の洪水に見舞われ、多くの家が流されて死者も出ていました。この洪水から生活を守るために、明暦2年(1656)ごろから、河内、讃良、若江、茨田郡の農民が、大和川を付け替えて西に向けて大阪湾に流す案を作り、何度も幕府に嘆願しました。特に今米村庄屋・中甚兵衛は、幾度もの困難を乗り越えながらも付け替え運動の中心を担ましたが、一方、付け替え先となる村々からも付け替え案への反対が出されました。

大和川付替え前後②

【付替え前の大和川分流(北流)と付替え後の大和川(西流):国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所HP

幕府の検分は、万治3年(1660)から元禄16年(1703)まで5回を数え、淀川河口などの改修・浚渫工事がなされたため、4回目の検分では付け替え案が廃止になりましたが、河床には土砂が堆積し、周囲の田畑より3mほど高い天井川になっていました。その後、毎年のように起こる洪水を受けて、5回目の検分後に幕府は漸く付け替えを決定し、一方、付け替え先(反対)の村々は、代替地を嘆願しました。最初の嘆願から50年経っていました。改修工事は、翌元禄17年から8カ月間の短期間で行われ、中甚兵衛は工事の御用掛を命じられました。

改修工事により河内平野の洪水は治まり、多くの新田が開発され、そこで綿花が栽培されて「河内木綿」の産地になりました。付け替え後の大和川周辺では、代替地への移転に加え、南側で洪水の被害が起こり、川のバイパスづくりなど現在も治水対策が続けられています。付け替え起点となったところは「築留」と呼ばれ、交差点の角には、「大和川治水記念公園」があって、「大和川付替記念碑」や「中甚兵衛翁像」があり、「築留」にある大和川から長瀬川・玉櫛川に取水する樋はアーチ状のレンガ積みで、文化庁の登録有形文化財に指定されています。

  ◇築留(つきどめ)二番樋                

明治40年(頃)の築造で、笠石部が花崗岩の樋、逆ア-チ型側壁はカ-ブ仕上げの「イギリス積」煉瓦造り様式となっていて、幅約2m、延長約55m、アーチ部最大幅約1.6m。平成13年・文化庁から有形文化財に登録。

旧大和川の付け替えの際に閉め切った堤防下に取水口を設け、旧河道を利用して、玉串川・長瀬川・平野川として八尾・東大阪・平野方面の農業用水として利用され、新田開発も行われて農業生産を高めました。広い旧河川は天井川になっていたため、水田には適していなかったが、水捌けが良かったので棉栽培が盛んとなり「河内木綿」産地となり、河内平野の農村経済を発展させました。  

P1090696③二番樋取水口

【築留・二番樋・取水口(大和川~長瀬川)】           P1090691③築留二番樋放水口

築留・二番樋・出口

◇落堀川                        

大阪府内を流れる「大和川」水系の「一級河川」で、藤井寺市にはじまり、途中、松原市において「東除川」と合流し、合流後の東除川もそのまま「大和川」左岸に沿うように流れ、大阪市平野区で「大和川」に合流します。

宝永元年(1704)の「大和川」付け替え以前は、もともと「大和川」より南側、石川より西側を流れていた河川は八尾市内や大阪市内方向へ北進していましたが、付け替え後は東西に流れる新「大和川」によって流域が分断されました。「大和川」は平地に天井川として造成されたので、水面が合流する河川より高いため、そのまま合流させることは不可能で、一旦集めて「大和川」沿いに沿って流し、水面高さがそろう場所まで導くために開削されました。

IMG_0262暗渠になった落堀川の上で説明

◇大津道 (おおつみち・長尾街道)

大阪平野を東西に結ぶ直線古道として「大津道」(近世の長尾街道)が通っていました。「大津道」については、『日本書紀』の天武天皇元年(672)7月条の「壬申の乱」における戦いの記述中に、7月1日、大海人皇子方の大伴吹負(ふけい)軍に属する坂本臣財(たから)らは河内・大和国境の高安城を占拠しました。翌朝、財らが西方を眺めると、「大津道」と「丹比道」の両道から大友皇子・近江朝廷軍が高安山めがけて押し寄せてくるのが見えたのでした。これより7世紀後半には両道が存在していました。

考古学的にも、近鉄・河内松原駅の150m北側の「長尾街道」南側(上田2丁目)の発掘調査で、道路側溝と考えられる幅170㎝、深さ30㎝の溝が検出され、この溝から6世紀末から7世紀初めごろの須恵器や土師器が出土しています。道路部分に相当する高さは側溝の肩の高さより20㎝高くなっており、上面は平らに整地されていたようです。「大津道」は、堺市北三国ケ丘町の「方違(ほうちがい)神社」と奈良県北葛城郡当麻町長尾の「長尾神社」とを結ぶ道であると考えられ、「長尾街道」は古代の「大津道」をほぼ踏襲してきたと考えられています。

式内黒田神社 (藤井寺市北条町1)

祭神は天御中主大神((あめのみなかぬしのみこと))・天照皇大神・武甕槌命(たけいかずちのみこと)・経津主神(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比咩大神としています。

[由緒]北条「黒田神社」は「延喜式神名帳」に登載された全国3,132坐の官社に入る(延喜式内社)古社で、「北条天神」または「北条天王」と呼ばれた稲霊を祀ると言われ、社名の通り黒々と肥えた田に祭られた生産の神、特に天御中主大神は天地創造の神と言われ、神域も現在の3000坪の2倍以上の広さがあったと伝わり、柏原市今町、上市古町本郷大正清州堂島、河原町(太字は大和川北側)、藤井寺市北条、林の各区の氏神でした。しかし、「柏原黒田神社」に昭和44年に本社より分霊を遷し、「上市春日神社」とともに「今町塩殿神社」(大和川北側)に合祀されましたので、現在の本社は北条・林地区の氏神です。なお、本社にある石灯籠一基は建徳3年[南朝・1372]の建造です。 P1090708②柏原黒田神社② 【柏原黒田神社】    藤井寺 式内黒田神社①③ 【式内黒田神社】 

◇国府(こう)遺跡   (藤井寺市惣社)

石川と大和川が合流する地点西側、市野山古墳の位置する段丘の北東縁部にあり、約2万年前の旧石器時代から中世の集落遺跡です。大正5年(1916)、京都帝国大学の浜田耕作・喜田貞吉(考古学)らにより、日本初の本格的発掘調査が実施されて以来、30数次の発掘調査が行われた結果、縄文時代から弥生時代にかけての人骨が計90体並びに飛鳥時代に創建された「衣縫廃寺」が発見され、「衣縫廃寺」の塔心礎は現在も史跡内に遺存しています。昭和49年に国指定史跡に、さらに昭和52年に追加指定されました。

畿内でも最古の石器が出土する遺跡として知られていた「国府遺跡」から採集された石器の中に、普通の石鏃や石槍等の他に、大形で粗い石器が砂利層の下方の粘土層から出土したことより、大形の粗製石器が縄紋(文)時代より古い旧石器時代の石器である可能性が考えられました。日本の旧石器時代の存在に否定的な当時の日本において、旧石器時代の存否を層位的に確認することを目的として、翌大正6年に小字「乾」と「骨地」で発掘調査され、縄紋から弥生時代の土器石器のほかに3体の人骨が発見されました。

昭和32年・33年(1957・1958)に、旧石器時代の確認を目的とした再度の発掘調査の結果、砂礫層上部に堆積する黄色粘土層より特徴的な旧石器が確認されました。これらの石器の製作方法は、二上山に産出するサヌカイト(讃岐石)を使って、横に長い石片(翼状剥片)を連続的に剥ぎ取っていくもので、「瀬戸内技法」と呼ばれ、この翼状剥片を利用して作られた石器は「国府遺跡」より「国府型ナイフ形石器」と呼ばれています。その後、大阪府教育委員会の調査でも旧石器の良好な資料が確認されています。

P1150021国府遺蹟の碑【國府遺蹟之碑】

◇市野山古墳 允恭天皇恵我長野北陵[いんぎょうてんのう・えがのながののきたのみささぎ]と治定藤井寺市国府1)

総長約300m・墳丘長230mでその大きさは全国19位、古市古墳群では第4位で、前方部の高さ23.3m、前方部幅160m・同高さ23.3m、後円部径140m・同頂高45.3m。出土した埴輪等から、築造年代は5世紀後半と推定されています。

P1150025市野山古墳周濠【市野山古墳東南部と周濠】

古墳の形態古墳や遺跡が多く存在する国府台地の北端近くに造られ、墳丘は三段築成で、前方部はやや開き気味で、くびれ部は両側に造出しを持っています。ここはゆるやかに北東へ下がっていく地形であるため、内堤の北側と東側は、盛り土をして造られています。現在は内濠だけ遺存しますが、当初二重の濠と堤を備え、外濠は幅約20m、深さ約2m、外堤幅が10m、外濠幅は約20m・同深さ約2mであることが判明しています。周辺の土地との高低関係からみて、周濠に水をたたええることは難しく、当初からほとんどと考えられており、元来の地形に基づき、北東部を中心とした部分に水が溜まる程度です。内堤上に住宅が立ち並びますが、内堤やその外側はかなり以前から畑地として利用され、後円部南側の内堤上を「長尾街道」が東西に通過っています。

長尾街道 大阪府歴史街道【長尾街道:市野山古墳南側内堤上

 出土品:円筒埴輪、器財形埴輪[家、盾、靫(ゆぎ)、衣蓋(きぬがさ)など]、動物埴輪(馬形、犬形など)、人物埴輪・須恵器(蓋坏・5世紀中頃のもの・墳丘盛土内より)。江戸時代の古図には、多数の勾玉(まがたま)が墳丘から出土したことが記してあるそうです。

築造時期:従来、出土埴輪の年代や古墳の形から、5世紀後半に造られた古墳だと考えられていましたが、近年の年輪年代法などの新技術により、5世紀中頃に近い可能性が出てきて「市野山古墳」が「允恭天皇陵」であ可能性は高まってきています。

陪冢:市野山古墳の周りには、陪冢と推定されている小古墳が数基あり、その中の3基・宮の南塚古墳と衣縫(いぬい)塚古墳、八王子塚古墳が宮内庁によって允恭天皇陵陪冢に治定されています。

◇玉手橋 左岸:藤井寺市道明寺3、右岸:柏原市石川町・玉手町、管理者:柏原市、柏原市道国分道明寺線) 

昭和3年、大阪鉄道(現:近鉄)が、道明寺村(現:藤井寺市)側にある道明寺駅から石川対岸の玉手村(現:柏原市)側の「近鉄玉 手山遊園地」への通行路として設置されました。                                

IMG_0267_レトロな橋玉手橋【玉手橋】            

長さ151m・幅員3.2mの5径間吊橋で、径間は18.1m~38.1m~37.9m~38.5m~18.9mとなっており、主塔と橋台は鉄筋コンクリート製で すが、部分的に装飾を兼ねたレンガで補強されています。上路部は鉄製トラス補剛桁でアスファルト舗装されているものの、架橋構造は典型 的な吊り橋で、渡るときに少々揺れを感じる場合があります。国登録有形文化財です。

◇玉手山公園 (夏の陣古戦場跡・柏原市玉手町~片山町)

公園一帯は、4世紀の古墳群であり、また慶長15年/元和元年(1615)の「大坂夏の陣」で徳川方・豊臣方が激突した古戦場です。 豊臣方を率いた後藤又兵衛基次は傷を受け、戦闘の指揮がとれなくなり、切腹したと伝わります。後藤又兵衛の碑は市立玉手山公園の 中にあり、その碑の横には「後藤又兵衛のしだれ桜」が植樹され、徳川方で討死の奥田三郎右衛門らの碑も建てられています。                                                                             

当公園の前身は、明治41年に河南鉄道(現在・近鉄南大阪線)によって開設された西日本で最古の遊園地「近鉄玉手山遊園地」で すが、平成10年に閉園し、約1年後・平成11年「柏原市立玉手山公園ふれあいパーク」として再開園しました。

◇高井田横穴公園   (柏原市高井田)

高井田横穴」は、6世紀中頃~7世紀前半にかけて造られた軟弱な凝灰岩層を刳り抜いた横穴墓で、約160基が確認されており、実際は200基以上あるものと推定されています。横穴の奥にある玄室には、3体ほどの遺体が納められたと考えられています。

線刻壁画:確認された横穴のうち、27基の横穴の壁や天井に線刻壁画が見つかっています。「人物」や「船」、「鳥」、「木の葉」など題材は様々です。

柏原市内には、安福寺横穴群(玉手町)、玉手山東横穴群(旭ヶ丘)などがあり、このような横穴は、大阪府下では柏原市だけです。

船に乗る人物線刻壁画 高井田3-5号横穴②

船に乗る人物線刻壁画 高井田3-5号横穴:柏原市立歴史資料館  

【参考文献】

1.「柏原船溜まり跡」、大阪市HP、2015

2.「大和川治水記念公園」、大阪府HP、2015

3.「大津道」、松原市HP、2015

4.「柏原市立玉手山公園・ふれあいパーク」:柏原市HP、2015

5.柏原市立歴史資料館編:「高井田横穴群」、柏原市立歴史資料館、2012

6.国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所HP:「付替え前後の大和川」,2011.

7.上田 睦:「允恭天皇陵古墳」、「古市古墳群を歩く」(古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議編)、2010.

8. 大和川水系ミュージアムネットワーク編:「大和川付け替え三百年=その歴史と意義を考える=」、雄山閣、2007

大阪府の歴史散歩編集委員会編:「大阪府の歴史散歩」、山川出版社、2000

【2016年3月12日実施・案内:荻野哲夫・編集:宮﨑信隆】

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