■第266回行事・アーカイヴス(2016年2月)

葛城 馬見古墳公園めぐり

●古代葛城地域として、葛城川が北流する律令制下の葛上郡・葛下郡・忍海郡が想定されており、馬見(うまみ)古墳群は大和國西半を制していたともいわれる豪族葛城氏一族のみならず、天皇家の皇子たちの墓陵の存在も判明し、発掘調査・解析もかなり進んでいる。一部は古墳公園として復元されているが、古墳時代の「葛城」を中心とする歴史を顧みてみたい。

コース近鉄・池部駅~池上古墳*~[馬見丘陵公園館]~乙女山古墳*~カタビ古墳群~別所下古墳~佐味田石塚古墳~ナガレ山古墳*~ダダオシ古墳~イノワ古墳群~三吉石塚古墳~新木山古墳~巣山古墳*~三吉2号墳~佐味田狐塚古墳~倉塚古墳~一本松古墳~文代山古墳~近鉄・箸尾駅   (約10km)

 

馬見丘陵は、南北約7㎞・東西約3㎞の低い丘陵で広陵町・河合町に跨り、北流する佐味田川・滝川により丘陵は三分されているが、6世紀末までには(葛城氏から)天皇家直轄地になっていた、との説もあります。

 【コース地図(赤線):国土地理院発行1:25000「大和高田」】

馬見古墳群は、4世紀半ば~後半に古墳が築造され始め、佐紀古墳群を擁する勢力と共に畿内政権の主導権を握ることになりました。古墳は河合町・広陵町に跨り、帆立貝式古墳がたくさんありますが、考古学界では「北群」(河合大塚山古墳が中心)、「中央群」(巣山古墳・新木山古墳が中心)、「南群」(築山古墳が中心)に分けられています。

[ 中央群 ]

今回探訪するのは、東丘陵の中央部に位置する「中央群」の古墳で、築造は前期後半(4世紀末)に始まり、後期の築造は確認されていません。

【馬見古墳中央群分布図:坂原図】

池上古墳  (丘陵公園北エリア:河合町)              

■県下を代表する帆立貝式古墳で、中央群北端に位置し、1991~92年に外形測量・部分発掘が実施されています。

■当墳丘は三段築成で、一段目は墳裾において20~25㎝径の円筒埴輪が1.3~1.5m間隔で配置され(埴輪列)、小振りの葺石(人頭大~拳大石)、周濠・馬蹄形外堤の規模・形状を確認。各段斜面に大型石を縦に、その間に葺石が遺存していました。

石材は二上山麓から運ばれたと考えられている。

【池上古墳・復元図 (図の後円部墳丘縁の「点」は埴輪列:坂原図】    

【池上古墳前方部】

 墳丘長は92m、後円部径約81m、前方部長11m余、同幅32m、外堤とも全長130mであり、5世紀前半(古墳時代中期前葉)の築造と推定されています。

帆立貝色古墳の成立]

イ.前方後円墳の前方部を短くした。即ち、前方部を極端に短くさせて、前方後円墳の被葬者より、被葬者が下位の階層にあることを示した・・)

ロ.円墳の『造出し』が発達した

池上2号墳

径約20~25mの円墳で、「池上古墳」後円部北西(外堤)にあり、墓壙内に粘土床の埋葬施設で、盗掘が酷く、U字型窪みに割竹形木棺が埋納されていたものと推定されています。遺物には管玉・鉄器片・銅鏡片が検出されています。

池上3号墳

「池上古墳」前方部北東にある円墳です。

馬見丘陵公園館

入口は「新山古墳」より出土した「直弧文鏡」をモチーフとしており、「乙女山古墳」出土遺物他が展示されています。

乙女山古墳(國史跡:丘陵公園南エリア北端)

日本第二で、県下最大ともいわれる「帆立貝式」古墳で、開墾時に勾玉・刀子・臼玉・紡錘車・鎌等滑石製模造が墳頂部から出土したので、1987~88年に測量・発掘が実施されました。東南に伸びる小支丘を切断し地山を整形して築造され、5世紀前半の築造と考えられています。

周濠は後円部の土橋で5分割状態で、全長130m・後円部径104m・同高約15m・前方部(東側)30m・同幅52m・同高3.5mを測り、後円部西南側に10m長・約24m幅の「造り出し」が付設されています。盾形周濠・外堤が遺存し、堤は盛土により築かれ約31m幅、前方部前面堤は約22m幅です。

葺石は両くびれ部・「造出し」で確認されており、円筒埴輪列は「造出し」部に底径約20㎝のものが検出され、前面に形象埴輪([切妻造り]家形・楕円形)が配置されていたそうです。他の位置には蓋(きぬがさ)形・籠目壺形埴輪・須恵器等が検出され、土師器小型丸底壺を埋納された円筒埴輪、墳頂付近で白色円礫・滑石製勾玉・臼玉・刀子・鎌・紡錘車・銅鏃・家形・鰭付円筒埴輪破片・楕円形埴輪が検出されたそうです。

石製模造品による葬送儀礼は、古墳時代前期後半(5世紀前半)に始まっています。

【乙女山古墳・墳丘図:坂原図】

【乙女山古墳:帆立貝型後方部付近】

「池上古墳」・「乙女山古墳」は研究史上、「帆立貝式」古墳を特異墳形として認識し、その究明の契機となりました。

カタビ1~4号墳  (整地されており、1つの丘状で個別の判別不能)

「乙女山古墳」と「別所下古墳」間の丘陵上の、中~後期(5世紀前半~7世紀前半)築造の小古墳です。

1号墳は、22×20mの周濠・円筒埴輪をもつ中期に造られた方墳です。

2号墳は、粘土多用の木棺直葬墓で、周濠をもつ径約20mの終末期に造られた円墳で、須恵器が出土しています。

号墳は、西端の木棺直葬の終末期に造られた円墳で、小型埴輪が出土しました。

別所下古墳(旧・雨山古墳)          

径約60mの大規模の円墳で二段築成と推定されており、テラス面に鰭付円筒埴輪が配列されて、墳丘周囲に外堤が確認されました。最古の時期(4世紀後半)に造られた古墳と推定されています。

【別所下古墳:推定断面図】

 2号墳「下古墳」東北側裾の径約(25)15mの円墳です。

佐味田石塚1号・2号墳

石室を公園内に移築されています。「1号墳」は小振りの石材を積んだ竪穴式小石室が遺存し、床面に平瓦敷き詰められていて、7世紀中葉の築造と考えられています。

ナガレ山古墳(お太子山)          

1976年國史跡に指定された全長105の前方後円墳で、破壊を免れた東半の埴輪列・葺石が復原されています。

後円部東側裾部分に円筒埴輪27本列が確認され、底径30㎝の円筒埴輪の凡そ10本おきに底径50㎝弱の大型円筒埴輪が並べられていたと推定されています(埋葬施設は発掘調査されず)。

前方部に粘土槨が検出され、棺外から刀形、鋤先形・鎌形鉄製品、土製品(供物用)が出土しています。

【ナガレ山古墳墳丘図:坂原図(スケール両端間50m)】  

 東くびれ部墳丘裾~前方部斜面を登る幅約2.5mの通路状遺構の左右に円筒埴輪(5段構成の大型品)が配置され、多数の形象埴輪、滑石製刀子形・斧形・紡錘車形模造品、勾玉・臼玉等が検出されました。埴輪より古墳は5世紀前半の築造と考えられています。

【復元ナガレ山古墳】                      

 ナガレ山東1号墳

一辺約12mの方墳で5世紀前半の築造とみられています。

ナガレ山東2号墳

径約18mの後期の円墳、6世紀後半築造?

ナガレ山北3号墳     [発掘せず]

径約60mの円墳で、円筒埴輪棺が出土しました(最古例)。4世紀中葉の築造と考えられています。

ナガレ山北4号墳

径約18mの円墳です。

ナガレ山北1号墳

径約17mの円墳です                  

【最古出土円筒埴輪棺:ナガレ山北3号墳】

 ナガレ山北2号墳

径約18mの円墳です。

タダオシ古墳 (丘陵公園南エリア)

全長約50(52~56)m・後円部径33m・同高約7m・前方部幅30~34m・同高4mに復元された前方後円墳*で、前方部・後円部とも1993~94年の発掘調査時には削平され或いは道路化されていました。

【ダダオシ古墳墳丘図(スケール両端間は20m)】

 周濠部から須恵質埴輪(棺)が出土し、南東外堤には埴輪を敷き詰め周囲に石材を置いた陪葬墓が検出されています。西側・前方部には造られず、濠幅は後円部東側で約7m・外堤幅約8mです。6世紀初頭の築造と推定さました。   

三吉一番地古墳

「竹取公園」内に無袖式(羨道が真直ぐ)横穴式石室が埋葬主体の古墳で、須恵器平瓶が出土し、6世紀中葉の築造と考えられています。石室は尾根南斜面に1.7m幅・3.8以上長・深さ約1.0mの墓穴の石室長3.35m・幅0.84m・高さ推定約0.9mで南に開口しています。                  

イノワ古墳群                                

「新木山古墳」北西部に6基の竪穴系横口式石室が検出され、須恵器・土師器等出土しました。6世紀中葉~後半の築造とみられています。

【イノワ1号墳・石室】

 三吉(みつよし)石塚古墳

「新木山古墳」西燐の小支丘を利用し地山整形で築造された、全長45m・後円部径40~41m・同高約7m・前方部長7m・同前端幅約23m・同高3mの東面する帆立貝式前方後円墳です。周濠は地山を削りだし、濠底幅約3m・深さ1m・前方部では同幅1.5mを測る馬蹄形で、周濠外側の堤を含む全長は62mです。

外堤は後円部約8m・前方部で約5mあり、墳丘側、周濠側に約1.5mの葺石が施されています。前方部より出土した4段構成の円筒埴輪中に須恵質のものがあり、5世紀後半(古墳時代中期後葉)の築造と考えられています。1992年県史跡指定されました。

【復元三吉石塚古墳上から金剛葛城連山・二上山の眺望  

【三吉石塚古墳:復元】                       

新木山(にきやま)古墳   <陵墓参考地で立入禁止>

南北走行の低位丘陵から東へ派生する小支丘を利用した前方後円墳で、後円部東側周濠は地山の削出で造成されています。

墳丘の全長200m・後円部径117m・19m高・前方部幅118m・17m高を測り、主軸は東西で両括れ部に「造出し」が遺存します。

「中央群」の中核的存在っと考えられており、周濠は後円部の南側では水田・畑と化し、前方部は一部宅地化しています。濠幅は後円部18~22m、前方部22mで一重の盾形周濠が巡り、幅約20mの外堤はかつて高さ3m以上ありましたが田畑の畦畔となっています。墳丘裾に径30~50㎝の石が散在し、同斜面に二上山西麓の輝石安山岩の葺石が確認されています。

【新木山古墳墳丘図:文献4】

 【新木山古墳:周濠部(左端に依存)

周濠内で中世の土器と共に有黒斑・方形透かし付き円形埴輪破片が検出され、墳丘内に埴輪列も確認されました。出土遺物に勾玉・管玉・棗玉等、家形埴輪破片などが検出されており、形象埴輪に襟付短甲形が含まれていました。

周濠・外堤・造出しは「巣山古墳」と共通で、墳丘前方部が開き、少し高くなることより中期初頭~前葉/5世紀中頃の築造と考えられています。後円部墳頂に盗掘抗(径7×5m)があり、竪穴式石室が設置されていたと推定されていますが、前方部の埋葬については不明です。

巣山古墳(特別史跡)

南北方向の東斜面を利用して構築された三段築成の前方後円墳で、全長220210m・後円部径約118~130m・同約17~19m高・前方部先端幅96~112m・同15~16m高で、盾形周濠・外堤を含めて、外堤外側では全長333m・全幅245mの「中央群」の最大古墳です。前方部西側に島状施設と石敷き状施設(周濠に浮かぶ)が(頂部に長方形壇も)遺存しています。

造出し」は後円部・前方部接点の連結部に30m長、20m幅の三角形で取りつけられ、「新木山古墳」に類例あり。築造は4世紀末(坂、前期末~中期初:河上)。

墳丘裾部が浸食され、崖面に墳丘一段目平坦部に樹立していた埴輪列が露出しました。下段周縁全部近くを一重~二重に埴輪を20~25㎝高(残存)で巡らせており径20㎝の円筒埴輪が多く、配列は35~40cm間隔で、外堤北側で外側溝、埴輪円筒棺、船型埴輪が検出されました。

【巣山古墳墳丘図:文献4原図 (スケール両端間100m)

◎大王級の祭祀儀礼を探る資料   

島状施設の突出部で水鳥形埴輪、その上面で家形・柵型埴輪が出土し、周濠から直弧文ある構造船、靱と推定された木製品が出土しました。葺石を前方部他墳丘基底部・外堤内法で検出されています。

石室後円部中央より西偏して2つの竪穴式石室前方部に1基の竪穴式小石室がありましたが、盗掘・破壊で埋まっていたようです。西石室は南北長軸、側壁は10㎝厚・約30㎝長の石英粗面岩割石が積まれ、天井石は4枚遺存し、凝灰岩様加工切石を横架し、その大きさは2.3m長・幅84~109㎝・21㎝厚前後でした。石室高は約1.1mで、天井石上に盛土の厚さ約1.5mに積まれ、東石室は約1.8m離れて深さ1m・幅約2mの天井石3枚が遺存しています。

【巣山古墳・出土埴輪類:河上原図】

 出土遺物には、滑石製大勾玉、小形滑石製勾玉、車輪石、鍬形石、管玉(以上、宮内庁書陵部保管)、棗(なつめ)玉、石製刀子、石釧、西側くびれ部から籠目土器などがありました。

★   ★   ★

土木祭祀:外堤に木製埴輪が置かれて祭祀が行われていたことが推定されています:

・前方部北西隅に鋤・三叉鋤・火切臼・堀棒等が検出されており、小型で非実用的で「明器」であり、土木工事完了直後に儀礼用に濠内(寿陵のため空堀と推定)に置かれたと考えられています。

葬送用木製棺蓋等が出土しており、靫(ゆぎ)形木製品(透かしが横に6つ、縦6段に空いた辟邪のため靫を外堤に立てて威嚇)、祭祀用木製鋤等が周濠底から検出されました。

北側濠内に南北16・東西12m方形の出島状張り出し土壇が検出され、その側面に葺石、上には1~5㎝の白石が散布され、墳丘とは幅2mの渡り土手で繋がっています。本遺構上から7種の埴輪が出土しており(計34個以上:別図)、祭祀場を再現したジオラマ的な場所(神の「依代」)と考えられています。これは「津堂城山古墳」の濠内島遺構が類似しており、また、「今城塚古墳」(事実上の「継体陵」)の再現祭祀場が参考になります。

平成20・21年に周濠から実物大・木製「喪船」(被葬者の遺体を運んだ?)、前方部周濠外部の土壇から船形埴輪[黄泉の国へ死者の魂を運ぶ?]を検出、埴輪表面に直弧文[悪霊から死者を衛る]が刻まれていて、全長1.4m・50㎝高に復元されました。土壇から円筒棺(被葬者を納めたもので1.5m長・径0.5m)が出土し、鉄剣が副葬されていました。

三吉(みつよし)二号墳・三号墳(広陵町)

■二号墳は「巣山古墳」西方の「巣山古墳」の陪冢的位置にあり、1992・93年調査で全長9390m・後円部径78m・前方部幅41m・くびれ部幅33mの帆立貝式前方後円古墳で、4段構成とみられています。後円部東側4分の1と北端墳丘部は削平化されていて、前方部外堤上で埴輪棺埋納土壙 (5世紀後半造)が検出され、築造は4世紀末~5世紀後半と説が分れています。

三号墳は、「巣山古墳」と「三吉二号墳」の間にある一辺12mの方墳で、埋葬主体部が円筒埴輪棺(5世紀後半製造)で、「二号墳」の陪冢墓と推定されています。

【三吉2号墳墳丘図:坂原図】

佐味田狐塚古墳      (丘陵公園中央エリア・南エリア)

1975年、道路工事に伴う発掘調査で、後円部に粘土槨が検出されました。

「巣山古墳」北西側に隣接し、南面する帆立貝式前方後円墳で外形測量図から、全長7886m・後円部径66m・同高7m・前方部長20m・同復元幅約26m・同高5mを測り、東裾部が一段低く、空濠外堤まで全長99m・後円部東西幅77mを測りました。

墳丘主軸に合致した墓壙は東西約4.5m幅・南北10m長で、排水溝伴う粘土槨が検出されています。数回の盗掘により棺・槨とも破壊されています。

盗掘抗内より銅鏡細片・刀子破片、墳丘・周濠・外堤から埴輪・須恵器・土師器破片等が出土しました。

【佐味田狐塚古墳・墳丘現状図】

 【佐味田狐塚古墳:道路左・前方部、右・後円部】

 後円部外堤・周濠は復元整備されており、築造時期は「巣山古墳」と同時期の4世紀末あるいは前期後半~後期といわれています。

倉塚古墳(スベリ山古墳:丘陵公園南エリア)

墳丘長約180m・後円部径約106m・同約12m高・前方部幅約70m・同約6m高で、東向きの前方後円墳です。後円部南西に幅約10mの濠状地形、その外側に幅約15mの堤状地形が遺存します。築造は4世紀中葉と推定されています。                    【倉塚古墳・墳丘図】          

 【倉塚2号棺】

北東外堤の円筒埴輪列中(1号棺:直刀を副葬)と南西約100m地点(2号棺)から円筒棺が検出され、2個の円筒埴輪を朝顔形埴輪目縁部で塞いで繋いだ合口棺でした。これらは当古墳に直接伴わないと推定されました。

 一本松古墳 

(倉塚北古墳・寺戸前方後円墳)      

全長145130m・後円部径約80m・前方部幅約80mの前方後円墳で、外堤・周濠の一部が確認されています。東側外堤上面で、前期末~中期初頭[4世紀後葉]に作製されたものと考えられる埴輪棺(円筒埴輪を2個繋ぎ透穴等を破片で塞ぐ)が検出され、古墳築造は4世紀末と考えられており、当古墳は「倉塚古墳」の一部を壊して造成されています。

二号墳:「一本松古墳」の東に1辺15mの方墳が確認され、築造は4世紀末と考えられています。           

文代山(ぶんじろやま)古墳(寺戸古墳:広陵町で発掘)

一辺4840mの方墳で、二段築成です。葺石と周濠が検出されており、南辺に「造出し」をもち、動物(猪・馬・犬)・蓋形・家形埴輪が出土しました。築造年代は5世紀後半(三吉石塚古墳と同時期)と推定されています。

長持式石棺底石(龍山石製)は牧野古墳公園へ移設されました。

【文代山古墳・墳丘図:文献4(スケール両端間30m)

馬見古墳群・築造編年:坂原図

【参考文献】

1.河上邦彦:「馬見古墳群・大和葛城の大古墳群」、新泉社、2006

2.青木明美編:「馬見古墳群中央群」・友史会遺跡地図(15)、友史会、2009

3.池田市立歴史民俗資料館編・発行:「古墳時代の猪名川流域・猪名川流域に投影された畿内政権の動静」、2010

4.青木明美編:「馬見古墳群南群と馬見丘陵南辺の遺跡」・友史会遺跡地図(16)、友史会、2010

5.「馬見丘陵の古墳群と伝説をめぐる」・歩くならルートマップ、奈良県、2011

6.坂   靖:「馬見古墳群を歩く」、友史會報(544)、友史会、2012

7.広陵町役場:ホームページ、2012.

201626日催行・案内:宮﨑信隆】

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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