■第265回行事・アーカイヴス(2016年1月)

■「熊野古道」

紀伊路大阪府篇](長滝~和泉砂川)・籾井王子・厩戸王子 

●泉州を進んだ「熊野古道 紀伊路」は、泉佐野を通り、和泉山地に近づいていきます。今回は、長滝より奥家住宅、樫井古戦場跡、海会寺跡などに立ち寄りながら、和泉砂川まで歩きます。

【コース地図(赤破線):国土地理院発行125,000「樽井」】

(図上のクリックにより拡大)

コース地図長滝砂川25000樽井②

コースJR長滝駅~南の池公園~蟻通神社~籾井(樫井)王子址~奥家住宅~樫井古戦場址~一岡神社・海会寺址~厩戸王子址~海営宮池~信達宿本陣跡~市場稲荷神社~長慶寺~JR和泉砂川駅(約8km)

◇蟻通神社

「蟻通明神」とも言われ、祭神は大国主命・蟻通明神で、国土開発・五穀豊穣・智恵・孝行の神として祀ります。かつては熊野街道(現、府道64号和歌山貝塚線)沿いに広大な境内地を有する神社で、第9代開化天皇の勧請で創建されたと伝わり、第二次世界大戦中、明野陸軍飛行学校佐野分教場(佐野飛行場)建設のため、佐野・日根野・安松・長滝の町村は移転し、神社も現在の長滝地区に移転しました。

また、紀貫之所縁の神社で、紀貫之が和泉の国を旅する途中に「蟻通明神」神域に騎馬のまま乗り込んで罰を受け、馬が倒れたのを見て神の怒りを悟った貫之は和歌を詠んで謝罪して、神の心を和らげて消された馬を復活させたと伝わります。後に、世阿弥がこのことを能曲「蟻通」を作曲し、笠森お仙を描いた鈴木春信の浮世絵の背景にも描かれています。

IMG_0034蟻通神社蟻通神社  

◇樫井古戦場塙団右衛門墓   泉佐野市南中樫井)

徳川方と豊臣方の最後の決戦「大坂夏の陣」の最初の合戦があった樫井附近をさしますが、徳川方は元和元年(1615)4月29日早朝に大野治房を主将とする大坂方20000の軍勢と徳川方浅野長晟の5000の兵が死闘を繰り返し、塙団衛門は先陣を争い早まって狙い矢に当たり落馬したところを討ち取られ、結果は作戦が当った徳川方の大勝利におわりました。

樫井東の街道筋には塙団右衛門五輪塔淡輪重政の宝篋印塔、明治大橋のたもとには樫井合戦場の碑が建てられています。塙団衛門は尾張・羽栗の生まれで、当初加藤嘉明に仕え、文禄・慶長の役で軍功を挙げましたが、関ケ原の戦では嘉明と不和になって致仕し,のち小早川秀秋,徳川忠吉,福島正則に仕えましたが,長くは続かず,浪人して僧・鉄牛となり、大坂冬の陣では大坂城に入城しました。

当時熊野街道は長滝蟻通神社附近から松林がつづき、安松附近の街道わきは湿地や沼が広がり、八丁縄手の地蔵が一つ立っていたものと考えられています。樫井は熊野街道の沿道に家並があるほか、当時は樫井西の家並は形成されておらず、樫井川の氾濫原の川原が広がっていました。一岡神社方面に続く熊野街道の橋は樫井川の川原に流され易い板橋があったくらいのようです。熊野古道は樫井川に新家川が合流する辺りで渡渉したようです。

なお、「樫井古戦場址」碑の傍らに□等三角点(標高10.6m)が設置されています。

 

IMG_0041③塙団衛門墓 塙団右衛門墓】   IMG_0051_樫井古戦場跡碑

【樫井古戦場址碑:樫井川畔】         

IMG_8889 三角点樫井川畔古戦場跡碑前【□等三角点(10.6m):南中樫井】             

◇籾井王子(樫井王子)   (泉佐野市南中樫井・賢吉宅庭)

●「九十九王子」の中で、天満橋の「窪津王子」より18番目の皇子で、紀州以外では唯一の「五体王子」ともいわれていますが、大正4年(1915)に日枝神社(泉佐野市南中樫井)に合祀され、跡地が他家に払い下げられて廃絶し、比定地には自動車販売・整備会社の社屋が建ち、その裏手の個人宅内に顕彰碑が建てられました。 

IMG_0042【樫井王子之跡碑】       

藤原定家の「熊野御幸記」では、後鳥羽院一行は当王子に参拝・奉幣し、里神楽を奉納して白拍子2人が舞い、相撲三番を催したとのことです。また、『泉州誌』には「樫居王子」、『和泉誌』には「籾井王子」の記載があり、大阪府の史蹟名勝指定にあたっての考定によれば、『和泉誌』の籾井の表記は誤転記であり、本来は「樫」の邦字と推定されています。  

◇奥家住宅  (泉佐野市南中樫井・奥家)

熊野街道筋に遺る、白壁が続く國重要文化財(長屋門・土蔵・土塀:昭和44年指定)の奥家は、17世紀初めに樫井に農家として住みついた旧家で、現住宅はその頃に建てられたものと推定されています。

屋敷地は熊野・紀州街道に面して、大坂夏の陣、紀州藩参勤交代、葛城修験などに関係深く、東西約46m、南北約42m約520余坪(1732㎡)と当地域では特に広大な屋敷で、門構え、式台玄関、二間続き座敷、太い棟持柱等の特徴が遺存します。

IMG_0044 奥家住宅【奥家住宅】                                            

◇淡輪六郎兵衛・宝篋印塔

淡輪六郎兵衛は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の折に豊臣方・徳川方が最初に激突したの「樫井合戦」において、豊臣方武将として当地で討死にしました。淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現、岬町)の豪族で、六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室・小督局で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦いました。慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大坂城を攻撃するよう命じましたが、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主・浅野長晟軍と戦うべく泉州に進み、六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙団右衛門とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死にしました。宝篋印塔は寛永16年(1639)の25回忌にあたり、淡輪氏末裔・本山氏により淡輪にて石材を整えて建立されました。

IMG_0046淡輪六郎兵衛政之宝篋印塔②淡輪六郎兵衛・宝篋印塔     

◇一岡神社(祇園さん)・海會寺(かいえじ)(国指定史跡) 

(泉南市中小路[なこうじ])          

「一岡神社」の祭神は、主神が素戔嗚尊で、相殿が稲田姫命、八王子命です。誉田別命・菅原道真を配祀し、明治40年に「厩戸皇子」を合祀しています。

「海會寺」は、現在の「一岡神社」境内西側にその跡地が遺され、柱跡にコンクリート円柱が立てられています。当寺は白鳳時代(約1350年前)に創建された寺院で、法隆寺と同じ建物配置をとっていたことが発掘調査で判明しました。当時使われていた軒丸瓦は、大和・百済大寺、摂津・四天王寺と同じ木製笵型で造られていました。

IMG_0056海會寺跡【海會寺跡            

◇厩戸王子   泉南市中小路)

王子址には「史跡 厩戸王子跡」の石碑と説明盤が掲示されているだけで、明治40年に現在の「一岡神社」に合祀されています(大阪府指定史跡)。

建仁元年(1201)10月7日、後鳥羽上皇は熊野行幸の際、信達荘(しんだちしょう)にある「厩戸の御所」に泊まった記録があります。「お見取り場」が王子址との説がありますが、以前は「厩戸王子神社」または「筆王子神社」とも言われ、永保元年(1083)10月11日「為房卿記」では、一岡神社前を通り、信達宿に入ったとのことです。

IMG_0057【厩戸皇子址碑・説明盤】            

◇海営宮池 (かいごいけ・泉南市信達大苗代[しんだちおのしろ])   

当池は、奈良時代の僧、行基によって開かれた伝承のある溜池で、その畔で木葉形尖頭器が発見されました。木葉形尖頭器は、サヌカイト石を割って「木の葉」のような形に仕上げ、ヤリ先として使用したもので、1万年以前に造られたものと推定されています。

IMG_0061海営宮池】

◇信達宿・本陣(角谷[つのや]家) (泉南市信達)   

古代から中世にかけて、都の皇族や貴族、有力武士たちが、心の安らぎを求めて熊野大社へ参詣するようになり、「南海道」に属していた紀伊に通ずる道は、熊野街道と呼ばれるようになり、熊野詣の一行で賑わいました。「信達宿」には後鳥羽上皇や歌人・藤原定家などの宿泊した記録に残り、「熊野詣」で栄えた街道の秩序を守るため、周辺の人々には重い負担が課せられ、一方、熊野詣が人々に都の多くの文化が、街道沿いには伝えられました。

IMG_0065【信達宿本陣跡・角谷家】    

紀州藩と岸和田藩の参勤交代路として整備され、紀州徳川家の参勤交代は、「脇街道」であった紀州街道を休憩本陣の山中宿、宿泊本陣の信達宿市場村、休憩宿の助松宿と通り、夫々千坪以上の屋敷地に御成門・式台などが設えてありました。角谷家は、13代與右衛門尉長基より24代與三郎まで本陣役を務め、1413坪ありました。

紀州公は約1500人の供侍を連れて雄ノ山峠越え、山中宿土生本陣昼憩、信達宿一泊、翌朝七ツ発ち、泉大津助松宿田中本陣昼憩、大坂屋敷泊の行程でした。角谷家には紀州公からの賜り物も含め、古文書も多く保存されています。左奥の鉄筋二階建ての部分が、紀州の殿様が入る御成門のあった場所で、明治4年に市場村に渡された部分です。

◇市場稲荷神社 (泉南市信達)

祭神は豊宇気毘売大神(とようけひめおおかみ)で、第74代・鳥羽天皇が天仁元年(1108)に伊勢神宮外宮から勧請したもので、配神は赤井神社(梅の宮、大阪府指定史跡)および牛神神社です。

赤井神社は淡輪文書にある幻の仏性寺の守護神で、仏性寺は織田、豊臣の根来攻めの際焼失したと伝わり、牛神神社は牛の守護神で、毎年七夕の早朝に農家は飼い牛を池で洗い清めて参拝したそうです。

鎮座地・市場村の由緒:信達市場は当時、日根郡信達荘御所村と称され、平安時代には天皇・貴族を始めとして一般民衆の間に熊野詣でが盛んに行われ、白河上皇や後鳥羽上皇の宿所になったので、一帯は信達荘御所村と呼ばれていました。

江戸時代になって、周辺に市が立つようなり、特に年末には数丁に渡って「歳の市」で賑わったので、御所村を市場村と改められました。この頃から商売の神様として稲荷が祭られて「市場稲荷神社」と呼ばれ、農業を始めとする機織その他各産業の発展を司る神を奉斎する社義であって、伊勢神宮内宮の天照大神と共に日本の始祖の女神である豊受大神の神徳を讃える尊号で、紡績、織布、商業、農業、建築等の神として祀られています。

IMG_0066_市場稲荷神社NEW市場稲荷神社】

◇長慶寺 (真言宗泉涌寺派・金泉山慈昌院:泉南市信達市場)

本尊は如意輪観音で、仁王門前の100段の石段脇に植えられた多くの紫陽花より近年は「紫陽花」とも呼ばれています。

現寺地の北方にあった「海會寺」の一院として開創されたと伝わりますが、寺伝では「海會寺」は神亀元年(724)に聖武天皇の勅願寺として行基によって創建されましたが、永延2年(988)に焼失し、長徳3年(997)再興されたとのことです。「海會寺」跡発掘調査の所見からは、この寺の創建は聖武天皇の時代よりさかのぼる7世紀後半の創建と推定されています。                

天正年間の信長・秀吉による紀州攻めで全山焼失しましたが、奥之院の観音堂だけが免れ、慶長年間(17世紀初頭)に現在地へ観音堂を移築し、諸堂を新築するなどの再興が豊臣秀頼によって行われました。                             

現寺号は延宝8年(1680)、先の本山であった仁和寺宮から与えられたもので、岸和田藩主・岡部氏の祈願寺として栄えましたが、明治以降は寺勢は衰退し、観音堂と庫裏を残すのみであったものを現住職の尽力により現在の姿に整えられました。     

IMG_0071長慶寺三寶塔

なお、信達市場の「熊野街道」沿いにも□等三角点(標高25.5m)が設置されています。

【参考資資料】

1.樫井古戦場、籾井王子、厩戸王子、海会寺、海営宮池、信達宿、市場稲荷神社:泉南市ホームページ、2015

2.吉田 昌生:「熊野古道ガイドブック・熊野への道」、向陽書房、1999.

【2016年1月24日実施・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】

 

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