■第264回行事・アーカイヴス(2015年12月)

■「山ノ辺の道」(Ⅱ)

●奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の歌詞が山の麓まで、盆地の東縁・春日断層崖下の山裾を縫うように通ずる「山ノ辺の道」は、全長35kmもあり、沿道には神寂びた寺社・古墳が点在して歴史的景観を遺存しており、その大部分は「東海自然歩道」に含まれていて、生駒山・二上山・大和三山・葛城山・金剛山の眺望も楽しめます。 コース地図説明入山ノ辺の道Ⅱ25000桜井大和郡山②

【コース地図(赤点線):国土地理院発行125,000「桜井」・「大和郡山」】

(図上の左クリックにより拡大)

コースJR巻向駅~渋谷向山古墳(景行天皇陵)~行燈山古墳(崇神天皇陵)~天理市トレイル・センター~長岳寺~竹之内環濠集落~夜都伎神社~(天理観光農園)~石上神宮~JR天理駅 (約10.5km)  

渋谷向山古墳  

現在、第12代景行天皇・山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」として宮内庁が治定していますが、江戸時代には「第10代・崇神天皇陵」と思われていたようです。築造年代は、「行燈山古墳」(現・崇神陵)より遅い、「柳本古墳群」の大型前方後円墳の中で最後期の、4世紀半ば~後半の築造と推定されています。 ・墳丘長300m前方部幅170m・同高23m・後円部径168m・同高23mの前方後円墳で、前方部がやや長く、墳丘は三段築成で広い平坦面をもっています。

P1140822渋谷向山古墳 景行陵治定渋谷向山古墳 

行燈山古墳

・現在、宮内庁により第10代・崇神天皇の「山邊道勾岡上陵」(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定されています。

本古墳は、墳丘長242m後円部径158m・同高23mで、三段築成の前方後円墳で、前方部がやや短い形態のため、「帆立貝形古墳」に分類される説もあるようで、また後円部頂上は平坦で円形のようです。

P1140848行燈山古墳 天神山古墳

【行燈山古墳:周濠向こうに「南アンド山古墳」が見える】

・築造は、(「西殿塚古墳」・「メスリ山古墳」より後で)「渋谷向山古墳」より築造時期が遡って、4世紀前半と推定されています。

◇天理市トレイル・センター

・「東海自然歩道」に沿って建つ、休憩と観光情報提供を兼ねた施設で、愛称を「トレイル青垣」といい、館内には「東海自然歩道」や「山の辺の道」散策案内、卑弥呼の鏡で知られる三角縁神獣鏡が33面も出土したことで有名な「黒塚古墳」の石室模型(約4分の1に縮小)が展示されています。庭園では「ふしぎな石」や「水琴窟」の体験もできます。 天理市トレイルセンター青垣天理市トレイル・センター

◇長岳寺    (高野山真言宗・釜ノ口山・天理市柳本町)

・本尊は阿弥陀如来で、開基は空海と伝わる「関西花の寺」二十五霊場第十九番札所で、「山ノ辺の道」のほぼ中間点に位置しており、「釜口大師」と呼ばれています。

・天長元年(824)、淳和天皇の勅願により空海が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建され、最盛時には48カ坊の塔頭が建ち並んでいたと伝わります。

・当寺には4棟の建物、即ち、「鐘楼門」は日本最古の鐘門で、下層は室町~安土桃山時代、上層は平安時代の建築といわれ、「五智堂」は鎌倉時代の建築、「延命殿」は旧地蔵院本堂で、旧地蔵院庫裏は48棟あった塔頭のなかで唯一残った旧「地蔵院」の遺構、寛永7~8年(1630~1631)の建築ですが、室町時代の書院造りの様式を伝えています。

・木造阿弥陀如来両脇侍像は、胎内銘から仁平元年(1151)の作と判明しています。この三像は、玉眼(眼部分に水晶を嵌込む)像では制作年代の判明する最古例とされており、木造多聞天・増長天立像(は、国指定重要文化財になっています。この2像は平安時代中期の作とされ、元・大神神社の神宮寺の「大御輪寺」の仏像を、明治時代の廃仏毀釈による廃絶のため移譲されました。

P1150036長岳寺本堂遠望【長岳寺・本堂遠望】 

◇竹之内環濠集落

・萱生環濠集落 ・県内で最も高地(標高約100m)にある環濠集落*で、南北朝時代から筒井順慶による大和統一までの乱世が生んだ自衛の集落です。周囲に濠を掘って成立させたと考えられており、環濠の西側に池として残っています。集落北側は竹藪が現存し、濠の両側を土塁を盛り上げ、更に外側には竹を植えて防衛性を高めていました。なお、竹之内集落の南方、「萱生集落」も環濠集落です。

P1150040【竹之内環濠】 

*「環濠集落につきましては、「関西地図の会」151回行事下つ道北上」(2006年4月23日実施)におきまして、「八条」・「伊豆七条」・「番条」・「若槻」・「稗田」の環濠集落を訪ねています。

乙木   夜都伎[岐](やとぎ・やつぎ)神社

・中世には、興福寺、春日大社所領の「乙木庄」であった乙木(おとぎ)集落の北入口・宮山の上に鎮座する「式内小社」の「論社」*で、祭神は、武甕槌命、経津主命・姫大神・天児屋根命です。旧社格は村社です。

・乙木集落には、元は「夜都伎神社」と「春日神社」の2社がありましたが、「夜都伎神社」の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は「春日神社」1社のみとして、社名を「夜都伎神社」に改めたものと伝わります。 P1150041夜都伎神社拝殿【夜都伎神社・拝殿(珍しい萱葺き)

・元来、「春日大社」との関係が深く、江戸末期まで「蓮の御供」という神饌を献上し、「春日大社」からは古くなった社殿・鳥居を60年毎に「夜都岐神社」に下賜して使用させる伝統があり、応永13年(1406)には「春日大社」の第四殿を下賜されています。

・現本殿は明治39年に「春日大社」からの移建物で、春日造桧皮葺、高欄、浜床、向拝付彩色7色の同形の四社殿が末社の琴平神社と列んでいます。拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築です。

・西方にある鳥居は「二の鳥居」で、嘉永元年(1848)に春日大社若宮から下げられたものです。「一の鳥居」は三味田集落との境にありましたが、現存しません。

[*論社:類似の名の神社が二社以上あって、どれが『延喜式』に記されている神社か決定し難い神社] 

◇石上神宮

・式内名神大社で、二十二社*(中七社)の一社であり、旧社格は官幣大社です。現在は神社本庁の「別表神社」となっています。

[歴史]龍王山の西麓、布留山(標高266m)の北西麓の高台に鎮座し、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。総称して「石上大神」(いそのかみのおおかみ)といわれる祭神は、第10代・崇神天皇7年に現地・石上布留の高庭に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。

  P1150043石上神宮【石上神宮・楼門*】  

*「楼門」:鎌倉時代末期、第96代・後醍醐天皇の文保2年(1318)に建立されたことが知られ、重要文化財に指定されています。 かつては鐘楼門として上層に鐘を吊るしていましたが、明治初年の「神仏分離令」により取り外され売却されました。二重の正面に掲げてある木額の「萬古猶新」の字は、明治・大正の元老・山縣有朋の筆です。

・平安時代後期、白河天皇は本神宮を崇敬し、現・拝殿(国宝)は白河天皇が宮中の「神嘉殿」を寄進したものと伝わります。

・中世には、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる「布留郷」を中心とした氏人は、興福寺とたびたび抗争し、戦国時代には、織田勢の乱入により社頭は破却され、千石と称した神領も没収され衰微していきました。

・明治時代には、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。

・神宮由緒によれば、本神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年・菅(かん)政友大宮司により禁足地が発掘され、御神体を検出し、大正2年本殿が造営されました。禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。  

【参考文献】

長岳寺・竹之内環濠集落・夜都伎神社:天理市ホームページ、2015

2.石上神宮:石上神宮ホームページ、2015

3.  田中日佐夫:「山の辺の道・飛鳥路」、学生社、2007

【2015年12月5日実施・案内:藤田 清:編集・宮﨑信隆】

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