■第262回行事・アーカイヴス(2015年10月)

織田信澄の 大溝城 ・ 近江高島

         ・・織田信長の『琵琶湖 四点統治』構想・・

●信長は大国・近江國を、各地点間が25~27kmの四地点「安土・坂本・大溝・長濱」を以って統治・支配することを考えて、各地点に城を築かせたが、大溝には弟・信行の子・信澄に建てさせました(縄張りは舅・明智光秀)。その後発展した城下町で近江商人の町・高島、古代・継体天皇に繋がる豪族・三尾氏の地を巡ります。

【コース地図(コース:赤曲線)国土地理院発行1:25000地形図「勝野」(緑曲線=標高90mライン扇状地三角州境界)】 

(図上のクリックにより拡大)

コース地図高島安曇川25000勝野②90mライン扇状地三角州境界

コース:近江高島駅*~白髭神社*~鵜川石仏~乙女ヶ池**~(勝野津址・大溝港)~大溝城址~勝野街並(武家 屋敷・町屋)~高島歴史民俗資料館~鴨稲荷山古墳*~安曇川駅*   [約11km]

白髭神社 [別名:白鬚大明神・比良明神]

○祭神は猿田彦命(猿田彦大神)で、神紋は「左三つ巴」です。

○垂仁天皇25年(在位99年間!)・皇女倭姫命が社殿を再建し、天武天皇白鳳2年(674)「比良明神」号を賜りました。分霊社は陸奥から薩摩まで200社を越えているようです。白髭神は渡来人開拓地方に多く祀られ、音では白髭が百済に通じるとのことです。 本殿は慶長8年(1603)、太閣秀吉の遺命により、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建し、方三間、入母屋造、檜皮葺で、重要文化財に指定されており、片桐且元書の棟札が現存します。湖上の鳥居は湖面上昇により半ば水没し、現在は再々の復興物です。

◆鵜川四十八体石仏

○花崗岩で作られた高さ1.6mの阿弥陀如来座像群で、室町時代後期に観音寺城城主・佐々木六角義賢(よしかた)が亡き母(呉服(くれは)御前)の菩提を弔うため、観音寺から見てちようど対岸にあたる鵜川に建立した、との説が有力です。湖西岸地域が六角氏勢力圏にあったことを示唆しており、現在、鵜川に33躰、大津市坂本・慈眼堂に13躰が各安置され、残り2躰は盗難で行方不明です。

鵜川石仏群33体Ⅳ【三十三躰石佛】

◇打下(うちおろし)・打下城

○「打下」は、乙女ヶ池と琵琶湖に挟まれた細長い地形で、「打下城」は「背後の山より吹く風が打ち颪た・・」といわれる、高島の南西に迫る山に築かれて、「大溝古城」とも呼ばれました。 ○創建は永正2年(1505)に高島玄蕃允(げんばのじょう)が築城し、永禄年間以前(1558年以前)に国人領主の高島氏、林氏が居城、元亀元(1570)年、織田信長による志賀の陣では、林員清が居城した打下城に信長の陣所が置かれ高島郡攻略の拠点の城となりました。

打下城址配置図Ⅱ②【打下城址・曲輪配置図】打下城址主曲輪 配置図Ⅰ

○元亀年間(1570~1572年)に江北・浅井氏または越前・朝倉氏による改修後、天正元年(1573)、浅井長政から信長に降った磯野員昌が城主となりましたが、出奔後、員昌の養子となっていた甥・織田信澄が天正6年に打下城東麓の琵琶湖内湖(乙女ヶ池)のほとりに大溝城を築き、打下城は廃城となりました。

○多種の築城展開のみられる縄張りの山城で、標高379mの山頂一帯にあり、東西270m・南北300m以上の城域を有する大規模な中世山城です。本郭群は南北二城に分かれて高低差があり(50~60m)、その尾根沿いに小郭群が配置された構造で、中主郭に残存する虎口土塁を支える石垣跡や郭跡が遺存します。湖北・湖東地方が展望され、直下を通る北国街道(西近江路)を見渡せる交通の要衝です。

◆乙女ヶ池 (内湖)

○琵琶湖の内湖の一つ、織田・豊臣時代は「洞海」、古代は「勝野鬼江」と呼ばれ、大溝城の「外堀」に利用されました。 ○天平宝字8年(764)、太師(太政大臣)藤原仲麻呂(恵美押勝)による僧・道鏡排斥の乱を起こして逃亡し、愛発関(あらちのせき)で阻まれたため湖西を南下し、同年9月にここで石村村主石楯により勝野鬼江で逮捕されました。

P1140045【乙女ヶ池】

◇大溝港

○「北陸道」に関する「延喜式」記載には、「若狭国は陸路、勝野津より大津に至る」と記される勝野津で、古代の良港でしたが、それ以降の湖面の上昇のため、勝野津から(11世紀頃)古津<木津:新旭>へ、更に今津へ、とその「湊」としての機能は変遷しました。高島郡内からの木材・薪炭糖が大津へ湖上輸送され、「灰太浦」の地名が遺存します。

◆大溝城 址   (鴻溝城)

○天正6(1578)年、織田信澄(信長弟・信行の子・光秀の娘婿)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りによって、潟湖(ラグーン)と琵琶湖の間の砂州上に築城し、新庄城・打下城から移りました。 ○京と北陸を結ぶ西近江路[北國海道]と「勝野湊」の交通の要衝地でしたが、本丸天守台の「野面積み」の石垣が残るのみで、水堀跡の田圃に囲まれています。東側は沼続きで琵琶湖は目近かで、坂本城・長浜城と同様、琵琶湖に浮かぶ水城でした。三の丸に分部氏が建てた陣屋の総門が残っており、門は現在民家として使用されています。

○天正10年、「本能寺の変」の折に、信澄は明智方と見られて、織田信孝と丹羽長秀により大坂で自害させられました。

○以後、「大溝城」には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次(浅井長政二女の婿)が入れ替わり入城し、元和5年(1619)には分部光信が伊勢上野より2万石で入封しましたが、「元和一国一城令」(1615年)により解体され、三の丸を残して水口岡山城へ移築されました。以後は分部氏が三の丸跡に陣屋を構え、明治まで治めました。

大溝城址付近高島町教委②3【大溝城址:高島市教委】

琵琶湖4点支配相関図_足利原図

【安土・坂本・大溝・長濱四城の関係:足利原図】

◇大溝陣屋

○周囲を堀と土塁で囲み、惣門(宝暦5年[1755])他二門を設け、中町通に面して、武家屋敷(笠井家)が残り、町家は本町・中町・南町通に分かれ、中央の石積(垣)水路が最近まで生活用水・防火用水として利用されていました。

◆勝野の町並

○分部光信が伊勢上野(河芸)より2万石で家臣40数名、菩提寺・圓光禅寺とともに入部して再興し、六軒・長刀・舟 入・江戸屋・蝋燭・紺屋町などが遺存します。酒造、酢造、鮒鮨など発酵醸造業などが存続し、十四軒町には「小野組総本家」屋敷跡が残ります。 [「近江高島商人」参照]

◇「小野組総本家」と「近江高島商人」

○デパート「高島屋」宗家は代々飯田家でしたが、業者が自分の養父の出身地の「高島」に因んで屋号を「高島屋」と名付けました。

○「小野組」は江戸初期に大溝で創業、盛岡・京都から全国展開し、小野組総本家は大溝にある屋敷で、江戸、明治期を通じて三井家は呉服中心に対して、小野家は各種物産の商いが中心でした。京都を本店にして、江戸、大坂の地に主力店を置いていたのは三井家と同じでしたが、小野のユニークな点は東北・盛岡にも主力店を持っていて、南部藩が城下町の発展を図って積極的に商人を誘致していたのに乗ったのがきっかけでいた。小野組が破綻した後も、盛岡市では小野組の血を引く企業があり、当地には湖西出身の商売人が多いそうです。

○幕末に、後の古河財閥創業者・古河市兵衛(1832-1903)が30歳で江戸日本橋の小野組に入店し(京都の豆腐屋の倅)、持前の商才で出世して、小野組の幹部になりましたが、彼が小野組内で実力を持ったことが、後に破綻原因の一つの理由との説も強いようです。

○明治6年、小野組の本籍登記を京都から東京へ移すための転籍願を京都府庁に提出しましたが、その転籍誘因は、この年、大蔵省肝入りで最初の近代的銀行「第一国立銀行」が設立され、総監・渋沢栄一で、三井組と小野組の共同出資で決定されました。しかし、今後本格的な銀行業、為替業は本籍を東京に移した方がいいとの直接的理由では簡単にいかなかったようです。 ○当時の長州出身の副知事・槇村正直は、東京遷都の結果、京都は全く活気がなくなり、衰退都市になりつつあったことを憂え、小野組が京都から出るのが、京都の沈滞化に拍車をかけると判断し、小野組の転籍申請を断固拒否しました。

○小野組も行政の越権行為として裁判所に訴え、京都府側に罰金を科しましたが、槇村は司法側を無視し続け、小野組vs槇村の問題から行政vs司法あるいは長州閥vs非長州閥の問題へと昇華し、結局は小野組が勝訴しましたが、小野組は長州閥の連中に恨みをもたれました・・。

○転籍騒動の翌明治7年当時、国の公金扱いを任せられていたのは、維新時からの御用商人・三井組、小野組、島田組で、ほとんど無利息、無期限で公金運用ができたようです。それが、突如として、短期間のうちに運用金額と同額の担保金を提出するよう通達が出され、金額が大きいだけに、豪商といえども担保金提出が出来ず、三井家だけが生き残って、小野家、島田家はつぶ(さ)れました。 政府との情報疎通・後継者を欠いたことが崩壊の原因との説が強いようです。

大溝 高島 江戸末期 合同図②

【大溝旧町・高島町史(白井原図)、大溝城址・陣屋跡(高島市文化遺産活用実行委員会)合図】

近藤重蔵守重墓  (明和8年(1771)―文政12年(1829)]

○分部家菩提寺・萬松山圓光寺塔頭「瑞雪院」の脇を上った処にあります。

○寛政10年(1798)、27歳で松前蝦夷地御用取扱となり、享和2年(1802)・択捉島が日本の領土であることを示すため島に木柱を立てました。その後も5回にわたって蝦夷・樺太・千島を探検しました。その後、書物奉行などになりましたが、子が殺人事件を起こし、大溝藩の収牢され、その間も、近江の植物図鑑を作るなどの牢生活を送って獄死しましたが、万延元年(1860)救免されたまし。明治44年北方探検の功により「正五位」追贈されています。

P1140050

【近藤重蔵墓】

近藤重蔵 北方探検路 近藤重蔵翁顕彰会

 【近藤重蔵・北方領土探検路:近藤重蔵翁顕彰会】

 

◆鴨稲荷山古墳(宿鴨稲荷塚)

○継体天皇(507年即位・男大亦王:「今城塚古墳」(2001年11月23日実施・第109回行事)に埋葬)は父・彦主人王(ひこうしのおおきみ)の「高島郡三尾之別業」で誕生、その地は安曇川以南一帯の「三尾」地域と推定されています。

○「稲荷山古墳」は、明治35年、県道昇格工事時に発掘、周濠のある全長(現在は前方部の墳丘はないが周辺の地形などから) 全長60m余(後円部の直径25m・高さ5m)ほどの湖西平野部に立地する唯一の前方後円墳で南面し、「横穴式石室」は高さ・幅1.9m、長さ9mで、二上山白色系凝灰岩製刳抜式家型石棺を埋納していました。

○石棺は、縦2.3m、横1.2m、内面側縦1.9m、深さ45cm、蓋縦2.5mで、内面は朱塗りであった。大正11・12年の京大考古学教室の学術調査により棺内から金銅製冠・沓・魚佩(はい)・金製耳飾・鏡・環頭太刀・刀子・鉄斧・玉類、馬具等、棺外から円筒埴輪・須恵器類を発掘され、6世紀前半の築造と推定されており、被葬者は継体天皇擁立に関与し、二人の妃を出した近江三尾氏の族長と思われます。

復元王冠_鴨稲荷山古墳出土②

【稲荷塚発掘品・金銅製冠(復元品):高島歴史民俗資料館

墳形模型_鴨稲荷山古墳歴史民俗資料館②

【鴨稲荷山古墳・模型:高島歴史民俗資料館】

石棺鴨稲荷山古墳

【稲荷塚発掘品・石棺(現地保存) 大ウダチをあげた造り酒屋_勝野_西山卯三

【卯建つが上っている大切妻商家・鴨:西山原図】

 

◆三尾里 

◇胞衣塚 (えなづか・よなづか) ○三尾里にあり、高さ2.1m、直径12mの円墳で、出産時の胞衣を埋めたと伝わります。塚の南を流れる御殿川(ごんでんがわ)付近の小字は「上御殿」、「下御殿」といい、付近に三尾氏の御殿があった、との説もあります。 古代近江豪族分布図

【近江の古代豪族分布図:大橋原図 (「三尾君」地域)が三尾里】

大切り妻商家_鴨_西山卯三

【大ウダチ(梲)をあげた造り酒屋・勝野:西山原図】

 

[参考文献]

1.高島市文化遺産活用実行委員会編:「大溝の水辺さんぽ」,2015.

2.近藤重蔵翁顕彰会編:「北方探検の先駆者・近藤重蔵」.2015.

3.高島歴史民俗資料館:ホームページ、2015.

4.水野章二:「琵琶湖の環境史」・滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科編『大学的滋賀ガイド』、昭和堂、2011.

5.大橋信弥:大橋信弥・小笠原好彦編「新・史跡でつづる古代の近江」、ミネルヴァ書房、2005.

6.中井 均:「近江の城」・淡海文化を育てる会編『近江の城下町を歩く』、サンライズ出版、2005.

7.白井忠雄:「琵琶湖がつくる近江の歴史」研究会編「城と湖と近江」、サンライズ出版、2002.

8.足利健亮:「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」、創元社、2000.

9.白井忠雄:淡海文化を育てる会編「近江歴史回廊・近江湖辺の道」、サンライズ出版、2000.

10.西山卯三:「滋賀の民家」、かもがわ出版、1991.

【2015年10月10日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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