■第261回行事・アーカイヴス(2015年9月)

◆寺内町 富田林

●「富田林」には高野山への巡礼の道「東高野街道」が通過しています。「寺内町」は、中世末から近世初頭にかけて、浄土真宗寺院を核として発達した計画都市ですが、今回は重要伝統的建造物群保存地区に指定されている富田林の「寺内町」を中心に史跡を巡ります。

【コース地形図(赤太線):国土地理院発行1:25000「古市」・「富田林」】 

(図上のクリックにより拡大)

コース地図富田林25000古市②

コース近鉄・喜志駅~美具久留御魂神社~お亀石古墳~オガジン池瓦窯跡~新堂廃寺跡~富田林寺内町(旧田中家住宅・じないまち交流館・旧杉山家住宅)・興正寺別院~錦織神社~近鉄・川西駅  (約9km)

◆東高野街道

◇富田林を通過し、富田林のかつての繁栄をさせる重要な街道であった「東高野街道」は、山城国では「河内街道」、河内國では「京街道」ともいわれ、平安後期に八幡から洞ヶ峠を越えて、星田(交野)~中野(四条畷)~中垣内(大東)~瓢箪山(東大阪)~恩智(八尾)~安堂(柏原)~古市~富田林~錦織~長野~紀見峠~~高野山のルートが出来ました。長野で「西高野街道」と合流して、以後は「高野街道」と呼ばれたのが定説で、大阪府内の延長は約60kmです。

古市から長野までの経路を詳しく辿りますと、大和川と石川の合流点を渡り、国府を通って古市で竹内街道と交叉して、喜志~新堂~富田林に入り、旧寺内町の亀ガ筋を南行し、堺筋を西へ向かい、興正寺別院北側を通って、富筋を南行して突き当り、その角の西北角に旧杉山家住宅があります。更に、3.6km地点に錦織一里塚跡があり、近鉄線を渡って、3km近く進んで長野に至り、「西高野街道」と合流します。

富筋南端の東北角に、『町中くわえきせるひなわ火無用』の宝暦元年(1751)建立の道標立っています。火の用心!火の要慎!

 

◆美具久留御魂(みぐくるみたま)神社  (宮町:旧喜志村)

◇祭神は美具久留御魂大神、即ち大国主神の荒御魂神です。両脇には、左に天水分神と彌都波ス賣命、右には國水分神と須勢理比賣命を祀ります。

P1140898美具久留御魂神社P1140902美具久留御魂神社

【美具久留御魂神社】 

 ◇由緒:社伝では、第10代祟神天皇の10年この地に5彩の巨蛇が現れて農民を悩ましたので、天皇は親しく妖蛇の巣窟を見られ「これ大国主神の荒御魂の荒ぶるなり宜しく祀るべし」といって祀らさせた。その後同天皇60年丹波国氷上の氷香戸辺の小児に「玉鎮出石雲人祭真種之甘美鏡押羽振甘美御神底宝御宝主山河之水泳御魂静挂甘美御神底宝御宝主也」(たまものしずし いずもひとのいかりまつる またねのうましかかがみ おしはふる うましみかみそこたから みたからぬし やまかわのみくぐるみたま しずかかる うましみかみそこたから みたからぬしなり )という神託があり、天皇はそれを聞いて、皇太子活目命(いくめのみこと)を遣わし、河内国支子(きし)に祀らされ、「美具久留御魂神社」と名称を与えられましたが、「美具久留」とは「水泳(みくくる・水潜る)」の意で水神を表します。

◇沿革当神社は歴代朝廷の崇敬厚く、文徳天皇の嘉祥3年に「神階従五位上」を授与され、光孝天皇は河内大社の勅額を奉られました。延喜式には官幣社に列せられ、当国「二の宮」・「石川郡総社」とも称せられました。南北朝時代には南朝歴代の信仰厚く、楠木氏も上水分社とともに当神社を氏神として尊信したので兵乱の間にも朝廷はあるいは神領をよせられ、あるいは社殿の造営を仰せくだされたりなどして御代を祈られました。創建年暦は詳らかではありませんが、平安朝末期には神域に幾つかの神宮寺がありましたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉が根来を攻めたとき、当寺もその兵火により、重宝は殿社堂塔とともに灰燼に帰し、その後豊臣秀頼の寄進により、社殿は再建されました。

以後江戸時代は、僅かに民間信仰によって社頭を支えられ、明治維新以後は近郷5カ町村の氏神社でしたが、第二次世界大戦の敗戦とともに、神社本庁の所属となり現在に至ります。

◇楠木正成は、千早赤阪村の「建水分神社」(上水分社)とともに当社(下水分社)を楠木氏の氏神として崇敬し、社領の寄進や社殿造営を行いました。

◇天正13年(1585)、豊臣秀吉の「根来寺攻め」の兵火により社殿を焼失しましたが、天正元年(1573)の古文書には紀州・根来寺の勢力下であったことが示されており、その結果のようです。万治3年(1660)に社殿が再建され、天和2年(1682)の第7回朝鮮通信使を描いた絵馬が伝わります。明治5年(1872)に郷社に列格しました。

 ◆新堂廃寺  (国指定史跡)

「新堂廃寺跡」は、昭和11年に石田茂作(元奈良国立博物館館長)によって紹介された、飛鳥時代前半創建の古代寺院跡で、羽曳野丘陵裾の、大和川支流・石川が形成した河岸段丘上に所在します。

◇遺跡地には古瓦が散布することが大正年間から知られていましたが、昭和34年に大阪府営住宅の建設計画が出来、大阪大学と大阪府教育委員会が発掘調査を行った結果、創建期の遺構は確認できませんでしたが、白鳳時代再建の建物4棟が確認され、南から塔、金堂、講堂が一直線に並び、金堂の西側に基壇建物が建つ伽藍配置であることが明らかになりました。

◇平成5年度の府営住宅建替えに伴う調査、平成9年度の富田林市教委による調査が行われ、飛鳥時代の中門と南面、東面、西 面回廊が検出されるとともに、塔基壇下層で飛鳥時代の基壇土が確認され、創建期には四天王寺式伽藍配置をとることが明らかとなりました。再建後の伽藍については、新たに南門と宝幢遺構、東方建物、南面、東面、西面築地を検出し、塔・金堂の東西に建物を 配置する特異な伽藍配置をとることが判明しました。中心伽藍は、南北約150m、東西約80mの範囲と推定されます。寺域の北東では奈良時代から平安時代にかけての建物群が検出され、再建後の寺の経営に関わった集団の居住域と考えられています。出土した瓦などから飛鳥時代に創建と推定されています。

◆オガジン池瓦窯跡   (国指定史跡・富田林市中野)

◇「新堂廃寺跡」の北西約0.5kmにあるオガンジ池の北東堤部にありますが、調査の結果、瓦を焼成した半地下式無段登窯であることが判明しています。国指定史跡になっています。

◆お亀石古墳  (国指定史跡・富田林市中野)

◇羽曳野丘陵から南東に突出した尾根上(南斜面中腹)の標高約98mの位置に築かれており、1辺21mの7世紀前半頃に築造されたと推定されている方墳です。墳丘の東側と南側には、丘陵を削った平坦な面が形成されています。葺石や貼石などの外部施設は確認されていません。

P1140909お亀石古墳お亀石古墳:石室天蓋石と家形石棺P1140908お亀石古墳 石室

主体部:南側に開口する横口敷石槨で、切石を布積みにした羨道の正面に、短側面に長方形の開口部を開けた家形石棺を直接置く構造をとっています。開口部をふさぐ角形の石蓋も遺存し、石棺の棺蓋には6個の縄掛突起があり、古くから露出していて亀の形に似ていることから、「お亀石」の名がつきました。

◇石棺の石材は二上山産の白色凝灰岩であり、羨道は花崗岩が用いられており、2002年の発掘調査で、羨道は本来河原石を用いた閉塞石で閉じていたことが明らかとなり、遺物として瓦片・須恵器片などが出土しました。烏含寺を創建した蘇我氏一族が族長の墳墓を寺の背後に造ったものと推定されています。

◇石棺の周囲には飛鳥時代の平瓦が擁壁状に多数積まれていることが確認され、瓦は、古墳の南東に位置する「新堂廃寺」の百済系屋瓦と共通しており、被葬者が同寺院と密接な関係にあることを裏付けています。

◆寺内町                              

◇比較的早い時期に成立した「寺内町」には浄土真宗寺院または在地領主、土豪層の成立によるものが多いですが、末期になると農村の商人的名主、有力農民、商人らが主体的に建設した「寺内町」が多く、後者は富田林八尾など畿内の経済的先進地域に分布しています。

寺内町」の典型的な例を成立年代順に挙げると、越中井波・越前吉崎・山城山科・河内久宝寺・摂津石山・摂津富田・河内枚方・大和今井・和泉貝塚・河内富田林・河内大ヶ塚(河南町大ケ塚)・近江山田(草津市)・越中古府・摂津天満・河内八尾などと大阪府内の町が多くあります。

◇以下に、寺内町と核の寺院を挙げると(近畿に限定):

(三重) 一身田(津市):専修寺、

(滋賀) 金森(守山市):善立寺[金森御坊]、  ・赤野井(滋賀県守山市):赤野井東別院、赤野井西別院、

(京都) 山科(山科区):山科本願寺、

(大阪) 大坂(中央区):石山本願寺、     ・金田(堺市北区):光念寺、長光寺、佛源寺(浄土真宗仏光寺派寺内町)、

・富田(高槻市):教行寺、      ・貝塚:願泉寺、      ・枚方:順興寺、    ・招提(枚方市):敬応寺、

・出口(枚方市):光善寺、      ・久宝寺(八尾市):顕証寺[久宝寺御坊]、        ・八尾:大信寺[八尾御坊]、

・萱振(八尾市):恵光寺[萱振御坊]、 ・富田林:興正寺別院(富田林別院/富田林御坊・「重要伝統的建造物群保存地区[府内唯一]

・大ヶ塚(河南町):顕証寺[大ケ塚御坊]、

(兵庫) 尼崎:本興寺・長遠寺(法華宗寺内町)、       ・小浜(宝塚市):毫摂寺、

(奈良) 今井(橿原市):称念寺(重要伝統的建造物群保存地区)、 ・高田(大和高田市):専立寺、   ・田原本:教行寺、

・下市(吉野郡):願行寺、

(和歌山)御坊:本願寺日高別院[日高御坊]

 

寺内町 富田林   [重要伝統的建造物群保存地区](府内唯一)一)                         

◇富田林の「寺内町」は、石川砂岩の河岸段丘上に位置し、起源は永禄元年(1558)・興正寺(こうしょうじ)第16世・証秀(しょうしゅう)上人が南河内一帯を支配していた守護代・美作守安見直政(諸説あり:三好山城守)から4丁四方の荒廃地・山田芝を銭100貫文で買得し、別院を建設したことに始まります。上人の指導のもと近隣4カ村の庄屋株が中心となり開発が行なわれました。町全体を仏法の及ぶ空間、寺院の境内と見なして信者らが生活をともにする宗教自治都市「寺内町」です。

 

P1140936_安永7年1778富田林村絵図 寺内町センター

安永7年(1778)の村絵図:寺内町センター】

◇なお、「興正寺」は,、正式には「興隆正法寺」といわれ、山科にありましたが、天文元年(1532)に焼失後、蓮教(興正寺14世)の子・蓮秀は天満別院を本寺とし、証秀は蓮秀の子であったので、「別院」と称しました。

◇寺内町の景観                          

・誕生した頃の寺内町は、外周に土塁を巡らせ堀割もありました。4カ所ある町の出入り口にはそれぞれ木戸門が構えられ、夜間は閉ざされて治安を守っていました。町は「興正寺別院」を中心に整然と並ぶ六筋七町(後に六筋八町)で、宅地や畑などが計画的に配置されました。広さは東西約400m、南北約350mで現在の富田林町にほぼ相当します。この整然とした町割の区画は今もほぼ元の姿をとどめており、辻角のあて曲げや用心堀、今も断片的に残る土居跡に昔日の面影がうかがえます。

戦国時代証秀上人から寺内町の開発をまかされたのは、近在の中野、新堂、毛人谷(えびだに)、山中田の4カ村の庄屋株を持つ「八人衆」で、村のことは、合議制で決められていました。彼らは町の周囲を「土居」で囲み、その外側に環濠を廻らして戦乱を避ける町づくりを工夫すると同時に、地域の支配者から諸公事(税)を免除させたり、地元人に有利な裁判ができるような都市特権を獲得します。16世紀後半の織田信長と一向宗本願寺との「石山合戦」の頃も、本願寺と同じ一向宗であるにもかかわらず、織田信長に妥協し「寺内別条なき」という安堵の保証をさせ、寺院の威光を利用しながら都市特権を広げていきました。

◇寺内町の発展江戸時代に幕府の直轄地となった富田林寺内町は「在郷町」として発展し、このころから富田林周辺では米作に加えて、綿や菜種の栽培が盛んになり、これら農作物を扱う商人が現れました。富田林の商人たちは、「東高野街道」や石川を使って商品の物流に関わりました。元禄期には豊富な米と恵まれた水によって酒造業が発達し、当時の記録から、町内の7軒の酒造家で当時の河内全体の酒造高の最大約20%を生産していたことがわかっています。

剣先船Ⅱ②【大和川・石川を往来した剣先船】 

富田林市街図Ⅵ土居環濠②

【富田林・寺内町の土居・町割:富田林市教委】

◆旧田中家住宅 (国指定登録有形文化財)

◇江戸後期に移ったと伝わる当家は、その後の明治期には素封家*に数えられる名家で、母屋、乾蔵、巽蔵など主要部分は明治25年に建てられました。門戸を構え、南北両側に前栽を整えた近代和風住宅として、角屋、茶室、井戸なども有し、創建当時の状態を留めています。母屋の規模は間口10間、奥行4間、厨子二階を設えた入母屋造り(東側は切妻造り)の桟瓦葺きで、下手側段落ちの棟に越屋根(煙り出し)がついています。玄関は平入りで向かって右側を土間とする農家型構成です。[*「大阪府河内和泉資産家一覧」、明治44年]

P1140912旧田中家住宅【旧田中家住宅】

◆興正寺別院(富田林市富田林町)

◇永禄3年(1560)に京都・興正寺第14世証秀上人が創建した寺で、国指定重要文化財です。表門は伏見城の城門の一部を安政年間(1854~59年)に移築したものです。門前の筋は「城之門筋」といわれ、「日本の道百選」に選ばれています。

◇「興正寺別院」は、東西に表門を設け、鐘楼・鼓楼を南北に設置しており、本堂は寛永15年(1638)に、書院・庫裏は文化7年(1810)に再建され、鐘楼・鼓楼は文化7年に現在地に移設されました。本堂、対面所、鐘楼、鼓楼、山門、御成門の6棟が国重要文化財に指定されています。

P1140931興正寺別院P1140926 興正寺別院表門

【興正寺別院・()鐘楼・(中/右)本堂・(右/下)表門:伏見城城門の一部を移築

◆杉山家住宅   (国指定重要文化財)

◇寺内町創立以来の旧家で、筆頭「町年寄」杉山家の現存する家屋は寺内町で最も古く、17世紀中期の南河内の代表的な農家風建築様式で、大規模商家・造り酒屋として栄えた遺構として、公開保存されています。

◇「杉山家」は、富田林八人衆の筆頭年寄で、「わたや」と号し、16世紀後半の富田林寺内町の造営から関わり、当初は木綿問屋を営み、その後、江戸時代中期に酒造業を始めて、大いに栄えて河内酒造業の肝いり役を務めた大商家でしたが、明治中期に酒税(造石税)導入や灘・伏見などの大規模生産地との競争力不足などが理由で酒造業を廃業しました。 建物・土地は昭和58年に富田林市が買収し、大規模修理後に公開されています。

P1140937杉山家【杉山家住宅】

錦織神社   (国指定重要文化財・富田林市宮甲田町)                                      ◇当社のある地域は、太古は「錦部(にしごり)」と呼ばれていたようで、旧くは織物の技術を持つ人々が百済より渡来し住みついていたと伝わり、錦部部(錦部氏)の氏神で、元・錦織・川西地域の鎮守社です。

◇創建年代は不明ですが、昭和10年の本殿修理時に地中から平安時代中期の丸瓦・平瓦が発見され、その頃かそれ以前に創建されたと推定されていますが、本殿は正平18年(1363)に「神主兼惣長者讃岐守三善貞行」を造営責任者として建立されたことが「河内国錦部郡水郡宮之次第」に明らかです。鳥居から約150mの参道が続き、社務所と拝殿の間を通りぬけると正面に本殿、その両脇に摂社の社殿が並んでいます。                P1140941②錦織神社錦織神社】  

◇祭神は、建速素戔嗚命(中央)、品陀別命(左)、菅原道真(右)が祀られています。本殿は入母屋造三間社、正面千鳥破風、軒唐破風付き、檜皮葺きとされています。正面の向拝には丸みを帯びた唐破風を造り、屋根の斜面正面につけられた三角形の千鳥破風が唐破風の上に位置します。この屋根形式は室町時代の「錦織造り」と呼ばれる神社建築で、江戸時代に建築された神社に多く採用され、日光東照宮にも影響を与えたようです。

◇両摂社は小規模な流造二間社で、天神社には文明12年(1480)の棟札があり、春日社も同じ頃の建築と推定され、本殿、両摂社とも国重要文化財に指定されています。

【参考文獻】

1.大阪府の歴史散歩編集委員会編:「歴史散歩(27)・大阪府の歴史散歩(下)」、山川出版社、2007

2.神野清秀:「大阪の街道」、松籟社、1989.

3.井戸庄三:「寺内町富田林の変貌」、『地形図に歴史を読む』(1)、大明堂、1968. 

4.富田林市教育委員会ホームページ。

5.美具久留御魂神社ホームページ。

6.錦織神社ホームページ

【2015年9月27日実施・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】

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