■第258回行事・アーカイヴス(2015年6月)

◆『朝鮮通信使』が通った朝鮮人街道( Ⅰ) 野洲~江頭

●「朝鮮人街道」は中山道・守山宿をでて、野洲市行畑で「中山道」から分岐し、琵琶湖沿いを八幡・安土・彦根を経由、彦根市鳥居本で再び「中山道」に合流する約41kmの街道です。元は、織田信長が岐阜城から安土城を経由して京都に向かうための道として整備されたようですが、徳川家康が「関ヶ原合戦」に勝利して京都へ凱旋した街道で、「将軍上洛」時に使われ、参勤交代での使用は認められず、例外的に「朝鮮通信使」には通行が認められていました。

コース:JR野洲駅~小篠原[分岐点]~祇王井川~円光寺~祇王井川~生和神社~常念寺~永原御殿址~妓王寺~妓王屋敷跡~祇王井川~仁保橋~十王~江頭~JR篠原駅        (約11㎞)

コース地図(赤破線)・国土地理院1:25000地形図「野洲」:太線は「朝鮮人街道」

コース地図朝鮮人街道Ⅰ前半25000野洲 コース入②(図上の左クリックによい拡大)

◆朝鮮人街道

○「通信使」一行が通った近世の脇街道で、「彦根道」、「京道」(近江八幡)、「京街道」(近江八幡)、「八幡道」(はちまんみち)などとも言われ、「中山道」(上街道)と対照して、「下街道」、「浜街道」、「朝鮮人道」、「唐人街道」などと言われてきました。 P1080290③右中山道左朝鮮人街道分岐点

 

 

 

 

 

 

【中山道との分岐点:野洲市小篠原】

◆朝鮮通信使             

○二代将軍秀忠の慶長12年(1607)を初回として、その後約200年間に渡り都合12回来朝しました。釜山から海路、対馬を経て瀬戸内海に入り、鞆・牛窓・室津などによりつつ、大坂から淀川を遡上して京に入り、京からは中山道美濃路(東海道宮宿と中山道垂井宿とを結んだ脇往還)、東海道をついで江戸に至りました。

○「朝鮮通信使」の通行は前後12回で、一行は近江八幡の本願寺八幡別院で昼食を摂り、現在も「副使の書」が残されていますが、その日の宿泊は彦根が恒例であり、「正使」は宗安寺*に泊り、「李朝高官の肖像」が残されています。

[*宗安寺178回行事・2008年9月27日訪問]              朝鮮通信使_大英帝国博物館 

 

 

 

 

【明暦度・朝鮮通信使:明暦元年(1655)

○抑々の趣旨は、室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、永和元年(1375)に足利義満によって派遣された「日本國王使」に対して「(よしみ)を通わす使者」として派遣されたのが始まりで、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れ、江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球施設同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」を用い、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」とも称されていました。

江戸期・朝鮮通信使・履歴

回   元号(西暦)      朝鮮暦    徳川将軍   朝鮮正使  名 称       目    的________

1 慶長12年(1607) 宣祖40年  秀忠     呂祐吉       回答兼刷還使  日朝国交回復、捕虜返還

2 元和3年(1617)    光海君9年 秀忠     呉允謙         同上      大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還

3 寛永元年(1624)  仁祖2年  家光      鄭岦       同上      家光襲封祝賀、捕虜返還

4 寛永13年(1636)  仁祖14年  家光      任絖             朝鮮通信使   ・・・

5 寛永20年(1643)  仁祖21年  家光   尹順之     同上        家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀

 明暦元年(1655)  孝宗6年  家綱     趙珩     同上       家綱襲封祝賀

7 天和2年(1682)    粛宗8年  綱吉     尹趾完    同上       綱吉襲封祝賀

8 正徳元年(1711)    粛宗37年   家宣      趙泰億    同上        家宣襲封祝賀

9 享保4年(1719)     粛宗45年   吉宗      洪致中     同上        吉宗襲封祝賀

10 寛延元年(1748)  英祖24年  家重     洪啓禧        同上        家重襲封祝賀

11 宝暦14年(1764)   英祖40年  家治      趙曮     同上       家治襲封祝賀

12 文化8年(1811)    純祖11年  家斉       金履喬    同上         家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)

◆野洲市                                

中山道朝鮮人街道分岐点(野洲市大字小篠原)の道標が、中山道を少し戻った蓮照寺境内に保管され、「右中山道 左八まんみ(ち)享保四」と折損していますが、『八まんみち』が別称「朝鮮人街道」です。

○街道は野洲小学校西側を北流する「祇王井川」*に沿って進み、県道155号をくぐったところで、JR・京都総合運転所野洲派出所によって分断されています。久野部跨線橋で線路の西側に渡り、線路沿い の旧道にもどります。 P1110173②妓王井川

 

 

 

 

 

【祇王井川:野洲市冨波

○「王井川」*は、野洲市三上の野洲川右岸、七間場(番)の樋堰を水源として、同市内の「朝鮮人街道」[県道大津能登川長浜線旧道]に沿って流れ、富波「生和神社」の森で東西二川に分かれ、「東祇王井川」と「童子川」(西妓王井川)と呼ばれ、中主町との町界を流れ琵琶湖に注いでいます。

○ここから「王井川」は永原を経て「新家棟川」(やなむね)に、本流の「西王井川」は「童子川」と呼ばれて同市江部、中北、北の集落を経て「新家棟川」から琵琶湖に注ぐ人工河川で、総延長26km、流域177haの灌漑用水路で一級河川です。掘割の時期は水利に乏しい江部出身の平清盛の愛妾妓王、妓女の願いとする伝承や、六角承禎の命令説、12世紀末の家棟神社縁起などがあり、江部に妓王、妓女の碑があります。  

◇円光寺

■久野部跨線橋道と県道の交差点角に「円光寺」がありますが、本堂は切妻造り屋根の重要文化財で、九重石層塔とともに鎌倉時代の造営で す。P1080294③神仏混淆_円光寺大行事神社

 

 

 

 

 

【円光寺・大行事神社:神仏混淆・同一境内】

生和(いくわ)神社

■(野洲市冨浪乙)平安時代の草創で、鎌倉時代に「冨波(とば)荘」領主・鎌倉左衛門次郎が祖先を氏神として祀ったと伝わります。祭神の生和兵庫介 藤原忠重は藤原鎌足の末孫で、寛弘6年(1009)、藤原氏の荘園であった富波之荘領主として大和国より赴任し、当地を開拓したようです。「大蛇退治」伝説があり、それらの徳を慕い「生和大明神」と崇め、村の鎮守として祀られました。天正4年(1576)・織田信長に田地を没収されて漸次衰微しましたが、本殿は国重要文化財で室町時代初期に建造され、一間社流の檜皮葺であり、拝殿の背後に一段高く唐門と瑞垣に囲まれて建っています。   P1110176生和神社

 

 

 

 

 

 

【生和神社】 

 

◇常念寺

■(浄土宗・明鏡山)室町時代に地域で勢力を誇った永原氏の菩提寺で、鎌倉後期作である本尊・木造阿弥陀如来立像は国の重要文化財になっています。境内の石造五重層塔は国指定の重要美術品です。

■開基年代は不明ですが、聖徳太子が草創、平安初期、慈覚大師円仁の中興と伝わり、初め天台宗に属しましたが衰え、応永3年(1396)常誉真巖上人が再興して浄土宗の寺となりましたが、後に「浄厳院」(安土)の末寺となりました。

■室町時代に付近一帯の豪族・永原氏が永正3年(1506)堂舎を再興し菩提寺としました。その後、織田信長が当寺十二世大誉文諦に帰衣したので、天正8年(1580)安土城下へ移されましたが、同10年信長の没後永原に戻り、「諸方旦那」の助成によって同13年(1585)再建されたと伝わります。

■境内墓地に「永禄4年三月廿日・・・」と彫られた一石五輪の永原重興墓塔があるほか、歴代の墓も残り、本堂の厨子に安置する阿弥陀如来立像は国重要文化財、門内右手に建つ石層塔は国認定重要美術品が遺存します。寺域は約6,700㎡あり、堂宇は天正10年(1582)の建立と伝わる本堂、寛政11年(1799)建立の山門があります。

旧「家棟川」(現在、廃川)を渡ると永原で、佐々木六角氏家臣・永原氏の本拠地でした。永原には近年発掘調査された「永原御殿」*跡がありますが、徳川家康が「関ケ原合戦」後に上洛した際に宿泊した御殿で「御茶屋御殿」とも呼ばれました。

◇永原御殿                                                                         

■江戸時代前期に将軍が上洛する際の専用宿泊所の一つで、近江には4箇所の「御茶屋御殿」がありましたが、他に「伊庭御殿」、「柏原御殿」、東海道の「水口御殿」がありました。当御殿の成立は恐らく、慶長6年(1601)に徳川家康が江戸へ向かう途中に宿泊しているのが最初で、以降、慶長19年(1614)までに家康・秀忠が7回宿泊し、元和元年(1615)・同9年に秀忠が宿泊し、寛永11年(1634)、3代将軍家光が最後の宿泊となり、貞享2年(1685)に廃止となりました(野洲市HP)。

本道より約1㎞北西に離れた大字中北には「妓王寺」*がありますが、白拍子「王」は野洲の生まれで、母・刀自、妹の「」と共に京に出て白拍子となり、清盛の寵愛を受けたのも束の間、加賀出身の年若い白拍子「仏御前」に哀れをかけ、清盛に見参をとりなして舞をみせたため寵を奪われてしまいました。この後、世の無情を感じた妓王は、妓女をともない尼となって京都嵯峨野の往生院に隠れ住んだ、とのことです。結局は「仏御前」とも4人揃って仏門に入り念仏往生したと伝わり、姉妹二人の菩提を弔うために村人が建てたといわれている寺です。   P1110194妓王寺

 

 

 

 

 

【妓王寺】

 

コース地図(破線)・国土地理院1:25000地形図「近江八幡」:太線は「朝鮮人街道」

コース地図朝鮮人街道野洲江頭②

 

 

 

 

 

 

 

 

(図上の左クリックにより拡大)

 

◇妓王寺  (野洲市中北・浄土宗)

■「妓王」は野洲郡の旧村名であり、明治22年(1889)の市制町村制の施行に際して、辻町・永原・上屋・北・中北・五之里・富波の7カ村が合併してできた新村に「義王村」の名が採用され、明治27年(1894)以降、「妓王村」と書くこととなったようです。

祇王井川*平清盛の愛妾であった白拍子「王」・「女」姉妹の請願により、承安3年(1173)から5年をかけて西側村境を北流する灌漑用水路の「王井」(ぎおうのゆ:祇王井川・義王井川)が開かれたとの伝承があり、妓王・妓女の出身地が中北の小字江部であったことに因みます。

妓王妓女墓築島寺兵庫

【妓王妓女墓:築島寺・兵庫:第219回行事(20123月)訪問】      

■小南、高木集落は天井川の日野川・新家棟川に挟まれて、その洪水水害に悩まされた地です。

仁保橋:現在は県道の橋として日野川に架かっていますが、以前は県道より約50m下流側に木橋として架かっていました。

P1110202②東妓王井川(道路右側)に沿った朝鮮人街道桜並木

【東祇王井川に沿った朝鮮人街道桜並木:野洲市上屋  

◆近江八幡市

■野洲市から、堤防を左におりて十王町の静かな町並みの中にはいっていきますと、この集落から「近江八幡市」です。新しい「朝鮮人街道」の石碑が「朝鮮通信使」を迎えて400[2006年:1回目慶長12(1607)]を記念して建てられています。

P1110213②虫籠窓_千本格子を設えた街道沿い民家

 

 

 

 

 

 

 

【虫籠窓・格子を設えた街道に面した民家:十王町】

P1110212近江八幡市十王町の街道【朝鮮人街道沿いの町並:十王町】

■江頭(えがしら)町も商家の白い土壁が遺る旧街道沿いの集落ですが、「江頭」集落は元野洲郡北里村に属し、隣の「田中江」集落との境界は蒲生郡との境界でした。しかし、「越郡」して近江八幡市に入りました。 P1110216妻入り住宅_江頭町

妻入住宅・封鎖された「煙り出し」:江頭町】

■「田中江」集落の三つの小字の中、「中の切り」の八幡神社東側に以前、があり、物資集荷量も「八幡」に次いで多かったそうすが、その「証拠」的なこととしては「江頭農産銀行」*が明治期に設立されています。

「江頭農産銀行」は、明治25年に「江頭融通会社」が改組・改称されて設立され、昭和3年・㈱八幡銀行に吸収合併されるまで存続し、その5年後に「滋賀銀行」に合併されました。                                          

田中江から琵琶湖に3kmほど向かった湖岸近くに、「万葉集」*にも歌われた景勝の地・高さ187mの「水茎の岡」があり、16世紀初頭九里(くのり)氏により、「水茎岡山城」が築かれました。「岡山」は内湖の島でしたが、干拓により現在は陸続きとなりました。

【参考文献】

1.門脇正人:「『朝鮮人街道』をゆく」、サンライズ出版、1995

2.「朝鮮通信使」:京都市HP。  

P1110215②仁保_十王町_街道400周年記念碑

【「朝鮮通信使」迎えて400年記念建立(平成18年・2006):仁保の庄・十王町】

【実施:2015年6月13日、案内・編集:宮﨑信隆】

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