■第254回行事・アーカイヴス(2015年2月)

◆熊野古道・大阪府篇Ⅲ

=大鳥新王子篠田王子・平松王子・井ノ口王子=

・大阪市内から大和川を渡って堺市に入った熊野古道は、泉州をさらに南下します。今回はJR鳳駅より大鳥神社、聖神社などに立ち寄りながら、JR和泉府中駅までを歩きます。           ([ ]:「九十九王子」の[ ]番目)       

【コース地図:国土地理院発行125000「堺」・「岸和田東部」(破線:電車乗車[鳳駅~北信太駅])

(図上の左クリックにより拡大)

コース地図大鳥 和泉中央25000堺岸和田東部②

コースJR鳳駅*~大鳥神社*(大鳥新王子)~[JR鳳駅~(電車)~JR北信太駅]~信太森葛葉稲荷神社~信太貝吹山古墳~舊府神社~信太の森鏡池史跡公園・和泉ふるさと館**~聖神社*~篠田王子址~平松王子址~放光池灯篭~泉井上神社*~和泉国府跡~井ノ口王子址~JR・和泉府中駅*(約9㎞)

大鳥神社                                  

■式内社*の明神大社**で、「和泉五社」(*3)の一つの「和泉国一宮」です。旧社格は官幣大社(*4)で、現在は神社本庁の別表神社(*5)でもあり、全国の大鳥神社・「大鳥信仰」の総本社とされています。 

P1130750大鳥神社鳥居大鳥神社・鳥居     

*)式内社「延喜式神名帳」に記載された神社であり、「延喜式神名帳」(じんみょうちょう)は、延長5年(927)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧です。

*2)名神(みょうじん)大社:律令制の下において、「名神祭」の対象となる神々(名神)を祀る神社であり、古代における社格の1つとされており、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列しています。「明神祭」は国家的事変が起こりまたはその発生が予想されるときに、その解決を祈願するために行われた臨時の国家祭祀です。

*3)和泉五社:和泉国一の宮=大鳥神社、二の宮=泉穴師神社、三の宮=聖神社、四の宮=積川(つがわ)神社、五の宮=日根神社、 和泉総社泉井上神社

*4)官幣大社:元来は、官(朝廷・国)から幣帛あるいは幣帛料を支弁された神社で、その神社の重要度や社勢に拠り「小社」と「大社」に分けられたと考えられており、198社・304座あった。

*5)別表神社:神社本庁が定めた、神社本庁が包括している一部の神社のことで、大阪府だけでも「大鳥神社」をはじめ12社。

略史:伝承では、日本武尊(やまとたけるのみこと)は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定しましたが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野(のぼの)で死去し、遺体はその地に葬られました。その陵墓から魂が白鳥となって飛んできて、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市(⇒白鳥陵)に降りました。最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀ったとのことです。これが「大鳥神社」の始まりだとされており、神域は「千種森」(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りたときに一夜にして樹木が生い茂ったと伝わります。

■本社は「延喜式神名帳」に記載される「名神大社」ですが、とくに防災雨祈の祈願社として知られてきました。本殿は「大鳥造」といい、「切妻造・妻入社殿」という「出雲大社造」に次ぐ古い形式を保っています。明治の焼失後の明治42年に造営されました。

■祭神は、日本武尊大鳥連祖神 (おおとりのむらじのおやがみ)の2柱で、元来の祭神は大鳥連の祖神であったようですが、一時期は天照大神が祭神とされるようになりました。「和泉国大鳥五社大明神*并府中惣社八幡宮縁起」によれば本地佛は釈迦如来となっており、その後に日本武尊が祭神と考えられるようになってこれが定着したようです。これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合の結果と考えられています。以来、長い間、日本武尊を祭神としてきましたが、明治29年の政府の祭神考証の結果を受け内務省の指示により、「大鳥連祖神」に祭神を変更し、昭和36年には日本武尊を追祀されました。「大鳥連」は中臣氏と同じく「天児屋命」を祖神としていたので、大鳥連祖神は天児屋命ということになるようです。

大鳥五社明神:大鳥神社・大鳥美波比神社・大鳥井瀬神社・大鳥北浜神社・大鳥羽衣浜神社   

P1130751大鳥神社本殿拝殿【右手前】【大鳥神社・本殿屋根】

■境内摂社に「大鳥美波比神社」が祀られています。祭神が天照大神・菅原道真である式内社で、大鳥五社明神の一社です。明治12年(1879)に北王子村(現鳳南町)より境内に遷座されました。明治42年に式内社の押別神社(元・鳳村北王子の村社)・菅原神社が合祀されました。

大鳥美波比神社Ⅱ【大鳥美波比神社】

 ◇[8]大鳥(大鳥居)新王子

■その存在は、建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の熊野御幸の記録『後鳥羽院熊野御幸記』に「大鳥居新王子」として記されており、この頃に比較的近い時期に設けられたものと推定されています。「大鳥居」の名称は、付近の大鳥神社とその鳥居に由来するとの説が有力です。その位置は、大鳥郡北王子村にあった「大鳥美波比神社」といわれており、現在の堺市西区鳳東町7丁のNTT鳳営業所付近と考えられています。「大鳥美波比神社」は明治12年に「大鳥神社」境内へ遷座されていますが、付近はむかしは「みはひ田」と呼ばれていました。

■阪和線鳳駅東、堺市鳳東町の「大鳥神社」の摂社「大鳥美波比神社」境内に別に「熊野神社」がありますが、附近は「熊野街道」を「小栗街道」と言って国鉄阪和線に大体平行していました。堺市南庄市之町東一丁目で「竹内街道」と分れて、仁徳天皇御陵の西側を鳳に向っています。鳳南町で「父鬼街道」と分れて信太に向い、和泉府中で河泉街道と交差して貝塚に続き、中庄から東に向って大久保の五門に入っています。これは「粉河街道」ですが、本道に戻れば俵屋、桜井、牧野となりこの所で「根来街道」と交差して山中に入ります。平清盛の熊野詣の往途、「平治の乱」を聞いてこの大鳥の宮まで引換えし、「かいこぞよかへりはてなばとびかけりはぐくみたてよ大鳥の神」と歌を残して、歌碑があります。

◇信太森葛葉稲荷神社   (和泉市葛の葉町)

[縁起]信太森は、奈良時代・和銅元年(708)旧二月初午の日に元明天皇が楠の神木の化身である白龍に対して祭事を行ったことを縁起としており、信太森神社はその神木を御神体とした神社として建立されました。平安中期、、冤罪で罷免された安倍保名(あべのやすな)が家名復興を祈願した帰り、猟師に追われた白狐を袖の中に匿い、そのため負傷したことが縁で白狐の化身である「葛の葉」と結ばれ、童子丸(後の安倍晴明)を授かました。葛の葉は我が子が5歳の時にに正体を悟られ、「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森の恨み葛の葉」の一首を残して去りました。                                                                             ○晴明は天皇の病気を治して出世し、保名の無実の罪を晴らして見事に家の再興を果たし、この御利益により、信太森神社は信太森葛葉稲荷神社として知られることになったそうです。

■現在は、明治42年(1909)に近隣の「菅原神社」、「大森神社」、「菅原神社」(三社)、「小竹神社」、「原作神社」、「八坂神社」、「水分神社」、「十六善神社」、「篠田王子社」を合祀しました。

  P1130757信太森葛葉稲荷神社

◇貝吹山古墳    (和泉市太町)

■信太山丘陵北西麓の海岸線に向かって舌状に派生する低位段丘上に位置する全長約60mの帆立貝式前方後円墳で、墳丘や周濠等が良好な状態で遺存します。和泉市指定史跡で、全長約60m、後円部径50m、同高さ7.7mあり、埋葬施設は明らかではありませんが、墳丘に埴輪列と葺石が施されていたことが確認されており、円筒埴輪、形象埴輪他が出土しています。上代町の「和泉黄金塚古墳」に次いで、5世紀中頃に造られたものと考えられています。

信太貝吹山古墳空中写真【貝吹山古墳・上空写真:和泉市】

■江戸時代に和泉・大鳥郡内の一橋家領54ヶ村の農民が蜂起した「千原騒動」の折に、一揆に参加した農民たちが、法螺貝を合図にここに集まったことから「貝吹山」とよばれるようになったとも伝えられており、墳丘部が和泉市史跡に指定されています。(和泉市教育委員会)

◇舊(ふるふ)神社      (和泉市尾井町)

■延喜式内社ですが、創建年月・当初の祭神は不明で、『貞観元年(859)五月七日壬戌。和泉国舊府神列於官社。同八月十三日丙申。和泉国無位舊府神授正五位下』(「三代実録」(901年))と伝わります。江戸時代には「牛頭天王社」とも称され、明治5年に村社に列せられました。大正4年に葛之葉町の信太森葛葉稲荷神社に合祀されましたが、翌年、元の社殿に再祀されました。

■「大阪府全志」に「社名と旧府は神功皇后の御し給ひし小竹宮のありし所なるより起り、社はまた其の地に鎮座せるより社名に負はせんたるならん」と記されているようですが、この地は元々和泉国府の所在地だったが、その後現在の府中町に遷されたため、社名に旧府と名づけたと伝える説もあり、国府や熊野詣で信太森を通過して旧街道沿いにあるため崇敬を集めていたようです。

■平成17年の拝殿新築工事の際に発見された、江戸時代の棟札には「氏神牛頭天皇」と書かれ、旧信太郡尾井村の氏神あったことがわかりました。 

P1130759舊府神社【舊府神社】 

聖神社    (和泉市王子町)

■和泉五社の一つ、「和泉国三宮」で、現在の社殿は豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したもので、本社本殿や末社本殿が重要文化財に指定されています。旧府社で、「延喜式神名帳」には和泉国和泉郡「聖神社」と記載がありますが、「信太大明神」・「篠田社」・「信太聖社」などとも呼ばれています。

■草創の伝承として、神武天皇東征の折に瓊々杵尊(ににぎのみこと)を祀ったとするものと、白鳳3年(天武3年・675)に天武天皇の勅願により渡来氏族・信太首(おびと)が「聖大神」(日知りの神:暦の神)を祀ったとする二説があります。

・貞観元年(859)に官社に指定され、同年8月日に従五位下から従四位下の神階を受け(『三代実録』)、延長5年(927)に施行された「延喜式」ではその「神名帳」に記載され(=式内社)、中世の「和泉國神名帳」では神階が「正一位」となっています。

■祭神は聖大神(ひじりのおおかみ)で、「古事記」に「聖神」と登場する「大年神」の御子神です。本殿は桁行3間梁間3間の入母屋造・檜皮葺で、正面に千鳥破風を飾り、1間の軒唐破風の向拝が設けられており、慶長9年(1604)に再建されました。

・大正13年、古社保存法に基づき特別保護建造物に指定され、昭和25年に文化財保護法施行により国重要文化財となっており、末社平岡神社本殿は府有形文化財に指定されています。 

P1130766聖神社本殿聖神社・本殿(入母屋造・檜皮葺)

鏡池  (信太森鏡池史跡公園)

■信太の森は、「枕草子」に「もりは信太の森」と書かれたほど平安時代より代表的な森として知られていましたが、鏡池は「葛の葉」伝説中では、安部保名と白狐(葛の葉)の出会いの場、子(安部晴明)との別れの場と伝わり、池は聖神社の神域で神事の際に禊を行う池でした。

 ◇[9]篠田王子   (和泉市王子町)

■九十九王子の九番目の「王子」ですが、現存していません。「聖神社」の鳥居が「熊野街道」沿いにあり、その鳥居から少し南下した住宅に囲まれたところに跡地の石碑が立っています。元来、熊野権現が祀られていましたが、明治42年に「葛葉稲荷」に合祀されました。王子町の地名は「篠田王子」があったことに由来するものです。

■「熊野詣」は、平安京から淀川を下り、大坂天満・渡辺津に上陸し、摂津国四天王寺・住吉大社を経て、和泉国に入り信太山丘陵の裾を通過していきました。「熊野街道」の要所に 遙拝所兼休憩所として設けられたのが 熊野権現の末社である「王子社」ですが、その数が多いことから「熊野九十九王子」とよばれ、和泉市内では 篠田(信太)・平松・井ロ(茶井)の三王子がありました。

■後鳥羽院の熊野詣に随行した藤原定家によると、一行は「篠田(信太)王子」の松の下で「御禊」の後、宗行御使となり「信太明神」に参拝しました(熊野御幸記)。

■「熊野街道」は「説経節」の一つの「小栗判官」では、熊野参詣のため土車に乗った小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通ったことに因んで 「小栗街道」ともよばれています(和泉市教育委員会) 

P1130769篠田王子址【篠田皇子址】

 ◇[10]平松王子平松王子行宮址  (和泉市幸町)

■九十九王子の10番目の皇子ですが、現存していません。石碑が和泉市幸町の放光池1号公園前の交差点の北西の角に石標が立っています。王子跡はここより北北西70m付近と言われていますがなにもありません。和泉市伯太町の伯太神社に合祀されたようです。

■藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」では、建仁元年(1201)の御幸の折に当王子近くに設えた行宮で上皇一行は1泊し、後鳥羽上皇歌碑『平松はまた雲深くたちにけりあけ行く鐘はなにはあたりか』と詠んだ。 

平松皇子址【平松王子址】 

◇放光池燈籠・四等三角点  (和泉市幸町)

■この灯篭は、熊野街道伯太北出口に、放光池堤防、街道西側にあったものを移設されました。住吉の「高灯篭」と同じほどの大きさで、すぐ西側の大阪湾を航行する船に位置を知らせる灯台の役目を果たしました。

■傍らに「四等三角点・放光池公園」(N34°29′52″・4002、E135°26′22・4618)があります。

 P1130772放光池灯篭【灯篭(右下に三角点石標)】

 

泉井上神社・和泉清水   (和泉市府中町6丁目)

■「和泉清水」の湧く神社で、古来、和泉国和泉郡和泉郷と呼ばれ、「和泉」の地名も当社名もこの泉に由来します。

・「和泉国総社」ですが、井八神社・井戸ノ森八幡宮と称されることもあり、国土守護神又殖産興業の神として神徳を示すそうです。

■抑々、古代より鎮座した万物創造の神・「独化天神」(=和泉大明神)は天之御中主神[あめのみなかぬしのかみ]、高産巣日神[たかみむすびのかみ]、神産巣日神[かんむすびのかみ]ともいわれ、生命の守り神、招福の神として信仰されました。神武天皇は東征を祈り、神宮皇后は仲哀天皇2年(200年)に行啓した時に、急に泉ができ清水が湧き出したので瑞祥として喜び、この水を霊泉といい、宮として祀り、「和泉」の国名がつけられました。元正天皇の霊亀2年(716)に和泉監を置き、この土地が国府となり、地方行政の中心地となりました。

■大鳥神社(一宮)、泉穴師神社(二宮)、聖神社(三宮)、積川神社(四宮)、日根神社(五宮)の祭神を勧請した「総社」が築かれています。

祭神神功皇后・仲哀天皇・応神天皇をはじめ、応神天皇従者で朝鮮に渡った四十五柱の計四十八座で、その神像四十八躯があります。後に、王子神社・八幡神社・菅原神社・式内社和泉神社が合祀されました。

■社領は、霊亀元年に和泉諸上[もろえ]勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大臣橘諸兄の子諸貞より代々祭主職兼国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総括し、近郷を領有しました。

■中世には武職をかね国府城主となり、祭りと政治を行い、正平、明徳、天正時代には1万石の待遇を受けました。その子孫は現在も宮司をつとめ、和泉の国侍は国府城に屋敷をかまえ、妻子をおき、勤王の義兵の土地であったようですが、天正13年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治6年には境内が広過ぎるとして一部を残し上地されました。

■総社本殿は慶長10年(1605)に豊臣秀頼が建立したもので重要文化財に指定されています。 

P1130780泉井上神社【泉井上神社】 

◇和泉国府廰跡    (和泉市府中町)

■泉井上神社の地には、霊亀2年(716)に和泉宮設置のため河内國から大鳥郡・和泉郡・日根郡を割いて「和泉監」(げん)が設置され、「監衙」(げんが)が設置されました。天平宝字元年(757)に前記3郡により「和泉國」が設置され、國衙が泉井上神社の地に設置されたと伝わります。近くの御舘山公園に「和泉国府廰趾」の碑が建てられています。 

P1130781和泉国庁址②【「和泉国府廰跡」碑

 ◇[11]井ノ口王子   (和泉市井ノ口町)

■九十九王子の11番目の「王子」で、和泉市井ノ口町の槙尾川の近く、柳田橋の手前北の子安地蔵の横に石碑が立っていて「是ヨリ南西五十米」と推定地が刻まれていますが現存せず、「泉井上神社」に合祀されています。

 P1130783井ノ口王子址石碑 南西50m地点【井ノ口王子址】

 【参考文献】

1.大鳥神社・泉井上神社・聖神社・等乃伎神社各ホームページ、2014

2.ウエスト・パブリッシング編:「熊野古道を歩く旅」、山と渓谷社、2008

3.大阪府の歴史散歩編集委員会編:「大阪府の歴史散歩」、山川出版社、2007.

4.吉田昌生:「熊野への道」、向陽書房、1999.

【実施:2015年2月8日・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】

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