■第253回行事・アーカイヴス(2015年1月)

◆都七福神めぐり 

●室町時代に、平安京(京都)で最初に「七福神信仰」が起こり、次第に各地に広がったと言われていますが、正月に巡れば特に功徳が大きいとも言われています。洛北から宇治までにわたる人気の社寺ばかりで、広範囲に位置していますのでバスを使って参詣し、バスが入れない一部のところを歩きます。 

コースJR京都駅~赤山禪院[福禄寿神]~妙円寺[大黒天]~(京都御苑)~行願寺[革堂・寿老神]~恵比寿神社[恵比寿神]~六波羅蜜寺[弁財天]~教王護国寺[東寺・毘沙門天]~萬福寺[布袋尊]~JR京都駅(徒歩区間・約5㎞)

【コース地図Ⅰ:国土地理院発行1:25000「京都集成図」】

(図上の左クリックにより拡大)

コース地図都七福神Ⅰ25000京都集成②

七福神信仰

「七福神」福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の「神」です。

◇福禄寿:謂れは、宋の道教の道士「天南星」、または、道教神で南極星の化身「泰山府君」(南極老人)とされていますが、「寿老人」と同一神とされることもあり、「長寿」と「福・禄」をもたらすといわれてきました。商売繁盛・延寿・健康・除災を祈願します。

◇大黒天謂れは、インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神とされていますが、日本古来の「大國主命」との習合体で、「大黒柱」と現されるように、食物・財福を司る神とされてきており、商売繁盛の守り神とされています。

◇寿老人謂れは、中国の老子が昇天してなった仙人の姿といわれ、三千年の長寿を保つ玄鹿を従え諸難を払う団扇をもっており、福財・子宝・諸病平癒・長寿の功徳があるといわれています。

◇恵美須/恵比寿イザナミ・イザナギの間に生まれた子供を祀ったもので、古くは「大漁追福」の漁業の神だったようですが、時代の変遷と共に「福の神」として「豊漁」・「商売繁盛」・「五穀豊穣」・「旅行安全」などの守護神で、庶民救済の神ともいわれています。知恵を働かせ身体に汗して働いていれば「恵比寿神」が福財を授けてくれるといわれています。唯一、日本由来の「神」と伝わります。

財天:「七福神」の中で唯一の女神で、謂れは、インドのヒンドゥー教の女神・サラスヴァテイー神(水の多い池の意)とされ、仏教に取り入れられて、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり、「七福神」に選ばれて、また金運・財運の神として福徳自在のご利益が伝わります。

◇毘沙門天謂れは、インドのヒンドゥー教のクベーラ神で、「戦いの神」ですが、仏教に取り入れられてから、「福徳増進の神」として十種の福を得ると民衆に信仰され、日本では「毘沙門天」(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれています。

◇布袋謂れは、唐末期の明州(現・浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧・契此ですが、その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれるとされており、(中国では)弥勒菩薩の化身ともいわれています。

七福神宝船カラー版【七福神宝船】

 ●「七福神信仰」は、インドのヒンドウー教の神である大黒(天)を台所の神として祀ることを最澄が比叡山で始めたことで、それが徐々に民間に広まったのが最初といわれています。これが民間において日本土着信仰の神である「恵比寿」とともに信仰されるようになったようです。

◇平安時代以降、鞍馬の毘沙門信仰からはじまった「毘沙門天」を「恵美須神」・「大黒天」に加え、三神信仰が興りました。この三神信仰はかなり続きました、平安時代末期〜鎌倉時代初期に、竹生島の「弁天信仰」が盛んになると「毘沙門天」ではなく「恵比寿・大黒・弁財天」とすることも増えていったようです。

◇室町時代になると、佛教の「布袋」、道教の「福禄寿」・「寿老人」なども中国から入ってきて広まり、それらをまとめて「七柱神佛信仰」が室町末期頃に近畿地方から始まったものと考えられています。この時期は慈照寺銀閣などに代表される東山文化の時代で、中国文化に影響されて水墨画が多く描かれ、『竹林七賢図』などの画題が広まり、常に同じ「神」が含まれていたわけではありませんでしたが、別々に信仰されていた七つの福の神を集め、「七福神」とされたようです。

◇別説では、室町時代に「仁王般若経」や「薬師経」にある「七難即滅、七福即生」という言葉に基づき、考え出されたという説もあり、「七福神」は「瑞祥」の象徴とみなされ、広く絵画や彫刻の題材に採られるようになったようです。◇「七福神信仰」の興った背景として、室町時代には町人生活の中で蓄財観念が萌芽し、日野富子の行動に代表されるように貨幣経済も普及し始め、「福徳」という現世利益を求める町人意識が生じたため、ともいわれています。江戸時代になって商業資本主義の発達により福徳授与の神として「七福神信仰」が高まり、天明年間(1781~1789年)の江戸では「七福神参り」が正月元旦から七日までに、一年の福運を祈るために、「七福神」を祀った社寺を巡拝することが流行し、庶民の間で年中行事のように行われるようになりました。◇江戸時代には、「七福神」を乗せ、金銀財宝を満載した「宝船」図が登場し、「永き世の遠の眠りのみな目ざめ 波乗り船の音のよきかな」という回文を記した宝船絵を、正月2日の枕の下に挟んで寝ると、吉夢が見られると伝わるなど、「七福神」の摺り物は一種縁起物として扱われて現在に至っているようです。

●更に、興味深いことは「神」として崇めながらも「佛」を祀る「寺」に祀られていることが多いことです。今回の「都七福神詣」においても、7カ所中「郷社恵美須神社」以外は「寺」の本堂/殿とは離れた別の建物において祀られています。日本の「神仏混淆信仰」の典型のように思われます。             

赤山(せきざん)禅院  (天台宗・左京区修学院開根坊町)

福禄寿神

平安時代、慈覚大師・円仁が中国・山東省登州で滞在した「赤山法華院」に因んだ禅院の建立を発願しましたが果たせず、その遺言により弟子で天台座主の安慧(あんえ)が、本尊・「赤山大明神」を陰陽道の祖神とされる中国の神「泰山府君」を勧請したものです。「泰山府君」は人間の生死・寿命・福寿を司り、佛教の閻魔王に準じる冥界の神で、また「赤山明神」は天台宗・護法三十番神(仏法を守護する神)の一神です。

当禪院は比叡山延暦寺の塔頭で、京都御所の「表鬼門」を守護し、御所東北隅の「猿ヶ辻」の猿に対応して、鬼門除けの御幣と鈴を持った「猿」が知られ、方除けの寺として信仰されています。

 P1130712福禄寿神

福禄寿神:赤山禪院】 

比叡山の千日回峰行に関わりが深く、「赤山苦行」として701日目から800日目までの100日間、比叡山から雲母坂を登り降りする「赤山苦行」という荒行があり、「赤山大明神」に供花のために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものです。「千日回峰行」を修めた大阿闍梨により「八千枚大護摩供」「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」をはじめとする加持・祈祷が行われています。

◇「都七福神」の「福禄寿」の寺としても知られていますが、毎月行われる「五日講」が古くから商人に信仰され、「五十払い」(ごとばらい)の起源となるなど、さまざまな信仰を集め、京都・修学院離宮近くにある閑静な紅葉の名所です。

妙圓寺   (日蓮宗・松崎山・左京区松ヶ崎東町)

大黒天

「妙法」の送り火で知られる松ヶ崎東山「法」の下にある。元和2年(1616)・本涌寺(松ヶ崎檀林:現・涌泉寺)内に建てられた日英の隠居所に始まると伝わり、本覚院日英上人が創建の際、法華経の守護神として別棟に祀ったのが大黒天で、昭和44年の火事で無事だったので、「火中出現の大黒天」とも呼ばれます。本尊は大黒天・久遠実成本師釈迦牟尼仏で、大黒天は伝教大師最澄の作と伝わります。60日に1回の甲子(きのえね)の日に開帳され、諸願成就・寿福円満の祈祷が執行されます。

P1130718_妙圓寺本堂

本堂前の大黒天像:妙圓寺

◆行願寺・革堂  

(天台宗・霊麀(ゆう)山・寺町通竹屋町上ル:[第198回行事・2010年5月15日訪問])

寿老人

◇寛弘元年(1004)、行円が一条小川の一条北辺堂の倒壊跡地に創建したもので、一条北辺堂については、(『日本紀略』永祚元年(989)8月13日条)に「一条北辺堂舎倒壊」と記され、当初の寺地は京都御苑西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残ります(『日本紀略』他)。

◇行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったと伝わり、行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も「革堂」と呼ばれたとのことです。行円の生没年は未詳ですが、比叡山の横川出身の聖と伝わります。藤原道長の息子・藤原顕信は寛弘9年、行円のもとで剃髪出家しました。

◇当寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転し、宝永5年(1708)の大火の後、寺町荒神口の旧地から南に下がった現在地に移転しました。

 P1130725 【寿老人神堂:革堂】

◇本尊は千手観音で、西國三十三番札所第十九番札所で、「寿老人神堂」は安土桃山時代に建造されたそうです。

京都 恵美須神社   大和大路通四条下ル小松町

■恵美須

◇西宮神社・大阪今宮神社と並んで「日本三大ゑびす」と称され、「えべっさん」の名で親しまれています。

◇起源は約800年前、建仁2年(1202)に禅祖・栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守として最初に建仁寺境内に建てて「ゑびす神」(八代言代主大神・やえことしろぬしのおおかみ)を祀りました。現在の祭神は八代言代主大神・大国主大神・少彦名神です。

◇「ゑびす信仰」の象徴とも言える「笹」は元来「京都ゑびす神社」独自の「御札」の形態が広まったものだそうです。「笹」は縁起物の松竹梅の竹の葉で「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から家運隆昌、商売繁盛の象徴となりました。

P1130728②恵美須神社【恵美須神社】

六波羅蜜寺  

(真言宗智山派・補陀洛山・西国三十三か所第十七番札所・五条通大和大路上ル東入ル轆轤町)

弁財天

踊り念仏」で知られる「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」空也(くうや・醍醐天皇第2皇子の説が強い)が天歴5年(951)に造立した「十一面観音」を本尊とする道場に由来し、当初「西光寺」と称されました。空也は疫病蔓延の平安京で、村上天皇の勅によりこの観世音菩薩立像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に「茶」をふるまって多くの人を救ったそうです。応和3年(963)には、鴨川岸に多数の僧を集めて金泥大般若経600巻供養会を行った時をもって創建とする説もあります。当時、鴨川の岸は遺体捨て場であり葬送の場でした(京都三代葬送地「鳥邊山」に近い)。

◇空也の死後、貞元2年(977)に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、「六波羅蜜寺」と改称しました。以後、天台宗に属しましたが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となりました。本尊は十一面観音です。                                                            

◇当寺付近には、平安時代末期に「六波羅殿」・平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、鎌倉時代には「六波羅探題」が設置されました。しかし、平家都落ちの寿永2年(1183)兵火を受け、諸堂は類焼し、本堂のみ焼失を免れました。北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなりましたが、源頼朝、足利義詮による再興修復など火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉も大仏建立の際に本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵し、徳川代々将軍も朱印を加えられました。現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していましたが、昭和44年(1969)・開創1,000年を記念して解体修理が行われ、絢爛の当時の姿を復活させています。                                  

◇寺名は仏教の教義「六波羅蜜」(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)に因み、空也弟子・中信が改名した説が有力ですが、当地を古来「六原」と称したことに因る説が考えられています。(は誤字)

P1130733福寿弁財天本尊 六波羅蜜寺【弁財天:六波羅蜜寺】

教王護国寺(東寺)(真言宗根本道場・東寺真言宗総本山・山号八幡山

毘沙門天

◇当寺の名称は「東寺」と「教王護国寺」の2つあり、正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称があり、宗教法人としての登録名は「教王護国寺」です。

◇「教王」とは王を教化するとの意味で、「教王護国寺」には、国家鎮護の密教寺院の意味が込められています。「東寺」も創建当時から使用されてきた歴史的名称です。平安時代以降近世まで「東寺」の表記が用いられ、正式の文書における「教王護国寺」の初出は仁治元年(1240)です。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年[1308])、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉の2,030石の知行を認めた天正19年(1591)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも「東寺」と表記されていて、現在も南大門前石柱には「真言宗総本山東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯にも「東寺」を使用しています。本尊は薬師如来で、寺紋は雲形紋(東寺雲)です。

   P1130735

【五重塔:東寺(元慶7年(883)創建・現塔は5代目・寛永21年(1644)徳川家光寄進)

【コース地図Ⅱ:国土地理院発行1:25000「京都集成図」(教王護国寺は図域北西端)(図上の左クリックにより拡大)

コース地図都七福神Ⅱ 25000京都集成②

「東寺」は平安京遷都後まもない延暦15年(796)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立されたとのことです(南北朝時代の東寺の記録書『東宝記』)が、その20余年後の弘仁14年(823)、空海(弘法大師)に嵯峨天皇から東寺を給預され、東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となりました。

◇中世以後、「東寺」は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの為政者等の援助を受けて栄えましたが、文明18年(1486)の「土一揆」による兵火で主な堂塔の殆どを焼失しました。その後、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建され、数度の火災を経て、「東寺」には創建当時の建物は残っていませんが、南大門・金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のまま遺存しています。

毘沙門天像東寺Ⅱ木造兜跋毘沙門天立像:東寺

 木造兜跋毘沙門天立像」:像高189.4cmで、元「平安京」の「羅城門」楼上に安置されていた像で、天元3年(980)羅城門が倒壊したとき、何者かによって、瓦礫の中から掘りだされて東寺に運ばれたそうです。使われている木は、中国産の魏氏桜桃で、唐時代の作です。

【コース地図Ⅲ:国土地理院発行1:25000「京都集成図」(萬福寺は中央右寄り)図上の左クリックにより拡大)

  コース地図都七福神Ⅲ 25000京都集成②

萬福寺  (黄檗宗・黄檗山)

布袋尊

◇寛文元年(1661)に中国僧・隠元隆琦(りゅうき)禅師 によって開創されました。禅師は明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺の住職でした。承応3年(1654)・明末期の混乱を逃れ、崎の明僧らの招聘に応じて、63歳の時に弟子20名を伴って来朝され、長崎・興福寺、崇福寺、摂津・普門寺などに住しました。4年後に江戸で4代将軍家綱に謁見して、幕府より宇治に寺地を得て、寺の開創にあたり寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」と名付けました。

◇その後、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至ります。日本の「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。萬福寺の伽藍建築・文化などはすべて中国の明朝様式です。美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚なども隠元禅師が来日後に日本へもたらされたものであり、当時江戸時代の文化全般に影響を与えました。中でも中国風精進料理である「普茶料理」は日本の精進料理(禅僧が日常食する質素な食事)と異なり、見た目も美しく盛りつけられる料理の数々は、高タンパク・低カロリーで栄養面にも優れ、席を共にする人たちと楽しく感謝して料理を頂く事に普茶料理の意味が込められています。

 黄檗山萬福寺【萬福寺本殿】

 ◇布袋像・天王殿:寛文8年(1668)の建立で、一重入母屋造です。本堂の手前に堂を配置するのは中国式の伽藍配置で、内部には中國で弥勒菩薩の化身とされる「布袋像」を安置します。本像は半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表されており、堂内左右に四天王像、布袋像の背後に韋駄天像を安置しています。これらの像は来日した明仏師・范道生の作で、いずれも中国風の様式で造られています。

P1130738_布袋尊 萬福寺【布袋像:萬福寺天王殿】

 【参考文献】

1.赤山禪院・妙円寺・行願寺・京都えびす神社・六波羅蜜寺・東寺・萬福寺:各ホームページ、2014

2.山折哲雄監修・槇野修:「京都の寺社505を歩く」、PHP研究所、2007

(実施:2015年1月17日・案内:本條陽子・編集:宮﨑信隆)

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