■第251回・設立20周年記念行事・ アーカイヴス(2014年11月)

★高野山

・凡そ1200年前の平安初期に標高900mの山上の地に、空海が開いた修禅道場で、世界文化遺産になった「高野山」で、「関西地図の会・設立20周年」を祝いました。

・空海の「入定」の地・奥之院への参道は、両側の杉木立の中に夥しい数の墓碑・供養塔・慰霊碑などが立ち並び、霊界の雰囲気に包まれています。敵味方なく居並ぶ著名な武将たちの慰霊塔などは此処ならではの不思議な空間です。久方ぶりの1泊「行事」であり、宿坊体験を楽しみながら相互の親睦を深めましょう。

 【コース地図(赤線・2日間):国土地理院発行1:25000地形図「高野山」】 

(図上のクリックで拡大)

コース地図251回高野山25000高野山H24版②

[1日目]ケ-ブル高野山駅~[バス]~大圓院~一の橋~奥之院墓碑群~奥之院~奥之院前バス停~[バス]~大圓院(宿泊)

[2日目]大圓院~金剛三昧院・多宝塔~金剛峰寺~大門~[檀上伽藍]金堂・六角経蔵・山王院・御社・西塔・孔雀堂・

御影堂・根本大塔・大会堂・三昧堂・東塔~徳川家霊台(家康霊屋・秀忠霊屋)~[不動坂口]女人堂~[バス]~

ケ-ブル高野山駅   (2日目は雨天のため当初計画コースを変更:2日間合計[徒歩]・約6.5㎞) 

高野山・女人禁制・女人堂・女人道

□高野山は、明治5年(1872)に「女人禁制」が解かれるまでは女性が山内に入ることが禁じられていました。更に、女性が山内に住めるようになったのは、明治37年(1904)からです。高野山が「女人禁制」とされたのは、高野山が真言密教の修行の場であるため、女性が修行の妨げになる。また、真言密教は神道、修験道と習合しておりこれらの女人禁制の思想の影響を受けた、などが考えられます。

□高野山の「女人禁制」の逸話として、①女人禁制と玉依御前(弘法大師・空海の母)、②刈萱童心と石童丸、③滝口入道と横笛(平家物語:宿坊大圓院はこの逸話の滝口入道が住職を務めた寺院で、恋人の横笛が鶯となって訪れ、滝口入道の目の前で井戸に身を投げたといわれる物語の事積の井戸がある)などがあります。

☆『鶯は大圓院で今日も鳴く、一切煩悩皆空なり』柳原白蓮(大圓院・石碑)。

□高野山は、明治5年(1872)に「女人禁制」が解かれるまでは、女性は高野山に入ることができませんでしたので、高野山の入り口である「高野七口」に女性ための参籠所が設けられました。これが「女人堂」と呼ばれました。

□ただし、現在は単に「女人堂」といえば「不動坂口女人堂」のことをいいます。現存する女人堂は不動坂口女人堂が唯一カ所しかなく、他は全て女人堂跡です。

P1130479不動坂口女人堂

不動坂口 女人堂:今回の「行事」で最後に立ち寄ったところです】

□七口の女人堂跡以外に「谷上女人堂」跡がありますが、高野町教育委員会(案内板の設置者)に照会したところ次の説明がありました:[ 高野町教育委員会の説明:標識の位置に「谷上辻」という辻がある。谷上とは高野山内の現在の高野山高校のあるあたりの地名で、この女人堂は、女性の参詣者が多かった頃、臨時的に設置された女人堂だと思われる ]

□女性達は、高野山の八葉の峰々の稜線(女人結界)を巡り、高野山内を眺めながら参拝しました。この女性達が巡った道は「女人道」と呼ばれ、一周約16Kmの道です。

高野山の地形

□「高野山」という名称の山はありません。「高野山」は、今から1200年前の弘仁7年(816)に弘法大師・空海が嵯峨天皇から下賜された1000m前後の山々と、それに囲まれた標高約800m・東西6Km、南北3Kmの盆地を「高野山」と総称して真言密教の根本道場を開創したものです。伝承では、空海が真言密教の根本道場を開くにふさわしいところを探していたところ、大和国宇和郡(現、五条市)で狩人(狩場明神:高野明神)に出合い、狩人のつれていた白と黒の2匹の犬にこの地に導かれたと伝わります。また、この地を地主である丹生明神から授かったともいわれています。

□弘法大師・空海は、高野山を真言密教の胎蔵界曼荼羅の中台八葉院(下図参照)に見立てたといわれており、「高野山の八葉」(八葉の蓮華)は、

鉢伏山 弁天岳 今来峰 宝珠峰 姑射山 摩尼山 楊柳山 転軸山

とされています。

地形図で確認できるのは、②弁天岳 ⑥摩尼山 ⑦楊柳山 ⑧転軸山の四山で、これらの四山には、弘法大師・空海の足跡が残されています。即ち、②弁天岳=獄弁天 ⑥摩尼山=「如意宝珠」の埋納 ⑦楊柳山=楊柳観音 ⑧転軸山=「理趣経」の埋納などです。

胎蔵曼荼羅   中臺八葉院Ⅱ

胎蔵界曼荼羅】               【中台八葉院(左図中央)】

◆金剛峯寺

□高野山の「八葉の蓮華」といわれる峰々の稜線を「結界」として、その内側を「山内」といいます。金剛峯寺は、豊臣秀吉が母の菩提を弔うため建立した「青巌寺」が明治2年(1869)に高野山(山号)金剛峯寺と改号されて総本山とされるまでは、高野山全体が金剛峰寺と称されていました。

□高野山では中世以前から、「学呂方」(密教の研究や祈祷に専念する派)、「行人方」(寺院経営や諸堂を管理する派)、「聖方」(全国に布教、勧進する多くの僧の派)の三派から成っていましたが、明治2年(1869)に「青巌寺」が「金剛峯寺」に改名され、ひとつの寺院の名称となった際、三派が合併して「総本山金剛峯寺」に置かれました。

なお、高野山には「大本山宝珠院」(江戸時代最も格式高かった無量寿院と宝性院の2院が統合)があります。総本山金剛峯寺が火災や災害で使用できなくなった時、総本山の役割をするため設置されています。なお、大本山宝珠院内には高野山専修学院が設置されています。

◆高野七口

□高野山への参詣道(七古道)の高野山への入口を「高野七口」と称しています。平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録され、七口の内、大門口に通じる「町石道」と大滝口に通じる「小辺路」が世界遺産の参詣道として登録されています。参詣道と高野七口は「和歌山県街道マップ」の「高野七口と巡礼道」に示されるとおりです。

高野山七口・巡礼道②和歌山観光協会 

高野七口と巡礼道:和歌山県】

黒河口:奈良方面から高野山の奥の院に至る古道の「黒河道」からの入口です。

不動坂口:高野街道・京大阪道:京都八幡を起点とする「東高野街道」、大阪市平野を起点とする「中高野街道」、大阪市四天王寺を起点とする「下高野街道」、堺市を起点とする「西高野街道」の四道が河内長野で合流して「高野街道」と総称された道で、江戸時代には「京大阪道」とも呼ばれ、最も多い参詣者で賑わった道からの入口です。

大門口:慈尊院から高野山に参詣する表参道で、世界文化遺産に登録されている「町石道」からの入口で、現在の「大門」ができるまでは、この場所に大門として大鳥居があったとされています。:

龍神口:大門より南へ下る道で花園から西に向かう「有田道」と南に向かう「龍神道」に分かれ、「有田道」は四国からの参詣者が有田の北湊に着き、高野山を目指した道で、江戸時代は結構な通行量があったようで、「龍神道」は南に向かうと龍神温泉を経て熊野古道の中辺路に至る道ですが、これらの道からの入口です。

相の浦口:高野山を南に下ったところに位置する相の浦からはじまる「相の浦道」からの入口で、織田信長の家臣佐久間信盛が追放されて住み着いたところとされており、金剛三昧院前のところへきます。高野七口では一番短い道です。

大滝口::高野山と熊野本宮を結ぶ熊野古道のひとつで、世界文化遺産に登録されている「小辺路」からの入口です。

大峰口:高野山と修験道の行場大峰山を結ぶ道で、修験者がよく通ったことからその装束にちなみ「すずかけの道」とも呼ばれて

いる「大峰道」からの入口で、弘法大師・空海が最初に高野山に入った道とも言われています。

コース地図Ⅲ 251回高野山_MAPコース入②

【行事実施コース:高野山宿坊協会(点線部分:バス乗車)】

(図上のクリックにより拡大)

◆町石道

□「弘法大師が開いた祈りの道」ともいわれ、「高野七口」といわれる高野山の登山道七本のうち、空海によって高野山の開創直後に設けられた参詣道です。

□紀ノ川流域の慈尊院(標高94m)から高野山・壇上伽藍(標高815m)を経て高野山奥の院弘法大師御廟に至る高野山への表参道です。□「町石道」が開かれた当初、弘法大師は慈尊院から高野山までの道沿い1町(約109m)ごとに木製の五輪卒塔婆を建立したと伝わります。文永3年(1266)以降は、鎌倉幕府の有力御家人、安達泰盛らの尽力で朝廷、貴族、武士などの広範な寄進により朽ちた卒塔婆に代わって石造の五輪卒塔婆が建立され、ほぼ完全な形で今日に遺されています。

□「町石」にはそれぞれ密教の仏尊を示す「梵字」と高野山に至る残りの町数、そして寄進者の願文が刻んであり、巡礼者や僧侶はこの卒塔婆に礼拝をしながら、全長約24km(うち高野山内4km)、標高差700mの道程を山上へ導かれて歩きました。

□「町石道」は三十六町一里制にもとづき、古代条里制がほぼ完全な形で遺る遺構です。

 真言宗(密教・三密加持)

□真言宗は最澄の天台宗と並ぶ日本仏教の礎石の一つで、空海によって築かれました。この派は、最澄が総合仏教をめざしたのに対し、ここは密教一筋です。空海は最澄と同じく中国に渡り、恵果について密教を学びました。そして持ち帰った経典を朝廷に献上し、嵯峨天皇の強い支持を得るのに成功して、真言宗は大きな勢力となる基盤を得ます。空海の「真言宗」が朝廷に気に入られたことは、それ以前からの奈良仏教が巨大になり過ぎて朝廷の手におえなくなり、新しい仏教に対抗さうとしたことにも因りますが(それは最澄にも期待されていました)、特に「真言宗」の場合にはその呪術的性格が朝廷の「護国・鎮守の願い」と合致したからだとも考えられます。仏教教理的には、本来の仏教の目的としての「大日如来」のもつ真言密教の教主と合一することが求められるのですが、その性格に民間信仰が加わっていたために「悪霊退散」的な呪術的性格があって、これが朝廷に気に入られたようです。

◆奥之院・奥之院墓碑群

□「一の橋」から弘法大師・空海「入定」地の「御廟」までの約1.5㎞の参道には、両側に大名家や各界の20万基に及ぶ墓碑・供養塔が、かつての敵味方関係なくギッシリと立ち並んでいます。

高野山奥之院参道墓碑等分布Ⅰ②上杉武田石田明智_供養塔

[上杉謙信(左上)・武田信玄(左下)・石田三成(右下)・明智光秀(右下)各墓碑/供養塔:高野山奥之院参道:高野山宿坊組合・高野山観光協会] 

(図上のクリックで拡大)

高野山奥之院参道墓碑等分布Ⅲ②豊臣織田信長供養塔 大師廟

[豊臣家(左)・織田信長(上中)各墓碑/供養塔・弘法大師廟:高野山奥之院参道:高野山宿坊組合・高野山観光協会]

(図上のクリックで拡大)

[石田三成墓所(供養塔)] P1130439②石田三成墓所(供養塔)

明智光秀墓所(供養塔)】P1130440②明智光秀墓所(供養塔)

 □豊臣家墓所の手前に、越前松平家秀康(家康二男)とその母・お万の方の霊屋が並んでありますが、世界文化遺産に登録されています。二基の中、左棟・秀康の母(お万の方・長勝院)の霊屋は慶長9年(1604)に秀康によって建てられ、右棟・秀康の霊屋は慶長12年(1607)、秀康の嫡男・忠直の造立になり、二棟とも越前産の笏谷石を用いており、秀康霊屋は入母屋造、正面軒唐破風附とし、その母の霊屋は切妻造の妻入となっています。

P1130441②松平秀康と同母霊屋 世界遺産登録

【松平家秀康と母・お万の方の霊屋:世界文化遺産

 ◆金剛三昧院

□高野山真言宗別格本山で、佛塔古寺十八尊第11番霊場、西國愛染十七霊場第17番霊場です。

□延暦元年(1211)、北条政子の発願により源頼朝の菩提のために「禅定院」として創建されました。開山供養には、栄西(臨済宗開祖)も招かれています。承久元年(1219)、源実朝菩提のために「禅定院」を改築して「金剛三昧院」と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰されました。

□貞応2年(1223)、北条政子が「禅定如実」として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための「多宝塔」(国宝)が建立され、秘仏・五智如来像が祀られました。多宝塔の中では日本で2番目に古いものです。鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院であったため、高野山の中心的寺院の役割を担いました。

P1130454②国宝金剛三昧院多宝塔【多宝塔・金剛三昧院:世界文化遺産

□その後、境内には勧学院が建てられ、高野版の摺本を用いた南山教学の中心地として栄え、初代住持が退耕行勇禅師であったことにより、当初は「金剛峯寺」とは別個の禅宗寺院として創建され、後に実融によって再興されて以後は、律宗も兼学するようになりました。金剛峯寺の院家として扱われるのは、江戸時代初期頃と考えられています。                                    

□本尊・愛染明王は、恋愛成就の仏様として、様々な縁を結んでくれるといわれています。国宝・多宝塔、重要文化財・経蔵、四所明神社などを擁し、高野山の世界遺産登録にあたっては、根幹となる寺院となりました。高野山中で、古の面影を色濃く残した名刹で、鎌倉時代の風雅を伝えています。世界遺産に指定された高野山寺院の中で唯一宿泊できる宿坊です。

◆金剛峯寺                        

□当寺の場所は真然大徳(しんぜんだいとく)の住坊があったところでしたが、天承元年(1131)に覺鑁(かくばん)上人が鳥羽上皇の勅許を得て「小伝法院」を建立し、文禄2年(1593)・豊臣秀吉が亡き母堂の菩提を弔うため、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立されました。当時、秀吉母堂の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられましたが、のちに「青厳寺」(せいがんじ)と呼び、応其上人の住坊となりました。その後は法印御房の住坊となりましたが、再三の火災によって焼失し、現在の本殿は文久3年(1863)に再建されました。

P1130460金剛峰寺本殿【金剛峯寺本殿】

□明治元年に行政官から「青巌寺」を「金剛峯寺」へ改号するよう指導され、明治2年に古くからの高野山の管理制度を改めて総宰庁がおかれ、執政、副執政、参政、顧問、監司といった五役を設け、さらには隣接していた興山寺を庁舎として使用することになりました。その後、二寺は合併され、「総本山金剛峯寺」として現在に至っています。当寺の住職は「座主」と呼ばれ、高野山真言宗管長が就任することになりました。

□「金剛峯寺」の名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』という経文より名付けられたと伝えられ、東西30間、南北約35間の主殿(本坊ともいう・県指定文化財)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、寺内には狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数48,295坪を有しています。主殿などが世界文化遺産に登録されました。

P1130459【金剛峯寺石庭】 

◆大門

□高野山の入口に聳え、一山の総門で、「結界」の象徴です。開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は元禄元年(1688)の炎上後、元禄9年~宝永2年(1705)に再建されました。五間三戸(さんこ)の二階二層門で、高さは25.1mです。

□門には左側に長作の金剛力士像<吽形像>、右側に康意作の同<阿形像>が安置されています。

□正面には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯(れん)が掲げられています。この聯は、「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰を表しており、世界文化遺産に登録されています

P1130464大門[大門] 

◆檀場伽藍                             

□空海が高野山を開創した折、最初に整備へ着手した場所で、空海が実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注ぎました。その「壇場伽藍」は、「胎蔵曼荼羅」の世界を表しているといわれています。

◇金堂                                     

□高野山御開創当時は「講堂」と呼ばれていましたが、平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。

□現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932)に完成しました。梁間23.8m、桁行30m、高さ23.7mで、入母屋造りですが、武田五一氏により耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。

□内部の壁画は岡倉天心の理想に傾倒し、日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯によって「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)図」や「八供養菩薩像」が整えられ、本尊の薬師如来(秘仏)は高村光雲仏師によって造立されました。

◇六角経蔵

□鳥羽法皇の皇后・美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この「紺紙金泥一切経」は、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)庄を寄進された事に由来して、「荒川経」とも呼ばれるようになりました。故に「六角経蔵」は、別名「荒川経蔵」といいます。現在の建物は昭和9年(1934)に再建されました。経蔵の基壇付近のところに把手がついており、回転するようにできており、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれています。

六角経蔵【六角経蔵】

 山王院

□「御社」の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造りで、桁行21.3m、梁間7.8mあります。「山王院」とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味で、現在の建物は文禄3年(1594)に再建されたものです。

□当堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われます。また毎月16日には明神(みょうじん)様への御法楽として、月次門徒・問講の法会が行われています。

御社(みやしろ)

□空海が弘仁10年(819)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とした。社殿は三つあり、一宮は丹生(にう)明神、二宮は高野明神、三宮は十二王子・百二十伴神が祀られています。

□丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられており、現社殿は文禄3年(1594)の再建で重要文化財に指定されています。

P1130465壇上伽藍 御社[御社]

 西塔

□空海の伽藍建立計画案である『御図記』(ごずき)に基づき、真然大徳によって建立されました。その計画とは、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔」(ほっかいたいしょうとう)として二基一対として建立する計画でした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、仁和2年(886)に建立されました。

□当塔では、大塔の本尊が「胎蔵大日如来」であるのに対し、「金剛界大日如来」と「胎蔵界四仏」が祀られており、現在の塔は、天保5年(1834)に再建されたもので、擬宝珠高欄付多宝塔で、高さは27.3mです。

P1130466②壇上伽藍西塔【西塔】

 孔雀堂

□正治元年(1199)、東寺長者の延杲(えんごう)は、後鳥羽法王の御願によって、神泉苑にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就しました。その功績により高野山へ建立すべき宣旨を受け、翌年の正治2年には本尊が奉安されました。

□昭和元年(1926)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年には弘法大師「入定」1150年御遠忌記念事業として再建されました。本尊「孔雀明王像」は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。

孔雀堂【孔雀堂】

御影堂                           

□元、弘法大師の持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆「弘法大師御影像」を安置し、「御影堂」と名付けられました。桁行15.1m、梁間15.1mの向背付宝形(ほうぎょう)造りで、堂内外陣には弘法大師の十大弟子像が掲げられています。

□御影堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許されませんでしたが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになりました。

P1130468御影堂【御影堂】

 根本大塔                           

□「金堂」の右後方にある多宝塔で、1階平面が方形、2階平面が円形の二重塔です。昭和12年(1937)、空海「入定」1,100年を記念して再建されたもので、鉄筋コンクリート造です。内部正面の梁には昭和天皇宸筆の勅額「弘法」が掲げられています。

□弘法大師、真然大徳の二代を費やして弘仁7年(816)~仁和3年(887)ごろに完成したと伝わり、空海は、この大塔を真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立したので、「根本大塔」と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は「胎蔵大日如来」、周りには金剛界四仏が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されています。

根本大塔根本大塔

□北側に安置の二体の仏像・多聞天と持国天は江戸時代の作と伝わります。

大会堂(だいえどう)                       

□鳥羽法王の皇女・五辻斎院内親王が、父帝の追福のため建立しました。元は別の場所に建立されていたのですが、「長日不断談義」(ふだんだんぎ)の学堂として壇場に移し、「蓮華乗院」と称するようになりました。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。

P1130469②大会堂 壇場伽藍【大会堂】

□現在の建物は嘉永元年(1848)に再建された五間四面の堂で、本尊は阿弥陀如来が安置され、脇侍(きょうじ)として観世音菩薩、勢至菩薩が祀られています。

三昧堂

□済高座主(870~942年)が延長7年(929)に建立された堂で、元々、総持院境内に存在していました。済高師はこの堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、「三昧堂」と呼ばれるようになりました。後に壇場へ移されるのですが、修造に西行法師が関わったと伝わります。

□三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれ、伝説では当堂の修造記念に植えられたそうです。現在の建物は文化13年(1816)の再建です。

東塔

□大治2年(1127)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(しょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊が本尊として安置され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)として祀られました。

□天保14年(1843)に焼失後は、140年後の昭和59年に漸く再建されました。

東塔【東塔】

蛇腹路

□「伽藍」入り口から「東塔」東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼び、空海が「高野山は、東西に龍の臥せるがごとく」と形容して、「壇場伽藍」を頭として現在の「蓮花院」までを龍が臥している形に例え、この小道が龍の腹付近にあたることから呼ばれるようになりました

P1130472伽藍蛇腹路の紅葉【蛇腹路の紅葉】 

◆徳川家霊台(家康霊屋・秀忠霊屋)

□寛永20年(1643)、三代将軍・家光によって建立され、一重宝形造り(ほうぎょうづくり)の建物が二つ並んでおり、向かって右が東照宮家康公霊舎(おたまや)、左が台徳院秀忠公霊舎で、世界文化遺産に登録されています。

□境内東端には三代将軍以下および御三家の尊牌堂がありましたが、明治21年(1888)に焼失してしまいました。

P1130478徳川秀忠霊台 豊臣家家紋入り賽銭箱

【二代将軍・秀忠霊屋:豊臣家家紋が賽銭箱に入っている】

 ◆宿坊・大圓院

□延喜年間(901~923年)に聖宝理源大師により開創された寺で、もとは「多聞院」といい、柳川藩(現在、福岡県)初代藩主、立花宗茂の法号「大圓院殿松隠宗茂大居士」の院号を受けて、「大圓院」の寺名にされました。当院は豊前・豊後守護職・大友能直(よしなお)(1172~1223年)が当院に帰依し師檀の契りをなして以来、その十六代の孫、戸次鑑連(べっき あきつら・1513~85年、筑前立花山城主、立花道雪入道)も当院に傾信が深かった。特にその婿養子・立花統虎(むねとら・1567~1642年・後、宗茂と改名、高橋紹運・嫡男)は、天正年間、高野山に登山して、当院の宣雄阿闍梨に帰依した。文禄元年(1592)には道雪・紹運両氏の霊牌と宝塔を建立して師檀の契りを結んだ。立花宗茂は剛勇の士で、豊臣秀吉は「忠義も武勇も九州随一」「天下無双の大将」と宗茂を讃えたと言われました。

  P1130428【大圓院山門】 

□「一の橋」から「弘法大師御廟」へと続く奥の院の参道には20万基をこえる供養塔が立ち並びますが、大圓院墓地には、立花宗茂・山内一豊・石田三成などの墓碑・供養塔があります。

 

【参考文献】

①JTBパブリッシング編(協力・総本山金剛峯寺):「古寺巡礼13・高野山」・空海が開いた天空の密教聖地」、JTBパブリッシング、2011

②神仏霊場会編:「神仏霊場巡拝の道・公式ガイドブック『神と仏の道を歩く』」、集英社、2008

③小澤克彦:「日本の神々と仏の正体」8.『日本での仏教宗派と信仰形態』、小沢ブログ、2014

④和歌山県伊都振興局地域振興部編:「和歌山県街道マップ・高野七口」、和歌山県、2014

⑤南海電鉄編:「世界遺産・高野七口女人堂跡・高野三山めぐり」、南海電鉄、2014。

⑧金剛峰寺ホームページ。

⑨和歌山県観光連盟ホームページ。

【実施:2014年11月8日~9日・案内:設立20周年記念行事実行委員会・編集:宮﨑信隆】

サブコンテンツ

このページの先頭へ