■第250回行事・アーカイヴス(2014年10月)

★熊野古道・大阪府篇Ⅱ・阿倍王子・津守王子・境王子  

大阪天満橋の八軒屋(渡辺の津)を出発した熊野古道は上町台地を南下し、天王寺に着きます。ここよりさらに南下し、住吉大社付近を通過、やがて大和川を渡り、泉州へ入ります。       

([ ]:「九十九王子」の[ ]番目)       

  コース近鉄・阿部野橋駅~阿倍寺跡~松虫塚~安倍清明神社~阿倍王子神社(阿倍王子)~(万代池公園)~住吉大社・津守王子~止止呂支比賣命神社~(遠里小野橋)~境王子址~方違神社~南海・堺東駅  (約10.7㎞)

【コース地図(赤線):国土地理院発行1:10,000地形図「天王寺」・「長居」・「住之江」・「堺」】

(図上の左クリックにより拡大)

コース地図阿部野橋堺東10000天王寺長居住之江堺②

◇阿倍寺跡(推定地)    (阿倍野筋2丁目)

■阿倍野区松崎町一帯には「阿倍寺」・「東阿倍寺」などの字名がかつて遺存していましたが、この近辺を本拠としていた阿倍氏の氏寺・阿倍寺跡に推定されています。「阿倍寺千軒」とも呼ばれたほど多くの伽藍を有していたと伝わります。第二次世界大戦直後には建物基壇跡らしき小丘が残っていましたが、その後焼失し伽藍配置などは不明です。

■昭和10年には松永大明神付近から塔心礎と考えられる礎石と布目瓦が出土し、道路工事などの折に白鳳時代の複弁八葉蓮華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦などが検出されました。礎石は府有形文化財に指定され、天下茶屋公園内に移置されています。

■「安倍寺跡」から「松虫塚」の途中では、阪堺電車上町線に沿って約500m歩きます。 P1130313②阪堺電車上町線松虫駅【阪堺電車上町線・松虫駅】  

松蟲塚    (阿倍野区松虫通1丁目)                   

■後鳥羽上皇が寵愛の白拍子・松虫、鈴虫姉妹が当地に隠れ住んだところという伝説と、当地が松虫(現在の鈴虫)の名所であったという伝説で知られています。後者の風流優雅な伝説に関連するものとして、七不思議の神木伝説や琴・謡曲・舞楽を修める多数の人たちの参拝、さらに近年は芸能全般・技術関係など習い事習得願望の人達に崇敬されています。

P1130315松蟲塚 碑【松蟲塚】

安倍晴明神社  (阿倍野区阿倍野元町)

■「安倍王子神社」の北方約50mに鎮座する「安倍王子神社境外社」(飛び地境内社・末社)で、祭神・安倍晴明はこの地で生まれたと伝わります。抑々、安倍晴明の出身地については大阪説・讃岐説・茨城説3説があり、この中で最も有力なのは大阪説です。即ち、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされ、安倍晴明は古代豪族・阿倍氏の生まれで、『葛乃葉(くずのは)伝説』によると、父・安倍保名が和泉・信太明神社(聖神社)に参詣の折に、助けた白狐(葛之䈎姫)と結ばれて、阿倍野で生まれたと伝わります。幼名は安倍童子で資性英明で学問を好み、京に上り陰陽家・加茂忠行と子息・保憲に師事し、陰陽推算術を修め、天文博士・大膳太夫・播磨守などを歴任しました。占いは「百占奇中神」と称され、花山天皇退位を予知し、大江山の「鬼退治」を指導したことは有名で、職神(精霊)を自在に駆使したとのことです。

■社伝(「晴明宮御社伝書)では、晴明の死後に上皇が生誕の地に晴明を祀らせることを子孫に命じ、没後2年の寛弘4年(1007)に創建され、代々晴明の子孫と称する保田家が社家として奉仕し、江戸時代には代々大坂城代が参拝にくるほど有力な神社でしたが、幕末には衰微し、明治時代には小さな祠と下記にある石碑のみになってしまいました。

■明治時代末期になると復興計画が持ち出され、大正10年に「安倍王子神社」の末社として認可されました。社家の子孫である保田家より旧社地の寄進を受け、大正14年に現社殿が竣工し、拝殿は三間社入母屋造で本殿はです。

■本殿より右側には「泰名稲荷神社」が鎮座しますが、「泰名」は伝説上の晴明の父親の名です。境内には「産湯井の跡」(晴明の産湯に使われた井戸)、「葛之葉霊狐の飛来像」、「安倍晴明誕生地の石碑」があり、産湯は「攝津名所圖繪」の頃に既に登場しているようです。石碑は文政年間(1818~1830年)に堺承認・神奈邊大道心の手によって建立されました。戦時中には神社内に焼夷弾が落ちるも爆発せず、本殿は被災をまぬがれたので、地元では「晴明さんが守って下さった」と評判になり、以来「災難除け」の神様としても信仰を集めているそうです。  

P1130322安倍晴明神社安倍晴明神社

[5]阿倍王子神社(阿倍王子)   (阿倍野区阿倍野元町)

■かつて、「阿倍野王子」といわれ、熊野神社の分霊社である「九十九王子」の一つであり、府内の九十九王子社で唯一現存しています。なお、祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・速素盞鳴命(ハヤスサノオノミコト)・応神天皇(品陀別命・ホンダワケノミコト)の4神で、創建に関しては二説が伝わります。

P1130324阿倍王子神社本殿 P1130325②阿倍王子神社 鳥居は慶応元年製

【阿倍王子神社・正面鳥居と本殿(鳥居は慶応元年製)

■『攝州東成郡阿倍権現縁記』によれば、仁徳天皇の夢の中に熊野三山の使いである三つ足の鳥が現れ、仁徳天皇がそれを捜させると同じものが当地(阿倍島:当時、島があった)にいたので、そこに神社を創建したと伝わり、これとは別にこの地域を本拠した古代豪族の阿倍氏が建立したという説もあります。

■住吉大社や四天王寺に挟まれ、熊野参詣の街道筋の王子社として存続し、後鳥羽天皇が熊野御幸をした時は4番目の「九十九王子」だったようです(「後鳥羽院熊野御幸記」)。

■戦国時代に多くの王子が焼失したため、安土桃山時代には2番目の王子とされたようですが、元々は5番目であり、現存している王子の中で1番目になります。

◇万代池公園      

■池の周囲は約700mで、上町台地の浸食した谷を堰止めて造られたそうですが、「聖徳太子が曼陀羅経をあげて、池に棲む魔物を鎮めた」との言い伝えから、「曼陀羅池」が転じて「万代池」という名称になったと伝わります。明治時代までは灌漑池として利用され、大正~昭和初期には共楽園(遊園地)がありました。大阪市は池とその周辺4.4haを整備し、昭和15年に「万代池公園」として開園し、池を取り囲むサクラの名所となっています。    

[]津守王子

■現在の大阪市立墨江小学校付近にあったと伝わりますが、現在は住吉大社・末社「新宮社」又は止止呂支比賣神社に合祀されたと伝わります。

P1130336②右端_住吉大社末社王子社(津守王子)

【王子社・津守王子(右端):住吉大社末社】

◇住吉大社  

■式内社(名神大社)で、 摂津国一宮、二十二社(中七社)の一社、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社です。全国に約2,300社ある住吉神社の総本社であるほか、下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の一社で、別称「住吉大神宮(すみよしのおおがみのみや)」ともいわれます。

■主祭神は4柱で、住吉大神と総称され「海の神」として信仰されており、「住吉三神」と呼ばれる第一本宮・底筒男命 (そこつつのをのみこと)、第二本宮・中筒男命 (なかつつのをのみこと)、第三本宮・表筒男命 (うはつつのをのみこと)は縦方向に並び、第四本宮・息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと:神功皇后)は第三本宮の横に並び、魚鱗の備えと鶴翼の構えで「八陣の法」を表すと伝わります。柱・垂木・破風板は丹塗り、羽目板壁は白胡粉塗、屋根は桧皮葺きで切妻作りで、出入口が直線型妻入式の「住吉造」で造られており、神社建築史上最古の様式で、国宝に指定されています。摂社・末社は20坐を越え、祭礼が多く、反り橋(太鼓橋)や260余の石燈籠、「住吉神代記」などは指定文化財になっています。

■創建は、仲哀天皇9年(AD200)、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(堺区七道)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族・田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まり、その後、神功皇后も祭られるようになりました。応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよあだ、つもりのとよのごだん)を祖とします。古代大和王権の外交・航海に関連した神社で、遣隋使・遣唐使の守護神であり、津守氏は遣唐神主として遣唐使船に乗りました。遣隋使・遣唐使は、大社南部の細江川(通称・ 細井川。古代の「住吉細江」)にあった仁徳天皇が開いたと伝わる住吉津(「墨江ノ津」「住之江津」)から出発しました。住吉津は、奈良~平安時代初期は、シルクロードにつながる主な国際港でもありました。

■『延喜式神名帳』には「住吉坐神社四座」と記載され、「名神大社」に列し、月次・新嘗・相嘗の幣帛に預ると記されており、神階は、嘉祥4年(851)に最高位の「正一位」となりました。

■社前は現在は完全な市中ですが、江戸時代までは境内馬場(現在の住吉公園)は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、その風景の絵模様は「住吉模様」と呼ばれました。中世には、清和源氏武士団を最初に形成した源満仲は、摂津守であった天禄元年(970)に住吉大社に参籠し、住吉大神の神託により摂津国多田(川西市多田)を源氏の本拠地としました。

■宮司・津守氏は神官であると共に一族は武士も出しており、源満仲の三男で河内国壺井(羽曳野市壺井)を本拠地とした源頼信を祖とする河内源氏とは源為義の頃には姻族の関係にありました。河内源氏の後裔で鎌倉幕府を開いた源頼朝が建久6年(1195)の上洛の際、住吉大社に多数の御家人を集め流鏑馬を行っています。                                                                                             ■南北朝時代は、宮司・津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝・後村上天皇の行宮が置かれ、約10年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つになり、次代・長慶天皇は住吉で即位しました。瀬戸内海水軍には住吉神を奉じる者も多く、南朝方の瀬戸内連絡網の根拠となったために、足利幕府からは制圧を受け、社領も大幅に削減されて、現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模とされました。

◇止止呂支比賣命(とどろきひめのみこと)神社

■創祀年代は不詳ですが、「延喜式神名帳」(延喜5年[905])に登載されており、住吉大社の摂社(奥ノ院)として宝最されていました。承久3年(1221)、後鳥羽上皇の行幸の折に行宮を建てたことに因り、「若松神社」・「若松宮」と呼ばれ、氏子より若松さんと崇められています。

◇大和川

■笠置山地を源とし、佐保川・曽我川・龍田川など奈良盆地の水を集めて、「亀の瀬」を経て、大阪平野に入り、石川・西除川などを合せて、大阪湾に注いでいます。流域は2府県で1070に及びます。

◇遠里小野(おりおの・とおさとおの)

■「遠里小野」は住吉大社の灯明用の菜種油を御用達、大和川改修後は南半が堺市へ編入され、元、摂津国住吉郡の遠里小野村のみであったが、明治初期に大和川以南を和泉国大鳥郡の遠里小野村として分離されました。

■遠里小野は、古くから油の産地として知られ、日本で初めて菜種油を生産したことで知られており、菜種油は江戸時代から明治時代にかけて盛んに生産・販売されましたが、現在は菜種を栽培する農地は市街地と化し、油生産は廃れました。

■当初、遠里小野における油生産はハシバミ(榛)の搾油から始まり、古代から中世にかけては、朝廷が神事に用いた灯明は、すべて遠里小野で生産された油を用いたといわれていますが、山崎(京都府乙訓郡)で長木によるエゴマ(荏胡麻)油の生産が行なわれるようになると、生産性・品質において山崎製が優位となり、遠里小野のハシバミ油は競争力を失いました。競争力を回復のために、遠里小野では油分の多い菜種の搾油に着手し、搾油道具の改良と併せて競争力を回復し、戦国時代から平和な時代へ移り変わったこともあり需要が増大し、村の経済力は大きくなりました。

■大和川付け替えによる分断:河内国での大和川の洪水被害の解決策として、宝永元年(1704)に大和川の流れを北向きから西向きへ付け替えられ、遠里小野村集落の南側で村は二分されて、両地は「遠里小野橋」で結ばれています。  P1130349②遠里小野橋から阪堺電軌線南海本線阪神高速道路大和川大橋

【遠里小野橋から大和川河口方面】                         

◇境王子   (王子ヶ飢公園:堺区北田出井町)

■「窪津王子」から数えて7番目で、現在の堺区北田出井町付近にあったと推定されていますが、「境王子」の名は、付近が摂津国、河内国、和泉国の「境」であったことに由来し、地名「堺」(「境」の別表記)も「境王子」が置かれた平安時代後期から歴史文献に登場するようになり[永保元年(1081)]の『藤原為房卿記』には「境王子」が「和泉堺之小堂」という名称で登場し、(地名「堺」の初出)、「境王子」がその由来となったと考えられています。

■王子社は、後世に堺湯屋町の熊野神社(堺区熊野町東1丁の大道筋沿い)に移り(時期不詳)、その熊野神社も明治41年(1908)に菅原神社(堺区戎之町東2丁)に合祀されたため、正確な位置は不明ですが、文献的には、大坂から南下してきた熊野街道は堺の町の東側を通り、「方違神社」(堺区北三国ヶ丘町2丁)付近で長尾街道(大津道)と交差し、反正天皇陵の西側を通っていたことはわかっており、「境王子」は方違神社の北方付近にあったと考えられています。実際、『文久三年改正堺大絵図』には「小栗道」「王子ヶ飢」の記載があり、「境王子」があったものと思われています。なお、「境王子跡」石碑は王子ヶ飢公園に建っていますが、和歌山県旧本宮町(熊野本宮大社が鎮座)が寄贈し ました。      

P1130352②境王子跡_碑【「境王子跡】碑】     

◇方違神社 (ほうちがいじんじゃ:堺市堺区北三国ケ丘町2              

■祭神は「方違幸大神」(かたたがえさちおおかみ)で、社伝では第10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡したことを憂いた天皇は、同8年(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原(当地)に遣わせ、須佐之男神を祀らせたとのことです。

■奈良時代には、行基が布施屋(伏せ屋)を設けて旅人の休憩場所となるなど人馬往来の中心となり、平安時代には、熊野詣の通過地点でもあったため、旅の安全が祈られたようです。明治初めの東京遷都の折には17日間の祈祷が行われました。

■社地は攝河泉三国の「境」の「三国山」・「三国衝」・「三国丘」と称されていましたが、三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの「方災除け」の神社として信仰を集めてきました。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多いとのことで、自分の在所から出かけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。古くから方除けには当地の埴土を包んだ粽(ちまき)を奉ったことから、厄除守に御札のほか砂、ちまきがあるようです。

P1130357②方違神社_鳥居方違神社     

■公共基準点

◇「基準点」とは、地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された「電子基準点」、「三角点」、「水準点」等から構成され、地図作成や各種測量の基準となるものです。これらの基準点は、すべての測量の基礎として、公共測量、地籍測量、地殻変動観測等に使用されます。また、都市計画、都市基盤整備、電力・ガスの事業計画や管理、観光開発、交通網の整備、環境管理、福祉計画等に必要な地図作成に基準点が使用されます。

◇「公共基準点」は公共機関が公共測量を行った際に設置した基準点で、堺市が管理する国土交通省公共測量作業規定第20条に規定する1級基準点(国家基準点[電子基準点・三角点]に基づき設置)、2級基準点(国家基準点・1級基準点に基づき設置)、3級基準点(街区三角点、街区多角点、その他相当程度の基準点を含む)で堺市内に約3700点設置されています。地形図は、堺市地形図デジタルデータレベル2500を縮小編纂して(縮尺5000分の1)使用されています。

◇「街区(がいく)基準点」は、土交通省平成16年度から3カ年計画始めた「都市再生街区基本調査に基づき街区の各角の近傍人口集中地区DID地区)に設置された公共基準点で、街区の角の座標街区内の土地測量基準となります。「街区準点」には国家基準点等を基準に約500m間隔に設置された「街区三角点」と約200m間隔で設置された「街区多角点」があり、街区基準点を補間する「補助点」があります。

P1130355②公共基準点_堺市【公共基準点:堺区北田出井町】  

【コース地図(赤線):国土地理院発行1:25000「大阪西南部」・「大阪東南部」・「堺」】

コース地図阿部野橋堺東25000大阪西南東南堺古市説明入②  (図上の左クリックにより拡大)

【参考文献】

1.大阪市教育委員会、安倍晴明神社、阿倍野区史跡顕彰委員会、止止呂支比賣神社、堺市、長野市、国土地理院、国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所、大阪観光情報「OSAKA-INFO」・各ホームページ(HP)。

2.吉田昌生:「熊野への道」、向陽書房、1999.

(実施:2014年10月12日・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆)

[参考]

二十二社                                     

(注:「式内」:式内社[名神=名神大社、国史=国史見在社]、        

             「近代」:近代社格制度の社格(官大=官幣大社、官中=官幣中社)、「勅祭」=勅祭社、「別表」=別表神社

記載社名 現在の社名 社    格
式内 各國一宮 近代 勅祭 別表
上七社
大神宮 神宮(伊勢神宮) 大社   神宮    
石清水 石清水八幡宮 国史   官大 勅祭 別表
賀茂 賀茂別雷神社(上賀茂神社) 名神 山城 官大 勅祭 別表
賀茂御祖神社(下鴨神社) 名神 官大 勅祭 別表
松尾 松尾大社 名神   官大   別表
平埜 平野神社 名神   官大   別表
稲荷 伏見稲荷大社 名神   官大    
春日 春日大社 名神   官大 勅祭 別表
中七社
大原野 大原野神社 国史   官中   別表
大神 大神神社 名神 大和 官大   別表
石上 石上神宮 名神   官大   別表
大和 大和神社 名神   官大   別表
廣瀬 廣瀬大社 名神   官大   別表
龍田 龍田大社 名神   官大   別表
住吉 住吉大社 名神 摂津 官大   別表
下八社
日吉 日吉大社 名神   官大   別表
梅宮 梅宮大社 名神   官中    
吉田 吉田神社 式外   官中   別表
廣田 廣田神社 名神   官大   別表
祇園 八坂神社 式外   官大   別表
北野 北野天満宮 式外   官中   別表
丹生 丹生川上神社(中社) 名神   官大   別表
丹生川上神社上社 別表
丹生川上神社下社 別表
貴布禰 貴船神社 名神   官中   別表
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