■第249回行事・アーカイヴス(2014年9月)

★古 市 古 墳 群

・「世界遺産暫定リスト」登録・古代の漢・百済文化の「くに」

●石川と大和川との合流点の羽曳野丘陵北端付近は123基もの古墳が集まる地域です。この「古市古墳群」を見学し、「倭の五王」の時代に豪族・葛城氏、渡来人・葛井(ふじい)氏等が支配した地の異国文化の華に思いを馳せます。

【コース地形図(赤線):国土地理院発行1:10000地形図「藤井寺」】

9月行事実施コース全10000藤井寺②

コース近鉄・藤井寺駅~葛井寺~辛国神社~岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)(シュラホール*)~野中寺~ボケ山古墳(仁賢陵)~峯ヶ塚古墳(時と緑の交流館**)~前ノ山古墳(日本武尊白鳥陵)~古市大溝跡~淨元寺山古墳・墓山古墳~(羽曳野市役所*)~誉田白鳥埴輪窯跡~誉田御廟山古墳~仲津山古墳~道明寺~道明寺天満宮~近鉄・道明寺駅  (約10km)

古 墳

■「古市古墳群」は、東西4km・南北4㎞の羽曳野市と藤井寺市に跨がり、前方後円墳31基、円墳37基、方墳51基、墳形不明8基、計127基が集中して、4世紀後半から6世紀中葉に築造され、遺存している地域です。

その特色は

1)墳丘長400mを超える巨大な前方後円墳、誉田御廟山古墳から一辺10mに満たない小型方墳まで、「墳形」・「規模」に多様の変形・変遷があります。(但し、墳丘が現存する古墳は127基中の44基)

2)「墓室」構造の変化があり、大王の墳墓と推定される巨大な前方後円墳には、兵庫県産龍山石を使った組合せ式の「長持形石棺」を納め、周囲を石で囲む「竪穴式石槨」の葬法が採用されています。(前期古墳に共通する長大な「割竹形木棺」とそれを埋葬する長大な「竪穴式石槨」はみられていないようです)

○「古市古墳群」の中・小型の前方後円墳、円墳や方墳には、初期には長大な「割竹形木棺」を粘土で包む葬法が見られ、中期から後半には、箱形の木棺を直接墳丘に埋込んだり、大陸伝来の「横穴式石室」が用いられています。

3)古墳から発掘された副葬品に鉄製品、特に武器や武具が目立ち、鉄製品は、非常に数多く出土し、「アリ山古墳」や「西墓山古墳」に納められた鉄器の数は、各2,000点を超えたそうです。(前期古墳の副葬品で多くみられたや腕輪形石製品は数が少ないか副葬しなくなっています)

4)金・銀を使った煌びやかな製品が副葬品に含まれるようになり、金鍍金の馬具(誉田丸山古墳から出土)・ガラス製碗や、当古墳群の後半に築造された「峯塚古墳」の出土品では銀製品が目立ち、国際色豊かになっています。

■以上の点から、「古市古墳群」は、大王を頂点にして、その親族および大王に仕えた人々を中心に形づくられ、墳形・墓室構造の多様性は、埋葬者の生前の地位を反映させ、副葬品に鏡・石製腕飾りが減り、鉄製の武器・武具、金銀製品が増えた傾向は、大王が宗教的司祭者から支配者・統治者として実力を誇示するように変遷した結果とみられています。  

古市古墳群の被葬者

■<呼称>被葬者中、首長の呼称として、「王」と呼ばれたのは5世紀中頃まで、「大王」と呼ばれたのは5世紀後半~6世紀末、「大王[天皇:諡]」と呼ばれていたのは6世紀末(推古朝)以降と考えられています。

■葛城氏から輩出:⑭仲哀・⑮応神・⑯仁徳*・⑰履中*$()・⑱反正$()・⑲允恭$()・⑳安康$()・(21)雄略*$() [別説:⑭仲哀(武)・⑯仁徳*(讃)・⑱反正$(珍)・⑲允恭$(済)・日本武尊(興):天野末喜]

■息長氏・和迩氏から輩出:20代~30代天皇の皇后の出自に多い((24)仁賢他)。      [$:倭の五王?(原島)]

[★渡来系氏族自身は他郡に造墓か:■漢系:白鳥、西文(かわちのあや)氏、■百済系:葛井(ふじい)・船・津・古市氏ら]       

築造様式

■中期の築造では「前方後円墳」(20基)、前方後方墳(1基)、小型の円墳(23基)、方墳(25基)等となっていますが、 後期には大型方墳・円墳が出現し(6世紀第4四半紀)、方墳は被葬者が蘇我氏系、円墳は反蘇我氏系説があります。

築造技術集団  ・・精密な設計図・・

■(百舌鳥古墳群)ミサンザイ(履中陵)古墳×0.8=(古市古墳群)仲津山古墳、

○(百舌鳥古墳群)土師ミサンザイ古墳×0.66=(古市古墳群)前の山(日本武尊白鳥陵)古墳、

○(古市古墳群)墓山古墳×2=誉田御廟山(応神陵)古墳、と考えられています。

■現場施工技術者集団は土師氏で、本拠は道明寺付近でした。埴輪作製、古墳築造、「修羅」(木橇)、土師寺建造などの業績があります。改姓後の同族としては、大江氏、菅原氏、秋篠氏などがあります。

埋葬頭位 

優位が畿内、出雲で、「東」又は「西」は九州、四国に優位のようです。

◇墳丘の構造

■三段築成が多く、例えば、「応神陵」の後円部は1:1:3で、伝説上の山「崑崙山」を模倣したとの説があります。

■石室の構造と採用事例としては、次のように分類されています:

イ.「竪穴式石室」には、誉田山、峯ヶ塚 (5世紀)があり、「長持型石棺」の安置例は、誉田山、墓山、挟山、 (*津堂城山古墳)などです。

ロ.「横穴式石室」には、漢系、百済系等渡来系氏族の文化が発祥とも考えられています。(5世紀末~6世紀に成立) ・来目皇子*陵    (推古朝に終焉) [*「久米王」とも。父は用明天皇。母は穴穂部間人皇女。聖徳太子は同母兄]

ハ.「竪穴式石槨」には、津堂城山古墳(4世紀後半頃の築造で、第19代允恭天皇の陵墓参考地に治定)があります。

ニ.横口式石室は、推古朝以降に出現します。

ホ.横口式石槨(石棺式石室)は、ヒナンジョ池西古墳(野中寺に石棺管)にあります。(小口山古墳、鬼の俎・厠古墳)

◇古墳の築造年代(q:四半世紀)

4世紀4q      ;古室山古墳、二ツ塚古墳、(*津堂城山古墳)

5世紀1q      ;仲津山古墳(4世紀後半説も)、墓山古墳、野中宮山古墳、大鳥塚古墳、

2q     ;誉田御廟山古墳[応神陵] 、

3~4q:市野山古墳[允恭陵]

4q      ;前の山古墳[日本武尊陵]

6世紀1q       ;岡ミサンザイ古墳[仲哀陵]、峯ヶ塚古墳、

1~2q:ボケ山古墳[仁賢陵]、高屋城山古墳[安閑陵]

2q      ;白髪山古墳[清寧陵]

4q       ;[大型方墳・円墳出現]

7世紀1~2q :(小口山古墳)  [この頃、薄葬令を布告?]

規模   [前方部端をどこにするかで異説があります][( ):全長の全国順位]

誉田御廟山古墳    425(2)(応神陵・総長700m[含二重濠]。三段築成。容積で最大[1,434,000m2]・36m高)

仲津山古墳             :290m(9)(三段築成、仲津媛陵

岡ミサンザイ古墳242m(18)(三段築成、仲哀陵

市野山古墳   :230m(20)(三段築成、允恭陵

墓山古墳                 :225m(23)(三段築成、允恭陵古墳、継体陵古墳と同形)

■津堂城山古墳  :208m(29)(二重濠)

前の山古墳   :200m(白鳥が羽を曳くが如く飛び来った伝説・日本武尊白鳥陵)

■野中宮山古墳  :154m(三段築成)

古室山古墳   :150m

野中ボケ山古墳 :122m(仁賢陵,周濠)継体天皇と在位が重なる。二段築成・横穴式石室。

■高屋城山古墳         :122m(安閑陵)

■白髪山古墳       :115m(清寧陵)

■二ツ塚古墳        :110m

■大鳥塚古墳        :110m

■挟山古墳         :103m(三段築成)

峯ヶ塚古墳        : 96m(二重濠)

■高屋八幡山古墳      : 85m(春日山田皇后陵)

■島泉丸山古墳        : 75m[円墳](雄略陵) ■向墓山古墳         : 68m[方墳] (二段築成、墓山古墳陪冢)

浄元寺山古墳        : 67m[方墳](墓山古墳陪冢

◇訪ねる主な古墳

●岡ミサンザイ古墳 (恵我長野西陵・藤井寺市藤井寺)

■現在、仲哀陵に治定されていますが、雄略陵説が有力で、全長242mの全国18位の三段築成です。「市野山古墳」に後続する副系列古墳でTK23型式期*の執政王墓とみなされています。(雄略天皇によるイチノベ**殺害は允恭天皇系が執政王位をも奪ったようです。[現・雄略陵は「島泉丸山古墳」(羽曳野市・径75m)]

*「TK23型式」5世紀の第4半世紀に製作された須恵器。埼玉・稲荷山古墳、愛知・念仏塚古墳などから出土。

**「イチノベ殺害」雄略天皇が即位前に履中天皇の子で、従兄弟のイチノベオシハ皇子と御馬皇子の二人も殺害した事件(456年?)。

岡ミサンザイ古墳②藤井寺市

【岡ミサンザイ古墳:藤井寺市教委】

●野中・ボケ山古墳  (「埴生坂本陵」・仁賢陵に治定・藤井寺市青山)

■羽曳野丘陵東側の洪積段丘地形を取り込んで造られた二段築成で、横穴式石室をもつ、全長122m・前方部幅107m・高さ13m・後円部径65m・高さ11.5m・頂高46.5mの前方後円墳です。南東の括れ部に造出しがあり、周囲は濠で囲まれています。

■昭和50・54年に大阪府教育委員会により外堤調査が行われ、後円部北東側堤と前方部北西側堤に円筒埴輪列が発見されました。昭和56年の羽曳野市教育委員会による外堤調査により、前方部北西側堤に接する斜面で2基の埴輪窯も発見されました。出土円筒埴輪などから6世紀前半の築造と推定されており、埋葬施設は横穴式石室を想定さています

ボケ山古墳上空より_羽曳野市②③
【ボケ山古墳遠景:藤井寺市教委】

●峯ヶ塚古墳(國史跡・羽曳野市軽里)

峯ヶ塚古墳南側から  P1130170峯ヶ塚古墳案内盤_墳丘平面図

【峯ヶ塚古墳・同墳丘平面図:藤井寺市教育委員会】

■羽墳丘は全長96m・前方部幅74m・後円部径56mの二段築成で、括れ部北側に「造出し」を設置されています。現溜池が内濠で、その外側に内堤、更に外側に外濠を廻らせ、葺石は墳丘上段斜面裾部分で確認されました。
■後円部墳頂より3m下に4.3×2.2×1.9mの竪穴式石室で刳り抜き式舟形石棺が納置されていたと推定されています。石棺は阿蘇産溶結凝灰岩製で蓋と身の色が異なっていたようです。
■中期的武具・金銀製装飾品、須恵器・埴輪・鉄鏃・馬具・挂甲・太刀・石棺などを考慮して5世紀末に築造された大王級墳墓と推定されています。[副葬品;後述]

●前の山[軽里大塚]古墳    (「日本武尊白鳥陵」に治定・羽曳野市軽里)

■墳丘長200m(41)・後円部径106m・前方部幅165mの、前方部=後円部径×約1.5倍の二段築成で、括れ部前方部寄りに「造出し」が設けられ、濠幅30~50mで堤幅約20mの広大な濠を廻らしています。更に濠堤外側に幅約4.5mの区画溝が検出されました。白鳥が羽を曳くが如く埴生野に飛び来った伝説があります。

前ノ山古墳_羽曳野市②   P1120648白鳥陵後円部

【前の山古墳:羽曳野市教委、・同後円部】

●墓山古墳 (応神陵ほ号陪冢・國史跡・羽曳野市白鳥)

■羽曳野丘陵から西に延びる中位段丘の低い台地上にあり、当古墳群中5位の大きさの前方後円墳です。後円部先端を台地の東端、南側側面を段丘崖に沿わせて大きく見せています。墳丘の全長225m・前方部幅153m・同高19m・後円部径135・同高21mの前方高後円墳で、周濠幅は18mで前方部・北辺部の一部が埋っています。周濠外側に幅約32mの外堤が全周し、墓地となっている南西側から観察でき、外堤外側の一部に幅5mの外溝が確認されています。
■墳丘と中段平坦面には円筒埴輪列、家・衣蓋・短甲・靫(ゆぎ:背負い矢入れ)・盾形各形象埴輪が発掘され、後円部墳長に竪穴式石槨2カ所分の窪みと格子状彫りこみのある長持形石棺蓋石も確認されています。墳丘・出土埴輪等より5世紀前半の築造と推定され、多量の鉄製品を納めた陪冢もあります。

墓山古墳_藤井寺市
【墓山古墳:羽曳野市教委】

●誉田御廟山古墳 (恵我藻伏岡陵・羽曳野市誉田)

応神陵に治定され、全長425m・二重濠を含めた総長700mで三段に築成され、容積では日本の現存古墳最大(1,434,000m2・36m高)で、「古市古墳群」最大の前方後円墳です。

誉田御廟山古墳遠景_羽曳野市①③
【誉田御廟山古墳遠景:羽曳野市教委】

■後円部径250m・高さ35m・前方部幅300m・高さ36mを測り、「百舌鳥古墳群」の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで2番目の長さで、斜面は一面に石が葺かれ、テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒埴輪が立て並べられていたと考えられています。墳丘の周りには二重周濠が巡り、東側に先に造られた「二ツ塚古墳」を避けて少し歪んあだ形になっています。出土遺物には、円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなどの土製品が出土しました。

P1120656誉田八幡宮

【誉田八幡宮:祭神は応神天皇(誉田御廟山古墳後円部前に鎮座)    

■造営前から「二ツ塚古墳」が存在していたため、周濠と内堤が歪み、前方部の一部は天平6年(734)、永正7年(1510)の内陸直下型の大地震のため崩れたとされており、前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層の「誉田断層帯」が走っていることが判っています。

誉田断層帯活断層付近②

【「誉田断層」付近:国土地理院・都市圏活断層図・1:25000「大阪東南部」 】

(図上の左クリックにより拡大)

●仲津山古墳(仲津媛皇后陵古墳)  (「惠我長野北陵」・藤井寺市沢田)

■国府台の最高所に築かれた墳丘長290m・前方部幅193m・後円部径170mの前方後円墳で、古市古墳群内で「応神陵」に次ぐ大きさです。括れ部両側に後円部にかけて方壇状「造出し」を備え、幅狭く深い盾形濠と幅義路の堤を設えています。堤外側斜面にも葺石を施し、堤平坦部幅は約25mで、堤濠側に円筒埴輪列が確認されています。その特徴より「津堂城山古墳」に次ぐ大王陵4世紀後半の築造と考えられ、堤などを含めて全長約410mになります。

【6~7世紀の倭国王墓等古墳の墳丘・埋葬施設の変遷:岸本原図・[ ]内は延喜式による
 倭國王墓等墳丘埋葬施設築造編年_岸本直文(図上の左クリックにより拡大)

出土遺物

誉田御廟山古墳(応神陵)円筒、形象(馬型)埴輪他(以後窖(あな)窯焼成:須恵器同様)

墓山古墳:(誉田御廟山古墳陪冢)多量の鉄製品

ボケ山古墳:(仁賢陵)埴輪列,埴輪窯

峯ヶ塚古墳:3500点以上発掘:青銅鏡小片、勾玉・臼玉・管玉、鹿角製装具・太刀(1.2m長)、馬具、銀製刀装具・装身具(垂飾付耳飾・花形飾・冠帽・帯金具=純度100%の銀・銅使用)、円筒・形象(人物・盾形)埴輪(外濠:内堤部で祭祀を実施)

寺社・街道・大溝

葛井寺(ふじいでら)(紫雲山三宝院剛琳寺:藤井寺市)

創建は7世紀後半の白鳳時代で、神亀2年(725)に聖武天皇の勅願により建立されたと伝わります。本尊・千手観音菩薩坐像は天平後期の作で(国宝:昭和13年に指定)、西国三十三番観音霊場の第五番札所す。「四脚門」は重要文化財にしていされており、寺蔵の古絵図『河内名所図会』から、東西に塔をもつ「薬師寺式」伽藍配置をとっていたようです。

P1120639葛井寺葛井寺南大門(山門)】

葛井氏は、6世紀に活躍した渡来系の王辰爾(百済王・辰斯の子を発祥)の甥の胆津を祖とし、『日本書紀』によれば、吉備の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績で白猪氏の姓を賜り、その後、「葛井」と改め「葛井連」(ふじいのむらじ)を名乗り、氏寺として葛井連広成が「葛井寺」を創建したと伝わります。

「藤井寺」の地名は、のちに大和在住の藤井安基が葛井寺の復興に尽力したことから生まれたと伝わり、室町時代は、奈良・興福寺の末寺として栄えましたが、明応2年(1493)、畠山家の内紛に端を発した兵火に遭い、本堂と宝塔を残して楼門、中門、三重塔、鎮守、奥院は焼失し、残った建物も後に地震で倒壊し、復興勧進で再興されました。

近世は豊臣家・徳川家の庇護を受け、とくに豊臣秀頼が寄進した「四脚門」は桃山様式の建造物として、国指定の重要文化財となっており、元・南大門として建てられましたが、現在の西門の位置に移建されました。

本尊・千手観音菩薩坐像は、寺伝では稽文会、稽首勲の作で、像高1.5mの半丈六の脱活乾漆造り*で、唐招提寺の乾漆立像と双璧の傑作で、府下唯一の天平仏です。天平時代の技巧手法が発揮され敷茄子四方の忍冬唐草文の浮彫模様は、天平美術意匠の真髄とされています。

[*「脱活乾漆造り」:粘土で像原形を造り、この上に麻布を張り漆で固め、漆に木屑を混ぜたもので細かい造形を施す仏像の製作方法。原形となった粘土は抜き取られるので軽い仏像が出来上がり、細かい表現が可能なので、奈良時代に数多く採用された。金銅製仏像に比し湿気・乾燥に脆弱で、火災にも弱く、遺存する仏像は少ない]

◇辛國神社(からくにじんじゃ・藤井寺市)   [韓(から)・漢に通ずる]     

祭神は饒速日命[にぎはやひのみこと:物部系]・天児屋根命(あめのこやねのみこと・春日大社祭神:藤原系)、素戔鳴命(旧長野神社祭神)の三神で、相殿に品陀別命(ほんだわけのみこと[誉田別尊]=応神天皇の諱)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、末社に春日稲荷神社(宇迦之御魂大神)・春日天満宮を祀ります。

由緒:千五百年程前、雄略天皇時代に創設され、平安時代に官社となった式内社。「日本書記」には「雄略十三年春三月、餌香長野邑(旧藤井寺町周辺)を物部目大連に賜う」とあり、物部氏は祖神を祀る神社をつくり、後に辛國氏が祭祀をつとめ辛國神社と称するようになった。「三代実録」では清和天皇「貞観九年(867)二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る」とあります。元は恵美坂の西南神殿にあったと推定され、室町時代の三代・足利義満の時代に河内守護職・畠山基国が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請して祭神・天児屋根命を合祀したと伝わります。明治41年長野神社(旧藤井寺村村社)の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至ります。

P1120640辛國神社【辛國神社】

◇野中寺(やちゅうじ・高野山真言宗・青竜山・羽曳野市野々上)

別名は「中の太子」で、聖徳太子が蘇我馬子に命じて造立されました:上の太子<叡福寺>、下の太子<八尾・勝軍寺> 
P1120646野中寺【野中寺・中門より】        

百済王族・辰孫王後裔の船氏の氏寺で、飛鳥時代7世紀中頃に創建され、伽藍配置は川原寺式亜流で、高句麗系文様屋瓦が出土、日本最古の黄銅熔解炉跡が遺存します。江戸初期に再建され秘仏・金銅製弥勒菩薩像は丙寅年(666)製。お染・久松の墓も。 

竹内街道(たけのうちかいどう)

■「日本書紀」・推古天皇21年(613)条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された、日本最古の「官道」で、現在、大部分は推古天皇時代の官道と重なります。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道「横大路」に繋がり、丹比道(たじひみち)とも言われました。天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より戦の衆多に至る」とみえ、「壬申の乱」にも使われていたことが分かりました。

■本行事のコースとしては、野中寺南方より野中・ボケ山古墳(仁賢陵)西側を経て、峯ヶ塚古墳北側を通り、「古市大溝址」と交叉して北側へ左折する地点まで歩きました。

古市大溝渠 (感玖大溝・こむくのおおうなで)

富田林市貴志付近の石川より引水して、羽曳野市西浦・軽里・野々上・高鷲・島泉付近より東除川に合流した、幅20m・深さ5m(以上)で約80町歩を灌漑した用水路で、5世紀に堀造された、と考えられています。『日本書紀』仁徳天皇条の「感玖の大溝」の記事を当てはめる説もあります。

P1120652古市大溝想定ルート図②
【古市大溝渠・推定経路:羽曳野市教委 (図上の左クリックにより拡大)】

◇道明寺  (真言宗御室派尼寺・蓮土山)

道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族・土師氏の根拠地でした。道明寺は土師氏の氏寺「土師寺」として建立され、今の道明寺天満宮の前にあり、当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものだったようです。

■延喜元年(901)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね、「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝わり、天歴元年(947)に、菅公自刻と伝える十一面観音像を祀り、土師寺を道明寺に改称したとのことです。
P1120657道明寺楼門【道明寺楼門】

◇道明寺天満宮

祭神は菅原道真(菅公)、天穂日命、菅原道真のおば・覚寿尼の三神で、当地は菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝わり、野見宿禰の遠祖・天穂日命を祀る土師神社がありました。

仏教伝来後、土師氏の氏寺である「土師寺」が建立され、伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたとのことです。菅公遺愛品を伝え6点が国宝に指定されています。復元「修羅」が保管されています。明治の神仏分離の際、道明寺天満宮と道明寺に分けられました。

P1120659道明寺天満宮
【道明寺天満宮】

【参考文献】

  1. 岸本 直文:「後・終末期古墳の「治定」問題」・『季刊・考古学』(124)、雄山閣、2013
  2. 古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議編:「古市古墳群を歩く」、2011.
  3. 大下  武:「今城塚古墳の築造規格」・森浩一・門脇禎二編『継体王朝』、大巧社、2000.
  4. 一瀬 和夫:「古市古墳群:倭国王の墓が営まれた大型古墳群」(「古墳への旅」:白石太一郎監修)、朝日新聞社、1996.
  5. 野島  稔:「古市の古墳」(「楽しい古墳めぐり・大阪府内の古墳を訪ねる」:瀬川芳則編)、松籟社、1994.
  6. 笠井 敏光:「古市古墳群とその時代」(「古代を考える:河内飛鳥」門脇禎二・水野正好編)、吉川弘文館、1989.
  7. 白石太一郎:「巨大古墳の造営」(「古代を考える:古墳」:白石太一郎編),、吉川弘文館、1989.
  8. 都出比呂志:「前方後円墳の誕生」(同上)、吉川弘文館、1989.
  9. 服部 昌之:「南河内の前方後円墳群」(「地形図に歴史を読む」第1集、藤岡謙二郎編)、大明堂、1968.
  10. 羽曳野市・藤井寺市・辛国神社各ホームページ

【2014年9月13日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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