■第247回行事・アーカイヴス(2014年7月)

★友ヶ島を歩く

●大阪湾への南の入口である紀淡海峡に浮かぶ「友ヶ島」は、明治時代~第二次大戦の間は一般人の立ち入りが禁止された「軍事要塞地域」でした。電力は21年前に関西空港関連航空保安施設が島内に建設されるまで自家発電でしたが、その折に加太町淡嶋神社付近より海底電線が引かれて漸く24時間通電となりました。現在も、砲台跡・弾薬庫跡などの廃墟が島内彼方此方に遺存する一種不思議な島を巡ります。 

コース:加太港~行者堂~淡嶋神社~加太港~沖ノ島・野奈浦桟橋~(A)又は(B)~加太港     

     (A)第三砲台跡~コウノス山(標高119.9m・1等三角点)~野奈浦桟橋     

     (B)第二砲台跡~子午線広場・友ヶ島灯台~池尻広場~野奈浦桟橋

【コース地図(加太・沖ノ島):国土地理院発行1:25000「加太」

加太友ヶ島沖ノ島25000加太②

(図上の左クリックにより拡大)

◆淡嶋神社(加太淡嶋神社、加太神社)

◇全国にある淡島(嶋)神社・粟島神社・淡路神社の総本社で、式内社「加太神社」の比定社の一つ(もう一社は加太春日神社)です。旧社格はで郷社ですが、創建は仁徳朝時代と伝わります。

◇3月3日の「雛流し」が有名で、境内一円に奉納された2万体以上にもなる雛人形等が置かれており、人形供養が行われています。 男びな女びなの始まりは、祭神の少彦名命と神功皇后の男女一対の神像であるといわれており、雛祭りが三月三日になったのは友ヶ島から対岸・加太への遷宮が、仁徳天皇5年3月3日であったことからといわれ、雛祭りの語源もスクナヒコナ(少彦名)祭が後に簡略化されて、ヒナまつりと言われるようになったとされています。

淡嶋神社本殿淡嶋神社本殿】 

祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)を祀っています。

社殿

・本殿は流造檜皮葺ですが、豊臣秀吉の紀州討伐で焼失した後、紀州藩主となった浅野幸長が再建し、紀州徳川家初代・徳川頼宣が修復を加え、さらに江戸末期に第10代藩主・徳川治宝が造営し、昭和54年に現在の社殿となりました。

由緒:淡嶋神社系統の国内約1000社余りの総本社であり、少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)の祠が加太沖の友ヶ島のうちの神島(淡島)に祀られたことが始まりとされます。

・社伝によれば、三韓出兵の帰途、瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納しました。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の始まりとされています。重要文化財として金銅造丸鞘太刀と大円山形星兜があります。

◇行者堂

・かつて役行者が住み、修行を積んだ場所の一つと伝わりますが、役行者は役小角(えんのおずの)とも呼ばれ、飛鳥時代から奈良時代にかけて存在した呪術者で葛城修験道を開いた開祖です。

◆友ヶ島

・和歌山市加太に属し、紀淡海峡(友ヶ島水道)に浮かぶ無人島群で、地ノ島神島沖ノ島虎島の総称として扱われ、瀬戸内海国立公園の一部に入ります。 今回の「行事」ではこの中の「沖ノ島」内を巡ります。

・地形的には中央構造線が南6㎞ほどのところを走っていて、その北側の和泉山脈(和泉帯と呼ばれる)、淡路島の諭鶴羽山地、四国の讃岐山地につながる山脈の一部です。

◇紀淡海峡と友ヶ島

・友ヶ島は大阪湾と紀伊水道を分ける紀淡海峡を塞ぐ形で立地し、東は紀伊半島、西は淡路島と対します。紀淡海峡は「地ノ島」と「沖ノ島」により、 淡路島~『由良瀬戸』~沖ノ島~『中ノ瀬戸』~地ノ島~『加太ノ瀬戸』~紀伊半島 ]と三分されていますが、淡路島側の「由良瀬戸」が重要航路の犇めく要所となっています。

◇灯台

「沖ノ島」北東部に連なる陸繋島として「虎島」があり、「地ノ島」東端と「沖ノ島」西端に灯台があります。「沖ノ島」の灯台は明治初期に作られた歴史ある灯台ですが、現在も運用されています。

IMG_7643タカノス展望台から灯台を望む② 

【タカノス山展望台より沖ノ島燈台を望む】

◇一等三角点(標高119.90m

1885年(明治18年)には「沖ノ島」の「タカノ巣山」展望台付近に参謀本部測量局(後の陸地測量部⇒国土地理院)により設置されました。航空保安無線施設の”友”「TOMO」VOR/DME (TME 116.4Mhz) も沖ノ島の山頂にあります。

◇子午線広場

2002年(平成14年)に世界測地系の経緯度が採用されて、日本標準時子午線の東経135度線が灯台敷地内の灯台西側を通ることになりました。

◇池尻広場・孝助松海岸

・キャンプができる広場と、その南隣の紀伊水道に面した潮だまりのある海岸です。

◇深蛇池・蒲浦海岸

・県指定天然記念物で湿地性植物群が繁茂する池です。役行者の大蛇封じの伝説があります。

◇虎島・修験道行場

・江戸時代において、紀州藩藩主・徳川頼宣の命令を受けた紀州藩の蘭学者・李梅渓が「虎島」内に葛城修験道における5つの「行場」を書いた文字を彫り、「五所の額」といわれる跡が残っています。修験道の山伏修行では「虎島行場」へ向かい、断崖絶壁の崖を上り下りして修業を行なうそうです。

◇砲台

・明治時代に旧日本軍により、外国艦隊の大阪湾への進入を防ぐ目的で、「沖ノ島」内5箇所と「虎島」に砲台や弾薬庫等が設置され、その跡が遺存します。フランス式布陣の5箇所の砲台から成り、発電施設など当時の最先端科学技術の粋を結集し、それを今に伝える貴重な文化財です。建設は第三砲台が明治25年、第二砲台が明治31年です(平成15年度土木学会選奨土木遺産に選ばれています)。

・第二次世界大戦終了までは軍事要塞施設として一般人の島内立入は禁止され、当時の地図や地形図もこの地域は空白でした。(但し、修験道山伏修行にて、虎島に入る人達は特別に入島を許されていたと言われています)島内遊歩道の道幅が広い部分が多いのは、砲台等への軍用道路として開発されたためのようですが、第二次世界大戦は航空戦主体となり、対艦用に造られた砲台は結局使用されずに終戦を迎えたようです。

戦後は友ヶ島全体が瀬戸内海国立公園に指定されて、終戦時に爆破処分された「第2砲台」以外は軍事施設跡が比較的良好な状態で残っています。

第三砲台跡 【沖ノ島・第3砲台跡】                   

友ヶ島Ⅳ砲台方向【要塞各砲台の防空方向】    

・瀬戸内海国立公園に指定されてから南海電鉄グループにより観光開発が行われ、系列の南紀観光により加太港~沖ノ島間の航路が開設され、キャンプ場やバンガロー村として夏場は賑わいましたが、2000年頃には観光客数が激減したため、南海電鉄は2002年に全ての友ヶ島観光事業から撤退しました。

・その後、航路を(有)友ヶ島汽船が引き継ぎましたが、2006年に廃業したため、加太漁協が人員や船などを引き継いだ法人を設立し、「友ヶ島汽船(株)」として運行しています。

◆電力・電話

以前は、島内をかつての軍用発電で賄っていて、22時になると電力供給が停まっていましたが、1993年(平成5年)、関西国際空港の航空路上となりましたので、「航空保安無線施設」を沖ノ島内の「第3砲台」・「コウノ巣山」展望台近くに建設され、この電力を賄うために、対岸の加太地区淡嶋神社近くより海底経由して南垂水地区までの電力ケーブルが開通し、島内必要施設にも電力が漸く行渡りました。

◇電話についても電力とほぼ同ルートで海底ケーブルが敷設され、「沖ノ島」内の必要設備

に接続されています。

友ヶ島Ⅲ地形図

【友ヶ島地図:ECRAN】

【参考文献】・淡嶋神社ホームページ。

2014年7月20日実施・案内:荻野哲夫・編集:宮﨑信隆

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