■第245回行事・アーカイヴス(2014年5月)

★飯盛山・野崎観音

四条畷神社から御机神社を経て飯盛山へ上ります。頂上からは大阪平野の270度の展望が望めます。その後、「お染・久松」・「野崎小唄」で有名な野崎観音を訪ねます。

コース:JR・四条畷駅~四条畷神社~御机神社~大東市野外活動センター~楠公寺~飯盛山山頂・飯盛城址~野崎観音~野崎参道商店街~JR・野崎駅

【コース図(赤線):国土地理院発行1:25000「生駒山」

飯盛山野崎観音説明入25000生駒山Ⅱ②(図上の左クリックにより拡大します)

◆四条畷神社

○南北朝時代の古戦場でもある飯盛山山麓にあり、楠木正行を主際神として楠木正時・正家以下一族の将士24人を配祀しています。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社でした。

P1120616四条畷神社拝殿四条畷神社拝殿

[歴史] 河内国讃良郡南野村雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓がありましたが、明治時代になると政府によって南朝が正統とされ、正行父・楠木正成が大楠公として神格化され、正成の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男・正行も小楠公と呼ばれて崇められ、明治11年(1878)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大しました。

○追って、明治22年に、南野村飯盛山山麓の住吉平田神社の神職らが中心となって楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、神社創立と別格官幣社「四條畷神社」の社号の宣下が勅許され、翌明治23年に「住吉平田神社」の南隣の地に創建されました。

P1120618住吉平田神社②住吉平田神社

御机神社

○「延喜式神名帳」には「御机神社」として河内国讃良郡に鎮座と記され、祭神は素盞嗚尊で、関係氏族は津夫江連(つふえのむらじ)とされています。永禄3年(1560)、三好長慶が飯盛山に居城したころは飯盛城鎮護神として崇められていました。

P1120619御机神社御机神社

○鎮座地は、旧社地は現在地より東へ500mの四條畷市・室池の近くで、文禄年間(1592~96年)に権現川を狭んで北側の堂山に遷座し、元禄13年(1700)に現在地に移座しました。

○祭祀対象は水源の守護で、江戸時代は(神仏習合の関係から)「牛頭天王社」と称していて、社殿は本殿一間流造です。

○末社として、神明社(天照皇大神)・稲田社(稲田姫命)・水神社(水波能売命)・藤木社(玉津辨財天)の4社を祀ります。

◆飯盛山                                   

○大東市の生駒山地北部の標高314.3mの山で、山頂付近には中世に飯盛山城があり、現在でもその主曲輪跡の石垣などが遺存します。楠木正行と足利軍・高師直が戦った古戦場でもあったため、山頂には楠木正行の銅像が建っています。

◇飯盛山在阪FMラジオ送信所 (大東市北条)

周波数

放送局名

呼出符号

空中線電力

ERP

放送対象地域

放送区域内

世帯数

正式な局名

80.2MHz

FM802

JOFV-FM

音声10kW

音声25kW

大阪府

約400万世帯

飯盛山

送信所

85.1MHz

fmo

JOBU-FM

エフエム大阪

88.1MHz

NHK大阪FM

JOBK-FM

飯盛山FM

放送所

○放送エリアは、大阪府の大部分、他の近畿1府4県及び三重県・香川県・徳島県の各一部地域です。

◆飯盛城            

○中世の山城としては大きな部類に属し強固な要塞でした。全盛期には南北に1200m、東西に500mに達し、70以上の曲輪が確認されています。

P1120630飯盛城址案内図(図上の左クリックにより拡大します)

【飯盛山城址配置案内図】

[城構]

正平3年(1348)1月の「四条畷の戦で、北朝方・高師直が兵6万の大将として四條に着陣し、南朝方の恩地氏が「飯盛山城」に立て篭もりましたが、当時は臨戦的「陣城」で、恒久的な城ではなかったとみられています。   

○天文年間(1532~1555年)に畠山義尭が河内を支配するようになり、家臣・木澤長政に命じて飯盛山に城郭を構え、臨戦的陣城から恒久的居城に改修されたようです。
[飯盛城の戦]室町時代の16世紀前半に、細川晴元は細川一族を纏めて足利義維*を擁して「管領」に就任し実権を握りましたが、三好元長が細川高國を討滅した軍功を挙げて、守護代・木澤長政と対立して「河内」を巡る主権争いとなり、守護代・木澤長政が守護・畠山義堯(義宣)から守護職を奪い獲る企てが発覚しました[*足利 義維(よしつな):室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男で、第10代将軍・足利義稙の養子、第14代将軍・足利義栄の父]

○享禄4年(1531)8月、畠山義堯は三好元長の一族・三好勝宗(三好一秀)に頼んで「飯盛山城」を攻めましたが、木澤長政からの援軍要請を受けた細川晴元によって撤兵命令を下されたため、三好勝宗は一旦兵を収めました。

○享禄5年5月、態勢を整えた畠山義堯と三好勝宗は「飯盛山城」を再び攻めて、三好元長にも増援を要請しました。木澤長政側も再び細川晴元に援軍を要請しましたが、畠山・三好連合軍の攻囲を除くには至りませんでした。

○享禄5年6月15日、證如**が細川晴元からの要請に基づき集めた攝津・河内・和泉の本願寺門徒勢3万兵が、「飯盛山城」の包囲軍を背後から攻撃して、三好勝宗を含む多数の兵を討ち取り、退却する守護・畠山義堯も追撃し自害させました。[**證如:当時17歳、父方祖父の本願寺第9世宗主・実如を継ぎ10世宗主。8世宗主・蓮如の曾孫]

○享禄5年(1531)6月20日には、三好元長の逃げ込んだ和泉・顕本寺を取り囲んだ、10万兵にまで膨れ上がったとも伝わる門徒軍は、三好元長を含む80兵余りを討ち、門徒軍は細川晴元に勝利させ、木澤長政も残りました。以後、門徒軍が暴走して「天文の錯乱」に発展したようです。

[三好長慶の居城~畠山昭高の居城~廃城] 

天文11年(1542)、木澤長政も「大平寺の戦(柏原市太平寺周辺)で三好長慶・遊佐長教らに討ち取られ、「飯盛山城主」には交野城城主・安見宗房が就きました。

○永禄元年(1558)、安見宗房は畠山高政の家臣でしたが、自ら河内・守護代を名乗り、両者間に「雑説」が生じたので、主君・畠山高政は高屋城より堺経由で紀伊に逃れました。

○永禄2年、三好長慶は畠山高政を援けるために挙兵したので、安見宗房は大和に敗走しましたが、畠山高政は三好軍の河内への進出を好まず、敵対した安見宗房を守護代に任命して再び「飯盛山城」に配置しました。

○永禄3年5月、三好長慶は畠山高政の居城・高屋城を攻囲、援軍の安見軍を寝屋川付近で撃退し、畠山高政・安見宗房を堺へ敗走させました。

○永禄3年11月、三好長慶が芥川山城から「飯盛山城」に入城して居城と定め、大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと考えられ、三好長慶による「河内支配」の拠点的城郭となりました。

○永禄5年4月、畠山高政は「飯盛山城」への総攻撃が開始しましたが、三好長慶弟・安宅冬康や松永久秀の援軍が背後から襲い、三好長慶も狭撃して畠山軍を撃退しました[教興寺の戦]。

○永禄7年7月、三好長慶が43歳で病没しました。

○以後、三好義継や三好三人衆が「飯盛山城」を治めていたようですが、織田信長により摂河平定時に三人衆も軍門に下り、「飯盛山城」は畠山昭高(信長妹婿)の所有となりました。

○天正元年(1573)、遊佐信教*が反乱して畠山昭高を殺害したので、

○天正3年3月、信長の攻撃を受けて遊佐信教は殺害され(高屋城の戦)、

○天正4年に「飯盛山城」は信長により落城し、廃城となりました。

◇結局、「飯盛山城」城主は、わずか40年余の間に、木澤長政⇒安見宗房⇒三好長慶⇒三好義継・三好三人衆⇒畠山昭高⇒遊佐信教⇒落城して廃城、と目まぐるしく変遷しました。*遊佐信教高屋・畠山氏(政長系畠山氏、尾州家)の重臣。河内國の守護代

[城郭]

○飯盛山城の「縄張り」として、最高地点315.9mに高櫓曲輪が築かれ、南北一直線上の尾根伝いに主要な曲輪群、東西の尾根の先端部にはそれぞれ曲輪を築かれていたそうです。

[本曲輪]          

P1120622飯盛山城址石垣跡【飯盛山城址・「本曲輪」下の石垣】                                           

○「高櫓曲輪」は、25m×15mの削平地があり楠木正行の銅像の建っているその北側に「本曲輪」があり、その下に山城の石垣が遺存します。その「本曲輪」下以外にも石垣が遺存していますが、これは土塁止め程度に考えられています。

○三好長慶が、かつて居城としていた芥川山城も同様の石垣が認められるため、三好長慶の改修時に築かれた可能性がありますが、織田信長の落城後に再構築した可能性も残るようです。

[千畳敷曲輪]

○「高櫓曲輪」から、南側には「千畳敷曲輪」40m×32mがあり、在阪FMラジオ送信所が建っており、周辺には堀切、虎口址等が遺存します。「千畳敷曲輪」の東側に「馬場曲輪」があり、「楠公寺」が建っています。この馬場は広さから馬場といわれ、兵屯施設などの設営が考えられています。

◆楠公寺   (日蓮宗・飯盛山)

○昭和25年,妙春日祥法尼により開山されましたが、妙春日祥法尼が能勢山中で、日蓮宗の布教に精進していた時に、南北朝時代の南朝の武将楠木正行の御霊から、「法華経で我が魂を鎮めよ」との聲を賜ったそうです。

P1120621楠公寺【楠公寺】

○妙春日祥法尼は正行公の御霊にかなうようにと、所縁地・飯盛山に当寺を開きました。当寺の号「楠公寺」は故池田勇人により命名されました。

○祈祷本尊は鬼子母神*で、本堂に祀っている。飯盛山守護神・黒龍大明神も祀る。[*「鬼子母神」:安産・子育て・行者守護・法華教護法神(法華経護法の龍神で水や雨を支配する八大龍王:家内安全、身体健全)]

○楠木正行は、正成の長男ですが、建武3年(1336=延元元年)、楠木正成が京都へ攻め上がる北朝・足利尊氏を湊川で迎え撃って討死した後の、正平3年(1348) 足利軍・高師直の軍と戦って四條畷で討死しました。

【慈願寺の直ぐ西側を「生駒断層」が南北に走る(中央は飯盛山・緑線はコース)

・国土地理院1:25000都市圏活断層図「大阪東北部」

野崎観音下を通る生駒断層25000都市圏活断層図大阪東北部_NEW

(図上の左クリックにより拡大します)

野崎観音 

(曹洞宗・福聚山慈眼寺(ふくじゅさん・じげんじ)・大東市野崎)

●観世音音菩薩(長谷寺本尊と同木から彫られたと伝わる)

[略史] 天平勝宝年間(749~757年)にインドから来朝した婆羅門僧正が行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サルナート)に似ている」と語り、行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝わります。平安時代に江口の君が、難病治癒の報恩感謝のため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力しました。

P1120635慈眼寺【慈眼寺本堂】

 ○中世以後は戦乱により衰微し、特に永禄8年(1565)には三好義興・松永久秀の戦禍(東大寺大仏殿の戦)により、本尊を除いて全焼し、元和2年(1616)・青厳によって再興されて、天和2年(1682)から野崎参りが始まりました。

○元禄・宝永年間(1688~1711年)に野崎参りが盛んになるにつれ繁栄するようになりましたが、かつては、西側一帯は大坂からつながる、古代河内灣/湖の名残的な「深野池」があり、大坂からは野崎参りの屋形船が行き来していました。

○宝永元年(1704)の大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川を行き来するようになりました。天満橋にあった八軒家船着場から上っていく人が多く、陸路を歩く参拝者と罵り合って競り勝てば一年の幸を得られたと伝わります。

[概要] 江戸時代より続く、有縁無縁問わず全てのものに感謝を捧げる「野崎参り」で知られ、その期間である5月上旬は参拝客で賑わいます。境内には南條神社や役小角像も鎮座し、神仏習合や修験道の歴史が伝わります。 

P1120637野崎参り出見世 【「野崎参り」の出見世】

 ○「本堂」:四天王によって守護され、十一面観音菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩が祀られており、平成11年に完成した壁画「花蝶菩薩」には、黄道十二星座が表現されています。

○「江口堂」:本堂周囲に、当寺中興の祖とみられている遊女、「江口ノ君」(江口の長者)を祀り、婦人病と子授けの御利益があるとされます。

○「三十三所観音堂」:一番から三十三番まである河内西国霊場すべてをここで拝むことができるとされています。

○「羅漢堂」:釈迦の16人の弟子「十六羅漢」を祀り、北河内の遊び歌において「野崎観音十六羅漢、うちの親父は働かん」と歌われるなどの台詞があります。

【参考文献】

〇福島勝彦:「畿内近国の戦国合戦」・戦争の日本史⑪、吉川弘文館、2009.

【2014年5月8日実施:案内・古川雄二郎:編集・宮﨑信隆】

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