■第244回行事・アーカイヴス(2014年4月)

★坂越浦・赤穂を巡る

●古くから瀬戸内の良好として栄えた「坂越」の街並みと赤穂城跡をはじめとする「赤穂義士」所縁の遺跡を巡ります。 

コース:JR・赤穂線・坂越駅~坂越・街並~大避神社~JR・赤穂線・坂越駅~[JR赤穂線乗車]~JR・播州赤穂駅~赤穂城跡・大石神社~息継井戸・花岳寺・赤穂水道址~JR・播州赤穂駅

【コース図(赤線):国土地理院発行1:25000「相生」・「播州赤穂」

コース図坂越_赤穂城跡25000相生赤穂②

(図上の左クリックにより拡大します)

◆赤穂道

○「西國街道」の相生から赤穂への道で、赤穂城主・浅野家が「西國街道」にしようと奔走したが実りませんでした。

○元禄14年(1701)3月、浅野長矩(ながのり)の「江戸城内刃傷」を知らせる早駕籠が走った道で、明治時代に北側に新道が設置され、現在国道250号線となりましたが、「木戸口」は関所のあった辺りになり、「赤穂道」から坂越浦への入口でした。

◆坂越浦                    

○古来より良港として栄え、江戸時代は千種川の高瀬舟舟運・瀬戸内千石船舟運の港町として繁栄しました。かつて、商家・人馬問屋・高瀬宿・船宿など30軒ほどあり、17~18世紀・江戸時代には大型廻船31艘・小型廻船15艘の屈指の港となりました。西国大名の参勤交代にも利用され、「赤穂の五万三千石、坂越の二十万石」ともいわれました。

P1100123②廻船_奥藤資料館【廻船(模型):奥藤家資料館】 

○明治中期まで「北前船」を中心とする海運業者の拠点として栄え、海運業者は「赤穂の塩」を積みこんで坂越を出港し、瀬戸内海西部、日本海で荷売り、荷買いを繰り返して、最期は坂越浦には貴重な石材を積んで帰港し、航海安全の守り神である大避神社に寄進しました。

P1100136奥藤家両側Ⅱ【坂越の街並】 

○廻船問屋「奥藤(おくとう)家」は「本陣」で、「大庄屋」と「船手庄屋」を兼ねており、約300年前に建築された建物が現存します。慶長6年(1601)より酒造を開始し、当主は18代目で、酒造では14代目なり、塩田開発も行っていました。「本陣」・酒蔵(半地下式蔵もあり)は寛文年間(1661-1673年)に建造されています。

P1040805奥藤②【奥藤家】 

坂越浦の戸数は、かつては1000 戸を超えていましたが、海運業の衰退により、明治中期以降人口は減少し続け、現在は500 戸程で、そのほとんどは地元中小企業のサラリーマンです  

◆大避(おおさけ)神社            

○祭神は大避大神(=秦河勝・秦氏の氏神)・天照皇大神・春日大神で、本殿は明和6年(1769)、拝殿・神門は延享3年(1746)に再建されました。分社が千種川流域一帯に多数あります。

○延喜式内社で、聖徳太子四天王の一人・秦河勝を祀っていますが、御旅所のある「生島」(いきしま)に墳墓があるとの説が有力です。大元は京都の大酒神社で廣隆寺境内桂宮院内にあります(第156回行事・2006年10月.22日実施)。

・聖徳太子の死後の皇極3年(644)、蘇我入鹿の迫害を逃れて西航して坂越湾沖で難破し、泳いで流れ着き、その後、この島に住み、島の対岸にある坂越浦・千種川流域の開発につくした、と伝わります。

P1040811大避神社 【大避神社】

 ○大化7年(647)、80余歳で秦河勝が没した後に坂越浦では天変地異が続き、これを畏れた地元民は「生島」の中央部に河勝の円墳を造成し、坂越浦に「大避神社」を建立して祀り、島を入り禁止にしました。なお、秦河勝の墓所としては、①坂越・生島、②京都・広隆寺隣接地、③寝屋川・川勝町(供養塔)が知られています。

○旧暦9月12日「生島上陸」説に基づき、当初「坂越の船祭り」の祭日にしていましたが、現在は10月の第2日曜となっています。大阪天満宮天神祭、広島・厳島神社管絃祭と共に「瀬戸内三大船祭」の一つとして、 平成4年には国「選択無形文化財」に指定され、享保7年(1722)の「船絵馬」は最も古い船絵馬として知られています。

◇千種川流域の「大避神社」

○千種川流域には「大避神社」が多く祀られており、秦氏一族が広く開発に関与したことが伺われます。

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【千種川流域「大避神社」の分布:上郡町教育委員会(図上の左クリックにより拡大します)

◆生島(いきしま)

○周囲1.63km、「生島樹林」として大正13年に国の天然記念物に指定されており、島全体が大避神社の所有で、神域でもあり、暖地性原生林で覆われています。

生島_茶臼山城跡から③【生島】 

◆赤穂城

○千種川河口に15世紀中葉に播磨守護大名・赤松満祐一族・岡豊前守が築城し、戦国時代末期に宇喜多氏(刈屋城)、江戸初期には池田輝政が領有し、輝政は三大水道の一つ「赤穂水道」を敷設しました。正保2年(1645)には常陸笠間から浅野長直が入封(53,000石)し、13年かけて完成しました。

○「輪郭式」(本丸中心にの丸が同心円状に展開)、「梯郭式」(三の丸が本丸の正面に広がる)の三重の曲輪から成る「平城」に整備され、天守台が築かれました。

○元禄14年(1701)の江戸城内「刃傷事件」で、正保2年(1645)・浅野長直の移封より56年で赤穂・浅野家は断絶*となり、「城受取り」には隣藩の龍野・脇坂氏が命ぜられました。その後、下野・烏山から永井氏が転封され、宝永3年(1706)には備中・江原から森氏が明治維新まで十二代封入されました。町場に比し、武家屋敷の面積が広いことが「宝永年間絵図」から覗われます。

P1040833②③赤穂城案内図赤穂城跡二ノ丸門 【赤穂城跡・二之丸門・城郭配置】

浅野内匠頭長矩・「切腹」時の辞世の句:『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん

○街並には、本瓦葺き、白虫籠窓、低辻子(つし)二階、蔀(しとみ)戸(格子と板製)、「赤穂水道」復元個所等が遺存されています。

赤穂街並_厨子二階建てⅡ

【厨子二階(つしにかい):2階の天井が低く、虫籠窓がある。近世後期に完成し、明治後期まで一般的に建築された様式で、中二階ともいう】

 ◆息継ぎ井戸               

P1100161息継井戸【息継ぎ井戸】

○赤穂藩主・浅野長矩(ながのり:長直孫)の切腹*を知らせる急使・速水藤右衛門と萱野が赤穂城下に到着し、赤穂藩筆頭家老・大石良雄の邸へ向かう直前、この井戸で水を飲み、一息入れてから登城した故事に因みますが、二人が飲んだのは「赤穂の上水道」の水のようです。

◆赤穂上水

江戸「神田上水」、広島「福山上水」と並ぶ「日本三大上水」の一つで、江戸時代では最先端であったと伝えられていますが、上水道が引かれたのは赤穂藩の立藩直後で、17世紀の遺構が出土しています。

赤穂城下は、元来、干潟・干拓地で、井戸を掘ると塩水が出て、生活用水の確保が困難でしたので、赤穂藩では慶長19年(1614)に工事を開始し、千種川を約7km遡った中山から開渠[蓋なし溝]により城下まで導水し、農業用水と明確に区別し、周りに牛馬を通さない・汚さないようにと「触れ」が出されました。

赤穂城下50000分の1_富岡儀八(図上の左クリックにより拡大します)

【千種川・旧流は西側山裾・赤穂城下を流下していた:富岡

城下町北端の「百々呂屋裏大枡」(ももろやうらおおます)#という二間四方の石組枡によりろ過後、暗渠で城内や武家屋敷、城下の庶民まで戸別に上水道を敷設されました。元和2年(1616)に完成し、昭和19年まで利用されていました。

百々呂屋裏大枡_赤穂市史【#百々呂屋裏大枡・*復元物街中展示:赤穂市史】   

 

 ◆花岳寺  曹洞宗臺雲山・新西国第31番霊場、瀬戸内観音第7番霊場)

P1120523赤穂花岳寺【臺雲山花岳寺】

○正保2年(1645)・浅野長直が常陸笠間(53,500石)から赤穂へ転封になった時、浅野家の菩提寺として建立されました。以後、赤穂藩・歴代藩主である浅野家、永井家、宝永3年(1706)から森家の菩提寺となり、また大石家ほか義士の香華院$でもあります

[$香華院(こうげいん):先祖累代の墓碑・霊牌(位牌)を安置し常に香華を手向ける寺院]

◆大石神社                   

○討ち入りで有名な「赤穂浪士」・大石良雄らを祀る神社で、江戸時代には幕府に憚って表立って顕彰することはできませんでしたが、明治元年、天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わし弔って以降、赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建されました。

○旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社で、大石良雄ら赤穂浪士47人および中途で自害した菅野重実を主祭神としています。                

赤穂大石神社【赤穂・大石神社】

○元禄刃傷事件以降、赤穂浪士を称揚する人々によって旧赤穂城内の大石邸内に小さな祠が設けられて密かに祀られていましたが、明治33年に改めて「大石神社」として神社を創建することが政府から許可されて、明治43年に起工され、大正元年に社殿が竣工しました。昭和3年、無格社から県社に昇格され、第二次世界大戦後、城内の神社に祀られていた赤穂藩主・浅野氏3代(長直・長友・長矩)および、城外の赤穂神社に祀られていた、浅野家の後に赤穂藩主となった森家祖先の七武将(森蘭丸ら)を合祀しました。

○義士宝物殿(赤穂浪士の遺品などを陳列)、木像館(長矩・四十七士らの木像を展示)、大石邸長屋門(国の史跡「大石良雄宅跡」のうち)などがあります。             

P1040834旧大石家老宅【大石邸長屋門】

【参考文献】

1.井上満郎:「秦河勝」、吉川弘文館2011

2.柳 哲雄:「鎮守の海としての坂越湾生島周辺海域」、(独)科学技術振興機構、2010.

3.赤穂市教育委員会事務局生涯学習課:「赤穂上水道」、2010

4.橘川真一:「播磨の街道・中国行程記を歩く」、『姫路文庫10』、神戸新聞総合出版センター、2004

5.橘川真一編著:「兵庫の街道いまむかし」、神戸新聞総合出版センター,1995

6.富岡儀八:「城下町赤穂」・『地形図に歴史を読む』(1)、大明堂、1968

7.上郡町役場社会教育課文化財係編:『秦氏の千種川流域開発』、2012.

【2014年4月12日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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