■第243回行事・アーカイヴス(2014年3月)

★弥生・古事記の里

●近畿最大の環濠集落が形成されていた「唐古・鍵遺跡」を巡り、出土した展示物をミュージアムで見学します。「賤ヶ岳七本槍」の一人・平野権兵衛長康が羽柴秀吉から拝領し、寺内町として形成された「田原本」の街並みを経て、秦河勝所縁の秦楽寺、古事記編纂の功績を遺した太安萬侶所縁の「多」(おお)へと歩きます。

コース: 近鉄・石見駅~石見・今里~唐古・鍵遺跡(國史跡)~唐古・鍵考古学ミュージアム~田原本・旧「下つ道」~鏡作神社~平野陣屋趾~本誓寺・浄照寺~津島神社~秦楽寺~[環濠趾溜池]~多神社~近鉄・笠縫駅(約10㎞)

【コース図(赤線):国土地理院1:25000地形図「桜井」

コース図唐古鍵田原本_下つ道筋違道25000桜井説明入②(図上の左クリックにより拡大)

◆唐古・鍵遺跡

□奈良盆地のほぼ中央の初瀬川と寺川に挟まれた標高48~51mの沖積地である田原本町大字唐古から大字鍵にかけて立地している約42万㎡の弥生時代前期の環濠集落遺跡です。昭和11~12年に国道敷設用採土に伴う唐古池底の調査によって、土器、木製品、銅鐸を制作した鋳型や農工具、巨大建物趾等、弥生人の生活痕跡が多種多様に出土し、国内最大級の拠点であったことが窺い知れます。なかでも、学界を驚かせたのは、平成4年に発見された1世紀頃と推定される絵画土器で、二階建以上と判る建物と階段が、同一土器のものと考えられている2個の破片に描かれていたことです。この土器絵画に基づき、唐古池の南西隅に「楼閣」が復元されています。集落は深い濠に囲まれた直径500mに及ぶ環濠集落に成長し、古墳時代の始まりとともに衰退しました。平成11年に「国史跡」に指定されています。

P1110562②唐古鍵遺跡_想像復元楼閣【復元楼閣:唐古・鍵遺跡】

【出土素焼片絵画・楼閣・上半:唐古・鍵考古学ミュージアムP1120516②唐古鍵遺跡発掘素焼片_楼閣上半

□集落は「多条環濠」を有し、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されていました。大環濠(内濠)は直径400mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約4.2万㎡の面積を占めていました。出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入った翡翠・勾玉、楼閣の描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土しています。これらの遺構・遺物から本遺跡は近畿地方の盟主的な集落と考えられています。「唐古・鍵考古学ミュージアム」でこれらの出土品が見学できます。時代・時期を追って、順に観ていきますと、

○弥生時代前期(約2300年前)に成立し、古墳時代前期まで約600年間続いた弥生時代の代表的な集落で、直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環濠」が廻っていました。古くから当遺跡内で、馬形・鶏形形象埴輪、円筒埴輪が出土したので、古墳の存在が推定されましたが、最近の調査で削平された複数の古墳が確認されています。その中の「唐古4号墳」は前方後円墳と推定され、周濠部から円筒埴輪、人物・馬形・蓋形埴輪、笠形・鳥形・建築部材の木製品等が出土しています。出土遺物から6世紀前半の築造と推定されています。遺跡は凡そ次の5段階で変遷したと考えられています:

・ムラの形成:[弥生前期]やや小高いところを選んで人が住むようになり、遺跡の北部・西部・南部の3カ所にムラが形成されました。

・ムラの分立:[弥生中期初頭]3カ所に形成された居住区が、夫々周りに濠を廻らせて「環濠集落」の形をとり、西側地区では大型建物も建築されました。

・ムラの統合:[弥生中期]3カ所の居住区が統合され、全体を囲む「大環濠」が掘削され、大環濠で囲まれたムラの大きさは直径約400mと考えられており、その周りを幾重にも溝が取り囲んでいました。中期後半には、楼閣をはじめとする建物、鹿、人物等の絵画を土器に描く風習が広がったようです。

・ムラの発展:[弥生後期]中期末の洪水で環濠の大半は埋没しましたが、直ぐに掘削が行われていて、環濠帯の広さも最大規模となったようです。後期のはじめには、ムラの南部で青銅器の製作が行われていました。

・ムラの衰退:[古墳時代前期]弥生中・後期には大環濠は無くなり、ムラの規模が縮小し、環濠の一部は再掘削されましたが、井戸などの居住区関連の遺構は大幅に縮小しました。

・ムラのその後:[古墳時代以降]遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳が検出されましたが、この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。

中世には在地武士の「唐古氏」、「唐古南氏」、「唐古東氏」の居館が遺跡内につくられ、唐古南氏の居館周辺は現在の鍵集落へと発展していったようです。

◆唐古・鍵考古学ミュージアム

・平成16年に完成した、田原本青垣生涯学習センター2階にあるミュージアムです。唐古・鍵遺跡を中心として、田原本町内の遺跡から出土した土器・石器・木器など約950点をが展示されています。

◆「下つ道」跡 

・奈良盆地のほぼ中央を南北に縦貫し、古代に造られた直線の「官道」で、東から「上つ道」、「中つ道」と並んで走っていて、各東西間隔は凡そ2.1㎞の等間隔です。近世には「中街道」と呼ばれていました。

・「下つ道」は条里の基準線にもなっていて、その東西に広がる条里地割から復原される条里余剰帯の幅から、凡そ42~45m幅の御堂筋とほぼ同じ幅員の道路と推定されています。田原本の中心部を南北に通過しており、数基の道標と常夜燈であった「大神宮燈籠」が遺存しています。「下つ道」の東側を「路東条里」、西側を「路西条里」といわれ、古代・山辺郡と平群郡「郡界」となっていました。

P1110570下つ道_田原本【「下つ道」跡:田原本・新町付近】

◆鏡作神社 社名:鏡作坐天照御魂神社・田原本町八尾

・崇神天皇の代に、宮中に祀る「八咫ノ鏡」を改めて鋳造することになったときに、試鋳した鏡を祀ったのが当神社の起源で、天照國照日子火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)、石凝姥命(イシコリドメノミコト)、天糟戸命(アメノヌカドノミコト)の三神を祭神とする式内社です。当地付近には古代に「鏡作部」集団が居住していたものと考えられています。神宝として「三神二獣鏡」が所蔵されています。本殿は三間社流れ造り桧皮葺です。

P1110582鏡作神社本殿

◆平野氏陣屋

・現在、「陣屋」跡は町役場と住宅地になっていて、遺構は何もありません。

[略史]文禄4年(1595)・「賤ヶ岳七本槍」の功により、平野権兵衛長康が豊臣秀吉から田原本を含む十市郡7カ村の5千石を拝領しました。

 ・寛永12年(1635)・2代目・長勝が田原本に陣屋を着工しました。

 ・正保4年(1647)・平野氏は浄土真宗教行寺と領主権をめぐり対立し、教行寺を箸尾へ引き払わせました。

 ・慶安元年(1648)・陣屋を竣工し、9代に亙る平野氏支配の行政中枢施設となりました。

 ・明治元年の「高直し」により、10代・長裕は「1万1千石」の「大名」になるも、3年後の明治4年(1871)に「廃藩置県」となり、廃藩されました。 

本誓寺     (浄土宗:田原本町茶町)

・平野家の菩提寺として、2代・長勝により江戸初期に再建されましたが、度重なる火災により焼失し、明治の大火災では民家を仮堂として凌ぎ、昭和58年以降に再建となりました。表門の境内南側には、方形造り本瓦葺きの、2代・長勝廟(南側:享保2年[1717])と9代・長発(ナガユキ)廟(北側:安政2年[1855])が、火災を免れて残っています。当寺の本尊は阿弥陀如来立像で鎌倉後期の作といわれています。

P1110589

【右・2代・長勝廟(南側:享保2年[1717])、左・9代・長発(ナガユキ)廟:本誓寺

◆淨照寺  (松慶山・浄土真宗本願寺派:田原本町茶町)

・「大和五カ所御坊」*の一寺で、慶安4年(1651)・2代・平野長勝が他寺を移築し、表門は秀吉所縁の伏見城の城門を移築したと伝わります。浄土真宗伽藍配置を形成する寺内町の要の寺で、太鼓楼は明治後期に長屋門の上に上られました。本堂は県文化財に指定されています。

*「大和五カ所御坊」:今井・称念寺、御所・円照寺、高田・専立寺、畝傍・信光寺

◆津島神社 

・神仏分離以前は「祇園社」といわれていましたが、地元では現在も「祇園さん」の愛称で親しまれ、夏に盛大な「祇園祭」が催されます。祭神は牛頭天王で、田原本の産土神であったとものと考えられています。創建は12世紀以前に遡り、江戸時代には平野家の尊崇を集め、明治2年に平野家本貫地・尾張國津島の「津島社」も牛頭天王を祭神とすることから、社名を「津島神社」と改められました。

◆秦楽寺  (じんらくじ:真言律宗・高日山浄土院:田原本町秦庄)

・門は白色中国風土蔵門で、本尊は千手観音蔵(平安時代の作)で、脇侍には、向かって右に聖徳太子像、左に秦河勝像が安置されています。秦河勝像の台座には明暦元年(1655)九月十四日と多武峰住持 藤室法印良盛銘があります。寺伝では、大化3年(647)・百済王から贈られた聖徳太子が秦河勝に下賜し、観音を当地に安置したことがはじまりといわれ、大同2年(807)・唐から帰国した空海が境内に梵字「阿」形の池を造ったと伝わります。また「三教指帰」*を当寺で書いたという説が伝わります。

・元亀元年(1570)・松永久秀が十市郡に進出し、当寺は灰燼に帰しましたが、宝暦9年(1759)・僧恵海が再興しました。

・付近は秦氏の居住地で、雅楽の楽人・猿楽の関係者達が居住し、「秦楽とは秦の楽人」とのことをいい、世阿弥が記した能の理論書「風姿花伝」には当時付近に金春屋敷あったことが記載され、世阿弥は秦河勝の後裔を自認していたようで、「秦元清」とも自署しており、近辺の出身とみる説があります。

*「三教指帰」(さんごうしき、さんごうしいき):空海による宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書で、序文から、延暦16年(797)に成立した空海24歳の著作とされ、出家を反対する親族への出家宣言の書とされている。

P1120519好高日山秦楽寺【中国風土蔵門:秦楽寺】

◆多(おお)神社

(社名多坐弥志理都比古神社おおにますみしりつひこ じんじゃ: 田原本町大字多字宮ノ内)

[由緒]当社は神武天皇の第二皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと:多族の祖神)が当地に降って天神地祇を祀ったと伝わり、自ら祭祀者となって弥生文化の発達とともに大和平野における大規模な稲作農法の開拓者である多族の祭祀の中心地として,水知津彦・火(日)知津姫の二柱の神を古くより祀り、多族の祖神である神八井耳命また末孫の日本最古の史書「古事記」,「日本書紀」簒録者である太安萬侶を学業の守神とし,また小子部すがるの命が保育の守神として広く崇敬されています。神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭ったと伝わります。

[創建]綏靖天皇2年(BC580:「缺史八代」の一人)、本殿は春日造。   

[祭神]次の4座の神を主祭神とされています:

第一社・ 神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父)、  

第二社・・神八井耳命(多氏の祖神)、

第三社・ 神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟) 、

第四社・ 姫御神(玉依姫命:神八井耳命の祖母)                            

第五社・太安萬侶    

[略史]貞観元年(859)に正三位、「延喜式」では「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、名神大社に列せられ、明治官制では郷社に列し、大正12年に縣社に昇格しています。                               

本殿は春日造りで、東西に1間社が4棟並び、県指定文化財です。

P1110606【拝殿:多神社】

◆「古事記」献上・千三百年記念碑

・2012年(平成24年)は、太安萬侶(?~養老7年[723年])が日本最古の歴史書であり文学書である「古事記」を筆録、編纂し、元明天皇に献上してから[和銅5年(712)]、1300年になりました。

太安萬侶は田原本町大字多(旧多村)の地で豪族・多氏の一族として生まれ育ちました。文武ともに非常に優れ、遷都直後の平城京で「民部卿」として、稗田阿禮が誦習した歴史や出来事を、苦心を重ねながら当時の語り言葉を漢字の文章として筆録しました。昭和54年(1979)、奈良市此瀬町の茶畑で住所・位階・勲位・姓名が記された銅板の墓誌(国重要文化財)、火葬された人骨が出土し、太安萬侶の墓と判明しました。骨は近くの十輪寺(奈良市大野町)に引き取られて供養され、安萬侶から51代目の多忠記・宮司が分骨を受けました。太安萬侶を祀る摂社・小杜神社の南側に「『古事記』献上・千三百年記念碑」が建てられています。(当初、多神社から約800m東南方に安萬侶墓と伝承されている塚があり、そこに記念碑を建立する計画があったが、用地転用に年月がかかるために現在地に変更)

太安万侶墓地_墓誌②(図上の左クリックにより拡大)

【太安萬侶墓誌:県立考古学研究所博物館蔵

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 

年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

【参考文献】

1.田原本町ホームページ、2013.

2.田原本町教育委員会編:「唐古・鍵遺跡の考古学」、学生社、2001.

【2014年3月21日催行、案内・藤田 清・宮﨑信隆、編集:宮﨑信隆】

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