■第241回行事・アーカイヴス(2014年1月)

播磨における  黒田官兵衛(如水)足跡

●稀代の軍師と言われた黒田官兵衛(如水)は、のちの「太閤」豊臣秀吉にとって、播磨支配並びにそれ以後の「天下統一」までの幾多の戦略において枢要な地位を占め貢献してきました。最近発見された赤松家分家からの「黒田家史」を含めて、官兵衛の播磨における足跡を辿ります。

コース: 山電・妻鹿駅~甲山・功山城址・荒神社~黒田職隆廟~山電・妻鹿駅⇒山電・飾磨驛乗継⇒山電・西飾磨駅~英賀神社・英賀城址~JR英賀保駅⇒JR御着駅~御着城址(市役所出張所)~JR御着駅(⇒:電車乗車、徒歩区間・計約7㎞)

【コース図(緑線):国土地理院1:25000地形図「姫路南部」(妻鹿・英賀地区、御着地区

コース図_姫路南部_合成②(図上の左クリックにより拡大)

◆黒田家のルーツRoots 

★今までは、滋賀県旧木之本町「黒田郷説」が有力であったが、近年になり地元・姫路、西脇市黒田庄より検出された文献等により、次に記す「西脇・黒田庄説」が有力になりつつあります。

◇西脇市黒田庄説(旧多可郡黒田庄町):

官兵衛は旧多可郡黒田庄の黒田重隆の二男で、実父・重隆は多可郡黒田城主8代目となります。

・初代は赤松円心弟・円光の息子・七郎重光で、観応2年(1351)に赤松領東端の旧黒田庄に移住し、五千貫を領した赤松庶流です。

・黒田官兵衛は天文15年(1546)11月29日(加来)、その黒田庄に生まれ、幼名は万吉。後に姫路・小寺職隆(もとたか)の養子になりました。小寺氏は元祖・小寺頼季以来、赤松家の重臣であり、姫路城を預かっていました。

近江・黒田郷説

筑前史家・貝原益軒の偽作『黒田家譜』に依るもので備前の住地を邑久郡福岡とするのも貝原益軒の創案とする説が有力となりつつあります。

◆黒田家系図:荘厳寺本(新説)

赤松円光―黒田重光――――――――――――――重勝―重康―光勝―重貞―重昭―重範―重隆―――――治隆(滅亡)

[円心弟]  [多可郡黒田庄播州黒田家初代]    ②  ③      ④   ⑤  ⑥   ⑦   ⑧[孝高実父]     [実兄]

荘厳寺本_黒田家略系図_原書写真_重範重隆

【荘厳寺本 黒田家略系図_原書写真:重範・重隆部分】

◆播磨における官兵衛の活動

◇広峰山・神社(姫路市):黒田重隆(黒田孝高実父)に関連する伝説があります(売薬で財を成す)[近江黒田郷出自説]

◇青山古戦場(姫路市):永禄12年(1569)・姫路城主・黒田官兵衛孝高と龍野城主赤松政秀が戦った、黒田官兵衛の初陣の地です。

◇御着城(姫路市):天正7年(1579)、三木城攻めで毛利方についたため、翌8年織田信忠によって攻略されました。

◇有岡城(伊丹市):荒木村重に、信長への帰順を説得に行って収牢され、天正7年(1579) 10月に織田信長による攻略で落城するまでの約1年間官兵衛は投牢されていました。.

◇姫路城(姫路市)

◇上月城(佐用町):天正5年・官兵衛が秀吉に従い攻めました。

◇志方城(加古川市):黒田官兵衛の妻・光(てる/幸圓)の生家・櫛橋家居城で、天正6年・羽柴秀吉が攻略しました。

◇三木城(三木市):荒木村重により有岡城に幽閉されて、1年後の天正7年10月・有岡城開城で救助された後に三木城攻めに参戦し、翌8年1月三木城は陥落しました。 

        (176回行事「三木」:2008年7月20日実施)

◇篠の丸城(宍粟市):天正8年(1580)・信長の命により秀吉軍の下で官兵衛らも参戦して攻略した後、天正15年・山崎城が築かれ、廃城まで官兵衛が1万石で入城しました。

◇功山(甲山)(姫路市):天正8年、羽柴秀吉を姫路城に招致したときに官兵衛が移居した城です。

◇英賀城(姫路市):天正8年、三木城落城後に、羽柴秀吉軍の下で官兵衛らも参戦して落城しました。

◆秀吉の軍師・黒田官兵衛

・天正3年(1575)29歳で織田信長・羽柴秀吉に出会いました。

・天正5年、官兵衛の説得により播磨国人衆の多くは織田方につきました。秀吉は書写山円教寺に本陣を置き、毛利方諸城・上月城・福原城・長水山城・宇喜多氏等に対応し、同年10月20日・小寺職隆と官兵衛は信長に謁見しました。

・天正5年10月23日、秀吉は出陣して、官兵衛は秀吉に対する『播磨の道案内』を務め、秀吉は官兵衛の姫路城に入城しました。

・天正6年2月、別所長治・小寺政職(職隆兄)、同11月に荒木村重が叛旗を翻し、この折に村重の説得に赴いて、伊丹有岡城に幽閉されました。

・天正7年6月(33歳:秀吉43歳)、官兵衛が伊丹有岡城に幽閉中に竹中半兵衛は三木城攻囲の陣中で死去しました。三木城攻囲に戦勝後に官兵衛が秀吉の「軍師」になったようです。

・天正8年1月、三木城落城。三木城を拠点とする秀吉に姫路城を譲り、播磨支配の拠点とさせました。

・天正8年9月、宍粟・山崎鹿澤城(標高325m・通称篠の丸)1万石で初の知行地を得ましたが、他に揖東福井・岩見・伊勢に分散していました。

◆功山城址   [(地元では)「妻鹿城」・「国府山城」](飾磨区妻鹿)

P1070871甲山より北北西方面

功山(甲山/國府山)城址から姫路市街を望む

 ・山電妻鹿駅北方約1キロ、市川東岸甲山(標高98m)山頂に、天正元(1573)年に官兵衛養父・小寺職隆が築いたもので、当時の海岸線は山陽電鉄線付近にあったようです。       

・天正8年(1580)に三木城を陥落させた秀吉に対し、「姫路こそ中国の毛利攻めの根拠地にふさわしい」と自らの居城・姫路城を譲り渡した官兵衛が家族や家臣とともに移り住んだ城でしたが、天正13年(1585)・職隆(もとたか)没後、廃城となりました。

◆[黒田]小寺職隆廟所 (妻鹿)    

・官兵衛の「養父」で、天正13年(1585)8月、国府山城で没した小寺職隆(もとたか)の廟所で、地元では「筑前さん」と呼ばれていましたが、実際は「筑前」とは関係ないとの説が有力となりつつあります。

P1070879廟所【職隆廟所】

◆妻鹿(めが)

・市川河口近くに開けた町で、国道250号線と山陽電鉄に挟まれた区域は、細かい小路が入組んだ路地風景を呈し、木造の建物がひしめき、本瓦を葺いた重厚な外観の民家が多いです。明らかに古くからの漁村ですが、現在は埋立てにより海岸線は遠ざかっています。古くは「目賀津」といわれ、背後に小高い山があり、当初はその麓に点々と集落が点在する寒漁村に過ぎず、姫路藩の豪商により新田開発がなされました。現在家並の続いている低平な部分は後になって広がった町場の部分と考えられます。

◆英賀(あが)神社・英賀城   (飾磨区英賀宮町)

・英賀神社は夢前川沿いの英賀城址の一角にありますが、「英賀」は夢前川支流の水尾川との合流点の北一帯にあり、河港として古くから利用された地域で、書写山麓の播磨国守護・赤松氏の坂本城に対する水運拠点として築城されました。

・中世では先駆的な「海城」で、永享年間(1429~41)初めに赤松祐尚(満祐弟)が築城した平城で、北に沼地、南に播磨灘に面する要害の地で、城主は「嘉吉の乱」で赤松氏の滅亡後、伊予国守護・河野家直系で讃岐国三木郡地頭から飾東郡恋の浜城主に移っていた三木通武が入りました。恋の浜城では三木道(通)近⇒同近重⇒同通重⇒同通武(4代目)と継ぎました。

P1070886英賀城址 【英賀城址】

 ・五代目三木通安は応仁の乱で東軍・将軍家・細川方で功を挙げ、六代目通規は本願寺実如の子実円を迎えて本徳寺の基を造りました。    

・戦国時代後半、置塩城の赤松宗家の勢力が衰えると、播磨は三木城の別所氏、御着城の小寺氏、英賀城には城内に英賀御坊・本徳寺が建立され、寺内町として発展し、英賀城はその寺内町・港湾都市を守るためであり、「総構え」の城郭都市であったようです。城は岩を繋いだような城なので「岩繋城」と改名し、通規・通明・通秋と継ぎ、三木城の別所氏と結んでいました。

天正8年(1580)に三木城が落城して、羽柴秀吉に同年3月に囲まれ、英賀城も通秋の時に落城しました

 [天正8年閏3月、信長と顕如は石山合戦で和睦したため、同年4月末に南方海上より攻略されました]

・通秋は筑紫へ逃走し、寺は亀山へ移転しました。遺構としては、本丸土塁(英賀神社北端)・櫓台址、田井ヶ浜(英賀港)址、英賀御坊址等が遺存しています。

英賀城址郭図_橘川②英賀神社入り

【英賀城周辺想定復元図:橘川原図(左クリックにより拡大)

◆姫路城    

・羽柴秀吉が城主になった頃の姫路城は、山城から平城に移る中間の時期で、山陽道、美作道、但馬道、湯山道が交差し、因幡街道、播磨灘も含めた交通網の要:四通八達の地で、姫路は陸路と海路の「結節点」でした。

・黒田(小寺ではない)重隆(孝高実父)が初めて姫山に城を築いた説もありますが(石田善人・岡大教授)、

通説では、貞和2年(1346)に、[北朝暦]赤松円心の二男・貞範により姫山・鷺山両丘陵上に築城されたといわれています。

・姫路城に残る黒田氏遺物としては、西小天守の二層目の黒田家紋「三葉橘文」(孝高より藤巴紋)付き鬼瓦、「にノ門」西面の十字文の紋瓦が遺存します。

◆中国大返し

天正10(1582)6月2日の「本能寺の変」の第一報を秀吉が聴いた時、「天下が回ってきたのではないですか? 信長様の仇打ちに成功すれば天下が取れます!大義名分も付いてきます!」と進言した、との説が強く残っています。

・この時の「大返し」は、備中高松城から京都・山崎まで約200kmを7日間で走破しましたが、中国への往・復に三本の道を使用することを進言したとも伝わりますが、官兵衛と秀吉は片上から赤穂まで船を活用しています。

・なお、その頃、羽柴秀長は出石6郡10.5万石、残り2郡を宮部継潤に2万石、前野長康に三木城3.5万石、蜂須賀は龍野4.1万石、官兵衛は播州山崎城(篠の丸城)1万石でした(同10年の京都「山崎合戦」後に2万石となりました)。その後の「九州攻め」後に、豊前6郡・中津城で18万石(実質22万石)となりましたが、豊臣家臣中、23番目でした。

・豊臣秀吉らに天下を狙っていると揶揄されたことを気にして、44歳で「隠居」して家督を長政に譲ったとのことです。「関ヶ原の戦」後、家康より筑前(福岡)に52万石を分けられましたが、嫡男・長政宛てで、自分は求めなかったとのことです。

◆姫路付近の播磨灘の汀線 

・当時の播磨灘海岸の「汀線」は、現在より内陸側に在り、山陽電車本線・網干駅付近にあった模様で、当時の「功山城」(妻鹿城/国府山城)は海岸線近くに位置した城とみられ、ここから西への海岸線は「海の城郭」的様相で、松原八幡、大塩、津田、恵美酒、荒川、魚吹各神社も海岸線近くにありました。

◆御着城址   (姫路市御国野町御着)

・別名「天川城/茶臼山城」ともいい、元・赤松氏の家来で中世末期に西播磨最大の国人(播磨守護代)・小寺氏の本城であった。小寺氏は御着城で独立するまでは赤松氏家臣で、赤松頼範(則:円心五代前)の二男宇野為助、その長男為頼が小寺氏の祖となり、三代後の頼季が姫路城/砦に入った一代目城主です。

・永正16年(1519)、小寺政隆が築城し、城主は政隆⇒則職⇒政職が継ぎましたが、小寺家重臣・小寺(黒田)孝高の進言を退けて毛利方につき、天正7年(1579)羽柴秀吉三木攻めの折に毛利方に就いたため、同8年織田信忠に攻略されました。

・別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに播磨の大「城郭」でもあり(茶臼山城地絵図:宝暦5年[1755])、天川を外堀とした小丘陵の茶臼山に築いた平城で、国道2号により分断されていますが、遺構としては外堀・土塁・井戸址など遺存します。

・城の構造は、中心部に本丸と二の丸を東西に置き、北東には四重の堀、南・西は天川を外堀として堀をめぐらせ、中核部分は52間×54間で、北東の斎藤山構に物見櫓、西に馬場、外郭内に家中邸・町家を置き、「惣構の城」でした。

P1110505父重隆生母明石氏墓

【重隆・生母明石の方墓碑】

・近辺に家老屋敷があり、重隆*を祀る廟所(供養塔)がありましたが、天正15年(1587)年に官兵衛が現地へ移し、享和2(1802)年に黒田藩主・斉清が建立しました。

  [*黒田重隆::官兵衛実父]

([注]現在、市教委は『孝高(官兵衛)の祖父・重隆と生母・明石の方の墓』との説明を付けていますが、通常「舅」と「息子の嫁」を並べて夫婦のように祀ることはしません。やはり、重隆は官兵衛の「実父」であることが明らかで、「職隆」は小寺家の(官兵衛の)養父でしょう。)

P1070894小寺大明神②【本丸址:小寺大明神】

◇小寺氏系図 

・小寺頼季━景治━景重━職治━豊職━政隆━則職(のりもと)┳政職(まさもと)* *   ┳氏職(福岡藩士)

                            ┗職隆(もとたか)$      ┗良明(尼崎藩士)

                                    [$小寺職隆:官兵衛養父]

[小寺氏本貫地] 

 ・美濃国池田郡小寺で、六孫王十三世・源頼直・長男として鎌倉で生まれ、土岐氏に招かれ同地に土着して小寺姓とし、後醍醐天皇に属した赤松円心に味方して播磨国へ移住し、以後その重臣として続き、御着に独立しました。

・国道2号線北側が二の丸址、南側高台が本丸址で公園・市役所支所となり、その南側の小寺大明神(天川神社)に小寺氏が祀られています。

◆官兵衛の埋葬地

・京都・大徳寺龍光院(金子堅太郎「黒田如水伝」)の他に、現在、福岡・崇福寺、博多・キリスト教会、と三説がありますが、秋月(福岡県)の宣教師(神父)マトスの記録では、伏見で死去後、船で博多まで運び、三弟・ミゲルも棺を担ぎ、(海辺の)教会に埋葬し、その埋葬地の上に教会を建設したとの説もあります。

◇子・長政(初代福岡藩主)の死去時は、京都で死去後、船で博多まで運び、その海辺で火葬して埋葬されました。

◆貝原益軒:近江黒田郷・備前福岡説(既説)

参考文献

1.播磨黒田氏研究会編:「黒田家前史研究・要点十五箇条」、2012

2.橘川真一・角田 誠編著:「ひょうごの城」、神戸新聞総合出版センター、2011

3.小林智広他編:「お城の地図帳」、辰巳出版、2011

4.宮野宣康:新人物往来社編・「戦国武将の城跡」、新人物往来社、2009

5.中元孝通・加来耕三・吉田蒼生雄・本山一城:播磨学研究所編・「稀代の軍師・黒田官兵衛」、神戸新聞総合出版センター、2008

【2014年1月11日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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