■第240回行事・アーカイヴス(2013年12月)

★滝坂道・春日山原始林

●修験者や剣豪が通った滝坂道、奈良奥山ドライブウエイ、春日奥山遊歩道を紅葉が残る初冬の春日山原始林を歩く・・

コース破石町~滝坂道始点~寝仏・夕日観音~朝日観音~首切地蔵~春日山石窟佛~大原橋~鎌研交番~若草山遊歩道北口~(約12㎞)

【コース図(赤線):国土地理院発行1:25000地形図「奈良」】

滝坂道春日山原始林25000奈良Ⅱ②(図上のクリックにより拡大)

出発地点の地名「破石」の由来

■「破石」(わりいし)と呼ばれる約2㎥の石は実在しますが、現在、民家の敷地内にあるために自由に見られません。

■一説では、西大寺東塔礎石を造るときに酒30石(3斗)もかけて破った石により「破石」の町名が付いたそうです(「続日本紀」・「奈良坊目拙解」)。他説では、藤原氏・吉備氏・安部氏の境界石で、十文字の切れ込みがあり(「奈良町風土紀」)、この石に触ると祟りがあるともいわれてきたのでこの石に振れることは無く、境界石として大切にされたので斯様な伝説が生まれたのかも知れません。また、新薬師寺境内に近く、昔の伽藍の礎石が散逸したものともいわれています。

破石【破石】 

◇滝坂の道                     

■柳生街道(奈良市柳生町~同春日大社・約19km)の一部で、奈良市高畑町から能登川沿いに石切峠までの坂道で、春日山と高円山の谷間、渓流に沿った石畳道です。界隈は奈良・平安・鎌倉時代に南都七大寺の僧らの柳生を通って笠置までの修験道の場と推定され、沿道には中世に彫られた石仏が多く遺存しています。

■江戸時代には柳生一万石の蔵屋敷が奈良に置かれ、本道が柳生家にとっては奈良から柳生への表道に当たるため、石畳は江戸時代半ばに奈良奉行に敷かせたといわれています。剣豪たちが柳生道場をめざして往来した道でもありますが、昭和初期まで米・薪炭等を牛馬の背によって運び、奈良盆地と大和高原を結ぶ重要な交易路でした。 

P1110530滝坂道_東海自然歩道春日山原始林【滝坂の道[柳生街道]

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◇寝仏  (ねぼとけ:奈良市高畑町)

■滝坂の街道で最初に出会う石仏で、上手の崖面から転落した金剛界大日如来坐像で、南北朝時代/室町前期の花崗岩製の像高48cmの石仏です。路傍に横に倒れた像なので「寝仏」と呼ばれ、智拳印を結ぶ「金剛界大日如来」で、下側に五輪塔四門の梵字・東門(発心門)「キャ・カ・ラ・バ・ア」を刻まれているようです。

 P1110535寝仏 寝仏

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 ◇夕日観音 (奈良市高畑町)               

■「寝仏」のすぐ近くにある、南面した岩肌に彫られた「滝坂弥勒磨崖仏」で、夕日に照らされて美しいので「夕日観音」といわれています。鎌倉時代中期の花崗岩製で、163cmの高さがあり、傾いた三角形の巨岩に二重光背を彫り窪め、右手を下に伸ばした与願印、左手を肩まで上げた施無畏印の立像を半肉彫りした磨崖仏で、大野寺弥勒佛と同じ印相で、(観音でなく)如来形弥勒仏です。 

滝坂弥勒磨崖石仏_夕日観音 【夕日観音

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◇朝日観音  

■早朝に東側の高円山(標高462.9m)の頂きからの朝日に最初に照らされるので「朝日観音」と呼ばれていますが、中央が弥勒菩薩、左右が地蔵菩薩2体の3体です。文永弐年(1265)の銘がある鎌倉石彫を代表する石仏で、「夕日観音」を彫った作者と同一人物の作と考えられていますが、中尊弥勒佛は像高233㎝の如来形で大野寺弥勒佛と同じ印相です。

P1110538朝日観音Ⅱ 【朝日観音

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◇首切地蔵

■柳生街道と地獄谷道との分かれの道標的石仏で滝坂道の終点に存立し、壺形光背の高さは2m、半肉彫り地蔵像の高さは182㎝あります。鎌倉後期の造立と推定されていますが、首で二つに割れており、柳生十兵衛の弟子の剣豪・荒木又右衛門に試し斬りされた伝説があります。

 P1110541②首切り地蔵【首切地蔵】 

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◇春日山石窟佛 (国史跡)

■春日山の石切峠に近い南面傾斜地に露出する凝灰岩の岩壁を龕状に掘って石窟を設え、その壁面に菩薩・天部*など諸尊を彫って彩色した磨崖仏です。

■西窟には平安後期の久寿弐年(1155)および保元弐年(1157)の造立銘が墨書銘が遺存していることから、12世紀中葉の作品とみられています。久寿弐年銘は現状では年号の部分が欠損していますが、近世末期の記録により久寿弐年と確認されています。

■東西弐つの洞窟から成り、両窟合せて間口10mで天井部分は崩壊していますが、東窟は間口約5m・奥行約2.4m・高さ2.4mで、中央柱4面に顕教系の如来坐像4体、東壁に菩薩形立像3体、西壁に地蔵菩薩立像4体を表し、東西両壁に天部立像各1体(二天像)を表し、西窟は間口約3.6m・奥行約2m・高さ2.4mで経年・風化による損傷は大きいですが、如来坐像3体および多聞天立像1体が遺存します。如来坐像は金剛界五仏を表したものと推定されますが、5体のうち2体は滅失しています。

P1110544②春日山石窟佛Ⅲ【春日山石窟佛】

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*天部:(てんぶ、サンスクリット [देव, deva])密教の神々を意味する尊格の一つで、その殆どは古代インドのヴァラモン教(古代のヒンヅー教)の神々が密教に取り入れられ、佛の守護神である護法善神となったようです。

◇鶯の滝

■名前の由来は、冬に滝を落ちる水滴が氷を叩いて発する音が鶯の鳴き声に聞こえるとのことに依りますが、特別天然記念物・世界遺産の「春日山原始林」内、佐保川の源流にあり、高さ約8m滝です。

◇若草山 (標高341.8m)

■「若草山」の呼び名は、親しみを込めて「三笠山」といわれていましたが、昭和10年に「三笠宮家」設立に伴い、奈良県当局は大慌てとなり、そのことを大阪朝日新聞(昭和10年12月3日付)は次様に報じました;

『三笠宮家御称号の典拠となった由緒深い大和三笠山(春日山西峰)が、近年北方にある芝生の若草山と混同され、この若草山も三笠山と誤伝されているのは畏れ多いとなした奈良県当局では、・・(省略)・・同県発行の名勝案内地図などに三笠山の名で記載されている若草山のことを自今本命通り一切若草山と訂正、・・(省略)・・古都遊覧客にゆるやかな弧線と芝生で印象を残している三笠山は元に返って若草山の本名で呼ばれることになった』

P1110550②若草山からの奈良市街・生駒山眺望

【若草山頂からの奈良市街・生駒山眺望

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◇鶯塚古墳・三等三角点(341.8m)   (国史跡・奈良市雑司町

■若草山頂に造られた古墳で、前方部が南面する前方後円墳です。全長103m・前方部幅約50m・後円部径約61mの二段築成で、標高300m以上の場所にある古墳としては最大級です。清少納言の「枕草子」に載る「みささぎはうぐひすのみささぎ、かしはぎのみささぎ、あめのみささぎ」の「うぐいすの陵」と伝えられてきたものです。明治以後に前方後円墳であること、葺石と埴輪をめぐらされていたこと、などが立証され、更に仿製内行花文鏡、滑石製斧形石製品、舟形埴輪、家形埴輪が出土しました。滑石製品等より築造は5世紀初頭と推定されています。

P1110553鶯塚古墳後円部頂と三角点標石 【鶯塚古墳と三等三角点「三笠山」標石

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■若草山頂は鶯塚古墳の後円部墳丘頂で、「鶯陵」の石碑のある3mほど側に三等三角点(三笠山・341.8m)標石が4つの石で囲って設えてあります。

◇水谷神社                 

■解散地点の近くには、春日大社の摂社である「水谷神社」があります。祭神は素盞鳴命、大巳貴命、奇稲田姫命ですが、古くは牛頭天王が祀られていました(悪疫鎮圧の医薬の神)。「鎮花祭」(はなしずめさい)が行われますが、祭は正応元年(1288)に始まり、夏期に多い疫病の流行を鎮める祭で、神を慰め病の流行を防ぐと伝わります。神楽や祢宜座狂言会による大藏流狂言が奉納されますが、貞和5年(1349)の臨時祭で田楽や猿楽能が演じられたのが始まりです。江戸末期に衰退しましたが、昭和32年に大蔵流狂言指導の下に禰宜座狂言として復興されました。

水谷神社【水谷神社】

【参考文献】

1.奈良市史編集審議会編:「奈良市史 通史4」、奈良市、1995

2.奈良県史編集委員会編:「奈良県史 7.石造美術」、奈良県、1984

3.山田熊夫:「奈良風土記」、豊住書店、1981

4.奈良県歴史学会編:「奈良県の歴史散歩」、山川出版社、1975

5.奈良市史編集審議会編:「奈良市史 考古編」、奈良市、1968.

6.大阪朝日新聞:昭和10年12月2日夕刊、1935

7.奈良市観光企画課編:パンフレット「世界遺産 春日山原始林」。

(2013年12月7日実施:案内・伊藤 武:編集・宮﨑信隆)

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