■第235回行事・アーカイヴス(2013年7月)

寝屋川    木田水郷跡・・堤跡・樋跡を訪ねて

●今般、近世から現在の数十年前までは、たびたび氾濫した寝屋川やその支流、淀川分流の古川の洪水から周辺地域を護るために、「輪中堤」が構築され、その内側の「木田」地区内には田畑を潤すべく、用水路が縦横に整備された。「三枚田舟」を用いて、人・物が頻繁に運ばれ、「水郷」的風景が発達し、一部は大坂「八軒家」まで出かけて交易を行っていた。

コース:京阪・大和田駅~茨田堤跡~神田・二十箇用水~[京阪・萱島駅] ~寝屋川~木田・囲堤跡(道路)~からくり樋・水路~[京阪・萱島駅~(乗車)~京阪・寝屋川市駅]~二十箇用水・伏越樋取水口~伏越樋流入口~木田・水路跡道路~水路~水路上遊歩道~京阪・寝屋川市駅     [約6km]

【国土地理院発行1:10,000地形図・「寝屋川」・「香里園」・「守口」・「四条畷」使

木田水郷跡②10000分の1香里園寝屋川守口四条畷(左クリックにより拡大)

◆茨田堤  (堤根神社内:まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)

○仁徳天皇(オオササギノミコト)が淀川沿いに、仁徳11年に築かせたとされる堤防です。『日本書紀』仁徳11年の記事に、「天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた」という内容の記述が出ています。

○古墳時代中期の大和王権が治水と河内平野の開発めざして、草香江に流入する淀川分流の流路の安定を目的とした堤防を築造しました。当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれ、この地方を「茨田」といっていたので、「茨田堤」と呼ばれるようになりました。

○「茨田堤」の痕跡は、河内平野北部を流れる「古川」沿いの堤根神社境内に遺存しています。

○『日本書紀』では、どうしても決壊してしまう場所が2か所あって、工事の成功を期して、それぞれの箇所に1人ずつ河伯(川の神)への人柱が立てられました。犠牲に選ばれたのは、武蔵の住人の強頸(こわくび)と河内の住人の茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)で、強頸は泣きながら入水していき、衫子はヒョウタンを使った頓知で死を免れました。結果として、2か所とも工事は成功し、それぞれ「強頸の断間」(こわくびのたえま)・「衫子の断間」(ころものこのたえま)と呼ばれました、との伝承があります。

○2カ所の切れ目は「絶え間」といわれ、それが訛って「太間」になったとの説がありますが、「強頸の断間」は現在、大阪市旭区千林、「衫子の断間」は寝屋川市太間に推定されています。

P1080618茨田堤址【茨田堤址】

◆堤根神社 (つつみね じんじゃ・門真市宮野町)

○「茨田堤」の鎮守として創建されました、延喜式神名帳に記名の式内社で、淀川の分流「古川」南岸のかつての茨田堤の傍に鎮座します。旧社格は村社で、祭神は彦八井耳命・菅原道真です。「茨田堤」の築造に関係の深い茨田氏が、堤の鎮守として祖神・彦八井耳命を祀ったと伝わります。延喜式神名帳には河内国茨田郡五座の第一位に列せられ、門真で唯一の式内社でありました。

堤根神社_宮野町【堤根神社】

○寛永時代に領主・永井尚政(永井信濃守尚政)が崇敬していた菅公を合祀し、以降は「天満宮」と称していました。明治5年、村社に列格されました。

◆木田・囲堤(かこいづつみ)跡

[注)摂津市では「かこみづつみ」と呼ばれています]

○文禄年間(1592~1596)に「文禄堤」が造成されて、淀川から分離された「古川」の氾濫を防ぐために、慶長年間(1596~1615)に造成されました。「輪道」[わんど・慶長堤]は現在も利用されています。

235回木田神田水郷_綾②【寝屋川付近の囲い堤:綾原図

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○享保年間以前には、木田地区での内水災害の防止のために「囲堤」が整備され、現在でも京阪萱島駅から萱島東通商店街へ行く途中の下り坂が「囲い堤」の土手のなごりで、道路兼用の小堤防・「縄手」で集落を囲み、集落を洪水から守ったその堤跡で木田地区を囲んだ、将に「輪道」として使用されています。

P1080628②囲い堤跡道路内側土地と段差_寝屋川市萱島本町

【囲い堤跡道路と道路内側の土地との段差約1m:寝屋川市萱島本町】

◆二十箇用水(にじっかようすい) ○寝屋川市木屋元町で淀川左岸沿いを流れる「幹線用水路」から分岐し、以後「寝屋川導水路」沿いに南下、同市桜木町で導水路が寝屋川に入ったあとは寝屋川沿いに流れ、同市南水苑町で寝屋川右岸に注いで終わっていますが、同市木田地区の輪中に「伏越樋」によって水を分けています。豊里町と太間東町の境で寝屋川導水路と交差しています。

P1080622二十箇用水_萱島駅高架下【二十箇用水】

○天正末~文禄3年(1594)に、豊臣秀吉が築いた「文禄堤」により、淀川分流が断たれたため、友呂岐庄では木屋村の堤防に取水管を入れて灌漑用水にしました。

○当初は友呂岐6カ村(三井を除く、木屋・郡・田井・平池・石津・太間)の灌漑用水でしたが、後に大利・神田が加わり「八カ用水路」と称しました。さらに近郷九カ村、島頭・巣本・下馬伏・上馬伏・岸和田・野口・打越・横地・常称寺が加入し、合計17カ村になりましたが、友呂岐6カ村を別格扱いとし、「上11カ村」といっていました。

○更に、享保9年(1724)に「後入り9カ村」といわれる、木田・御領・氷野・三箇・赤井・太子田・灰塚・尼崎新田・鴻池新田が加わり、上と合わせて20カ村の用水路になりました。 P1080637左二十箇用水_右寝屋川_水位差不詳

【左・二十箇用水、右・寝屋川:京阪・萱島駅付近

○寝屋川市域では、石津の南方から寝屋川に沿って、友呂岐悪水路(現在は二十箇用水路と一本化されて友呂岐水路)と並行して流れ、萱島南方で東流して寝屋川に合流しています。

◆伏越樋  (ふせこしひ:寝屋川市木田)

○サイフォンの原理を応用した、川の下を潜って用水を送るもので、寝屋川堤防北側に樋堰口があり、寝屋川西側を流れる「二十箇用水」(にじっかようすい:「友呂岐水路」) から木田地区に用水を入れるためのものです。

P1080645伏越樋跡取水口_二十箇用水_背景寝屋川

【伏越樋・二十箇用水側樋堰(取入)口】

○江戸時代の享保年間(1716~1736)に「二十箇用水路」と旧木田村との間を流れる「寝屋川」の下を掘って用水を通しましたが、用水を潜らせる工事の完成に当時庄屋の久左衛門が努力したので、この樋を別名「久左衛門樋」とも呼びます。これにより旧木田村の「水」が確保され、水路が村内を縦横に通じ、舟が行き交う水郷的風景と舟運が発達しました。 P1080641伏越樋出口_背景寝屋川東側堤【木田側用水出口】

◆木田・輪中水路

○現在も「囲堤」跡は環状道路となって利用され、その両側は住宅地となっています。旧木田村地区内のあちこちで、その道路とのスロープなどで判明しますし、環状道路と宅地の間の標高差は1m以上になるところもあります。 ○曲りくねっていた水路は埋立てられて、そのまま見通しの悪い宅地内道路となっており、暗渠化して遊歩道となっているところもあります。遊歩道造成時期が住宅街の出来上がった後の時期であったため、住宅地の「裏通り」的風景となっています。

P1080649用水路埋立址道路_木田

【屈折した旧水路を埋立てた住宅地内道路】

P1080654暗渠化水路上の遊歩道 【暗渠化した水路上は遊歩道】

○残存する一部の用水には水の流れがほとんど見られず、かつて「田舟」が行き交った水郷的風景を思い浮かべるのが困難な様子となっています。 P1080651輪中水路

【畑地内に残る用水路:水は淀んでいる】   P1080648用水路埋立址か_木田

【旧用水路沿いの住宅:礎石垣に舟を留めて人荷の揚げ下ろしをした】

P1100604②木田水郷跡_囲い堤・水路【木田水郷の水路:寝屋川市

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【参考文献】

1.寝屋川市教育委員会・ホームページ、2013.

2.寝屋川市下水道室・ホームページ、2011.

3.大阪府・ホームページ、2011。

4.鈴木和久:「河内の地形と地質」、近畿大学教育論叢、22、69、2011.

5.淀川ガイドブック編集委員会編:「淀川かわあるき」、読売連合広告社、2008.

6.綾 史郎:「江戸時代における淀川の洪水と水害・治水対策」、『淀の流れ』、2004.

【2013年7月6日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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