■第234回行事・アーカイヴス(2013年6月)

★熊野古道・「紀伊路」大阪府編Ⅰ

●大阪・天満宮の八軒家[渡邊津]は、「熊野御幸」を行った皇族たちが京の都から船で淀川を下ってきた「熊野詣」の出発地で、ここより徒歩で熊野本宮大社へ向かいました。今回から、「熊野古道」シリーズ第2篇として、4回の「紀伊路」に続いて、大阪府内の「熊野古道」跡を和歌山県に向けて歩きます。

コース:京阪・天満橋駅~(八軒家船着場跡碑)~(0.4km) ~窪津王子址(坐摩神社行宮) ~(1.5km) ~坂口王子址(朝日神明社跡) ~(0.3km) ~榎木大明神~(0.8km) ~桃谷公園(空堀商店街) ~(0.9km) ~郡戸王子(高津宮) ~(1.3km) ~(大阪国際交流センター)~(0.3km) ~上野王子址(上之宮跡) ~(0.5km) ~近鉄上本町駅 [約6㎞]

【国土地理院発行10000分の1地形図「大阪城」・「天王寺」使用:青破線は徒歩コース】

(図上の左クリックにより拡大)
10000大阪城天王寺_天満橋上本町②

 

◆熊野詣は、延喜7(907)年、宇多上皇に始まる熊野御幸は、花山法皇、院政期の平安末期~鎌倉初期に最盛となりました。白河上皇の応徳3(1086)年[在位44年で9度]~後鳥羽上皇の承久3(1221)年[在院24年に28度]の136年間に延べ100度に及んでいます。天皇・上皇別では、鳥羽上皇が在院28年に21度、後白河上皇は在院34年に34度、後嵯峨上皇は2度、亀山上皇は1度でありました。なお、天皇の在位順・その期間(年:~は院政時期)は、白河(1072-1086~1116)、堀河(1086-1107)、鳥羽(1107-1123~1151)、崇徳(1123-1141)、近衛(1141-1155)、後白河(1155-1158~1192)、二条(1158-1165)、六条(1165-1168)、高倉(1168-1180)、安徳(1180-1185)、後鳥羽(1183-1198~1221)の順でしたが、「熊野御幸」の出立点は旧「鳥羽離宮」(城南宮)であり、鳥羽離宮御殿の「精進屋」で「潔斎」(厳しい衣食住のもの忌み)に始まりました。

◆八軒家船着場跡(碑)(天満橋西方・永田屋昆布店前)

P1100692①③八軒家船着場跡碑大阪市顕彰史跡永田家昆布店前【八軒家船着場跡碑】

○「八軒家船着場の跡」碑が永田家昆布店前に建立されています。大阪市顕彰史跡となっています。
DSC_0014熊野かいどう窪津H13年②【熊野かいどう案内盤(平成13年製)】

◆[1]窪津王子址 (くぼつおうじ・渡邉王子:坐摩神社行宮・石町2丁目)

○坐摩神社は、天正11年(1582)、豊臣秀吉による大阪築城に際して城域に当たるため、現在の大阪市中央区久太郎町四丁目に遷座しましたが、それまではここに鎮座していました。社伝によりますと、神功皇后が新羅からの帰途の際、ここに坐摩神を初めて奉斎し、石の上で休息したと伝えられています。今も境内に休息した石が残り、そのためこの地を「石町」と云われているそうです。
○平安時代、熊野詣が盛んとなり、京都から摂津・和泉を経て熊野本宮に至る熊野古道沿いに熊野王子社が数多く設けられましたが、淀川を船で下り最初に参詣する1番目の王子の「窪津王子」(別名渡辺王子)社のもとの鎮座地と云われています。
DSC_0005坐摩神社行宮_天正②
DSC_0008窪津王子址坐摩神社行宮_天正②W【坐摩神社行宮・2葉】

◆[2]坂口王子址 (さかぐちおうじ:朝日神明社跡・神崎町)

P1100698②狸坂大明神_南大江公園西端【狸坂大明神:この社の南側が坂口王子址伝承地】

○朝日神明社は、天慶年間(938~947)に平貞盛が創建したと云われています。天照皇大神と倭比売命を祭神とし、朝日の社名は祭神の天照皇大神にちなむとも、社殿が東面していたためとも考えられており、熊野王子社のひとつ「坂口王子」の伝承地です。当社は逆櫓社< さかろのやしろ>とも称されましたが、これは源平合戦の際に、源義経と梶原景時が櫓のつけ方について論争したことに由来しています。江戸時代の難波二十二社巡りのうちの一社です。明治40年(1907)3月までこの神崎町に鎮座していましたが、現在は此花区春日出中に移座しています。旧社地には狸坂大明神が鎮座しています。

DSC_0010朝日神明社跡址_絵図【昔の朝日神明社の様子(「摂津名所図会」より)】
P1100701②③熊野街道絵図明治18年当時

【明治18年当時の「熊野街道」の沿道略図:「熊野古道」は大阪府内では「熊野街道」と言われていた】

P1100704②③八軒家から2_2㎞碑【谷町6丁目東1筋角に立つ「熊野街道」案内碑:八軒家船着き場から2.2km】

◆榎木大明神(えのきだいみょうじん)
○長年にわたり、地元の人達に「エノキさん」「巳さん」と親しみを込めて呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐< エンジュ>」という中国彦産の樹です。楠木正成が植えたという説もあり、樹齢はおよそ650年と言われています。豊臣時代には当地も大阪城域で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋でした。そのため大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になり、また地元の人達は土地神として「白蛇大明神」の祠を建てて、代々この樹を守ってきました。昭和20年(1945)、第二次世界大戦の大空襲の折りには、襲ってきた猛火がこの樹の辺りでぴたりと止まり、東側一帯は類焼を免れました。これも霊験のひとつとして語り伝えられており、毎年春のお彼岸前後には、地元の人達により、榎木大明神の大祭が行われています。
DSC_0017榎木大明神②【榎木大明神
P1100705②卯建つ_虫籠窓民家【虫籠窓と「卯建つ」を設えた民家:五十軒筋・上本町西】

◆[3]郡戸王子址(こうづおうじ・こうとおうじ:高津町)

○高津宮は浪速の地を都と定め、大阪隆昌の基を築いた仁徳天皇を祭神とする神社です。仁徳天皇が高殿に昇り、人家の炊煙の乏しいのを見て、人民の窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済したと言われています。仁徳天皇を慕い、清和天皇の貞観8(866)年に勅命によって、旧都の遺跡を探索して社地を定め、社殿を築いて祀ったのが始まりと言われています。以後皇室を始め時の幕府等の寄進を重ねて浪速津の守護神と崇められていましたが、その後700年を経た正親町天皇の天正11年(1583)、豊臣秀吉が大阪城の築城に際して、比売古曽社の現在地に遷座になって今に至っています。「郡戸王子」は3番目の王子社で、「摂津志」享保20年(1735)の西成郡比売古曽神社の項で「御幸記、これを郡戸王子と謂う」とあり、ここが「郡戸王子」跡と推定されていますが確証はありません。
DSC_0026郡戸王子址推定地②【郡戸王子推定地碑】
高津宮_郡戸王子址推定地②【高津宮】

◆[4]上野王子址(うえのおうじ:上之宮町)

○「上野王子」は4番目の王子社で、現在は消滅していて、現在の推定地は天王寺区上之宮町にある「上之宮台ハイツ」入口にある石碑のところですが確証はありません。昔、四天王寺を守る「四天王寺七宮」のひとつとして「上之宮神社」が鎮座していました。
DSC_0035上宮址碑_天正【上宮址碑】

注)「四天王寺七宮」:聖徳太子が「四天王寺」を創建した際に、その守護として近辺に造営された神社群で、一般に以下の七つの神社を指します:
◇小儀神社(天王寺区勝山)、

◇土塔神社(四天王寺南門前)、

◇河堀稲生神社(天王寺区大道)、

◇久保神社(天王寺区勝山)、

◇大江神社(天王寺区夕陽丘町)、

◇堀越神社(天王寺区茶臼山町)、

◇上之宮神社(天王寺区上之宮町)。

・なお、小儀神社・土塔神社・上之宮神社は現在、大江神社に合祀されています。

[参考資料]   

1.坐摩神社行宮・大阪市教育委員会・榎木大明神箔美会・高津宮設置の案内板。

2.高津宮ホームページ http://www.kouzu.or.jp/

【2013年6月8日実施:案内・天正美治:編集・宮﨑信隆】

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