■第230回行事・アーカイヴス(2013年2月)

★高槻・古曽部と城下町をめぐる

●高槻は大坂と京都の中間点、淀川の北側にある中核都市で、中心部を「西國街道」が通過する歴史ある街です。今回はJR東海道本線北側の百人一首所縁の古曽部、国道171号線南側のキリシタン大名・高山右近ゆかりの城下町跡を歩きます。

コース : JR高槻駅~花の井~古曽部窯跡~(古曽部防災公園)~不老水~文塚~伝能因法師墳~日吉神社~伊勢寺~上宮天満宮~昼神車塚古墳~(JR高槻駅)~(JA農業館)~カトリック高槻教会~野見神社~しろあと歴史館~城跡公園~東大手門跡~本行寺~光松寺~理安寺~阪急高槻市駅  (約9km)

【国土地理院発行10,000分の1地形図「高槻」・「楠葉」使用】
高槻楠葉10000分の1_古曽部_城下③2(図上の左クリックにより拡大)

◆古曽部 (こそべ)
○JR高槻駅の北東に位置する「古曽部」は、平安中期の女流歌人で三十六歌仙の一人でもある「伊勢姫」や、「伊勢姫」の作風を慕ってこの地に居を構え、歌道に専念した「能因法師」所縁の地です。また、江戸時代後期から明治末期にかけて「五十嵐家」4代が窯を構えて「古曽部焼」を制作していました。

◆花の井
花の井②【花の井跡】

○古くから名水の井戸として知られ、昔は寒暑にも涸れることなく、清水がこんこんと湧き続けていたといわれています。別名山下水ともいわれ、能因法師の歌でも、
『 あし引の山下水に影みれば 眉しろたへに我老にけり 』  と詠まれています。天和2年(1682)、樋口氏が自宅と井戸の普請を行った際、顕彰文を井戸の内側に刻みましたが、長い年月で文字は風化し清水も涸れ、石組みだけが古い時代を偲ばせています。

◆古曽部窯
○古曽部窯跡、京都で製陶技術を学んだ初代五十嵐新平が、江戸時代後期(18世紀末)に開いた「古曽部焼」の窯跡です。古曽部焼は、全体に渋い彩色や流麗・軽妙な画風、素朴な造形などを特徴とし、飯茶碗や小皿、湯呑み、酒器などの日用雑器のほか、抹茶碗や水指、茶托、香合なども焼かれていました。幕末から明治初年にかけては、料亭などの大量注文に応じてつくられることも多く、これが古曽部焼の生産拡大につながりました。また、ひなびた味わいの茶碗類は、京阪間の文人たちに愛好され名声を博しましたが、4代目信平のとき(明治末年)に窯が廃され、現在では当時の様子を偲ぶことはできません。
古曽部焼窯跡碑【古曽部窯跡碑】

◆不老水
○「花の井」で老いを知った能因法師が、山麓に湧き出る清水に不老不死を願い、好んで煎茶に用いたと伝承される井戸です。「大阪府誌」には、 『寒冽にして茶に適し、其の名遠近に喧傳して、普く茶客の知る所なり』  と記され、その名声が紹介されています。付近は都市化が進み、家屋が立ち並んできていますが、今も涸れることなく湧き続け、地元の人々からも親しまれています。なお、現在は飲用することはできません。
DSC_0017不老水【不老水】

◆文塚
○「中古三十六歌仙」の一人で、平安時代の代表的歌人である能因法師が、死期を前にして吟稿(和歌の原稿)を埋めたところと伝えられています。所在は不明でしたが、江戸時代の1849(嘉永二)年、山藤辰政がこの碑を建てて顕彰しました。晴れた日には、はるか南に生駒の山なみが望め、『 わが宿の梢の夏になるときは 生駒の山ぞ見えずなりける 』 と詠んだ能因の時代が偲ばれます。
P1250619文塚跡_能因法師伝説【文塚跡】
注)「中古三十六歌仙」:(ちゅうこさんじゅうろっかせん)は、藤原範兼の『後六々撰』に載っている和歌の名人36人の総称。三十六歌仙が選ばれた後に称されたもので、三十六歌仙に属されなかったが秀でた歌人とそれ以後の時代の歌人が選ばれている:文屋康秀・大江千里・在原棟梁・能因法師・清原深養父・赤染衛門・紫式部・和泉式部・相模・伊勢大輔・ほか。

能因法師墳 
伝能因法師墳【伝能因法師墳】
○東西16m、南北25m、高さ1.8mをはかるこの小墳丘は、平安時代中頃の歌人、能因法師の墳墓と伝えられています。能因法師、俗名・橘永愷(たちばなのながやす)は、永延2年(988)長門守・橘元愷の子として生まれました。若くから作歌をはじめ、文章生として官吏になった彼は、当時歌道の第一人者であった藤原長能に歌を学び、伊勢姫を尊敬していたといわれています。長和3年(1014)27才になった橘永愷は官途を去り、出家して名を能因と改め、歌道に専心するようになりました。
○出家後の能因が、この古曽部の地に居宅を構えたことは、12世紀に成立した「今昔物語集」で古曽部入道と呼ばれているこからも確かなことです。能因はここを拠り所として東国や西国へ漂泊の旅を重ねました。遠国から帰るたびに、能因は古曽部への愛着を深め、またこの地域の人々も、彼の独特の生活を理解し、受け入れたのでしょう。
○封上正面の碑は慶安3年(1650)に高槻城主・永井直清が建立しました。能因の事蹟を顕彰する碑文は儒学者林羅山によるものです。
(小倉百人一首第69番)『 あらし吹く み室の山の もみぢばは  龍田の川の 錦なりけり 』
能因法師像【能因法師】

◆日吉神社
○創建年月は不詳で、古くから古曽部の神として守られてきた社で、祭神は近江の日吉神社から分霊し、戦国時代に祀られたことを起源としています。伝説によれば、天武天皇12年甲申詔あって斎ったといい、また口碑によれば、天正元年(1573)7月に荒木村重は芥川城を攻め落として織田信長に謁見、信長がその功を賞して摂津守に任命して、摂津14郡を与えました。荒木村重はこの地に正倉を創立し、近江国の日吉神社の分霊を勧請して祀り、九月十八日を以って祭典を執り行ったのが当社の起源であるといわれています。
○社殿は慶長19年(1614)1月11日に再建され、元和5年(1619)12月25日高槻城主・松平紀伊守家信は社領二石を寄附し、祭典の折には乗馬を献じ、寛永13年(1636)9月20日同城主・岡部美濃守宣勝、寛永17年・松平若狭守康信、慶安4年(1651)1月同城主・永井日向守直清は、皆前例により社領二石を寄附し、祭典に乗馬を献上しました。社名はもと「山王権現」と称しましたが、後に日吉神社と改められました。

◆伊勢寺 (金剛山象王窟・曹洞宗)
伊勢寺山門【伊勢寺】
○聖観音菩薩を本尊として、平安時代の女流歌人・伊勢の晩年の旧居が当寺の前身とも、天正年間に高山右近に焼き払われたともいわれています。現在の堂宇は元和から嘉永(1615~1643)の頃、僧宗永により建立され、このとき天台宗から曹洞宗に転じました。また、「伊勢廟堂」を修築した際に地中から出土した銅鏡や古硯が、当寺に寺宝として伝えられています。
○「伊勢廟堂」は本堂の西にあり、傍らの古碑は慶安4年(1651)、高槻城主永井直清が建立しました。碑文は儒学者・林羅山によります。直清はこの前年に能因法師を顕彰しており、能因が慕っていたという伊勢と当寺の寺名を結びつけて、伊勢を顕彰したものとみられています。これ以後古曽部一体は、2人の平安歌人の能因・伊勢ゆかりの地として有名になりました。
○境内には戦国時代の武将、和田(わだ)惟政(これまさ)の墓地があります。惟政は、高槻城主だった元亀2年(1571)、白井河原(現茨木市)の合戦で池田勝正に討たれました。後の享保年中に高槻城を改修した際に墓石が発見され、当寺に移したものといわれています。
注)「伊勢」(いせ):平安時代中期の女流歌人で、三十六歌仙の一人です。宇多・醍醐・朱雀の三帝の時代にわたって活躍し、「古今和歌集」「新古今和歌集」などに抜群の地位を占め、和歌史上、小町と和泉式部の間に立つ存在です:(小倉百人一首第19番) 『 難波潟 みじかき芦のふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや 』
歌人伊勢像_伊勢寺 【伊勢】

◆上宮(じょうぐう)天満宮
○菅原道真をまつる上宮天満宮は、大宰府に次いで2番目につくられたという古い由緒を伝えています。縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993)に九州・大宰府に赴いた勅使が、帰途この地で急に牛車が動かなくなる異変にあい、調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥(のみのすくね)所縁の地であることを知って、ここに道真を祀ったと伝わります。江戸時代には高槻城主・永井直清が拝殿や石鳥居を建てたと伝えられます。本殿は火災により焼失し、近年、建て替えられました。JR高槻駅から石鳥居へつづく参道はかつて松並木が続き、天神の馬場と呼ばれていました。天正10年(1582)、山崎合戦の際、秀吉が本陣を置いたといわれています。
DSC_0036上宮天満宮【上宮天満宮:本殿は珍しい竹製屋根】

◆昼神(ひるがみ)車塚古墳 

○天神山は「ひるがみ山」ともいい、車塚は前方後円墳の俗称です。この古墳は天神山丘陵の南端にあり、同じ丘陵の東縁にある中将塚・野見宿弥の墓と伝えられる宿弥塚などと一連のもので、この東から南にひろがる豊かな平野を支配した首長たちの墓です。この車塚古墳は6世紀中頃までに築造されたと推定されています。全長約60m・前方部の幅約40m・後円部径約35mで、前方部は後円部よりやや高くつくられ、新しい特徴をそなえています。
P1250643②昼神車塚古墳_復元埴輪列【昼神車塚古墳】

◆高槻城下町
○戦国時代、動乱の舞台となった高槻には、芥川山城・高槻城が築かれ、江戸時代には現在の大阪市や岸和田市などと共に、城下町として栄えました。芥川山城には戦国武将・三好筑前守長慶(1522~1564)が入って7年間、近畿に君臨する「芥川政権」を樹立して栄華の夢を実現しました。高槻城には、天下人・織田信長と関わりの深いキリシタン大名・和田伊賀守惟政(1532~1571)や高山右近(1552~1615)
らが入って華々しい活躍をしました。
○江戸時代、慶安2年(1649)徳川幕府譜代大名であった永井日向守直清(1591~1671)が勝竜寺城から入城し、以来、明治4年(1871)の廃藩置県までの約200年間・13代にわたって高槻藩36,000石の城下町でした。
近世の高槻20000分の1②2高槻市史1984【近世の高槻(1:20000):高槻市史】

◆カトリック高槻教会
○戦国末期の高槻城主・高山右近が、バテレン追放令によりたどり着いた地・マニラの郊外、アンテイポロにある聖母大聖堂を模して創建されました。青いドームの記念聖堂に向かい、祈りを捧げる高山右近の大理石像があります。
DSC_0046高槻教会【カトリック高槻教会】

◆野見神社
○野見宿弥とスサノオノミコトを祭神とし、もとは上宮天満宮付近にあった式内社「濃身(のみ)神社」が移ってきたものとみられます。9世紀末、祭神のお告げにより疫病がおさまり、人々の信仰を集めたと伝えられています。
○戦国時代、高山右近が高槻城主のころ、神社が一時この地を追われたとされ、右近の父飛騨守が「もと神の堂ありし処」(フロイス『日本史』)に建てた高槻天主教会堂の推定地となっています。江戸時代には城内随一の神社として「高槻城絵図」に記され、境内には、高槻藩永井家初代・永井直清をまつる「永井神社」があって、かつての高槻城の姿を偲ばせる絵馬(えま)が奉納されています。

DSC_0048野見神社【野見神社】

山右近 高槻天主教会堂

○戦国時代末期、高槻は近畿地方におけるキリスト教布教の中心地でした。宣教師ルイス・フロイスの記録によると、天正2年(1574)に高槻城主・高山右近(ジュスト)と父親の飛騨守(ダリオ)は、古社の位置に池や庭園をともなった教会堂を建立し、この教会堂を拠点にキリスト教布教に力を注ぎました。
○高山右近の明石転封の後、しばらくして古社は元の場所に復帰したと伝えられていることから、当地周辺に教会堂があったと推定されています。
高槻天主教会堂跡②【高山右近高槻天主教会堂跡碑】
注)高山右近(たかやまうこん):高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃に、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。

右近と父・高山飛騨守は、主君・和田惟政の敵・荒木村重とむすび、惟政の遺子惟長を追放し、元亀4年(1573)・右近は高槻城主となりました。摂津国主・荒木村重が織田信長に反旗を翻した天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質に出していた右近に、信長はオルガンティーノ司教を使いとし、降伏をすすめました。これに対し右近は、苦悩の末開城したと伝わり、その後、右近は山崎合戦では秀吉に仕え功績をあげました。右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間でした。

・右近は、千利休の高弟「利休七哲」の一人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともいわれています。天正14年頃秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していました。
・キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)、城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努めました。当時25,000人の領民の内18,000人(約72%)がキリシタンになったといわれており、秀吉が「バテレン追放令」を発したとき、右近は改宗を拒否して領地を没収され、禁教令を出した徳川幕府により、慶長19年(1614)10月に国外追放処分を受けました。マニラ到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年(1615)2月3日に亡くなりました。
・その後フィリピンより秘かに抜け出した長男の子孫により、能登・羽咋近くの山中にひっそりと高山右近の墓が設けられています。秀吉から追放された後、加賀・前田家に客分として約26年間身を寄せた縁のようです。
P1250652高山右近像_城跡公園【高山右近・大理石像】

◆高槻城
○高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからです。永禄12年(1569)には和田惟政が城主となりましたが、元亀4年(1573)、その子惟長と高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となりました。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、1581(天正九)年には、イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催しています。  その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部などの譜代大名が城主となった後、慶安2年(1649)、永井直清が三万六千石をもって入城し、明治時代までの13代・約230年にわたり、永井氏の藩政が続きました。
○明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっています。昭和50年(1975)の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになりました。敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)です。
高槻城郭図_しろあと歴史館【高槻城郭図:しろあと歴史館】

笹井家住宅
○昭和47年(1972)9月12日、高槻市指定文化財の建造物第1号に指定されました。現所在地は城下の西北にあたる高槻町(旧・紺屋町)です。この町屋は江戸時代中頃に建築されたものです。外観を特徴づけるのは、妻入り本瓦葺ですが、それを舞台裏で支える小屋組は、市内にある瓦屋根のなかで最も古い形式手法を残している点で貴重です。この小屋組は、扠首組(さすぐみ)と棟束を併用する構造で、本来草屋根の小屋組である扠首組が、重い本瓦葺の屋根を支えるために、一歩変身した姿であるといえます。こうした特長は、古い民家の姿を残すとともに、京都・亀岡との地域的つながりをも示しています。この町屋は、市立歴史民俗資料館の展示館として、1982(昭和五十七)年6月に現在地に移築復元されました。

◆高槻城東大手門
○この地は、高槻城内(三ノ丸)へのもっとも重要な出入り口であった東大手にあたります。大手には、北・南・東の各門があり、石垣で築かれた枡形に各々二箇所の番所が設けられていました。なかでもここ東門は、表玄関としての正規の城門であり、東大手門あるいは大手御門といわれていました。門の内には、家老や郡奉行などの屋敷が並び、参勤交代などで江戸や京都へ向かうときは、内堀に面した桜之馬場で供揃えをして出門、京口から八丁松原を経て「山崎通(のちの西国街道)」を東進したといいます。

◆本行寺  (ほんぎょうじ:日蓮宗常智山)
○題目宝塔と釈迦多宝二仏を本尊としています。1596(慶長元)年に日重上人が創建したといい、高槻城主・永井直清の信仰も厚く、1651(慶安四)年に本堂の改修を行っています。境内には、本堂をはじめ妙見堂、庫裏、鐘楼などがあり、本堂に掲げてある「唱導殿」の額は、高槻城主第10代・永井直与の子直寛の書によります。また墓地の一角には、幕末の漢詩人藤井竹外の没後六十周年に際して、自然石に刻まれた「竹外藤井先生の墓」があります。
本行寺山門Ⅱ_元城高麗門②③【本行寺:元高槻城高麗門】

◆光松寺   (西山浄土宗霊瑞山深入院)
○阿弥陀如来を本尊としています。寺伝によれば、創建の時期等は定かではないですが、往時は高槻城内にあり、元和元年(江戸時代初期)に行われた高槻城の修築、拡張工事に伴って、現在地へ移転したといいます。この門前は、城下唯一の寺町地区であり、周辺は新川之町と呼ばれていました。道の中央に、都市廃水を兼ねた川が東西に流れ、文字通り「川の街」でした。閑静な境内には、本堂や庫裏、鐘楼などがあり、落ち着いた佇まいから古き時代を感じさせます。

DSC_0071【光松寺】

◆理安寺  (りあんじ:浄土宗起行山総智院)
○阿弥陀如来を本尊とし、光譽上人の創建といわれていますが、時期は定かではありません。元和5年(1619)に松平家信が高槻城主となり、先夫人の菩提を弔って以後、松平家の崇敬も厚く,康信のときには寺領や鐘楼などの寄進を受け、大いに繁栄しました。境内には、本堂や地蔵堂、鐘楼などのほか、墓地には、江戸時代末期の儒学者で、漢詩人の藤井竹外と親交の厚かった市村甘泉の墓などがあります。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA【理安寺】

[参考資料] 
1.大阪府、高槻市各教育委員会:現地案内板
2.高槻市インターネット歴史館:http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/
3.社団法人高槻市観光協会:高槻散策マップ「古曽部」「城下町」(JR高槻駅等の観光案内所で無料配布)
4.大阪府作成1:2500地形図「高槻」、大阪府及び八幡市作成1:2,500地形図「楠葉」。
5.「高槻市史」:高槻市役所、1984.
6.「高槻城郭図」:しろあと歴史館、2013.

【2013年2月9日実施・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】

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