■第229回行事・アーカイヴス(2013年1月)

★平群の里・信貴山を巡る・烏土塚古墳・石床神社・朝護孫子寺

●奈良盆地を挟み、古代の都のあった三輪山の麓・纏向の地から遠望できる地で、『邊國』(へのくに)と呼ばれて「へぐり」・[平群]に変化したこの地域は早くから開けており、古墳が71基、古墳状起伏が32カ所もある。その中でも最大の、この地域を治めたであろう豪族の前方後円墳と考えられる国史跡・烏土塚古墳を拝観するとともに、古代の原始的信仰の対象である磐座を祭神とする石床神社、1400余年前に日本国の平和を乱す朝敵・物部守屋を討伐せんと、聖徳大師が戦勝祈願をされた朝護孫子寺毘沙門天王などを探訪した。

コース:近鉄・龍田川駅~鳥土塚古墳~石床神社~御櫛神社~信貴山[朝護孫子寺]~近鉄・信貴山下駅 (約11.5㎞)

【国土地理院発行・25000分の1地形図「信貴山」使用(図上を左クリックすると拡大します)
25000信貴山_龍田川_信貴山下②HP用

◆烏土(うどづか)古墳     (平群町・國史跡)

○龍田川の西岸、南北方向の独立丘陵に築造された、全長約60m・前方部幅31m・後円部径約35m・高さ約9mの南北方向で北面する前方後円墳で、平群谷最大規模の古墳である。墳丘は一段築成で葺石はなく、墳頂寄りに1.5~2m間隔で円筒埴輪を並べていたらしく、墳丘西裾では幅約2mの小規模な周溝が確認された。
鳥土塚古墳石室 石壁【烏土塚古墳・石室図:森田他原図】
P1100037【烏土塚古墳:石棺】
○石室には西北西800mの石床神社付近(越木塚)から運ばれた花崗岩の巨石を用い、奥壁と前壁は垂直に、両側壁はやや上面ほど迫出すように積まれていて、後円部中央に南方に開口する両袖式の横穴式で全長約14m、玄室は6m長・2.8m幅・4.5m高と巨大で、羨道長8.2m、幅1.6~1.9m、高さ2mあり、玄室幅に比して高さのある石室構造で、羨道に組合せ式石棺の基底部が遺存しています。玄室奥の石棺は二上山白色凝灰岩製の組合せ式家形で、石棺東側の長側石には斜格子の線彫りがあります。
○出土物には人物埴輪・象嵌模様の銀装太刀・金銅装馬具等の武具・四獣鏡、石室前庭部付近では子持ち器台・巫女(みこ)形埴輪・形象埴輪・須恵器・大甕などがまとまって出土しました。
○玄室の周囲よりの副葬品が出土した際に立体的な副葬品配置が確認され、石室閉塞部分における埴輪と須恵器を用いた墓前祭祀の様子が明かとなりました。6世紀後半の築造説が有力です。
◆平群  石床(いわとこ)神社  (平群町越木塚)
○祭神は(中央)石床神社は饒速日命(現在・劔刃石床別命)、(右殿)太玉命、(左殿)素戔嗚命 です。
・由緒は、創立は舒明天皇3年(631)で、歳肇国創業の功神・饒速日命を祀る式内大社でした。旧社地の崖面に露頭した高さ6m、幅18mの巨大な「陰石」を御神体としています。
・貞観元年(859)に「従五位上」を授与された社殿のない神社で、磐座前の鳥居のみの原始信仰の社です。現在の神社は大正13年、素戔嗚命を祀っていた境外摂社「消渇神社」の所在地に遷されています。
○天保5年生まれの浪速狛犬に護られた拝殿、その奥には寛文7年(1667)奉納の石灯篭があり、拝殿の奥には神篭石(かみごおりいし)がおかれています。
○この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、「鳥土塚古墳」や「西宮古墳」にその岩石が運ばれており、古墳時代~飛鳥時代の石材産地でもあります。
P1100042平群石床神社②【平群石床神社】
◇消渇神社
・本来、地域の産土神である正勝の神として祀られていました。室町時代に旅僧・信海が腰の病を治してもらってから、下半身の病気に御利益があるとして村人に信仰されました。
・願掛けには境内階段下の屋形で土団子を12個作り供えて祈願し、願いが叶うとお礼に米団子
を12個お供えする習わしがあります。
◇御櫛神社   (平群町 椹(フキ)原(ハラ))
・大字椹原の氏神で「延喜式」神名帳に記載されている式内社です。現在の祭神は天児屋根命ですが、古記録には豊玉比賣玉櫛姫等の地域色の強い神の名が書かれていて、中世に祭神が変わって春日神社となっていたとみられています。立地場所から村の後方の谷沿いに、農業用水を守る神として祀られたものと考えられています。
・宝物には、慶長4年(1599)の文書箱や寛文8年(1668)銘の湯釜があります。土製の狛犬は寛政5年(1793)銘で、石造物では宝暦13年(1763)の手水石や宝永7年(1710)の石灯籠等が奉納されています。
◆朝護孫子寺
◇信貴山
・ 1400余年前、聖徳太子は物部守屋の討伐のために河内稲村城へ向かう途中、この山に至り、太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かり、その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその加護で勝利したため、自ら天王の尊像を刻み伽藍を創建され、【信ずべし貴ぶべき山】として『信貴山』と名付けられた、とのことです。以来、「信貴山」毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
P1100055【朝護孫子寺本堂】
◇朝護孫子寺
・醍醐天皇(在位:897-930年)の病気平癒の祈願を、勅命により命蓮上人が毘沙門天王におこなったところ、加持感応空なしからず天皇の病気は忽ちに癒えました。よって醍醐天皇は、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜わりました。「信貴山寺」とも呼ばれます。
【参考文献
1.森田 勝編:「平群谷の遺跡」・『友史会遺跡地図』(9)、奈良県立橿原考古学研究所友史会、2009.
2.平群町教育委員会編:「へぐり古墳案内」、2012.

【2013年1月20日実施・案内:山﨑進・平群町ボランテイアガイド・編集:宮﨑信隆】

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