■第223回行事・アーカイヴス(2012年7月)

中世自治都市・湖族の郷    堅 田

●平安時代から「京」の『外港』として重要な役割を担い、湖上の「関務権」・「漁業権」・「上乗権」を独占支配した『湖族・堅田衆』により、中世の「自治都市」として『堅田千軒』の繁栄を謳歌した、その跡を探訪した。

コースJR堅田駅*~内湖~勾当内侍墓・野神神社・伊豆神田神社*~出島(デケジマ)灯台~堅田漁港~湖族の里資料館*~湖畔の道**(堅田港・堅田陣屋跡・満月寺浮御堂)~本福寺・伊豆神社・祥瑞寺・光徳寺~堅田駅 [約5㎞]

◆堅 田
○平安時代末期から江戸初期にかけ、琵琶湖最大の自治都市が築かれ、「堅田千軒」、近世には「諸浦の親郷」(しょうらのおやごう)と呼ばれました。
・永承5年(1050)、年貢米搬送船が堅田に立ち寄り「酒代」を支払ったとの「堅田渡酒直米」に関する記述があります。(「堅田浦」は元来、近辺の湖上のこと)
○端緒は寛治4年(1090)下鴨神社の御厨が置かれ、「堅田網人」が「供御人」(くごにん)になり、湖魚を献上する代わりに琵琶湖の漁業権・通行権などを一手に握り莫大な利益を得ましたが、堅田周辺に荘園「堅田荘」を成立させ、14世紀後半に堅田の土地支配権を持った延暦寺山門に警察権・関料免除許可権が賦与され、堅田の権限の強化になりました。以後、湖上通航船の「上乗り」をして、警護と水先案内をしました。即ち、「依頼」しないと『湖賊』(海賊ではない)になりました!
○中世は「東ノ切」・「西ノ切」・「宮ノ切」の三つの自治組織「堅田三方」、近世にできた「今堅田」を合わせて「堅田四方」となりました。刀禰家・居初家・小月家の三家による実質支配で「自治都市」と化し、当初、朝倉方、後に織田方に與しましたが、江戸時代には徐々に微力化していきました。
○堅田の総鎮守で「堅田大宮」といわれる伊豆神社付近が、中世堅田の中心部分で「堅田四方」の中、最初に発展した「宮ノ切」(みやのきり)と言われる街割の一つでした。江戸時代には「宮ノ切」は堅田陣屋の一部となりました。

*「切」(きり):室町時代に琵琶湖岸に築かれた石垣の防御塁で、堅田には「宮座」が設けられ、「切」が築かれました。
*「宮座」:室町時代の自治組織で、中世の西日本に現れた古い氏子の氏神祭祀に関する特権的団体。「宮座」の構成員である「座衆」は封建社会を通じ、村の家柄として村政一般にも権力を振るい、堅田の「宮座」は地侍である殿原衆によって運営されました。
・「宮ノ切」が最初で、更に「東ノ切」「西ノ切」「今堅田切」へと発展し、4つで堅田が形成されました[=堅田四方]。中世自治都市の町並みの遺構、浮御堂、漁港灯台、防波堤、舟接岸石垣、堀などが遺存しており。近世、大津百艘船の成立により権限を奪取されました。
*「大津百艘船」:特権は、天正15(1587)年、大津城主浅野長吉による五箇条の定書(諸役免除等)に始り、当時、大津には軍用等に用いる船が少なかったため、諸浦(坂本・堅田・木浜)の船持ちに特権を与えて彼等を大津に集め、その数が百艘に達したというのが興りです。背景に船及び加子(水夫)を軍事動員体制に組み込み、東海・東山・北陸に散らばる秀吉直轄領からの廻米の中継点として、それまで京都との強力なつながりをもって湖上水運を支配してきた坂本より、秀吉政権の中心地・大坂への連絡が便利な大津が注目されてきました。

P1070452村図【堅田四方図:湖族の郷資料館】
◆堅田内湖(うちこ)  [1956~2004年間、堅田内湖に大きな変化なし]
○面積約0.71k㎡、流域面積3.1k㎡を有する、農業用水、洪水流出の調整、淡水真珠の養殖等に利用されている琵琶湖の「内湖」です。
・内湖大橋は平成12年3月に竣工しています。

◆勾当内侍(こうとうないし)墓・野神神社
○内侍は藤原行房の妹で後醍醐天皇に女官として仕え、後に新田義貞の妻となりましたが、延元元年(1336)、新田義貞は足利尊氏軍と戦ったが利あらず、同年10月恒良親王を奉じて越前に向かう途中、内侍をこの今堅田に残していきました。
・延元3年7月、新田義貞の越前国藤島での戦死を聞いた内侍は、琴が浜(現地の東南方の湖岸)に投身してしまいました。それを悼んだ村人は内侍の塚を築き、明応6年(1497)内侍の150年遠忌の時に塚の場所に「野上神社」を建立しました。

◆伊豆神田神社
○祭神は厳宇迦能賣神(いかしうがのめのかみ)と 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、神紋は二葉葵です。
・両祭神とも五穀豊穣、特に稲を司る神で、社伝では創立は貞観2年(860)・伊岐宿禰是雄(いきのすくねこれお)が堅田浦の関屋浜に神田神社を勧請し、昌泰3年(901)に伊豆神社を合祀した、とされています。
○当初、「小番城(こばんぎ・今堅田釣漁師町)の宮さん」として親しく呼ばれて、小番城の番頭衆の祭祀組織が諸事を司っていましたが、明治10年・小番城の氏子の本堅田伊豆神社への「氏子換え」で、それまでの諸事万端は現在の今堅田氏子総代に委譲されました。

◆出島(でけじま)灯台
○今堅田浜の突端に建っている、高さ約8mの高床式木造の灯台ですが、かつて湖上関があったと言われるこの付近は琵琶湖がくびれて対岸が迫る、座礁や難破事故が絶えなかった難所で、明治8年に航行安全を願って建立されました。
・昭和36年・第二室戸台風により倒壊寸前状態となり、地元の保存運動により昭和48年(1973)復旧されました。
○4本の柱と中心に立つ支柱の計5本の柱で支え、支柱の頭部に火袋が取付けられています。光源は大正7年まではランプで、以後は電灯です。一度途絶えましたが、地元有志の手で平成元年から点灯を再開しています。
P1070426出島灯台木製②【出島灯台】

◆浮御堂  (臨済宗・海門山満月寺)
○長徳年間(995年頃)・比叡山横川の僧源信*(恵心僧都)が湖上の安全と衆生済度を祈願して建立しました。
・現在の建物は昭和12年再建されていますが、観音堂には聖観音座像(重要文化財)が安置されており、この像は平安時代の作で重要文化財にしていされています。周囲には弥生時代遺跡がありました。
○近江八景の一「堅田落雁」の名勝で、芭蕉の句碑があります。
P1070443満月寺浮御堂拡大【浮御堂】

*源信(恵心僧都):天暦9(955)年14歳で得度しました。寛弘元(1004)年に藤原道長が帰依し「権少僧都」となりましたが、翌年、母の諫言通り、名誉を好まず、1年で権少僧都の辞位し、寛仁元年に76歳で示寂しました。

◆本福寺 [本願寺派・夕陽山(せきようざん)]・慈敬寺(元・称徳寺)
○蓮如の布教第一歩の寺として有名で、中世以来、堅田門徒の信仰を集めました。
○南北朝時代(1334-1392)の開山で、応永元年(1467)三代目住持法王の時、法難を逃れた蓮如(八世)が身を寄せ、本寺に「本願寺」を置いて再興の拠点としました。蓮如ゆかりの遺品が数多く所蔵されています。
○鎌倉時代・正和(1312-17)年間に、野洲郡御上神社神職の善道が本願寺覚如(三世)の門人となり開創しました。後を継いだ二世覚念は浄土宗に転じましたが、次の3世法住の代に浄土真宗に復帰し、最初は佛光寺に属しましたが、巧如により本願寺直末寺として認められました。蓮如が「寛正の法難」[覚正6(1465)年]で大谷本願寺を破壊された際には匿いました。
・その結果、延暦寺と対立し、堅田の地元民と延暦寺との対立も絡んで、応仁2(1468)年「堅田大責」(かたたおおぜめ)なる延暦寺の攻撃により、堅田の町と本福寺が焼き払われました。後の四世明顕と門人明宗は蓮如・実如(九世)の元で、本願寺と浄土真宗の発展に尽くし、堅田を中心とした近江の浄土真宗門徒及び一向一揆の中核を担いました。
・実如の弟蓮淳(蓮如の6男・証如の外祖父)が近江・顕証寺(後の近松別院;大津)に入ると、勢力圏が重なる本福寺の存在に脅威を感じるとともに一門統制に対する力の行使のため、5世明宗を圧迫して永正15(1518)年・大永7(1527)年・天文元(1532)年の3度にわたって破門が行われ、本福寺は所領・門徒を蓮淳傘下の称徳寺(後の慈敬寺)に奪われて没落し、明宗は憂悶して死去しました。これ「堅田本福寺破門事件」として、堅田を中心とした近江浄土真宗興隆と蓮淳[一門衆]による統制と反対派への弾圧・粛清でありました。
○江戸時代前期に本福寺を再興した十一代住持・明式は芭蕉の高弟で「千那」と号したことから、同寺は「千那寺」とも呼ばれ、芭蕉も再三訪れて句を残しています。
大津へ北陸東国の物資集中Ⅱ畑中  

【大津へ北陸・東国の物資が集中:畑中原図】

古代幹線道路湊_堀②

古代近江の幹線道路と湊:堀原図】

◆伊豆神社      
P1070465伊豆神社②【伊豆神社】
○草創は寛平4年(892)と伝わりますが、宇多天皇の寛平年中諸国行脚の法性坊尊意僧正(延暦寺13代座主)により、三嶋明神の分霊を此の地に勧請し、天暦3年(949)山城・下鴨神社の分霊・玉依姫命(たまよりひめのみこと)を勧請して、神田大明神・伊豆大権現の二神を祀り、「堅田大宮」として湖上水運を支配する「特権」をもっていた堅田全域の総鎮守府でありました。

本堅田中近世想定図_小竹藤崎Ⅱ拡大

【本堅田古絵図からの想定中近世堅田:小竹・藤崎原図】
○祭神は大山祇命(おおやまずみのみこと)で、農林、鉱業、海運、漁業、酒造等の開運にご利益があるとのことです。
・当社奥に「伊豆の霊石」があり、幸福を呼ぶ石との伝承があります。
P1070470堀切跡伊豆神社北側②

 【堀切跡:伊豆神社・(上)北側・(下)東側】P1070469伊豆神社東側堀切跡②

◆祥瑞寺  (臨済宗大徳寺派)

○応永年間(1394~1428)・一休の師・華叟宗曇が開いた寺で、一休が22歳から十余年にわたる修行に励み、当時は「祥瑞庵」と称し、一休も「宗純」と称していました。「一休」なる道号は25歳で、岸辺の小舟で開悟に至ったのは27歳の時でした。開山堂には師と一休の木造が安置されています。門・屋根に(中世の)瓦が一部残存します。
○後年、芭蕉も訪れて詠んだ句に、『朝茶飲む 僧静かなり 菊の花』があります。
P1070473祥瑞寺②【祥瑞寺】

◆光徳寺 (朝陽山・浄土真宗大谷派)
○康安元年(1361) ・覚忍が開基となり、当初、天台宗でしたが、慶長5年(1600)に改宗されました。
○蓮如の法難に対して、蓮如の身代わりとして、自ら首を打たせて差し出させた堅田源兵衛の首と墓所があります。
・曰く、蓮如が越前吉崎へと逃れた時、蓮如は三井寺(大津市)に親鸞の御真影[ごしんねい・親鸞の木像]を預けました。文明12年(1480)に三井寺に赴いた時に、人の生首を二つ並べるなら返そうと言われ、蓮如は困りました。堅田・光徳寺の門徒で漁師の源兵衛は蓮如を助けるため自分たち親子の首を差し出すことを決意し、自分の首を父親に打たせ、父親はその首を三井寺に持っていき、親鸞の御真影を取り戻した、ということです。堅田源兵衛父子殉教之像と蓮如上人像、岡本一平氏の『琵琶湖めぐり』の文学碑が並んで立ちます。(源兵衛の頭蓋骨が当寺にあるとのことです)

◆今堅田城址   (全く城址は残っていません)
○城は、1340年代(南北朝時代)、堀口貞満の子・貞祐が築城下との説があります。[新田義貞に従い、武功を挙げた]
○その後、織田信長は、二度「今堅田城」を攻めています:
・1回目は、元亀元(1571)年の「堅田水軍」の猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎らが織田方に内通し、坂井政尚を派遣して堅田を攻撃しましたが、朝倉義景の家臣前波景当に攻撃されて、坂井政尚は戦死、猪飼昇貞らは逃亡して堅田占領失敗の「堅田の戦い」です。
・「全人衆」(まろうどしゅう)主導の自治に不満を抱く「殿原衆」を切り崩して支配下に置き、堅田船の船団の支配権を手に入れた後、
2回目の攻撃として、元亀3(1572)年には「殿原衆」と結んで「全人衆」と真宗寺院を攻撃してこれを屈服させました。
[注]天正元(1573)年9月、浅井・朝倉氏を攻略]

*「殿原衆」・「全人衆」:
・殿原衆[とのばらしゅう]は、多くは下鴨社の供御人の系譜をひき、堅田の水上交通に従事して「堅田船」を保有した「地侍層」が中心で、祥瑞寺に帰依し、指導層として主に政治・経済を司り、湖上の関務権を握り、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していました。室町時代には、殿原衆は延暦寺から堅田関の運営を委任され、堅田以外の船より海賊行為を行わない代償として「上乗」(うわのり)と呼ばれる一種の通行税を徴収する権利も獲得していました。[海賊ならぬ、湖族といわれた]     
・全人衆[まろうどしゅう]は、農・商工業を営む人々が中心で、主に本福寺の門徒であり、東北・北陸・東山などで商いを行い、財を築いて殿原衆に代わって指導層に成った者もいました。

◆衣川城
○山内義重が文暦元年(1234)に築城した平城で、現在石碑のみが残存します。

◆堅田陣屋

○堅田藩の初代藩主・堀田正高の父は・堀田正俊*は徳川綱吉に仕えて大老を務め、貞享元年(1684)8月28日、江戸城中で稲葉正休に暗殺されましたので、三男・正高が正俊の遺領中の下野佐野1万石をもらい、元禄11年(1698)3月、近江堅田に転封となりました。
・堅田に陣屋を設置し、堅田藩・堀田家(佐倉藩堀田家分家)の祖となりました。
(近江國では、当時、彦根城、水口城、膳所城以外の築城は許されていませんでした)
P1070467江戸末期_本堅田村図

【本堅田村分布図:文政8年(1825)】
[*堀田正俊:堀田宗家初代正盛(五代将軍綱吉の大老)の三男で、斎藤福[斎藤利三娘・春日局]の養子[義曾孫]。
○6代・堀田正敦は仙台藩主・伊達宗村八男で、功績で文化3年(1806)、3,000石加増で13,000石になりました。
・文政8年(1825)、堅田藩は「陣屋」から「城主格」に一段階昇格しましたが、同9年、正敦は下野佐野へ移封され、堅田藩は廃藩となり、滋賀郡領は佐野藩の飛び地として存続しました。

【参考文獻】  
1.㈶滋賀県文化財保護協会編:「新近江名所図絵」、2011.
2.小竹直子・藤崎高志・木戸雅寿:㈶滋賀県文化財保護協会編:「琵琶湖をめぐる交通と経済力」、サンライズ出版、2009.

3.藤井譲治:「近江・若狭と湖の道」、吉川弘文館、2003.
4.松浦俊和:『琵琶湖がつくる近江の歴史』研究会編「城と湖と近江」、サンライズ出版、2002.
5.西山卯三:「滋賀の民家」、かもがわ出版、1991.
6.橋本鉄男:「丸子船物語」、サンライズ出版、1997.
堅田町家②

【堅田の民家:西山原図】

【2012年7月21日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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