■第220回行事・アーカイヴス(2012年4月)

★斑鳩の里散策

●法隆寺のある斑鳩の里の西の地域を散策しました。紅葉で有名な県立龍田公園、法隆寺の守護神として祀った龍田神社、豪華な副葬品が埋葬当時のまま遺存していた藤ノ木古墳、そして法隆寺を歩きました。

コース:JR王寺駅~三室山~堂山橋~龍田城址~龍田道~龍田神社~斑鳩町文化財センター~藤ノ木古墳~西里~法隆寺~JR法隆寺駅 (約10km)

25000信貴山_斑鳩法隆寺120414②

【コース図(赤線):国土地理院発行1:25000地形図「信貴山」使用】

(図上を左クリックにより拡大)

◆三室山・龍田公園 (標高82m:斑鳩町神南)

○『ちはやぶる神代もきかず立田川から紅に水くくるとは』(在原業平)、『嵐吹く御室の山のもみじ葉はたつたの川の錦なりけり』(能因法師)と平安時代の歌人などに詠まれ、古来、神の鎮座する山とされ、別名「神南備山」・「三諸山」とも言われました。地名である神南の由来でもあり、周辺は龍田川沿岸と共に、皇紀2600年記念として県立公園に指定されました「龍田公園」で、桜・紅葉の名所です。

○聖徳太子が斑鳩宮を造営するにあたり、飛鳥の産土神をこの地に勧請したのが由来であり、神々は現在神岳神社に祀られています。頂上の五輪塔(1.9m高)は能因法師の供養塔と伝承されていますが、元々神南集落内にあったもので、三室山が公園整備された際に移設されたようです。
○斑鳩町生まれの歌人・藤門周斎(1692~1776年)が龍田城廃城により廃れた村興しのために龍田川沿いに楓を植えることを発意し、寛政年間(1789~1801年)に植楓が始まりました。後に有栖川宮の寄贈、保勝会、法隆寺村の北畠治房らにより植栽が推進されました。

◆神岳(かむおか)神社
○三室山の中腹に鎮座し、「萬葉集」、「古今集」に登場する古代の神南備社で、大巳貴神(おおなむちのかみ)と須佐之男命を祭神として祀る式内社です。社殿は春日造り一間社です。
○なお、三室堂が融念寺境内に移され、本尊地蔵菩薩と聖観音像を安置しました。後者に延久元年(1079)七月十一日等の造立銘があり、重要文化財に指定されています。

◆龍田川・堂山
○片桐且元が「龍田城」築城の際に、「龍田川」を西外堀にするため堂山西側下に付替えました。「もみじばし」東岸に城跡石垣が残っており、付近は紅葉・桜の名所です。
○本川は古来、「平群川」と呼ばれていましたが、鎌倉時代に「龍田神社」が繁栄して周辺集落が「龍田」と称されるようになったため呼び名が変わったようです。

三室山龍田川磐瀬の杜20000明治41年陸地測量部②

【三室山・岩瀬の杜・龍田城址・当麻街道:陸地測量部地形図明治41年測図】

◆岩瀬の森
○「萬葉集」巻8・鏡王女「神南備の磐瀬の杜の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋増さる」、同・志貴皇子「神南備の磐瀬の杜のほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かん」と詠われている歌枕の「磐瀬の杜」に当たるのではないでしょうか・・。

◆龍田城
○初代藩主・片桐且元(1556-1615年)は天正11年(1583)「賤ヶ岳の戦」の「七本槍」の一人に数えられています。

○且元は京都・方廣寺鐘銘事件で大坂城を退去し、「関ヶ原合戦」の後の慶長6(1601)年、大和に28,000石を領しました。「大坂の陣」後の5月28日に且元は没しましたが、嗣子・孝利の時代に「御屋敷」が完成しました。龍田街道沿いに長さ178間・奥行15間の「町並」を公認し、町方の年貢を免除して、龍田の発展に尽力しました。龍田川東側高地一帯が城址で、地名に城下町の名残(清左衛門屋敷・東町・下町等)があり、大手門は北側にあったようです。
○明暦元(1655)年4代・為次没後に後嗣無きため断絶(元禄7年[1694])となりましたが、且元の弟・片桐貞隆は、龍田の隣りの大和小泉16,000石を領して明治まで続きました。

◆龍田街道 (龍田越え)
○古来からの「龍田越え」は、いわゆる「龍田道」のことで、近世に発達した「奈良街道」の一つです。大和と河内を結び、法隆寺南から龍田大社(本宮)前を通り、大和川北岸の龍田山を越えて竹原井(現柏原市高井田)に抜ける道で、平城京遷都後は「竹内越え」に代わって繁用された道です。町並みは龍田一丁目から龍田4丁目にかけて旧奈良街道沿いに展開していました。

龍田旧当麻街道②【龍田街道】

○伝統的建物は切り妻造りで中2階建て、平入り・虫籠窓などは、関西他地域で見られる古い町並みと大きな差はありませんが、格子はこの地域独特の荒格子が多くみられます。
○当街道の西端北側にある「太田酒造」は斑鳩町で初めて登録有形文化財に指定された建物で、明治3年開業の酒屋です。母屋は天保9年(1838)築で、他の6棟も登録されています。

太田酒造 龍田②【太田酒造:地酒「初時雨」】

◆龍田神社(龍田新宮)
○三郷町立野に鎮座する本宮の「龍田大社」に対して、法隆寺の守護神として移築されて、「龍田新宮」と称されました。
○崇神天皇時代に創立されたと伝わり、伝承では、聖徳太子が法隆寺の建設地を探し求めていた時、白髪の老人に化身した「龍田大明神」に逢い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したとのことです。元々の社名は「龍田比古龍田比女神社」で、祭神は龍田比古神・龍田比女神の二神(龍田大明神)であり、「延喜式神名帳」には「小社」として記載されています。後に「龍田大社」より天御柱命・國御柱命の二神を勧請したため、元々の祭神は忘れられましたが、現在は天御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀しています。
○明治の神仏分離により法隆寺から離れ、三郷町立野の龍田大社の摂社となりました。独立の請願の結果、大正11年3月に龍田大社より独立し、県社に列格しました。拝殿は(焼失後の)昭和53年再建です。

龍田神社②【龍田神社(龍田新宮)】

◆藤ノ木古墳

藤ノ木古墳から南南東望む②【藤ノ木古墳】

○昭和40年から約40年に亙り、発掘調査され、出土品から6世紀後半築造の直径48m・高さ約9mの円墳と測定されました。横穴式石室内の石棺は二上山の凝灰岩製の刳り抜き式の全面に朱塗りで、箱形の身と屋根型の蓋を別々に造りあわせたものと推定され、國史跡に指定されています。

藤ノ木古墳石室②【石室・石棺】

○法隆寺に残る記録には、「ミササキ」「ミササキ山」と記されており、崇峻天皇陵と記すものもあり、また、斑鳩地方に勢力を持った物部氏、蘇我氏、平群氏等の諸説も提示されました。
○石棺北側から馬具などが発見sれ、鏡や刀など豪華な副葬品も確認されています。東アジアでも稀な優れた意匠や彫金技術を施した。金具などにパルメット文など共通の文様を用い、鞍金具には竜・鳳凰・象・などの禽獣文や鬼神像などを透かし彫りし、東アジアの様々な文様が集合したものとみられています。
○現在、「穴穂部皇子(あなほべのみこ:欽明天皇長男)・宅部皇子(やかべのみこ:宣化天皇皇子)合葬」が有力説ですが、その主な理由として、①古墳の造営年代が蘇我氏により暗殺された時期とほぼ合っていること、②これだけの大規模な古墳であるのに、石室や墳丘の一部が雑なつくりであること、③本来ならば一人用の石棺に窮屈な状態で二体が埋葬されていること、④造営が急がれたとみられる、⑤他に類のない金銅製の馬具や冠などから当時かなりの権力を有した人物であった、と考えられています。

藤ノ木古墳石棺内埋葬図【被葬者想像図:前園実知雄原図】

○藤ノ木古墳南側に、かつて「宝積寺」があり、当古墳の供養を行い護っていましたが、1854年焼失しました。法隆寺末寺・宗源寺が管理していたとのことです。

◆西里(にっさと)
○法隆寺西大門から西方にある街区で、法隆寺の宮大工の多くが居住してきた集落で、「大坂の陣」の1614年に豊臣方の焼討に遭っています。

西里②【西里】

◆法隆寺
○607年に聖徳太子が父・用明天皇の病気平癒を祈願して完成させ、670年に焼失しました。その後、700年頃に再建されたことが昭和14年の発掘調査でほぼ確定しました。中門・仁王、五重塔初重内部塑像に和銅4年(711)の造立が記されており、再建年に適合します。初建の法隆寺(=斑鳩寺)域は近縁の発掘調査により、更に西側に広がっていたことが推定されました。

古法隆寺斑鳩宮推定地_H22斑鳩町都市計画図②【古法隆寺・斑鳩宮推定地:斑鳩町都市計画図・2010】

○聖徳太子の子・山背大兄王は、643年・蘇我入鹿により滅ぼされ、その住居・斑鳩宮も焼失しましたが、その居域は現・法隆寺域と夢殿の間と推定されています。

[参考文献]
1.蔭山精一:「斑鳩の川と池」、『斑鳩風土記』別冊、2011.
2.筒井和子編:「龍田周辺の遺跡」・『友史会遺跡地図』(10)、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館、2009.
3.前園実知雄:「斑鳩に眠る二人の貴公子・藤ノ木古墳」、新泉社、2006.
4.「広報 斑鳩」、2005、2007、2008.
5.上内 智英:奈良地理学会編;「大和を歩く:ひとあじちがう歴史地理探訪」、奈良新聞社、2000.
6.斑鳩町:「龍田・西里地区歴史的町並み調査報告書」、1985.
7.「斑鳩町史」、1979.

【2012年4月21日実施・案内:伊藤 武・編集:宮﨑信隆】

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