■第218回行事・アーカイヴス(2012年2月)

★熊野古道「紀伊路」(Ⅳ) 藤白峠越え 

●「熊野古道」の「九十九王子」の中でも、特に格式が高い「五躰王子」の「藤代王子」を出ると、古道は愈々藤白峠、拝ノ峠、糸我峠、大峠、小峠と、御坊まで峠越えの難所が続きます。今回は、熊野古道「紀伊路」の最初の難所である藤白坂を上り、藤白峠に向いました。地蔵峰寺の裏手にある「御所の芝」からの眺望を楽しみ、橘本・所坂両王子を訪ねた後に、賀茂川を下り、国宝・善福院釈迦堂に立ち寄り、終着点へ向かいました。

コース:JR海南駅< 海抜3m>~藤代王子(藤白神社)< 海抜20m>~有間皇子墓~筆捨松~藤代塔下王子(地蔵峰寺)< 海抜260m:海南駅よ3.4km>~(2.2km) ~橘本王子(阿弥陀寺)< 海抜40m>~橘本土橋跡~所坂王子(橘本神社)~善福院釈迦堂~JR加茂郷駅< 海抜5m:橘本王子より6.6km>  (約12.2km・標高差:約260m)

【コース図(赤太線):国土地理院発行25000分の1地形図「海南」使用

(図上の左クリックにより拡大)
218回海南_海南加茂郷_説明入②
下津導の石②【旧下津町導き石】

◆[37]藤代王子址 (ふじしろおうじ・藤白神社・第183回行事で訪問済)
○平安時代から盛んに行われた熊野詣の礼拝所で、熊野九十九王子のうち五躰王子(*1)の一つとして特に格式の高かった神社です。中世の熊野御幸の際にはここを宿泊所とし、法楽のために歌会や相撲会等が行われました。特に藤原定家の『熊野御幸記』に記されている建仁元年(1201)に後鳥羽上皇が催した藤代王子和謌会は有名でした。

藤代王子権現本堂 【藤代王子権現本堂】
注)*1「五躰王子」:[37]藤代王子・[64]切目王子・[75]稲葉根王子・[78]滝尻王子・[92]発心門王子とするのが定説です。[18]籾井(樫井)王子を五躰王子、稲葉根王子を準五躰王子とする説もあります。必ずしも5つの王子が「五躰」王子とは限りません。

◆有間皇子史跡(ありまのみこしせき:有間皇子神社・有間皇子墓)
○有間皇子は、孝徳天皇の皇子ですが、斉明4年(658)11月に、謀反(むほん)の罪で捕らえられ、牟婁(むろ)の湯(白浜の湯崎温泉)に行幸中の天皇のもとへ護送されました。中大兄皇子の尋問を受け、その帰り道に、藤白坂で絞殺されました。皇子は19歳の若さであったと伝えられています。皇子が護送途中、自らの運命を悲しんで詠んだ歌が二首あり、そのうちの一首が、歌碑に佐々木信綱博士の筆で刻まれています。
『家にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしあれば椎の葉に盛る』
有間皇子神社【有間皇子神社】

◆藤白坂・丁石地蔵< ふじしろざか・ちょうせきじぞう>
○全長上人は、海南市名高の専念寺第十四世住職で、元禄年中(1688~1704)専念寺に入り、1744(延享4)年入寂した学徳すぐれた高僧でした。全長上人は、藤白坂の距離を明確にするとともに、憩いの場所とし道中の安全を祈願するためにと、十七体の地蔵を一丁ごとに安置しました。当時、藤白坂にはかご屋がいて、足腰の弱い旅人はかごを利用して峠越えをしたものです。これによって、旅人は楽しい道中ができ、かご屋も十分な賃金を得ることができたといわれています。いつの頃からか藤白坂のかご屋もなくなり、以来250年余りの長い間に、丁石地蔵は谷に落ちたり地に埋もれたりして消え、1981(昭和56)年に現存するものはわずかに4体に過ぎませんでした。その後、新しい地蔵を加えて、17体が復元されました。この「一丁地蔵」は当時(享保の初め頃)のものであり、「丁石」としては全国的にも珍しく、貴重な存在です。
丁石地蔵【丁石地蔵】

◆筆捨松 (ふですてまつ)
○「投げ松」:第34代舒(じょ)明(めい)天皇(西暦635年)は、熊野へ行幸の途次、藤白峠で王法の隆昌を祈念し、小松にしるしをつけ谷底へ投げました。帰路小松が根付いていたので吉兆であると喜び、以来「投げ松」と呼ばれるようになりました。
○「筆捨松」:平安前期の仁和年間(西暦885~888年)の頃、絵師・巨勢(こせの)金岡(かなおか)は、熊野詣での途次に藤白坂で童子と出会い競画することとなり金岡は松に鶯を、童子は松に烏を描きました。次に金岡は童子の絵の烏を、童子は金岡の絵の鶯を手を打って追うと両方とも飛んでいきました。今度は童子が烏を呼ぶと何処からか飛んできて絵の中に収まりました。しかし金岡の鶯は遂に帰ってきませんでした。金岡は「無念!」と筆を投げ捨てました。筆は「投げ松」の所へ落ちました。以来「筆捨松」と呼ばれてきました。童子は熊野権現の化身であったと言われています。

◆硯石 (すずりいし)
○熊野古道伝承遺跡の「筆捨松」にちなみ、紀州徳川家初代藩主徳川頼宣の命により自然の大石に硯の形を彫らせたと伝えられています。かつては、「筆捨松」の大木の根元に立っていましたが、1983(昭和58)年の水害で土砂とともに押し流されうつぶせに埋もれてしまいました。その後場所を特定し、堀り起こして現在の場所に復元されました。

◆石造宝篋印塔 (せきぞうほうきょういんとう)
○このあたりはもともと地蔵峰寺の境内であったところで、同寺の施設としてこの宝篋印塔が建てられたものと思われます。造建年代ははっきりしませんが、恐らく地蔵峰寺の石造地蔵菩薩像と同年代の15世紀前半頃と推定され、高さが12.5尺(3.788m)という完数値(25尺の半分)になっています。
○「宝篋印塔」は、宝篋印(ほうきょういん)陀羅尼経(だらにきょう)というお経を納めることにより、もろもろの功徳を積むことができると考えられました。この塔は緑色と赤味がかった二種の緑泥片岩を交互に積み上げています。県下四大宝篋印塔の一つに数えられ那智の塔にも劣りません。昭和44年(1969)県指定の文化財となっています。
宝筐印塔②_NEW【石造宝篋印塔】

◆地蔵峰寺       (じぞうぶじ:国指定重要文化財・海南市下津町橘本)
地蔵峯寺【地蔵峰寺】
○熊野古道藤白峠を越えた標高約260mの高所にあり、本堂は、桁行7.6m、梁間8.0m、寄棟造本瓦葺で、室町時代中期頃の建立と考えられています。禅宗様式の濃厚な優れた建築技法を示しています。昭和51年(1976)から53年にかけて解体修理が行われ、創建当時の姿に復元されました。
○本尊の石造地蔵菩薩坐像は、総高3.1m余の大きな地蔵尊で、光背の銘には「元亨三年大工薩摩権守行経」とあります。製作の優秀さ、雄渾な銘、大きさなど日本有数の石造地蔵菩薩です。

◆御所之芝 (ごしょのしば)
○白河上皇の熊野詣での行宮所となったところです。皇室行事としての熊野詣では宇多上皇の延喜7年(907)に始まり、白河上皇12度、鳥羽上皇23度、後白河上皇33度、後鳥羽上皇29度の多きを数えています。1201(建仁元)年随行の藤原定家の『御幸記』には、『道崔嵬(*2)殆んど恐れあり、又遥かなる海を眺望するは興無きにあらず。』と記されています。ここは「熊野路第一の美景」といわれ、和歌浦、和泉山脈、淡路島などを望むことができます。また、和歌山県朝日夕日100選に指定されています。
注)*2「崔嵬」(さいかい):「岩や石がごろごろしていて険しいさま」という意味です。

◆[38]藤代(白)塔下王子址 (ふじしろとうげおうじ)
○藤原定家の日記、建仁元(1201)年十月九日条に見える王子社で、今「塔下」は、峠の当て字と思われます。藤原頼資の日記、承元4年(1210)四月二十五日条では「道塚」王子と記されています。この王子社は、明治時代に橘本王子社と共に、橘本王子神社(現、橘本神社)に合祀されました。ここからの和歌浦方面の眺めは素晴らしく、1427(応永34)年九月足利義満の側室、北野殿の熊野参詣に随行した僧実意は『こまやかな風情は絵に描きとどめがたい。いくら眺めても、飽きない島々の景色だ』と、日記に書かれています。北野殿も、よほど気に入ったのでしょう、昼食抜きで、長時間眺めていたようです。その場所は「御所の芝」と呼ばれ、案内板の裏手にあります。今では、休息できるよう整備されています。
藤代塔下王子址【藤代塔下王子址】

◆[39]橘本王子址 (きつもとおうじ・阿弥陀寺)
阿弥陀寺【阿弥陀寺】
○藤原定家や藤原頼資の日記に、「橘下王子」と書かれているのがこの王子です。定家や頼資の熊野参詣より約100年前の天仁2年(1109)十一月六日、藤原宗忠は熊野参詣の帰り道に、橘本王子社の前から塩津付近に向かい、海を渡って和歌浦・吹上浜を見物したと、日記に書いています。江戸時代には「橘本王子」と書きましたが、『紀伊続風土記』によると、王子は村の北にあって、土地の人は「本」の字を略して、橘の王子と呼び、また、白河法皇が参詣の時に、この王子社に通夜して、『橘の本に一夜の旅寝し入佐の山の月を見るかな』という歌を詠んだと伝えています。現在は阿弥陀寺の境内に、その跡をとどめるのみですが、室町時代の永享9年(1437)王子社の社殿を造営し、江戸時代の貞享4年(1687)に屋根を葺き替えたという棟札が残されています。『古事記』『日本書記』垂仁天皇の時代に、田道(たじ)間守(まもり)が常世(とこよ)の国から、橘の木(トキジクノカクノコノミ=非時の香菓)を持ち帰ったという伝説が見え、それをこの地に植えたという言い伝えに橘下王子のいわれがあります。橘を温州蜜柑の原種とする説に基づき、この地は紀州蜜柑発祥の地ともされています。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA【橘本王子址】

◆橘本土橋跡 (きつもとどばしあと)
○峠の道を下りきったところに加茂川が流れていて、ここに土橋(*3)が架かっていました。紀伊国名所図会にはこの土橋付近には家が立ち並び、駕籠旅する人、すげ笠を持っている人、親子づれ、武士などいろんな人が通っています。北側にはお地蔵さん、南側には三界萬霊碑(寛政5年)があり交通の要衝でした。ここから「一壷王子」にかけて馬を用立てする伝馬所や旅籠が軒を連ねていたと思われます。
また、熊野詣での帰途藤白坂はあまりにも険しいのでここから加茂川に沿って下り、舟の津(いまの塩津)から船で和歌浦に至る通路のことが天仁2年(1109)の中御門右大臣宗忠の旅行記『中右記』に記されています。
橘本土橋跡Ⅲ【橘本土橋跡】
注)*3土橋:木造の橋の一種で、橋面を木材で隙間無く敷き詰め、凹凸を土を敷いて滑らかにした橋を「土橋」といいます。

◆[40]所坂王子址 (ところざかおうじ・橘本神社)
○この王子社名を、藤原定家は「トコロ坂」、藤原頼資は「薢坂」と日記に記しています。「薢」は植物の「野老(ところ)」(*4)のことです。この付近に野老が多く自生していたことから、王子の名が付けられたようです。『紀伊続風土記』では、「所」の字を当て、所坂王子社と呼んでいます。この王子社は、明治時代に「藤白塔下王子社」、「橘本王子社」を合祀し、橘本王子神社(現、橘本神社)となりました。そして、「橘本王子」の由来である田道間守を主神として祀っています。神社合祀で廃絶していく王子社の中で、神社になった一例がこの「所坂王子」です。田道間守は常世の国から橘の木を持ち帰り、この地に日本で最初に植えたと伝えられています。その実が、日本で最初の蜜柑となり、菓子となったことから、橘本神社は、蜜柑とお菓子の神様として、全国の蜜柑・菓子業者から崇められています。
注)*4「野老」:ヤマノイモ科のつる性多年草で原野に自生し、ハート型の葉が特徴で、夏には黄緑色の小花をつけます。根茎は太くてひげ根が多く、これを老人のひげに見たて「野老」の字を当てました。根茎は正月の飾り物とされ、また苦味を抜けば食用となり、煎じて胃病や去痰の薬になります。
所坂王子址【所坂王子址】

◆善福院釈迦堂  (ぜんぷくいんしゃかどう・国宝)
善福院釈迦堂Ⅱ【善福院釈迦堂】
○建保2年(1214)、僧・栄西が紀州を訪ねこの地に寺を建て宝遊山広福禅寺と名付けました。戦国時代に領主・加茂左近の菩提寺となって釈迦堂を本堂として、梅田寺、了東院、吉祥院、観音院、善福院などの多数の塔頭が立ち並び禅宗寺院の景観を呈していました。本院は、元は禅宗で、天正の初め真言に転宗、高野山の援護のもとに、文禄2年(1594)に伽藍堂舎の修復、子院の整備が行われ、寛文年間に、天海僧正の法孫・憲海僧正の支配下になるに及んで現在の天台宗に変わりました。明治44年(1911)に解体修理を受けて、ほぼ建立当時の姿に復原されました。釈迦堂は、桁行三間、梁間三間、もこし付きで、寄棟造、本瓦葺、禅宗様式の仏殿で1327(嘉暦2)年の建立と考えられています。正面の中央三間には、桟唐戸を入れ、内陣の正面後方に高い須弥壇を設け内部中央の上部は鏡天井*5、床は瓦敷で、そそり立つ内部空間を造り出しています。現在の禅宗様建築に較べて、この建物は木割りが大きく雄大な気風があります。
注)*5「鏡天井」:スギ、ヒノキ、キリなどの杢目< もくめ>の面白いものを一枚の鏡板張りとしたもので、床の間の天井などに使用される、天井の形式の一種です。

◆現在の「御所の芝」からの眺望(写真上の左クリックにより拡大)

御所の芝眺望

◆加茂川   (かもがわ)
○加茂川は、源を海南市下津町東部の鏡石山に発し、市坪川、宮川等の支川を合わせ、下津町内を西へ流れ、下津港に注いでいます。流域面積は28.1k㎡、幹川流路延長は約10kmの二級河川です。

[参考資料] 
○和歌山県、海南市、旧下津町各教育委員会設置の現地案内盤(一部改変)。

【2012年2月11日実施・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】

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