第217回行事・アーカイヴス(2012年1月)

★京都における 新選組の足跡

●幕末の京都の治安を守るために、京都守護職・会津中将・松平容保御領として壬生に誕生した「新選組」は、約5年間にわたり幕末の京都で奮闘し、「血」の凍るような凄惨な殺戮により、討幕派志士から恐れられた存在でした。今回は、「壬生屯所」跡周辺をはじめ、その名を一躍天下に轟かせた「池田屋事変」の所縁の地など、京都における「活動」の足跡を訪ねました。

コース:阪急・河原町駅~桝屋跡~祇園会所跡~三条大橋~池田屋跡(居酒屋)~[御池通(地下鉄)]~二条城~六角獄舎跡~壬生寺・新撰組壬生屯所跡(八木邸)~光縁寺~島原~西本願寺(屯所跡)~油小路の変跡~不動堂村屯所跡~JR京都駅    (約10km)

【前半コース(青色破線):国土地理院発行1:10000地形図「京都御所」・「東山」】

(図上の左クリックにより拡大)

217回東半コース_京都_新撰組足跡②

【後半コース(青色破線):国土地理院発行1:10000地形図「太秦」・「桂」】

(図上の左クリックにより拡大)

217回西半コース京都_新撰組足跡②

◆「新選組」略年表

・文久2年(1862) ・徳川幕府が将軍警護の浪士を募集しました。

・文久3年2月23日・清河八郎以下、浪士隊240余名が上洛し、壬生屯所に向いました。

・同年3月・浪士隊が江戸に戻りましたが、近藤勇一派、芹澤鴨一派は京都に残留しました。これが「新撰組」の誕生です。

・同年9月・芹澤鴨一派が壬生屯所で粛清されました。

・元治元年(1864)6月・新選組が桝屋喜右衛門(古高新太郎)を捕縛した結果、同月5日に長州藩士他の尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した「池田屋事件」が起きました。

・同年8月・長州藩士が「禁門の変」(蛤御門の変)を起こしましたが、逆に会津藩・他に制圧されました。

・同年10月・伊藤甲子太郎一派が入隊しました。

・元治2年2月・山南敬助の脱走が発覚し、壬生屯所で切腹しました。

・同年3月・屯所を西本願寺へ移しました。

・慶応3年(1867)3月・伊東一派と藤堂平助が「御陵衛士」として分離独立しました。

・同年6月・屯所を不動堂村に移転しました。

・同年10月・二条城で徳川慶喜が「大政奉還」を行いました。

・同年11月・伊藤甲子太郎が油小路で暗殺されました(油小路の変)。

・同年12月・「王政復古」の大号令が出され、伏見奉行所に移動しました。

[余史]

・慶応4年(1868)1月・「戊辰戦争」が起こり、「鳥羽伏見の戦」に出陣して新政府軍に敗北しました。

・同年3月・「甲州勝沼の戦」に旧幕府の命により「甲陽鎮撫隊」として参陣して新政府軍に敗れました。

・同年4月・近藤勇は下総流山で新政府軍に投降し、板橋で斬首刑に処せられました。

・同年5月・甲陽鎮撫隊から離脱していた沖田総司は江戸で死去しました。

・明治元年(1868)10月・土方歳三が榎本武揚とともに蝦夷地へ逃避し、

・翌年5月11日に戦死しました。

◆新選組・主要人物

[結成当時]

・局長:(芹澤派)芹澤鴨、(水戸派)新見 錦、(近藤派)近藤 勇、

・副長:(近藤派)土方歳三、

・副長助勤:(芹澤派)平山五郎・野口健二、(水戸派)平間重助、 (近藤派)沖田総司・井上源三郎・永倉新八・原田佐之助・藤堂平助・斎藤 一

[最盛期]                                                                                                                                                        ・局長:近藤 勇、

・総長:山南敬助、

・副長:土方歳三、 ・参謀:伊藤甲子太郎

・副長助勤:

一番隊組長・沖田総司、

二番隊組長・永倉新八、

三番隊組長・斎藤 一、

四番隊組長・松原忠司、

五番隊組長・武田観柳斎、

六番隊組長・井上源三郎、

七番隊組長・谷三十郞、

八番隊組長・藤堂平助、

九番隊組長・鈴木三樹三郎、

十番隊組長・原田佐之助

・監察:山崎 烝・篠原泰之進

【局中法度書】

一、士道に背き間敷事、

一、局を脱するを許さず、

一、勝手に金策致不可、

一、勝手に訴訟取扱不可、

一、私の闘争を不許、

右条々相背候者 切腹申付べく候

◆祇園会所跡 (祇園八坂神社前・現在、コンビニエンスストア)

○池田屋に向かう時、新選組隊士はばらばらに「屯所」を出て、祇園の宵山の祭りに紛れて「祇園会所」に集合し、ここから出動しました。 池田屋騒動新選組探索_京都時代MAP②

【池田屋事変・新選組追捕ルート】

◆池田屋跡(現、パチンコ店:三条木屋町通西入ル北側)

○元治元年(1864)6月5日、いわゆる「池田屋事変」におきまして、尊王攘夷派9名の志士を新撰組が斬殺しました。

◆六角獄舎跡   (六角通大宮西入ル因幡町)

○平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄で、正式名は「三条新地牢屋敷」です。移転を繰り返して、宝永5年(1708)の京都大火以降に中京区六角通りに移転され、六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになりました。

六角獄舎跡【勤王志士終焉之地碑】

○宝暦4年(1754)、医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所で、解剖には死刑囚が用いられました。

○井伊直弼の「安政の大獄」による政治犯や過激な尊皇攘夷派志士らが多く捕らえられて処刑されるようになり、反面、尊皇攘夷思想の強い囚人が集まったため、牢内で囚人達に尊皇論を説いたり、同志と知り合ったりということもあったようです。

○会津藩、薩摩藩によるクーデター「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が巻き返しを図って、元治元(1864)年7月19日(1864年8月20日)京都に進軍した「禁門の変」で市中は大火に包まれ、多くの政治犯が収容されていた「六角獄舎」では、管理を任されていた京都町奉行官吏が『火災(どんどん焼け)が六角獄舎にも及び、過激な志士達の脱走を恐れて』、いまだ判決が定まっていなかった「生野の変」首謀者・平野国臣など囚人33人を斬罪に処してしまいました。しかし六角獄舎に火は回って来ませんでした。

○「安政の大獄」で捕らえられていた村井正礼が記した手記『縲史』に当時の記録が残り、前月の「池田屋事変」の折に捕縛されていた尊皇攘夷志士(古高俊太郎ら)も斬罪されましたが、この件は新選組の仕業と疑われるようになりました。

○明治以後、監獄から保護施設として改築され、斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が埋め立てられてはいますが、跡地に現存、密かな心霊スポットになっているとか・・・

○古図面では、獄舎の敷地は東西約65m、南北約50mで、周囲に堀を巡らし、内部は一般牢、キリシタン牢、女牢などに分かれ、獄舎では日本初の遺体解剖が行われ、その記録を「蔵志」にまとめた医師山脇東洋の業績をたたえる碑も敷地内に立っています。

◆新選組壬生屯所跡(八木邸:壬生梛ノ宮町)

○文久3年(1863)3月~慶応元年(1865)2月、新選組の屯所として使われました。

○八木家は壬生村の旧家でかつて壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめていました。幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧「壬生屯所」として知られています。建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建ち、当家に残る普請願から長屋門が文化元年(1804)、主屋は文化6年の造営であることがわかっています。主屋は西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配し、入口は土間部分に開くほか東南隅に式台を備えた本玄関を配しての北に仏間奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっています。長屋門の外観は腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開き、昔の面影を残しています。

○壬生地区は今日市街化が著しいですが、かつて洛中に近接の農村であり、当家は幕末期の遺構また新選組関連建築として、昭和58年6月京都市指定有形文化財に指定されました。

◆油小路の変跡  (七条油小路辻)

○伊東甲子太郎は新選組に途中参加し参謀となりましたが、後に尊皇攘夷を唱え、『孝明天皇の御陵を守る』との名目で15人の隊士とともに隊を分離し、「御陵衛士」として高台寺塔頭・月真院に屯所を置きました。

○慶応3年(1867)11月18日、伊藤甲子太郎は金子の受け渡しの為、近藤勇妾宅に招かれ、帰途に新選組によって暗殺され、本光寺の門前で息絶えました。

・伊藤の体は本光寺の門前から約100m北の油小路七条の辻まで引きずられて、囮として晒されました。深夜、伊東の遺体を月真院から御陵衛士達が引き取りに来たところを、待ち伏せの新選組が襲いかかり、壮絶な斬合いとなった結果、御陵衛士は藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名が討死し、残り4名は逃走しました。

・永倉新八は藤堂平助(試衛館以来の同志)をわざと逃がそうとしましたが、三浦常次郎によって斬られました。伊東・藤堂・服部、毛内の遺体はそのまま晒されましたが、2日間待っても御陵衛士の残党は遺体を引き取りに来る気配がなかったので、光縁寺に運ばれ、翌年孝明天皇陵のある泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬されました。

◆西本願寺(屯所跡)   (堀川通花屋町下ル)

○慶応元年2月~同3年6月、新選組の屯所でした。

○新選組は隊士が増えて「壬生屯所」が手狭になり、慶応元年(1865)その拠点を西本願寺に移しましたが、この移転に関しては山南敬助と局長・近藤勇、副長・土方歳三との間で意見の相違があったとされ、その後の切腹死の原因となったともいわれています。

○「西本願寺移転」の背景には、当時「西本願寺」は勤皇派との繋がりが深く、長州藩とも親交があったことから、その監視役という要因もあったようです。

○境内にある「太鼓楼」が現存する唯一の関連建造物で、新選組は境内で砲術訓練や酒宴など騒乱が絶えず、大変な厄介者であり、2年後の「不動堂村屯所」への移転の際にはその費用を西本願寺が全額負担したほどです。

◆不動堂村屯所

(七条油小路辻:[記念碑]東堀川通塩小路下ル松明町[リーガロイヤルホテル前])

○慶応3年6月~同年12月、新選組の屯所でした。

○新撰組は、大名屋敷と変わらない威容を備えた立派な「西本願寺」の屯所を、新選組の乱暴狼藉に耐えかねた「西本願寺」によって半ば追い出された形で、慶応3年(1867)・不動堂村に新たな屯所を提供されました。3000坪の敷地に表門、高塀、玄関、使者の間、近藤・土方の各部屋、幹部の部屋、平隊士の部屋、客舎、馬屋、物見櫓、仲間・小者部屋があり、さらに浴場、獄舎まで備えた御殿のような屯所だったそうです。

○近藤らは喜びましたが、直後の「鳥羽伏見の戦」(戊辰戦争)勃発のため半年間しか使用されませんでした。

◆島 原

○京都には上七軒、先斗町、祇園甲部、宮川町、祇園東の5つの花街があり、更にかつて花街として栄えた「島原」がありますが、江戸時代に栄えた「角屋」、太夫を抱える唯一の置屋「輪違屋」などが遺存します。

○「島原」の入り口は「島原大門」で、「島原」には、かつて置屋が約50件、揚屋が約20件あり、「角屋」は唯一現存の揚屋様式の建物です。(期間限定で公開)

○「角屋」は2階建で、螺鈿(らでん)をちりばめた青貝の間、58枚の扇面を貼り混ぜた扇の間などがあり、ふすま絵は円山応挙が描いたと伝わります。与謝蕪村作「紅白梅図屏風」(重文)、「芭蕉・其角短冊、淡々極め」等も遺存します。

○置屋・「輪違屋」は大門の近くにあり、創業は元禄年間(1688-1704年)で、一度建物は焼失し、安政4(1857)年に再建されています。 島原大門_東側③【島原大門】

【参考文献】

1.新創社編:「京都時代MAP:幕末・維新編」、光村推古書院、2003.

2.京都史跡見学会編:「京都洛中散歩」、山川出版社、2004.

【2012年1月15日催行、案内:青井正樹・宮﨑信隆、編集:宮﨑信隆】

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