■第216回行事・アーカイヴス(2011年12月)

★太子道(筋違道)に沿って・島の山古墳・聖徳太子所縁神社・

●聖徳太子が斑鳩宮より飛鳥の宮都までを馬で往復<通勤>したときの通過地にもなっており、多くの歴史的伝承が残されている古代の枢要な「道」跡を辿ります。

コースJR・法隆寺駅~天理軽便鉄道跡~上宮遺跡公園~駒塚古墳~木戸池・天理軽便鉄道跡~安堵・飽波神社~極楽寺~安堵中央公園~中家住宅油掛地蔵~島の山古墳・比賣久波神社~[太子道]~屏風・杵築神社・白山神社~伴堂・杵築神社~黒田・大塚古墳~法楽寺~近鉄・黒田駅    (約12km)

【コース図(赤線):国土地理院発行1:25000地形図「信貴山」・「大和郡山」・「桜井」

コース図筋違道Ⅱ②25000分の1信貴山大和郡山桜井

 

(図上の左クリックにより拡大)

◆駒塚古墳

○太子が諸国に命じて、良馬を求められた時に甲斐から献上された、聖徳太子の愛馬(黒駒;烏駒とも)を葬った前方後円墳と伝わりますが、太子伝に曰く、「太子を乗せて、3日3夜で国中を巡り」、「太子が亡くなられた時には、柩の側に寄り添い、河内の磯長陵まで付いて行き、柩が墓に葬られると、目から赤い涙を流して、悲鳴とともに倒れ、すぐ息が絶えた」との伝承があります。

○発掘調査の結果では、直径49m以上の前方後円墳で二段築成され、葺石を置いていて、4世紀後半(~5世紀初め)築造と推定されています。

駒塚古墳

【駒塚古墳発掘調査図(図上の左クリックにより拡大)

 ◆上宮(かみや)遺跡公園(飽波葦垣宮跡?)

○聖徳太子が妃・膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)とともに晩年を過ごした「飽波葦垣宮」跡と考えられていて、成福寺周辺は「飽波葦垣宮」の伝承地です(大安寺伽藍縁起)。「飽波葦垣宮」はその後も長く存続し、奈良時代には常設の行宮として利用されていたのではないかと推定されています。

○また、称徳天皇(在位764~770年)が神護景雲元年(767)に飽波宮に行幸し、二日間滞在したことが記され、2年後に河内由義宮(ゆげのみや)に向かう途中に立ち寄ったとの記録もあるようです(続日本紀)。 

 斑鳩条里地割20度左傾斜_清水②

【斑鳩地域の偏向地割(約20°斜交):清水原図(図上の左クリックにより拡大)

法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘文は、推古30年(622)正月22日に聖徳太子と膳大郎女が病にかかり、一カ月後の2月21日まず膳大郎女が亡くなり、翌日22日(推古29年2月5日説もあり)に聖徳太子も亡くなった、と記されており、二人の亡骸は2ヶ月前に亡くなった聖徳太子の母・穴穂部間人王后とともに、磯長(しなが)陵に葬られています。

[大阪府南河内郡太子町叡福寺境内:第109回行事で訪問・2002年1月23日実施]。

◆安 堵

○河川に沿った平らな低地を「アト」といい、大和国では(標高が)最も低い土地です。低湿な泥田に最適な藺草を栽培し、外皮を剥いだ髄を蝋燭の芯として昭和43年まで利用されていました。

○一方、空海(弘法大師)は四国から奈良に出てきた14歳頃、この辺りで伯父・阿刀(あと)大足氏に師事した、とも伝わります。推古18年に「新羅・伽耶の賓客を迎え、阿刀の河辺の館に入らせた」「館」の建つ阿刀の港があった、と考えられています。

◆天理軽便鉄道

○JR法隆寺駅北東と木戸池中央に橋桁跡煉瓦組が残存していますが、大正4年(1915)新法隆寺駅(斑鳩町

興留)~平端~天理間・約9kmを建設され、平端以西は昭和20年に休止、昭和27年廃線となりました。

P1070631軽便鉄道址①    天理軽便鉄道線路跡_木戸池

【天理軽便鉄道跡:左・JR法隆寺駅付近、右・木戸池】

 ◆窪 田

○御幸ヶ瀬浜(大和川と富雄川の合流点)東方の集落で、溜め池をもたない、周辺では珍しい集落ですが、「引水権」が佐保川・秋篠川まであったとのことです。

◆飽波神社  (あくなみ・安久波神社)

○祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)ですが、聖徳太子が創祀し、この地が聖徳太子の飽波宮跡(上宮遺跡跡)と考えられ、広峰神社と共に建てられた、との説があります。

○神護景雲元年(767)4月26日に称徳天皇が行幸され、江戸時代以降は安堵庄総社、東西両安堵の氏神で、本殿は春日造の檜皮葺で県有形文化財です。境内末社として住吉、水分、神明、春日社も鎮座しています。

飽波神社【飽波神社】

○「御幸石」は」聖徳太子が座った石との伝承があり、「南無天(なむで)踊り」は江戸時代に雨乞い成就の満願踊りとして始まったそうです。

◆極楽寺   (真言宗・紫雲山)

 極楽寺_東安堵

【極楽寺】           

○用明天皇2年(585)、当時「常楽寺」といい、安堵の「守り神」の牛頭天皇社(飽波神社)と共に聖徳太子の創建とされ、太子没後衰退しましたが、恵心僧都が寛弘3年(1006)一条天皇の勅許をえて再建し、「紫雲山極楽寺」と改名しました。

○永禄12年(1569)、三好順慶・松永弾正の戦いで炎上しましたが、天正5年(1577)・順慶により寺領が復活しました。慶長元年(1596)再建された東之坊を本堂とし、江戸時代は六坊が東安堵全域に及びましたが、貞享4年(1687)東之坊を除き絶えました。本尊は阿弥陀如来座像(國重文)で、大般若経全600巻が保存されています(國重文)。

  

筋違道_位置図

【筋違道の位置図・清水原図(図上の左クリックにより拡大)

◆太子道・筋違道

○この「太子道」はすじかいみち・「須知釈部道」ともいわれ、「太子道」の一つで、推古天皇の摂政として政務を摂るために斑鳩宮から飛鳥(小懇田宮)へと聖徳太子が黒駒で通った道とみなされています。約20kmのこの「太子道」は条里制地割に西へ約20度斜交し、低湿地・氾濫原が多く、約1/4が名残を留め、中宮寺跡・駒塚古墳・富雄川・高安・東安堵・窪田(~飛鳥)の斜めの道路に面影を残しています。古代の寺川と飛鳥川に挟まれ、川西町から田原本町にかけての自然堤防上の微高地にあります。

◆中家・石田家住宅

○窪田の東端に位置し、二重堀に囲まれた平城様式を示す環濠屋敷で、中世・筒井氏一族の窪田氏の平城です。江戸時代に帰農して庄屋役などを務め、民家とし残存しています。主家・表門・米蔵・持佛堂は國重文です。

中家_環濠

【中家・石田家住宅】 (図上の左クリックにより拡大)

  ◆島の山古墳  (島根山古墳)

○「三宅古墳群」*北端の自然堤防上に築かれ、周濠のある墳丘全長200m(2008年)・後円径98m・前方幅93m・後円部高約18m・盾形周濠含む全長265m・幅175mの三段築成された前方後円墳です。全国第40位、奈良県下第20位の大きさで、築造は4世紀末(~5世紀初め)と考えられています。

円部中心に竪穴式石室[南北主軸]内に長持型石棺が納められていたものが、明治15年に盗掘され、石室天井石が持ち出されて比賣久波神社に保管されました。石材は龍山石です[加古川・「石の宝殿」他:第132回行事・2004年10月.23日実施]。

島の山古墳②【島の山古墳】

前方部頂上に粘土槨が検出され、東西10.5m・南北3.4m・深さ0.5mの墓壙内に全長8.5m・幅約2mの粘土槨があり、木棺は墓壙内北寄りに安置されていました。多数の車輪石・石釧・鍬形石や埴輪列・葺石も検出され、発掘品より前方部の埋葬者は女性、との説もあります。北側斜面は急勾配となっているのは、古墳がのっている自然堤防を大和川(寺川)が浸食したためと考えられます。本古墳は蘇我入鹿の墓説もあります。

 *「三宅古墳群」:三宅町付近に遺存する、5世紀後半に築造された小型前方後円墳・墳丘が多い古墳群

◆比賣久波(ひめくわ)神社      

比賣久波神社⑤【比賣久波神社】     

○祭神は久波御魂(くわみたま)神、天八千千(あめのやちち)姫の二神で、旧村社です。

○平安時代成立の「延喜式」に記載のある式内社で、本殿(県指定文化財)は一間社切妻造りの妻入りの身舎に庇をつけた桧皮葺で、春日大社本殿と一致しており、春日大社本殿の旧社殿を江戸時代初期に移築したものと考えられています。

○神社名は、蚕桑(ひめくわ)を意味し、桑葉を神体としたと伝えられ、近くの川西町結崎(ゆうざき)に鎮座している「糸井神社」が機織り技術者集団の神を祀ったと考えられることから、古代にはこの辺り一帯、織物技術をもった集団が住み着いていたと考えられています。

◆油掛地蔵(あぶらかけじぞう)

○『筋違道』沿いの小堂に安置されており、造立は大永3年(1523)で舟型光背の高さが約60cmの地蔵立像です。「できもの」(腫れもの)を治してもらうために願いをかける日には油を掛ける習わし(燃灯供養)があること、当時この付近に水害が多いため、油を掛けて水を弾くようにと言う説もあります。

P1070646油掛地蔵②【油掛地蔵】  

屏風・杵築(きつき)神社    (三宅町屏風)

○大字屏風・三河の鎮守・旧村社で、「太子道」を夾んで「白山神社」の反対側に鎮座する出雲大社系の神社です。祭神は須佐男命(素戔鳴命)で、石灯籠に「牛頭天王(須佐男命)宮」(=八坂神社の祭神、インド祇園精舎の守護神)と彫られています。

○拝殿には県指定有形民俗文化財で、慶応4年(1868)に奉納された「おかげ踊り」の絵馬があり、太神宮の幟(のぼり)を立て、太鼓と三味線に合わせ、30人ばかりの人が整然と踊っている様子が描かれています。この年の伊勢神宮への「お蔭参り」は狂騒的な「ええじゃないか」騒動となり、他に村人が背後に屏風を立てて聖徳太子を昼食接待している絵馬があるため「屏風」の地名となったようです。

○また、「杵」で造営地を突き固めて基盤を造り、柱を立てて、また杵でその周囲を突き固める、という風に、聖徳太子は「建築の神」としても崇められています。太子が新宮造営地を探すために射た矢(一度目)が落ちた場所が「屋就」(矢継)神社の位置で、飛鳥に近いため二回目の矢を放って落ちたところが「屏風杵築」神社、三度目の矢が落ちた「斑鳩」で造営、との説が伝わります。因みに、当地は「橘京」(飛鳥)~斑鳩の距離の2/3の位置にあります。地名は「太子、鵤宮を出て毎日橘京(飛鳥京)推古天皇宮詣られ給う。近道とて須知迦部道を作り、又日中供御者は屏風にて進めしむ。よって屏風を立てる」(顕真「得業口決抄」)などにも依っているようです。

◆白山神社    (三宅町屏風)

○聖徳太子に纏わる「腰掛石」、「駒繋ぎの桜」の伝承があります。

◆名子水(みょうごすい)請堤[受け堤]   (三宅町屏風)

○屏風集落の南側の東西道路は、周囲の水田・集落地より高く築かれた堤防上を走っており、屏風・唐院・保田の集落を洪水から護るために造られました。奈良盆地中央部には各地にあるようです。

請堤①三宅屏風②【名子水請堤】

○「請堤」は旧来の集落を洪水から防御するために築造されている。最近の都市計画で、低地(旧・田地等)に開発された新興住宅地は洪水時に冠水する土地がある。

・奈良盆地では、古代条里制施行により河川の流路をそれに沿って変えた箇所があり、その曲がる箇所で破堤するので、洪水の流れていく先に「請堤」を造ってある。

伴堂(ともんど)杵築神社   (三宅町伴堂)                   

○祭神は須佐男命(素戔嗚命)で、拝殿には、慶応4年奉納の「おかげ参り」、「なもで踊り」の絵馬がかかっており、「おかげ参り」は江戸末期に伊勢神宮のお札が天から降ったという噂がきっかけになり、「ええじゃないか」と言いながら人々が踊り痴れることが流行りました。

 伴堂杵築神社①【杵築神社】

  ◆法楽寺 (天地山・真言宗御室派・田原本町黒田)

○推古天皇から「黒田山礒掛本寺」、元明天皇から「黒田山法性護国王院」の寺号を賜り、本尊は、聖武天皇作と伝えられる「地蔵菩薩」ですが、本物は奈良国立博物館に所蔵されています。

○長禄3年(1459)の墨書銘の板絵には盛時の25坊を数える壮大な伽藍がありましたが、天正元年(1573)の松永・筒井の戦いにより焼失しました。  

◆黒田大塚古墳     (県史跡・田原本町黒田)

黒田大塚古墳Ⅱ黒田大塚古墳

○6世紀初頭(古墳時代後期)の築造と推定されている、前方部を西に向けた前方後円墳で、墳丘長70m、幅8mの周濠、周濠を含む全長86m、後円部径40m、後円部高8.2m、前方部幅45m、同高7.7mの二段築成です。後円部に三等三角点(標高52m)があります。円筒・朝顔形・蓋形埴輪、笠形・鳥形木製品が出土し、墳丘上に立て並べられていたものと考えられていますが、葺石は検出されていません。奈良盆地低地部に墳丘を遺存する数少ない古墳の1基です。

【参考文献】

1.「遺跡地図」、奈良県立橿原考古学研究所友史会編、2010

2.奈良県ならの魅力創造課;「歩く・なら推奨ルートマップ」、2009

3.清水明博:「斑鳩からみた飛鳥」[吉村・山路編:『都城:古代日本のシンボリズム』]、青木書点、2007

4.河上 邦彦:「大和葛城の大古墳群・馬見古墳群」、新泉社、2006

5.前園実知雄:「斑鳩に眠る二人の貴公子・藤ノ木古墳」、新泉社、2006

6.川西商工会編:観光文化遺産、2004

7.上方史蹟散策の会:「太子道・聖徳太子の道を往く」、向陽書房、2002

8.上内 智英:奈良地理学会編;「大和を歩く:ひとあじちがう歴史地理探訪」、奈良新聞社、2000.

【2011年12月10日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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