■第213回行事・アーカイヴス(2011年9月)

熊 野 古 道(Ⅲ)紀伊宮原から湯浅まで

●海南から一つ目の難所「藤白峠」、「拝ノ峠」を越えてきた熊野古道は、紀州に入って二つ目の大河・有田川を渡ります。今回は、紀伊宮原駅を出発し、有田川を渡河後、中将姫所縁の得生寺、糸我稲荷神社を巡り、糸我峠、方津戸峠を越えて、醤油発祥地・湯浅まで歩きます。                                  

コースJR・紀伊宮原駅~天神社~得生寺~糸我稲荷神社~(42)糸我王子址~糸我峠~(43)逆川王子址~方津戸峠~宮西橋~角長醤油資料館~深専寺~JR・湯浅駅 (約7.9㎞)

【コース図(赤線)・国土地理院発行1:25000地形図「湯浅」使用(図上のクリックにより拡大)

 紀伊宮原_湯浅25000湯浅②   

◆熊野詣は、延喜7(907)年、宇多上皇に始まる熊野御幸は、花山法皇、院政期の平安末期~鎌倉初期に最盛となり、白河上皇の応徳3(1086)年[在位44年で9度]~後鳥羽上皇の承久3(1221)年[在院24年に28度]の136年間に延べ100度に及びました。天皇・上皇別では、鳥羽上皇が在院28年に21度、後白河上皇は在院34年に34度、後嵯峨上皇は2度、亀山上皇は1度でした。

◇なお、天皇の在位順・その期間(年:~は院政時期)は、白河(1072-1086~1116)、堀河(1086-1107)、鳥羽(1107-1123~1151)、崇徳(1123-1141)、近衛(1141-1155)、後白河(1155-1158~1192)、二条(1158-1165)、六条(1165-1168)、高倉(1168-1180)、安徳(1180-1185)、後鳥羽(1183-1198~1221)の順で、「熊野御幸」は、出立点は旧「鳥羽離宮」(城南宮)で、鳥羽離宮御殿の「精進屋」で「潔斎」(厳しい衣食住のもの忌み)に始まりました。                                         

◆天神社

・江戸時代、有田川の大洪水により二度にわたり流れついた天神社を地元住民が祀ったことに由来し、宮原の渡し址近くに祀られています。

天神社_宮原の渡し址横【天神社】

◆宮原の渡し  

・現在は宮原橋で渡河します。

宮原の渡し址付近宮原の渡し址付近

◆得生寺 (とくしょうじ)

・「中将姫の寺」として有名で、本堂・開山堂・庫裡・鐘堂・宝物庫があります。

・天正19年(747)に右大臣藤原豊成の娘として生まれましたが、13歳の時に継母のため奈良の都から糸我・雲雀山に捨てられ、3年間称賛浄土教一千巻を書き写したと伝わります。姫の從臣・伊藤春時(剃髪して得生)が姫を養育したところに草庵を結び、「安養院」と号したのが始まりとのことです。

・承平年間(931~7)に「得生寺」と改め、享徳年間(1452~4)に浄土宗となり、文亀年間(1501~03)に山から里の的場に移り、永禄10年(1567)に宮代に移し、寛永5年(1628)に現在地・蓮坪に移りました。

・境内に桜・ツツジが多くて風致がよく、毎年5月14日の会式は参詣者で賑わい、会式の際に行われる「二十五菩薩渡御」は、昭和43年に県の無形文化財に指定されています。

・寺には中将姫の作という「蓮糸縫三尊」、中将姫の筆という「紺地金泥三部経」及び「称賛浄土経」のほか、国の重要美術品に認定された絹本着色の「当麻曼陀羅図」などがあり、開山堂には中将姫及び春時夫妻の座像が安置されています。これは永禄元年(1558)に大和の当麻寺から贈られたものです。境内には昭和47年に建てた万葉歌碑があります。

得生寺 【得生寺】

◆糸我(いとが)一里塚

・「得生寺」の門前南にあり、幕末までは道を挟んで東西に塚がありましたが、明治初年に東塚が除去されたので、現在は西塚だけとなっています。周辺は玉石で下方を積んでおり、塚の高さ1.21mで、基底の面積は約62㎡です。

・中央には周囲6.3m、高さ14.5m、推定樹齢330余年の黒松があり、松と塚が完全に残った代表的な一里塚でありましたが、たびたびの台風で枝幹が折れ、枯死しました。昭和41年に若木と植替えをしましたが、その後荒れ果てていたのを昭和62年に塚を新たに造りなおし、黒松を植え、説明板も設置されました。

糸我一里塚②糸我一里塚跡】 

糸我稲荷神社 

・当社に残る資料「糸鹿社由緒」[文化7年(1810)・当時の神官、林周防が寺社奉行に報告]

では、糸我社の創建は「37代孝徳天皇・白雉3年壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあり、白雉3年とは伏見稲荷神社の和銅年間の創建より約60年も前に遡ります。故に糸我稲荷神社を本朝最初の創建とし、社前鳥居に「本朝最初稲荷神社」の額が上ります。

・祭神は倉稲魂神、土御祖神大姫神で、「」*には「荘中三箇村の産土神なり、古くは殿社も宏麗に神田も多く云々」とあり、この三箇村は現在の糸我地区と須谷(すがい)地区を示します。

・境内には樹齢500~600年の3本の大楠が聳え、市指定文化財です。

糸我稲荷社Ⅱ糸我稲荷神社

[*「紀伊続風土記」:江戸幕府の命を受けた紀州藩が、文化3(1806)8月、藩士で儒学者・仁井田好古を総裁として編纂させた紀伊国の地誌]

(42)糸我王子   (有田市中番)

・有田川を渡り、糸我峠への上り坂の途中にありましたが、藤原宗忠は天仁2年(1109)十月十八日に有田川を仮橋で渡り伊止賀坂を上りましたが、日記『中右記』には(糸我王子のことは)書かれていません。

・建仁元年(1201)10月9日条に「次参いとカ王子、又稜険阻昇いとか山」とあり[熊野道之間愚記]、承元4年(1210)には藤原頼資は修明門院に随行して四月二十五日に「糸我王子」に参拝しています[「頼資卿記」:寛喜元年(1229)]、藤原定家も後鳥羽上皇の熊野御幸に随行して『いとカ王子』に参っています。

・近世には、近くの「水王子社」に対して、「上王子」と呼ばれていましたが、「紀伊続風土記」*には「廃糸我王子」と記され廃絶したようです。

糸我王子跡現・糸我王子社

・明治初年までは社殿もあったと伝わりますが、明治40年に稲荷神社に合祀され、その後、平成7年愛郷会により再建されました。

糸我峠  (標高180m)

・南側に真直ぐ下ると「逆川王子」を経て湯浅方面に繋がります。かつては道を挟んで2軒の茶屋があったそうです。峠の南側を西に行くと施無畏寺へ、東に行くと雲雀山へと道が続く『紀伊名所図会』には、貯えておいた名産のみかんを売っていたそうです。

・「熊野道之間愚記」(『明月記』所収)には「次にイトカワ王子に参る。また険阻を凌ぎてイトガ山を昇る」と記され、峠の南側には湯浅湾から広川付近の眺望が広がります。

糸我峠 【糸我峠

・「平家物語」では、ここで白河上皇が輿から降りて休息したとき、平忠盛が白河院から賜った紙園女御が男子を出産していたことをやっと報告し、その子に清盛と名付けた話が書かれています。

夜泣き松

・この付近に後鳥羽上皇の手植えの木だと伝わった大きな松の木がありましたが、平治元年(1159)、平清盛の熊野詣に子連れの女房が随行していて[清盛のこの熊野詣の隙を狙って源義朝が兵を挙げ、平治の乱が発生]、詣での途中、住民に「子供が夜泣きをするので大変困っている」と訴えた時、この近くの大きな松の木の皮を削って燃やし、その煙を吸わせると夜泣きが治ると勧められ、やってみたところ夜泣きが治ったとのことです。

(43)逆川王子(さかさがわおうじ) (湯浅町吉川)

・「糸我王子」から糸我峠を越えて下り坂に入り、四辻を過ぎてしばらく進んだ辺りに跡地があります。

・「熊野道之間愚記」(「明月記」所収)建仁元年(1201)10月10日条に「逆河王子」とあり、「民経記」承元4年(1210)4月26日条に「サカサマ王子」という王子の名だけでなく割書きに「水逆流有此有名云々」と書かれています。湯浅湾に流れ込む山田川の支流のひとつで王子の近くを流れる逆川のことで、郡内の他の川が西に向かって流れるのに、この川だけが東に向かって流れることから逆川の名が付き、後に周辺の地名にもなりました。

・江戸時代には吉川村の氏神として崇敬され、境内に地蔵堂があったらしく、明治44年に国津神社に合祀されましたが、昭和12年に社殿と石段を寄付により新たに再建された、県指定史跡です。

逆川王子(神社) 逆川王子社(右・祠)】 逆川王子祠

方津戸峠(ほうづととうげ・方寸峠:標高50m)

・標高が僅か50mの峠ですが、津波災害時の湯浅町民の避難場所となっているところです。

方津戸峠Ⅲ② 【方津戸峠

・「方寸」とは一寸四方の狭いところの意味で、ここは古来「方津々坂」・「程違坂」などと呼ばれ、熊野参詣の旅人は遠くの鹿ヶ瀬峠、湯浅湾などを眺めて休息しました。

・後白河法皇の腰掛石跡碑、弘法井戸があり、2体の地蔵が祀られています。

湯浅・角長(かどちょう)

・今から約750年前の鎌倉時代に、禅僧・覚心(後の法燈国師)が宋より「径山寺味噌」の製法を伝え、帰国後に改良の末、湯浅の水が良かったことから醤油が作られるようになった。これが我が国の醤油の発祥の由来である。
覚心と湯浅醤油略史信州・松本に生まれ、19歳で高野山へ登り仏法の修行に励み、覚心は鎌倉幕府の三代将軍・源実朝、実母・尼御前政子らの支持のもと、まず杭州径山興聖萬壽禅寺・湖州道場山護聖萬歳禅寺・明州育王山広利禅寺・台州天台山国清寺・明州大梅山・江蘇省金山竜遊江寺、そして杭州護国仁王禅寺で6年間修行しました。その間杭州・径山寺では味噌の製法を習い、明州・広利禅寺(現阿育王寺)では将軍実朝の遺骨を納め、供養に務め願性との約束を果たし、鎮江金山寺で「豆し」(豆と塩を和した食品)の製法を学びましだ。

・覚心(法燈国師)の一派(禅宗・法燈派)が唱え続けたお提目:「朝味噌夕醤湯」

◇室町・安土桃山時代の湯浅醤油商品としての出荷も湯浅が最初で、醤油とは醤(ひしお)を搾った汁という意味ですが、天文4年(1535)には、醸醤家「赤桐右馬太郎」が百余石の醸造をなし、漁船に託して大坂雑魚場小松伊兵衛方に初めて出荷しました。これを契機に、湯浅の醸醤家は他国に積み出すに至り、天正19年(1591)の豊臣秀吉の小田原征伐に当り、湯浅の譲醤家・赤桐三郎五郎が兵糧米を献上した縁の恩賞として大船一槽代々相伝の事が許されました。従来、多くは漁船に託して積み出していて、初めて大船一槽を建造して醤油積み出し甲に充当する許可を得ました。

江戸時代の湯浅醤油千戸の湯浅の町に醤油屋は92軒を数えましたが、製造技術も進み、藩外販売網も拡大され、享保年間(1716~36)には湯浅組広村の濱口儀兵衛・岩崎重次郎・古田荘右衛門らは醤油を江戸で販売する事に着目し、銚子で醸造を開始するに至り、湯浅醤油の領野が東国にまで拡張される結果となりました。この発展の陰には紀州藩の保護があり、製造者の店頭に「御仕入醤油」の標札を掛ける事が許され、醤油船の帆柱に丸にキの字の旗をあげさせて御用船並みの権利が与えられました。無利息年賦の資金の貸付のほか、問屋の代金支払に税の不納と同様の方針で取り立て、町内一同の共同責任として弁償もさせました。

角長_醤油醗酵桶【角長:醤油醗酵桶】

明治以後の湯浅醤油明治維新とともに、紀州藩の保護がなくなり、同業者はこの危機に処するため製造法の改良と品質の向上に努めたましが、近年、他県の大量生産による大手メーカーの進出により、その声価は漸次衰えつつあります。しかし、湯浅醤油の伝統は昔の呼び名「湯浅たまり」の製造手法とともに紀州湯浅に残っています。

◇「角長」では、天保12年(1841)から170年の歴史を秘めた蔵、吉野杉の木桶、「湯浅たまり」の伝統的な製造方法を頑なに守り続けているそうです。

角長【角長・本店】

深専寺  (じんせんじ・西山浄土宗)

・開基は明秀上人とも伝わりますが、奈良時代に行基の開祖による「海雲院」として創建されたと伝わります。平安末期に盛んになった熊野三山への信仰により、熊野街道の通る湯浅が交通の要害として発展していましたが、寛正3年(1462)[永享3年(1431)とも]頃に、荒廃していた「海雲院」を赤松則村の曾孫である明秀上人が、浄土宗西山派の教えを持って「深専寺」と改称し再興しました。

深専寺【深専寺】

・再興年代については諸説あり、「紀伊名所図絵」や「紀伊続風土記」には宝徳年間(1449〜51)とされていますが、承応年間(1652〜54)の「湯浅の大火」によって全焼し、寛文3年(1663)より浄財公募による再建の際、紀州藩徳川頼宣より財政支援を受けました。本堂は「大津震津波心得の記」石碑とともに和歌山県指定有形文化財です。    

道町通りの道標のある角を西に寺町通りを進むと右手に深専寺があり、その山門入口左側に「大地震津なみ心え之記」碑があります。

・嘉永7年/安政元年(1854)11月4日(新暦12月24日)の「安政東海地震」(M8.4)とその32時間後の「安政南海地震」(M8.4)が連続して和歌山を襲い、強烈な揺れを繰り返し、湯浅地区や広村も大津波に襲われました:地震発生2年後、安政3年、深専寺住職・善徴上人(承空上人)の代に建立された、全文528文字は平易な仮名交じり文の石碑です

[碑文正面・原文]

『嘉永七年六月十四日夜八ッ時下り大地震ゆり出し翌十五日まで三十一二度ゆりそれより 小地震日としてゆらざることなし 二十五日頃ゆりやミ人心おだやかになりしニ同年十一月四日晴天四ッ時大地震凡半時ばかり瓦落柱ねぢれたる家も多し 川口より来たることおびただしかりとも其日もことなく暮て 翌五日昼七ッ時きのふよりつよき地震にて 未申のかた海鳴こと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり 津波といふやうな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき 家 蔵 船みぢんに砕き高波おし来たる勢ひすさまじくおそろし なんといはんかたなし これより先地震をのがれんため濱へ逃 あるひハ舟にのり又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ 溺死の人もすくなからず すでに百五十年前宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれまれになり 行ものなれハこの碑を建置ものそかし 又昔よりつたへいふ井戸の水のへり あるひハ津波有へき印なりといへれども この折には井の水乃へりもにごりもせざりし さすれハ井水の増減によらずこの後萬一大地震ゆることあらハ 火用心をいたし津波もよせ来へしと心え かならず濱邊川筋へ逃ゆかず 深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし    恵空一菴書』

[碑文正面・現代語訳]
『嘉永七年(1854)六月十四日、深夜三時頃、大きな地震が起こり、翌日の十五日までに三十一、二度揺れ、それから小さな地震が毎日のように続いた。六月二十五日頃になってようやく地震も静まり、人々の心も落ち着いた。
しかし、十一月四日、晴天ではあったが、午前十時頃また大きな地震が起こり、およそ一時間ばかり続き、瓦が落ち、柱がねじれる家も多かった。河口には波のうねりが頻繁に押し寄せたが、その日も大きな被害などもなく、夕暮れとなった。
ところが翌日の五日午後四時頃、昨日よりさらに強い地震が起こり、南西の海から海鳴りが三、四度聞こえたかと思うと、見ている間に海面が山のように盛り上がり、「津波」というまもなく、高波が打ち上げ、北川(山田川)南川(広川)原へ大木、大石を巻き上げ、家、蔵、船などを粉々に砕いた。其の高波が押し寄せる勢いは「恐ろしい」などという言葉では言い表せないものであった。
この地震の際、被害から逃れようとして浜へ逃げ、或いは船に乗り、また北川や南川筋に逃げた人々は危険な目に遭い、溺れ死ぬ人も少なくなかった。
既に、この地震による津波から百五十年前の宝永四年(1707)の地震の時にも浜辺へ逃げ、津波にのまれて死んだ人が多数にのぼった、と伝え聞くが、そんな話を知る人も少なくなったので、この碑を建て、後世に伝えるものである。
また、昔からの言い伝えによると、井戸の水が減ったり、濁ったりすると津波が起こる前兆であるというが、今回(嘉永七年)の地震の時は、井戸の水は減りも濁りもしなかった。
そうであるとすれば、井戸水の増減などにかかわらず、今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること。 恵空一菴書』

大地震津なみ心え之記碑【「大地震津なみ心え之記」碑】

[参考文献]                             

1.有田市ホームページ : http://www.city.arida.lg.jp/

2.きのくに風景賛歌ホームページ : http://www.kinokuni-sanka.jp/

3.有田南ロータリクラブ・現地案内盤。

4.防災システム研究所ホームページ : http://www.bo-sai.co.jp/

5.吉田昌生:「熊野への道」、向陽書房、1999

【2011年9月23日実施・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】

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