■第212回行事・アーカイヴス(2011年7月)

近世・東海道(その2) 石部宿 と 天井川 

●かつて、東海道第51番目宿場として栄えた「石部宿」と野洲川周辺の天井川の変貌を観て歩きます。    

コース:JR甲西駅~由良谷川隧道[JR草津線・東海道]~家棟川隧道跡~上葦穂神社~吉姫神社~あけぼの公園~石部宿[一里塚跡・小島本陣址・三大寺本陣址・問屋場跡]~吉御子神社~石部駅  [約6km] 

【コース図(赤線):国土地理院発行1:25,000地形図「野洲」

212回野洲三雲25000天井川石部宿②

(図上の左クリックにより拡大)

由良谷川   (天井川)

○「由良谷川隧道」:「東海道」に明治19年(1886)に築造された花崗岩の切石積みのトンネルで現在も使用されています。構造は欠円アーチで、長さ16.06m・高さ3.64m・幅4.55mの規模で、JR草津川の隧道と同じ年に竣工しました。「石構造」には坑門、内部切石、丸状迫石(江戸切)、要石、帯石、笠石などがあり、笠石に扁額が埋め込まれています。           
由良谷川トンネル②由良谷川隧道:東海道
○JR草津線の「由良谷川隧道」は線路の両側の土盛を少しだけ残して「水路」を渡した状態で遺存している。

JR草津線由良谷川隧道_川床跡【由良谷川隧道跡:JR草津線

家棟(やのむね)   (天井川)

○「東海道」と交叉する所には、明治19年に築造された「家棟川隧道」がありましたが、昭和54年に撤去されて、現在は平地化され家棟川橋が架けられています。段差は天井川を平地化するために掘り下げました。   家棟川橋上から上流200mほど上流側に天井川を平地化するために掘り下げた5~6mの段差がつられています。

家棟川_東海道上流側工事後 [「家棟墜道」の上流の川跡]

上葦穂(かしほ)神社

○祭神は伊邪那岐尊と國常立尊です、摂社が三社祀られています。天智天皇3年(670)、勧請して社殿が創建されて産土神とされました。

○藩領地境界石(2本)は境内に移送されて安置されていて、「従是西本多伊勢守領」(これより西は本多伊勢守領)と「従是東本多伊勢守領」(これより東は本多伊勢守領)

「従是東本多伊勢守領」境界石_従是東本多伊勢守領②    

 「従是西本多伊勢守領」境界石_従是西本多伊勢守領②

吉姫(よしひめ)神社

○創祀年代は不詳ですが、御旅所のある「上田」の地に祭祀されていて、明応年間(1492-1501)の兵火により焼失しましたが、天文3年(1534)[寛保3(1743)年説もあり]現在地に遷座し祭祀されています。祭神は上鹿葦(かしほ)津姫神、吉比女大神で、社蔵の木造狛犬は南北朝時代の作と伝わり、北方約1㎞に座す「吉御子神社」は本神(女神)に対する男神です。

◆宮の森公園(あけぼの公園)

○5世紀頃に造成された前方後円墳で、現在は後円部のみ残存します。

◆石部宿

○「東海道」の江戸より51番目の宿場で、「京立ち石部泊り」と言われて京都を出て1日の行程の位置にあります。

宿場としての成立は、①古代東海道に「石部驛家」が設置された時点(長治2年(1105)には、源雅実が伊勢勅使として通過[雅実公記])、②元亀2年(1571)に織田信長の統治下で5カ村(田中村、植田村、谷村、蓮村、平野村)が合わせて「石部町」(まち)を形成した時点(「石部町史」)、③慶長2年(1597)の豊臣秀吉治下で信濃・善光寺の輸送に役夫・伝馬を課せられた時点、④慶長6年に「東海道」各宿に朱印状が発せられ伝馬徴発の定書が下付された時点、⑤「慶長7年・検地帳」には伝馬36匹、60坪地子免除の記載があります(新修石部町史)、⑥元和年間(1615~23)の記録(伴信友「神名帳考証」)に残る時期(石部町史)、などの諸説があります。

○宿場の構造は、本陣2軒[小島本陣(仲町)、三大寺本陣(谷町)]、旅籠32軒を含む458軒が街道の

両脇約1.6km・14の町にわたって建ち並び(天保14年(1843)現在)、その中央には宿役人の詰める問屋場・高札場(大亀町)、西端・下横町に一里塚を構築、「宿」出入り口に目見場が設置されて、往来を監視していました。

○役人組織は、享保3年(1803)の「御分間御用向帳」には「宿」問屋役など計19人、天保14年(1843)では問屋は18人、普段は問屋1、年寄書役兼1、馬指1、人足割役1、定使2、飛脚1人が日々交代の勤務でした。

○「助郷」制度として、宿人馬100人・100疋のうち、5人・5疋が定囲で、25人・25疋が臨時御用掛、それ以外は「助郷」で賄われていました。元禄7年(1694)には大助郷26カ村を定めました。「助郷」を負担した村々は年々その勤労奉仕で困窮化しています。

○宿泊者には、幕末の文久3年(1863)・征夷大将軍・徳川家茂が上洛の際に、同4年・新撰組局長・近藤勇が江戸下向の際に、それぞれ小島本陣に宿泊し、同3年の一橋慶喜の上洛(将軍就任前)の際には小島本陣に小休止しました。

○「立場」(たてば)は江戸方面に進むと、源口宿との間、現在の湖南市夏見に藤棚を備えた「立場」がありましたが、ここの茶店が『心太(ところてん)に黒蜜をかけて食べる』方法の発祥の地という説があります。

○「立場」(たてば):人夫が杖を立てて休憩する所から名付けられ、「宿場」と「宿場」の中間に置かれる「間宿」と「宿場」との中間に設置され、江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設であり、「継立場」(つぎたてば)あるいは「継場」(つぎば)ともいわれました。江戸時代の宿場は、原則として道中奉行が管轄した町で、五街道などで次の宿場町が遠い場はその途中に、峠のような難所がある場合その難所に休憩施設として設けられました。茶屋や売店が設けられ、「峠の茶屋」も「立場」の一種で、馬や駕籠の交代を行なうこともありました。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもあり、「立場」として特に繁栄したような地域では、「宿場」と混同して認識されている場合があったようです。

宿場風景②

上図では、「高札」に馬の料金等を掲示し(中央左下)、役人が「御用札」を確認中(中央上)、伝馬(中央右下:高札右○)、継飛脚(右上端○)、 問屋場((貫目改め中か:右下○・伝馬下)

吉御子(よしみこ)神社   (湖南市石部西)

○崇徳天皇(1123-42年)時代に開創されたと伝わり、本殿は、幕末・元治2年(1865)に京都・上賀茂神社の旧本殿を移築されて、棟札とともに国重要文化財に指定されています。

○祭神は吉彦命・鹿葦津姫命・吉姫命で、配祭神に誉田別命(応神天皇)・猿田彦命を祀ります。

○南方約1kmに位置する「吉姫神社」(前記)は、吉御子神社の男神に対する女神という関係で、木造吉彦命坐像(附・木造随神坐像2躯)は平安時代の木造といわれています。

【参考資料】

1.八杉  淳:淡海文庫43「近江の宿場町」、サンライズ出版、2009.

2.菅野 俊輔:「江戸の旅は道中を知るとこんなに面白い」、青春出版社、2009.

3.武藤善一郎:「伊勢路に道しるべを訪ねて」、サンライズ出版、2004.

4.西山 卯三:「滋賀の民家」、かもがわ出版、1991.

石部宿_漆喰塗町屋② 

【石部・漆喰塗町屋:西山原図】

【2011年7月10日催行、案内:青井正樹・宮﨑信隆、編集:宮﨑信隆】

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