第210回行事・アーカイヴス(2011年5月)

★高瀬川に沿って京都~伏見の水運・加茂大橋~陶化橋

●京都の中心部と伏見港を結ぶ水運「高瀬川」は、慶長16(1611)に角倉了以により開削され、京都~伏見~淀川~大坂、更に西國航路へと繋がり、近世・京都の歴史に大きな影響を及ぼしました。また、幕末には、この界隈が激動の舞台ともなりました。それらの「蹟」(あと)をたどります。

コース京阪出町柳駅*~加茂大橋~東一条取水点~荒神橋~(丸太町橋)~水注ぎ川~(二条大橋)~樋の口~高瀬川出発点~「一の舟入」跡~(御池橋)~大村益次郎・佐久間象山遭難碑・池田屋跡・三条小橋~瑞泉寺~酢屋~二の舟入橋~南車屋橋~坂本龍馬・中岡慎太郎遭難碑~四条小橋~五条大橋~七条小橋~内浜水路分岐点~旧水路分岐点~(現・流路)~(九条・東山橋)~十条・陶化橋~旧・流路跡道路~JR京都駅  (約8km)

【コース図(赤線):国土地理院発行1:10000地形図「京都御所」・「東山」使用

(左図の鴨川上端[加茂大橋]より出発して、西岸を南下して二条大橋から鴨川西側の「高瀬川」に沿って南下(赤線)、JR東海道線、九条通を潜って、陶化橋へ向かいました】  (図中の左クリックにより拡大)

コース図加茂大橋_陶化橋10000分の1京都御所東山 ②

◆鴨川と高瀬川

○現在の「高瀬川」は加茂川と高野川が合流して「鴨川」となって三つ目の堰の右岸鉄柵取水口から暗渠に流入して、「高瀬川」は始まります。現在の「高瀬川」の水源取入口です。その後、丸太町橋の下流約200m地点より「みそそぎ川」として暗渠から外界に現れ出ます。以前は、二条「樋之口」で鴨川から取水していましたが、洪水後に鴨川を浚渫したので、上流より取水せねばならなくなりました。「高瀬川」水路の長さは、二条~鴨川九条間が4,838m、鴨川横断水路が115m、鴨川横断地点~(伏見)三栖間は5,606mで、この間を「東高瀬川」といわれていますが、総計10,559mとなります。

◆高瀬川の開削 =2011年は「高瀬川」開削開始400周年=

□角倉了以の略歴と業績

・「高瀬川」は角倉了以が開削した運河で、慶長16(1611)に着工され、同19年伏見まで開通しました。角倉氏は宇多天皇の末裔といわれ、本姓は吉田氏、近江源氏佐々木氏の出と伝わります。佐々木四郎高綱(宇治川先陣争い)の弟・佐々木六郎厳秀が犬上郡吉田に住み、以後、吉田氏を称しました。その九世子孫・徳春が京都に出て、号・仁庵といい、第4代将軍・足利義持に仕えて法印*に叙されました。晩年、嵯峨角蔵に閑居して「角蔵」と称しましたが、京都所司代・板倉勝重(1603-1619年[慶長・元和年間]在任)の勧めで4代後の光好(了以)の代に「角倉」と改姓しました。

[「法印」:僧位の一つで「法印大和尚位」の略で、僧位としては貞観6年(864)に設けられ、「僧正」に与えられる階位で、真雅(平安前期の真言宗の僧)が最初に叙位された。「僧正」相当の僧位が原則だったが、長保5(1003)石清水八幡検校の聖清が凡僧で「法印」に叙されて後は原則が崩れて「僧都」、「律師」にも授けられ、その数も増加]

・角倉了以の父・宗桂は天竜寺長老・策彦に従い明に渡り、医術を修めて再渡明の際に皇帝に薬をすすめて名声が上がりました。角倉光好(了以・はじめは与七)は天文23年(1554)の生れで、慶長19年(1614)に死去していますが、文禄元年(1592)に秀吉の朱印状を得て、光好、茶屋四郎次郎、伏見屋らが長崎から南蛮貿易を始めました。慶長8年(1603)、上意により安南と交易を行い、同9年、丹波国殿田村~保津~嵯峨間3里の大堰川の川普請を願い出て、同10~11年許可を受けて施工しています。「高瀬舟」の通行を可能にして、角倉家は往来船から「通行料」を得ることを許されています。

・慶長12年に家康より富士川(岩淵~鰍澤間18里)の開削を命ぜられ、同17年竣工しました。明治末の鉄道開通まで舟運として利用され、また諏訪~遠州掛塚に舟運開通を命ぜられ、江戸末期まで利用されました。

・慶長14年、方廣寺大仏殿再建工事を開始しています。

 P1020901 

【高瀬川出発点(角倉邸跡=日本銀行京都支店東裏)】

               P1020904【一ノ舟入跡】

□高瀬川開削

・慶長15年(1610)[高瀬川開削の前]、了以により「鴨川運河」が開削されましたが、伏見~市内間2里において、

6丈(18m)の落差があったために十数か所の「水溜り」、閘門開閉、「龍車」蓄水、轆轤操作などを活用して、京都・大仏殿造営の材木等の運搬に利用されました。慶長16年11月に息子・与一が駿府に家康を訪ねて鴨川の疎通、大仏殿完成を報告しています。

・これに先立つ、慶長16年3月、三条~鳥羽の「鴨川運河」の完成により、後水尾天皇の即位儀式のための禁中造営にも利用されましたが、鴨川の洪水のたびに設備の流出等の甚大な被害をうけました。そのため、慶長16年、了以が新運河の開削を願い出て、「高瀬川」の開削が進み、慶長19年(1614)に二条~伏見間の全川開通に至りました。

□高瀬川開削当時の規模                    [慶長19年秋頃完成]

・「高瀬川」の「長さ」・「広さ」は、次記のようです(『角倉文書』慶長19年):

・二条~五条:1,077.5間(幅4間・4,310坪)、舟入9カ所(計4,200坪)、舟廻2カ所(120坪)、合計8,730坪、

・五条~丹波橋:3,498間(幅4間・12,936坪)、

・丹波橋~淀川:1,072間(幅4間・4,290坪)。

・全長:5,64811,125)、総工費:75,000両、総年貢:173石、許可艘数:当初160艘。

・一方、『東高瀬全部実測図』(寛政13年(1801)絵図)では、全長5500間(10833)で、二条~三条間238間(470m)、三条~四条間316間(623m)、四条~五条間506間(998m)、五条~九条間1,464間(2,885m)、鴨川~丹波橋:1,927間(3,797m)、丹波橋~三栖間1,044間(2,058m)と記されています。

◆高瀬川の主な地点における標高・距離  

[京都市都市開発局発行・2500分の1図]

                                       標高              水位                 距離             勾配

                                      (位置・m             (m)                    (m)          (Xm10000m)                         

加茂大橋                      53.4(川端今出川)          47.2m(鴨川)        

東一条取水点                    49               47

丸太町橋                    45.4             41.2

みそそぎ川                     43.9                        –

二条大橋                      42.2           38.2

高瀬川出発点                      42                       41                以上、1,906m

御池橋                         41.3(木屋町御池)

三条小橋                            39.3                        二条~三条: 400m    [25/10000]

紙屋橋  (二ノ舟入橋)             37.6                   33.9(鴨川)

四条小橋                       38.1                               三条~四条: 569m   [33/10000]

                                                                                    [累計2,876m]

綾小路橋                    35.7(団栗西)

五条橋                          36.3(西詰)                     四条~五条: 964m   [19/10000]

正面橋                            31.9(東詰)

七条小橋                          31.3                  五条~七条: 785m   [63/10000]

                                                                                  [累計4,624m]

内浜水路分岐点                   29.1(塩小路高倉)

東九条(西岩本町)                  26.9

第一次水路変更合流点            26.6

鴨川合流点(福稲高原町)         24                  七条~合流点:2,119m   [34/10000]

                                                                                   [累計6,744m]

           ★  ★  ★  ★  ★

稲荷橋                               20.5

七瀬川合流点北             16.8

疎水合流点                         16.7

三栖 剣先                         13                      鴨川門樋~三栖:5,606m     [20/10000]

                                                                                [累計12,350m]

◆高瀬川の舟入り 

[ 鴨川は寛永年間に比し、現在は東へ30~90m移動している]

舟入りの所在・規模

・伏見の三栖が「高瀬川」の終点で、「過書船」(三十石船)との荷物の積み替えを行いましたが、三栖~二条間の船の繋留地、即ち「舟入」は沿岸の浜地を利用していました。何れも、高瀬川の西側に西方へ向けて長方形に掘りこまれました:各「舟入」の所在地・利用時期・広さなどは次のようでした:

一ノ舟入:(一之舟入町・日本銀行支店南方)寛永18(1641)年~昭和28年に使用の記録があり、史跡に指定されており、現在、遺存の広さは92m×10.5~12mで、かなり広いものです。

ニノ舟入:(一ノ舟入町・毛利邸中央)元禄3(1690)年~寛保2(1742)年に使用の記録があり、その後、毛利邸に取り込まれました。

三ノ舟入:(下丸屋町・御池通下ル、ロイヤルホテル北)寛永(1624)~万治(1661)年間~明治9年に使用の記録があり、安永年間には、45間×8間(86×16m)でした。

四ノ舟入:(恵比寿町橋北・三条通上ル・ロイヤルホテル南方)慶長17年~明治9年に使用の記録があり、寛永~寛政年間には35~45間×幅3~13間でした。

五ノ舟入:(大黒町・三条通下ル)寛永~万治年間~大正元年に使用の記録があり(大正末期まで存在)、大黒町通は龍馬通ともいわれていました。寛永~明治年間には36~52間×3~7間でした。

六ノ舟入:(山崎町南)寛文(1661~73)年間~大正元年に使用の記録があり、旧京極邸~井伊邸付近にあり、明治年間には35間×幅2~4間でした。

七ノ舟入:(奈良屋町・蛸薬師北側)寛永~万治年間~寛保元年の凡そ50年間に使用の記録があり、旧松平土佐守邸北側で、寛永年間には32間×7間(約58×13m)でした。

地図_舟入一_九

【舟入設置図:石田原図(図中の左クリックにより拡大・左[北]から順に「一ノ舟入」①から右[南]へ「九ノ舟入」⑨まで)

八ノ舟入:(備前島町・紙屋町・大坂町の間・立誠校校庭南縁)寛永~万治年間~明治10年に使用の記録があり、

寛永~安永年間には26~32間×6~8間でした。

九ノ舟入:(紙屋町・米屋町・四条通北方)寛永18年(1641)~大正元年に使用の記録があり、寛政年間には奥行24間×幅3間、明治43年には奥行3間×幅10間ありました。

舟廻し:四条より下流に設置されたもので、「舟入」の小規模のものです:

・船頭町舟廻し:(四条小橋下ル)享保11年、角倉の抱地浜に接した、小便揚場に貸用して設置されました。安永年間の規模は4間×1間2尺、明治42年には3間余×2間余でした。

・天満町舟廻し:(高辻橋下ル)寛文12年(1672)年に初めて記録に出ましたが、安永年間では19間×4間、明治以降には2間半×4間半でした。

・西橋詰町舟廻し:(万寿寺橋下ル)元禄2年(1689)に設置され、当初は5間余×9間でしたが、明治40年には3間半×5間半の規模でした。

・聖真子(しょうしんじ)町舟廻し:(六軒町下ル・上ノ口上ル)寛政13年に記録がありますが、規模は5間×9間1尺でした。

・梅湊町舟廻し:(正面上ル・六条中ノ口)上記と同年代に設置され、間口8間だけ判っています。

内 浜

・高瀬川の流路変更に伴う施設として、「舟入」を原型に沿岸周辺部開発のために、逐次発展を遂げた「水路」(舟入)と「浜」を備えたもので、七条通北側に位置されました。「お土居」の内側に構築され、西行280m×幅7mあり、「七条内浜」といわれました。最大規模の「舟入」であり、市内最南端の「荷揚場」であり、「舟溜り」と「貯木場」の役目も負っていました。慶安元年(1648)に建設が開始されましたが、その名残として市電停留所名は七条河原町でなく「内浜」で通っていました。

内浜_地籍図_部分②③

【内浜:石田原図(土地台帳写・図中の左クリックにより拡大・左が西、右が東[高瀬川側]東西の水路長271m・幅6.6-6.8m)

◆高瀬川への架橋

○当初、「高瀬舟」が上り下りしていた頃は、架かる「橋」は橋桁が水面よりかなり高い位置にあり、道路が橋に上り坂になるか、階段を設置して人は橋を渡っていましたが、牛馬車・荷車は川中へタラタラ坂を下りて入り、対岸へ上る「車道」が設置されていました。市電の通行が始まっても、道路に勾配が残っていました。

◆高瀬川探訪・主な橋の変遷

□取入口~二条

現在は加茂大橋下流の取水口~暗渠~みそそぎ川~二条樋之口~「二条苑」(寿司店)内と流れていますが、安政元年に御所造営のため、荒神口(清和院口)まで遡上延伸工事がされ、更に後年北へ延長されました。

・橋としては、荒神橋が取水口より下流460mに架かります。

・史跡等に関しては、大和屋旅館(丸太町上ルの桂小五郎が新撰組の急襲を幾松の機転で逃れた時の旧・吉田屋跡)、頼山陽邸跡(文政11年以後に居住した『山紫水明処』で、「日本外史」の著者)、木戸孝允邸跡(みそそぎ川・開口部の西方にあり、明治10年5月26日ここで死去)、角倉馬場屋敷跡(二条上ル、旧ホテルフジタ跡地)などがあります。

P1020910  【橋の袂に階段設置】                              二条~三条

二条木屋町は高瀬川「本流」の始まりで、「三ノ舟入」付近に「堰止め石」(水不足時に板を立て水位を上げた)が遺存します。

としては、樋ノ口南・北橋(高瀬川出発点の水路の「蓋」的なもので、地名・東生洲町は創始以来の名残り)、樋ノ口東・西橋(高瀬川最北端に架かっていたが、車道を「蓋」されて消滅。「樋ノ口」は[高瀬川]取入口の意)、長門橋(押小路橋・長州屋敷北通橋ともいわれ、一帯は一ノ舟入町で「一ノ舟入」南側)、塗師屋橋(現・御池橋の位置あり、長州藩邸の南側)、鍋屋橋(上大阪町~下丸屋町間に架かり、上車屋橋、明治中期には「丸屋橋」、平成3年には「上車屋橋」といわれた。当初、西岸付近は角倉家の土地・屋敷があり、のち対馬藩邸となり、天明大火後、カトリック教会、ホテルと変遷)、生洲橋(上大阪町~恵比寿町間に架かり蓬莱橋、次いで姉小路橋といわれた。以前、南に「四ノ舟入」があった)、納屋橋(上大阪町~恵比寿町間に架かり、川・通りがくの字に曲がり、浜に納屋が並んだ。北に「四ノ舟入」があった)が架かっています。

幕末史蹟_二条三条間ヨコ

【二条~三条間の幕末史跡:石田原図(図中の左クリックにより拡大・左[北]側の二条通から高瀬川に沿って南へ角倉邸・一ノ舟入・長州藩邸・加賀藩邸・三ノ舟入・対馬藩邸・四ノ舟入・池田屋跡[三条通])】

史跡には、善導寺(天正年代末に開山され、左甚五郎墓がある)、池大雅旧邸跡(二条樋之口町にあったが、元文元年(1736)より6年ほど居住)、元・角倉邸跡(一ノ舟入町北部にあり、現・日銀京都支店敷地)、元・長州藩邸跡(現・京都ホテル・オークラ敷地)、元・長州藩控邸跡(現・旅館「幾松」[幾松維新館]で木戸別邸[桂小五郎・幾松寓居跡]、木屋町仮療病院跡(京都府の招聘で明治5年、独人von Langegが開院した京府医大の前身)、大村益次郎遭難地(御池上ルにあり、「鳥羽伏見の戦」後、彰義隊を討ち兵部大輔となって武士の帯刀禁止を説えたが明治2年9月4日、宿で浪士に襲われ11月5日没)、佐久間象山遭難地(松代藩士で西洋兵学者、開国論で、元治元(1864)年7月11日反対者により斬殺)、加賀藩邸跡(河原町御池下ル東側の一帯で、明治以後、知事邸、宮邸、検事長邸、のち更地化)、池田屋事変跡(現・パチンコ店で、元治元(1864)年6月5日尊王攘夷派9名の志士を新撰組が斬殺)などがあります。

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□三条小橋

・天正18年(1590)正月、豊臣秀吉により架橋され、「御土居」は天正19年閏正月~2月に施工されました。江戸時代は公儀の所管となっていました。

三条小橋は鴨川分流(御土居工事後の堀として残存)への橋として架けられ。当初、勾欄擬宝珠で、天正19年11月石柱木造橋が建造されましたが、寺町通から三条通が上り坂で、付近は南北ともに下っていました。現在も、ほんの少しの勾配が遺存しています。西詰北側に「高札場」(制札場)があり、文久3年(1863)7月~8月に「天誅」事件(尊王攘夷浪士による商人・本願寺用人等の暗殺、制札場に梟首)、慶応2年(1866)9月12日に「長州人追放令」を再三取捨てた志士と新撰組との死闘がありました。明治6年2月に高札場は廃止となりました。

□三条~四条

・橋としては、車橋(現、大黒橋)、古溜池橋(現、材木橋・かつて東西両側とも材木屋が多く、北西側に「五ノ舟入」があった)、新溜池橋(現、山崎橋・西北側に旧彦根藩邸があり下手に「六ノ舟入」があった)、上車屋町橋(現、南車屋橋)、土佐橋現、蛸薬師橋・南方に土佐藩邸[明治4年撤収]があった)、土佐橋現、備前島橋・安永~寛政年間に架橋され、北に土佐藩邸、南に「八ノ舟入」があった)、二ノ舟入橋(現、紙屋橋・「八ノ舟入」の下流に架橋)、一ノ舟入橋(現、十軒町橋)が架かっています。

・同業者町名がたくさんあり、沿岸に荷上げ倉庫が並んでいました。材木商は大黒町(河原町三条下ル東入ル)、材木町(東木屋町三条下ル)に集まり、「木屋町」の名の起こりとなりました。その他に、米屋町(河原町四条上ル)、塩屋町(河原町蛸薬師下ル)、鍋屋町(木屋町四条上ル)、紙屋町(木屋町四条上ル)、上大坂町(木屋町御池下ル)などがあり、北車屋町・南車屋町(三条木屋町下ル)では物資を陸揚げして、ここから洛中へ輸送しました。

・史跡には、先ず、瑞泉寺があります。浄土宗西山禅林寺派の寺で、号は慈舟山です。角倉与一が父・了以の名で慶長16年(1611)、豊臣秀次・妻妾34名、子女5名、殉死10名の菩提寺として建立し、開山は立空桂寂です。処刑のときに大雲院住職貞安が引導地蔵尊を持ち込んで十念授け引導を渡しました。秀次の法名は「瑞泉寺殿高嚴一峰道意」ですが、秀次は文禄4年(1595)7月、高野山で切腹させられ、妻妾らは8月に三条河原で処刑後、大きな墓穴に葬られその上に「殺生塚」(摂政関白より転意)が造られたが洪水等で荒廃してしまいましたが、了以らが「高瀬川」造成時に出てきた人骨を収集して埋葬しました(了以実弟宗恂は秀次の家来)。

P1020912    【瑞泉寺・表門】           P1020922 【瑞泉寺・豊臣秀次公妻妾子女墓搭】

P1020918【瑞泉寺・引導地蔵尊】

・次いで、先斗町は元、鴨川西岸の中洲に新地として造成されたところで、延宝2年(1670)に初めて家の新築が許可されました。名前の謂れは、イ・人家が鴨川を背にした先ばかりの町である、ロ・ポルトガル語の「ポント」(岬・先端=二条からの中洲が先細りだった)の2説あるようですが、文化・文政年代(1804-1829年)以降に、飲食店街等が増加して発展しました。海援隊屯所跡(河原町三条下ル東入ル)は慶応3年(1867)10月に「屯所」にしていた「酢屋」中川嘉兵衛方に下関方面から戻った坂本龍馬(海援隊長)は、11月15日夜、宿所・近江屋母屋2階で来客・中岡慎太郎(陸援隊長)と共に7人の刺客(佐々木只三郎他の京都所司代の「見廻組」)に殺害されました。

幕末史跡_三条四条間ヨコ③

【三条~四条間の幕末史跡:石田原図(図中の左クリックにより拡大:左[北]より池田屋跡[三条通]、海援隊屯所跡(酢屋)、瑞泉寺、彦根藩邸跡、土佐藩邸跡, 中岡慎太郎寓居跡と並ぶ。舟入は五・六・八・九の順:七ノ舟入は元禄初期に消滅。龍馬・慎太郎遭難碑・近江屋跡は図下端の河原町通西側】

・幕末の薩長同盟の仲介をした坂本龍馬と中岡慎太郎の遭難碑が四条河原町上ル西側の近江屋跡にあります。慶応3年(1867)の33歳誕生日に、京都守護職(松平容保・会津藩主)公用人・手代木直右衛門の指示で京都見廻組・與頭・佐々木只三郎、今井信郎ら3名により、河原町・近江屋2階の天井の低い部屋で、居住した龍馬と訪れた中岡が、脇差など短い刀で殺傷されました。龍馬は34カ所の刀傷があったそうです。短刀などは霊山観音博物館に保存されています。襲撃者・今井信郎は戊辰戦争の箱館戦争で新政府に降伏して捕まり、「兵部省口書」に自白・口述しました。手代木は、龍馬らの倒幕王政復古の動きに焦る守護職・松平容保の意をくみ指示したようです。

□四条小橋

・角倉家が所管して、文化10年(1813)には4間4尺余の長さでしたが、大正元年には3間余長・12間幅の鉄桁鉄筋混凝土材製となりました。

四条~五条

・新地として現在、東岸に6町、西岸に7町が連なっていますが、承応2年(1653)~万治元年(1658)ごろの鴨川・高瀬川の両川は一つの流れとして描かれていて、「高瀬川」は五条石橋下手で鴨川から分流していたようです。従って、寺町以東の畑地・鴨川河原・両川の中洲であったところで、鴨川沿岸堅固化のため両岸の石垣完成後の寛文10年(1670)~享保9年(1724)頃に逐次造成されたようです。

舟廻しに関して、四条小橋下手に船着場であった時期もあるようですが、天満町(高辻橋下ル)に寛文12年(1672)年ごろから使われ始め、安永年間には19間×4間の広さが、明治以降は2間半×4間半と縮小されました。西橋詰町(万寿寺橋下ル)には元禄2年(1689)に設置され、当初は5間余×9間の広さが、明治40年には3間半×5間半となっていました。

・橋としては、善四郎橋(現、於石橋・斎藤町~船頭町間に架かり西北詰に「おせき稲荷」を祀っていた[「稲荷山」:第200回記念行事・2010年7月17日実施])、菱橋(川口橋・鴨川からの水補給路に架かる[樋流:団栗取水口])、鳥羽屋橋(綾小路橋・西岸にあった薪炭商・鳥羽屋に由来)、仏光寺通橋(仏光寺通橋~河原町通間は第二次世界大戦後に拡幅)、高辻橋(下手に寛文年間より「舟廻し」があった)、松原橋(享保年間、昭和48年、平成年間にも周辺含めて拡幅・架替え)、万寿寺橋(万寿寺通橋・一帯は材木屋が多く、下手西側に元禄2年(1689)に設置の「舟廻し」があり、享保3年既に架替え記録あり)が架かっています。

五条大橋・五條小橋

・明治10年までは鴨川・高瀬川は一跨ぎの橋で、両川の境は「綱引き道」のみで、後に中の島を造成し、二橋に架替えられました。近くの児童公園東側の鴨川石垣に、以南用取水閘門の名残があり、橋下の交番足下の「高瀬川」は慶安元年(1648),東本願寺別邸[枳穀邸]建設のため御土居を東方につけ替えています。天正年間に秀吉が架けた「大仏橋」が現在の五条大橋となり、元の五条(大)橋は「松原大橋」となっています。一方、二条から並流の「みそそぎ(水注ぎ)川」は鴨川へ戻っています。

五条~七条

鴨川西岸の新地形成につれて高瀬川流路は数回変遷しましたが、宝永3年(1706)に七条新地、正徳3年 (1713)に六条新地、宝暦8年(1758)に五條新地が開発されています。中世以降、付近は「六条河原」としてたびたび戦場、処刑場になっています[前記・豊臣秀次一族処刑など]。

五条_七条_高瀬川_御土居                                     

五条~七条・高瀬川・御土居変更図:石田原図(図中の左クリックにより拡大・直線形が御土居・曲りくねるのは高瀬川)】   

枳穀邸付近水路図 

【枳穀邸付近水路図:石田原図(図中の左クリックにより拡大・中央直角に曲がる壁は御土居)

・橋としては、門樋橋(現、榎橋・橋傍に観音開き木製水門を設置して非常時には閉鎖して流れを止め橋上流東側に余剰水を鴨川へ落とす「閘門」・水路があり、近くに「角倉地蔵」を祀る)、早瀬橋(現、六軒橋・南西側は元・遊郭地域でお茶屋が多い)、上ノ口橋(付け替え「御土居」の三カ所の出入口(上ノ口)からの命名)、中ノ口橋(正面橋・方廣寺「大佛」の正面にあたり、新規「御土居」の中ノ口の前)などがあります。

・史跡には、源融(とおる)邸河原院跡(嵯峨天皇第6皇子で臣籍に降下し、「河原左大臣」ともいわれ、敷地は五條~六条・柳馬場~鴨川原と広大で、「源氏物語」・光源氏のモデルとの説がある)、舟廻し(「枳穀邸」建設時に「御土居」を建設し直し、そこへ六軒橋と上ノ口橋の間から水路を引き、その分かれ路傍に舟廻し[正面橋上流側と2カ所]を設置)があります。

七条小橋(下ノ口橋)

・大正2年に市電開通前に鉄鋼桁・コンクリート造りとなりました。

七条~九条

七条九条間流路変遷図_横向

【七条~九条間・流路変遷図:石田原図(図中の左クリックにより拡大・[薄色]御土居・[濃色]下[西]から曲りくねる高瀬川・鴨川・疎水の流路)

・橋としては、六条上ノ橋(現、吾妻橋・大正10年に鉄筋コンクリート造化)、久作橋(現在、コンクリート埋立、狭い水路化)、河原町橋(現在、コンクリート埋立、狭い水路化)、用助橋・権左衛門橋(京都~大津間鉄道敷設工事等で付替え時に消滅)、観音橋(現、九条(南)橋・明治以降、七条~九条間は数度流路が改変されたが、九条橋から南側は不変)などがあります。

・「高瀬川」の流路は、別図のように、18度変設されて、現在の流路は平成14年以後の付替後の水路です。

塩小路南_新旧流合流点

【旧河道・現河道合流点(塩小路下ル)】

         奈良線架橋下_旧東海道線煉瓦製橋桁

                                                    【JR奈良線鉄橋:旧東海道線煉瓦製橋桁】                                      

旧川道跡の道路_京都駅南側八条  【旧河道跡道路(上記「流路変遷図」の文字「京都駅」右上箇所に該当)

◆高瀬川の「強敵」・電車の走行

○五条~二条間の木屋町を走る京電(京都電気鉄道・電車)と高瀬川が並行して見られたのは、明治28年4月[京電・京都駅前~南禅寺前・内国勧業博覧会用に開業]~大正9年6月[舟運終了]の25年2カ月間で、電車開通、同複線化で川幅が狭められ、川岸の石垣も積み直され、多くの橋が架け替えられました。

[参考文献]

1.石田孝喜:「京都 高瀬川:角倉了以・素庵の遺産」、思文閣出版、2005

2.野田只夫:「高瀬舟」(『京都の歴史④・桃山の開花』)、学藝書林、1969

3.磯田道史:「古地図で巡る龍馬の旅」、NHK放映、2010.6.3.

【2011年5月14日実施・案内:宮﨑信隆】

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